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23.立派じゃなくても


「たぶんイークから聞いてる部分もあると思うんで、繰り返しになっちゃうと思いますけど。私、生まれたときにお母さんを(うしな)って、お父さんも十歳の頃に死んじゃったんです。だから家族はお兄ちゃんしかいなくて、同じように孤児だったイークと三人で肩を寄せ合って育ちました。と言ってもルミジャフタは郷全体が家族みたいなものだから、寂しくはなかったんですけど……」


 しとしとと雨が降っていた。窓の外から雨音が聞こえる。

 遠くで低くうなっているのは、この時期特有の遠雷だろうか。

 室内の闇を照らすのは、ちらちらと揺れる燭台の明かりだけ。その灯明(ほあ)かりの中で、フィロメーナはぽつぽつと落ちるカミラの言葉を静かに拾い上げていた。

 こちらは極力喋らない。余計な口を挟んで彼女を萎縮させたくはなかったから。


「私の故郷は年中蒸し暑い密林の中にあって、郷の近くにアムン河って呼ばれる河が流れてるんです。黄皇国(おうこうこく)の川みたいに綺麗じゃなくて、年中水が濁ったままの、対岸が見えないような大河(かわ)なんですけど……」

「それだけ流れが緩やかだ、ということかしら?」

「そう、ですね。たぶんそうです。グアテマヤン半島はあんまり起伏がない土地だから、河もゆっくり流れるのかなぁと。その河には肉食の魚とか人喰いワニとか、とにかく危険な生き物が多くいて、中でも特にやばいのが大いなる蛇(スー・タンカ)って呼ばれるでっかい水蛇で。これが牙に毒まで持ってる、かなり厄介なやつなんです。ラムルバハル砂漠にいるスナヘビっていうのよりは小さいみたいなんですけど、それでも人間なんか丸呑みにしちゃうような大きさで。これが雨の日になると陸に上って狩りをするんです。だから雨の日は絶対ひとりで森に入っちゃいけないっていうのがうちの郷の常識でした」


 と、言ってから「あ、いや、今も常識です」とカミラは言い直した。

 フィロメーナはそれに頷く。カミラが懸命に言葉を選びながら話しているのは分かっていたから、邪魔をしないよう黙って続きを促した。


「だけどあれは私が十一のとき……うちの郷の近辺って他にも危ない生き物が多いから、狩りとか採集に行くときはいつも何人かで一緒に行動するんですよね。で、みんなで食糧や薬草を集めて帰ったら分け合う、みたいな。私も十歳の頃からその集まりに加わってました」

「そんなに小さいときから?」

「あ、でも別にそれはうちの郷では普通なんです。えっと、ハノーク語では何て言うんだっけ? 〝働かざる者食うべからず〟……?」

「つまり小さな子供でも相応の労働に従事させられる、ということ?」

「はい。十歳くらいになったら糸も(つむ)げるし(はた)も織れるし、男なら狩りにも行くし。だから私だけ特別とか、そういうことではなくて」

「太陽の村の人たちは(たくま)しいのね」

「そう、なんでしょうか……? まあ、男は生まれたときから戦士として育てられるような郷ですからね。逞しいって言ったらそうなのかも。でも私が十一歳になったばかりのある日、採集の途中でみんなとはぐれちゃったことがあって。はぐれたって言うか、落とした木の実を拾おうとして、ちょっとした崖を転がり落ちたんですけど……」


 それを聞いてフィロメーナが目を丸くすると、カミラはへらっと苦笑した。

 崖、と言ってもどうやらグアテマヤンの森では斜面にも草木が生い茂っているらしく、それが緩衝材になって幸い怪我は擦り傷程度で済んだらしい。


「だけど私、落ちてる途中で気を失っちゃったみたいなんです。おかげで私がいないことに気づいて探しに来てくれた仲間の呼びかけにも答えられなくて……」


 ──そうこうするうちに、雨が降り出した。

 当時のカミラは全身を濡らす雨の冷たさでようやく目が覚めたのだという。

 広大な森の中で、ひとり。

 仲間は雨が降り出したこともあり、とうにその場を離れてしまっている。

 だからいくら呼びかけても答えてくれる者はいない。

 ついでに郷へ戻ろうにも、デタラメに崖を落ちたせいで方角が分からない。


「あれはまだ冬が明けて間もない頃だったから、そうこうしてるうちに寒くてたまらなくなったんですよね。寒いって言っても、トラモント黄皇国の春先に比べたらだいぶあったかかったはずなんですけど。だけどそのときはもう全身ずぶ濡れで、雨で視界もきかないし、途方に暮れて崖下の洞穴みたいなところに潜り込んだんです。そこでひとまずこの雨をやりすごそうって」


 けれどカミラのもくろみははずれた。一度降り出した雨は雨脚が弱まることこそあれ、なかなか止む気配を見せなかった。そうした長雨は、もともと雨の多いグアテマヤン半島ではさして珍しいことではないらしい。ゆえにカミラの故郷には〝雨が降れば晴れ着(ケチョリ)ができる〟という(ことわざ)があるのだとか。

 一度雨が降り始めると、手縫いで晴れ着が一着作れてしまうほど長い時間降り続ける──という意味だとカミラは言った。彼らが古くから太陽神を(あが)めている背景には、そんな郷の気候も関係しているのかもしれない。


「で、あっという間に夜が来て、これにはさすがの私も参っちゃって。このまま雨が上がらなかったらどうしよう、誰にも見つけてもらえなかったらどうしよう、スー・タンカが来たらどうしようって、不安で不安でしょうがなかった。心細くてめそめそ泣いて、でも誰も助けには来てくれなくて……」

「……」

「あ、だけど一応崖上(うえ)では一緒に採集に行った仲間が、ずっと私を探してくれてたみたいなんです。でも日が暮れても見つからなくて、これ以上はさすがに危険だってことになって、一度郷に引き返したみたいで……」

「それから……どうなったの?」


 思わず先を促すと、カミラは不意に小さく笑った。微笑のような苦笑のような。

 次いで彼女は「これはあとから聞いた話ですけど」と前置きして、言った。


「私が行方知れずになったと分かって、その夜、郷は大騒ぎだったらしいです。だけどスー・タンカが出る雨の日の夜に森を捜索するのはさすがに危険だってみんな分かってたから、今すぐ探しにいくべきだって人たちと、朝になるまで待つべきだって人たちで揉めに揉めて……」

「郷全体が家族のようだった……と言うのならなおさらでしょうね」

「ええ。特に郷をまとめる族長は私たちの親代わりになってくれた人でしたから。私を探しに行くか、それともみんなの安全を優先するかですごく大変な思いをさせちゃったみたいで……だけどそうして大人たちが揉めてる間に、お兄ちゃんが郷を飛び出しちゃったんです。イークが気づいて追いかけなければ、真っ暗な森の中、たったひとりで私を探そうと……」


 フィロメーナは微かに息を飲んだ。深い深い森の中。大人たちでさえ後込みするような闇に飛び込み、雨を裂いて駆けていくひとりの青年。

 その横顔が、必死に妹の名を呼ぶ声が、まるでフィロメーナの記憶であるかのように目に浮かんだ。耳に響いた。そしてそれを止めようとあとを追う彼の姿も。


「でも私のお兄ちゃんもイークに負けず劣らずの頑固なんです。一度こうと決めたら絶対に曲げなくて。で、イークが止めても全然聞かないから、結局ふたりで私を探すことになって……」

「ふたりはあなたを見つけてくれた?」


 そのときカミラが顔を上げた。フィロメーナは今度こそ息を飲んだ。

 何故ならこちらを見つめるカミラの微笑に強烈な既視感を覚えたから。

 叫び出したくなるようななつかしさを覚えたから。


「奇跡みたいですよね。その頃、私は膝を抱えて泣いてただけなのに。お兄ちゃんはまるで最初から私の居場所が分かってたみたいにすぐ傍まで探しに来てくれたんです。そうして私の名前を呼んでくれて」


 その呼び声でカミラは気づいた。

 初めは幻聴かと思ったが、それは確かに兄とイークの呼ぶ声だった。

 だからカミラも必死で呼び返した。

 彼女の声を聞きつけて、森を駆け回った青年たちは無事にカミラと再会した──


「あのときのことが忘れられないんです」


 とカミラは言う。


「私を見つけてくれたお兄ちゃんが何も言わずに思いきり抱き締めてくれたこと。心配かけやがって、ってイークに小突かれたこと。人生であんなに安心したの、あとにも先にもあのときだけなんです。だから、雨の音を聞くと──」


 ──またお兄ちゃんが迎えに来てくれるんじゃないかって、思っちゃうんです。


 そう言ってカミラは抱えた膝に顔をうずめた。

 まるで五年前の雨の日の再現のように。

 その背中を雨音が叩いている。

 五年前も彼女はそうしてひとり、泣いていたのだろう。孤独と不安の闇の中で。


「馬鹿だなぁって思うんですけどね。こんなこと言うと、イークにはいつになったら兄離れできるんだ、とか叱られるし。私も自分で分かってるんです。でも──」

「優しくて、素敵なお兄さんだったのね」


 フィロメーナが言葉の続きを引き取ると、一瞬部屋に沈黙が降りた。

 それからカミラはぎゅうっと体を縮めて、頷く。

 嗚咽(おえつ)が聞こえた。顔は膝にうずめたままだったけど。

 フィロメーナは寝台から立ち上がった。そうしてカミラの肩を抱く。

 なるほど、イークも甘くなるわけだ。この子は放っておけない。

 放っておいたらひとりで静かに潰れてしまう──きっと、あの人のように。


「だけど私も同じ」

「え……?」

「私もね、雨の日はちょっと苦手なの。昔あったつらいことを思い出して……」

「フィロメーナさんも……ですか?」

「フィロでいいわ。敬語もいらない。イークやウォルドと同じように接して。私じゃお兄さんの代わりにはなれないけれど、傍にいるから。イークたちと一緒に」


 わずかに頭を上げたカミラの顔がまたくしゃくしゃになった。

 フィロメーナは笑ってそんなカミラの頬を拭う。


「大丈夫。お兄さん──エリクさんはきっと……そう、きっと無事でいるわ。だから諦めずに探しましょう。今度はカミラがエリクさんを見つけてあげる番よ」

「私が、お兄ちゃんを……?」

「ええ。そしてたぶん、エリクさんもそれを待ってる……」


 言って、フィロメーナは目を閉じた。様々の記憶と予感とが交錯する。

 ……もし。もしもこの予感が当たっていたら。そう考えると少し怖い。

 けれど叶うことなら、この子とエリクを再会させてあげたい。

 自分にはできなかったことだから。こんな風にまっすぐに家族を想うことは。


「ここだけの話だけれどね。実は私にも姉がいるの」

「そう、なの?」

「正確には妹と弟もいるんだけど」

「四人姉弟?」

「ええ。だけど救世軍に入るために家を飛び出して家族とは絶縁。特に姉さんとは最後まで分かり合えなかったわ。だからあなたが少し羨ましい。そんな風に尊敬できるお兄さんを持てて」

「フィロメ……フィロはお姉さんと喧嘩別れしちゃったってこと?」


 律儀に言い直すカミラを見て、フィロメーナはちょっと笑った。

 おかげで少し心が軽くなる。姉のことを思い出すといつも気が塞ぐばかりだから、そんな自分の反応を少しだけ新鮮に思った。


「いいえ。あれはたぶん喧嘩とすら呼べないわね。姉さんと私は生きる道が違った。違いすぎた。だから歩み寄れなかった……だけど、今なら分かる気がするの。私も救世軍の総帥として多くの人の命を預かるようになって……姉さんの言葉の意味が、少しだけ」

「お姉さんは何て?」

「〝自分は戦いに疲れた〟と。そして〝自分の選択が誰かを死に追いやる、そんな場所に立つのはもう嫌だ〟と。当時の私はそれを怯懦(きょうだ)だとしか思えなかった。姉さんは自分が傷つくのを嫌って、戦いから逃げているだけだと……」

「……」

「だけどきっと姉さんが戦場に背を向けた理由はそれだけじゃなかったのね。あの人は優しすぎたから……私もそれをもっと早く分かってあげるべきだった。今更そんなことを思っても、もう遅いのだけど」

「フィロメーナさんも優しいですよ」


 刹那、隣からそんな声が聞こえてフィロメーナは目を丸くした。

 が、こちらの反応を別の意味で捉えたのかカミラははっとして、


「あ、い、いや、フィロメ、フィロも優しいと思う!」


 と言い直す。


「だって昼間、私が救世軍に入りたいって言ったとき、ただ歓迎するだけじゃなくて私の将来のことまで考えてくれたし……それに今も私のくだらない話を最後まで聞いてくれた。私たち、今日が初対面なのに」

「くだらなくなんてないわ。私もあなたやお兄さんのこと、もっと知りたかったんだもの」

「ほら、そういうところも優しい」


 言って、カミラはちょっと照れたように「えへへ」と笑った。

 そんなカミラの反応に面食らい、フィロメーナは束の間言葉を失くす。

 ──優しい? 私が? 誤解だわ。この子はまだ本当の私を知らないから。

 みんな知らない。愚かで利己的で救いようのない本当の私を。だけど彼女は、


「なんていうか、救世軍のリーダーがフィロでよかった。あ、前のリーダーのジャンカルロさん? もいい人だったってイークが言ってたけど。でもそのジャンカルロさんがフィロにあとを託した理由が、ちょっとだけ分かったっていうか」

「買い被りだわ。世間は私のことを救世主とか聖女とか褒めそやしてるみたいだけれど、私はそんな立派な人間じゃ……」

「立派じゃなくてもいいよ。私は今のフィロが好き」

「え」

「あ、しょ、初対面で知った風な口きくなって言われるかもしれないけど、でもあのイークが好きになった人だし……これでもし世間が〝鬼!〟とか〝悪の手先!〟とか言ってたとしても、私はフィロを好きになったと思う。そしてたぶん、これからもっともっと好きになる」


 なんて、ちょっと言いすぎ?

 そう言って笑うカミラを見ていたら、何だか急に目の奥が熱くなった。


 ──立派じゃなくてもいいよ。


 その言葉が脳裏でリフレインする。ああ、そうか。ようやく分かった。

 ねえ、どうして?

 心の中で繰り返していたその疑問の答えがやっと。

 これまで心を硬く覆っていたものが剥がれて、瞳からぽろりと零れ落ちた。

 それを隣で見ていたカミラがぎょっとする。

 彼女は面白いくらい慌てふためいて、何故だか寝台の上に正座した。


「えっ!? あっ、あのっ、ごめんなさい!? 私、何か失礼なことを……!?」

「いいえ、違うわ。そうじゃないの。そうじゃなくて──ありがとう、カミラ」

「へ?」

「本当に、全然立派な人間なんかじゃないけれど、そんな私でもよければ、どうぞよろしく」


 そう言って改めて手を差し出した。完全に狼狽(ろうばい)しているカミラを安心させるべく、涙は拭って微笑みかける。するとカミラも──おずおずと、ではあるけれど──何だか改めて照れたようにフィロメーナの手を握り返した。


 ああ、そのとき思ってしまったのだ。


 この手を放したくない、と。



              ◯   ●   ◯



 眠れる神の瞼が開いた。




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