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【side:A】エマニュエル・サーガ―黄昏の国と救世軍―  作者: 長谷川
第7章 その苦しみを愛と呼ぼう
240/350

238.軍議は踊る ☆


      挿絵(By みてみん)




 彼女を乗せた馬車は貴族街の門を抜けて、寝静まったソルレカランテの街中をひっそりと渡っていった。街の路地の辻々(つじつじ)に設けられた夜光石の街灯が、目隠しをされた上等な馬たちを導いている。彼女は馬車の小窓からぼんやりと夜を眺め、次々と過ぎ去ってゆく夜光石の明かりの中にたくさんの走馬灯を見た。


 仄青(ほのあお)く光る鉱石を閉じ込めた火舎(ほや)に映るのは、優しかった姉のいた日々。父の目を盗み、宝石箱みたいな下町の祭りをこっそり覗きに行ったときのこと。部屋いっぱいに宝物を広げて、太古の謎と浪漫(ロマン)について楽しげに話してくれた弟の笑顔。自分の手を引いて陽の下へ走ってゆく()()()の……。


 幾多の思い出はやがて滲んで輪郭を失い、それに気づいた彼女はぎゅっと唇を噛み締めた。自分自身を騙すために澄ました顔をしてみるけれど、叩きつけて捨てたはずの想いがどんどん、どんどんどんどん溢れてきて、ついには誤魔化しがきかなくなる。彼女は両の(てのひら)で、忌々しい幻ばかり映す己の視界を覆いながら身を折るように隠れて泣いた。夜に愛されるために生まれてきたかのような、(ひつぎ)に似た馬車の中で声を殺してひとりで泣いた。


 こんな街、大嫌いだ。楽しかった思い出や嬉しかった思い出よりも、つらくて苦しくて悲しくてみじめな思い出ばかり呑み込んで肥え太った醜い鳥籠。


 滅んでしまえと願うほど憎くて憎くてたまらない──そんなふしだらでおぞましいこの街が、彼女のたったひとつの居場所だった。


 だけど彼女にはもう何もない。望む場所も、望まれる場所も。


 からっぽの街で、からっぽの馬車に運ばれていくからっぽな彼女を、果たして誰が救えただろう?



              ◯   ●   ◯



「……ラ……ミラ……カミラ!」


 遠く──どこかずっと遠くから聞こえていた呼び声が、不意に耳もとで弾けた。

 はっと我に返ったカミラは赤い髪を舞わせながら声の主を顧みる。

 途端にびょうと凍てつく風が吹いて、持っていかれそうになる髪を押さえた。

 やはり遮るもののない湖上は風が強い。おまけに寒くて凍えそうだ。

 けれど肌に突き立つ容赦ない冷たさが、ここは現実だと教えてくれる。


「イーク……」


 振り向いた先に佇んでいたのはイークだった。彼もまた風に(なび)羽根飾り(カラリワリ)を煩わしげに押さえながら灰色の空を睨んでいる。白い帆を広げてタリア湖を渡る輸送船(ふね)の上。カミラは現在その船の舳先(へさき)に立っていた。背後では帆と(かじ)を操る湖賊たちが掛け声を上げ、慌ただしく動き回っている。上陸までもう間もなくだ。

 目を細めて見やれば、遠くにはうっすらと枯れ草色の岸辺が見え始めていた。

 カミラたちが乗る船の周囲には他にも大小の川船が浮かび、大船団の様相を呈している。青鈍色(あおにびいろ)水面(みなも)を割り、白い飛沫(しぶき)を上げた船が一斉に進む様はここから見ても壮観だ。これで上空が快晴だったなら、なおのこと()になっただろう。


「降り出しそうだな……つい昨日まで呆れるくらいの秋晴れだったってのに、急に雲行きが変わりやがった。戦闘に影響しない程度の雨で済めばいいんだが」

「ええ……そうね。オヴェスト城の戦いのときも大雨で、ひどい目に遭ったから」

「そうならないことを祈るしかないか。で、お前の方は?」

「え?」

「ここ数日ずっと上の空だろ。今だって何回声をかけたと思ってる? そんな状態で戦場に出ればどうなるか、分かってるんだろうな」

「あ……」


 さすがにイークはお見通しか。ばつの悪い心境でそう思い、カミラは思わず目を逸らした。腕に巻きつけた胴の手甲の革帯を意味もなく確かめながら、船底で弾ける水飛沫に視線を落とす。


「ごめん。ただちょっと、何日か前に見た夢が気になって……」

「夢?」

「うん……たぶん、星刻(グリント・エンブレム)が見せた夢、だと思うんだけど。いつもの幻視とは感じが違ったっていうか……フィロが黄都にいた頃の夢を見たの」

「黄都にいた頃のって……つまり星刻があいつの過去をお前に見せたってことか?」

「そう、だと思う。でも、夢の中のフィロ……何だかすごく暗い顔してた」


 この話はあまりイークにはしない方がいいかと思ったが、問い詰められてしまったのだから仕方がない。カミラは臙脂色(えんじいろ)のケープの下にあるフィロメーナの形見(ペンダント)の感触を確かめながら、数日前に見た夢の内容を改めて思い返した。

 あんな夢を見たのはもしかすると形見(これ)の影響だろうか。ペレスエラから星刻を受け取って早半年。この神刻(エンブレム)は今も謎に包まれているが、少しずつ分かってきたこともある。そのひとつが人や物の過去を覗き見るときの法則だった。

 どうやら星刻の過去視の能力というのは、持ち主──つまりカミラの体の一部が対象に触れている状態でないと発動しないものらしい。カミラは最近ようやく過去視の力を少しだけ制御できるようになってきたのだが、相手が人であれ物であれ、まったく触れていない状態で幻視が成功した例は一度もなかった。


 だからもしあの夢がフィロメーナの過去であるならば、フィロメーナがそこにいなければおかしい。カミラが寝ている間にフィロメーナがやってきて物理的に接触した……ならば納得できるが、そんなことはありえない。

 だって彼女はもうどこにもいないのだ。いないどころか遺体すらも残っていない。何せフィロメーナの棺を燃やしたのは他でもない自分なのだから。

 でも、カミラにはフィロメーナが遺した清湍石(せいたんせき)のペンダントがある。

 イークにこれを預けられてからというもの、カミラは入浴時以外は肌身離さず、必ずペンダントを身につけるようにしていた。つまりあれはフィロメーナの過去ではなくて、寝ている間もカミラの首に下がっていたペンダントの過去──そう考えれば辻褄(つじつま)が合わないでもない。ただ気になることがあるとすれば、


(このペンダントをフィロに贈ったのはイークだから……あれがもしペンダントの記憶なら、フィロがイークと出会って救世軍に入ったあとの夢、ってことになるのよね)


 そうだとするとやっぱり辻褄が合わない。フィロメーナはイークからペンダントを受け取ったあと──つまり救世軍の総帥になってから黄都へ帰り、オーロリー家の屋敷へ顔を出していたとでもいうのだろうか?

 だとしてもあの別人のような振る舞いは……ベルナデッタと呼ばれていた女とのやりとりの意味は……馬車の中で身を折って泣いていたのは、何故だったのか。

 考えれば考えるほど困惑の方が勝って、思考に筋道を立てられない。


「あの、さ……イークはベルナデッタって名前の女の人、知ってる?」

「ベルナデッタ? ……いや、たぶん知らないな。どんな女だ?」

「うーんと……女性のわりに背が高くて、痩せてて声も低めで、なんていうか中性的な見た目の人。髪はマリーさんやラフィよりちょっと短いくらいで、肌の色は濃いめで……顔は少し怖そう、かな。眼光鋭い感じっていうか」

「さあ……覚えがないな。そいつがどうかしたのか?」

「夢の中でフィロと話してたのがその人だったの。場所はたぶんオーロリー家のお屋敷だと思う。ベルナデッタさんは屋敷の使用人っぽくて、フィロのことも〝お嬢様〟って呼んでたし」

「まあ……確かに余所の屋敷の使用人なら、フィロのことを〝お嬢様〟とは呼ばないだろうな。フィロはそいつと何を話してたんだ?」

「それが何の話かよく分かんなくて。自分の代わりはとっくに用意されてるとか、上の許可がどうのとか……あとはスッドスクード城へ行く、って……」


 ──スッドスクード城。ソルレカランテの南に位置し、将軍シグムンド・メイナード率いる黄都守護隊の軍事拠点となっている城。

 旧救世軍の本部があったロカンダから、街道をまっすぐ下れば徒歩でも三、四日で辿(たど)()ける距離にある城だ。フィロメーナはオーロリー家の家紋が掲げられた馬車に乗り、そこへ行くと言っていた。本部(ロカンダ)()ちた直後、救世軍の残党として追われる立場にあったカミラたちを逃してくれた、あの男がいる城に……。


「……ねえ、イークはシグムンド将軍に会ったことある?」

「シグムンドって、黄都守護隊長のシグムンド・メイナードか? 直接会ったことはないが、噂なら色々聞いてる。守護隊長として引き抜かれる前はガルテリオの副官をしてたとか、腹の読めない食わせ者だとか、軍内でも五本の指に入る剣の使い手だとかな。やつがどうかしたのか?」

「ん……いや、ちょっと……フィロってシグムンド将軍と知り合いだったのかな、と思って……」

「知り合いかどうかは知らないが……まあ、お互い貴族だし、面識くらいはあったんじゃないか? シグムンドはガルテリオの代わりによく黄都に顔を出して、社交場で()()してたっていうしな。平民上がりで何かと(うと)まれやすいガルテリオのために、人脈作りやら情報収集やら裏であれこれ手を回してたらしい。シグムンドがいきなり黄都守護隊長に抜擢されたのは実力を評価されたからというよりも、やつを引き離すことでガルテリオの力を削ごうって動きがあったんだろう……と、前にギディオンが話してた」

「そう、なんだ……」


 イークの話を聞きながら、カミラはずきりと心臓のあたりが痛むのを感じてそっと自身の胸を押さえた。

 スッドスクード城での一件以来、シグムンドの話となるといつもこうだ。

 彼の名を聞くたびカミラの胸に沸き起こるざわめきは、水底(みなぞこ)から噴き出す大量の気泡に呑み込まれ、聴覚(みみ)と視界を塞がれてしまったときのアレに似ている。いくつもの泡が(せめ)()って揺らめく、嘲笑のような、憐憫(れんびん)のようなさざめきに……。


「ではこれより、獣人居住区(ビースティア)防衛戦の概要についてお話致します」


 ──思えばあのときもそうだった。


 カミラがそう回想したのは今から七日前のこと。

 それこそ夢のようだった光歌祭(こうかさい)からおよそひと月、冬籠(ふゆご)もりに向けた準備を進めていたカミラたちは、予期せぬ急報に接して軍議を開くこととなった。

 その急報とは、蛙人(フロッグ)族の長老グルからもたらされた中央軍出撃の(しら)せだ。

 動いたのは獣人居住区と境を接するパウラ地方の駐屯軍──黄皇国中央第六軍。

 トラモント五黄将の中では皇女リリアーナに次いで若い、マティルダ・オルキデアが率いる軍勢だった。グルの報せによれば第六軍の拠点であるトラクア城から、もう間もなく獣人区制圧を目的とした軍勢が攻め寄せてくるらしい。


 グルが中央軍の動向を掴んだのは先月末のこと。

 何でもマティルダは蛙人族の里であるジャラ=サンガへご丁寧にも降伏勧告の使者を寄越し、無抵抗で獣人区を明け渡すならば、内乱のあと黄皇国と獣人区の間に再び不可侵条約を結ぶ用意がある──とグルへ打診してきたのだという。

 ところが与えられた回答の猶予(ゆうよ)はたった一日。

 グルはコルノ島にいるカミラたちはおろか、獣人居住区で暮らす同胞たちに相談を持ちかけることすら許されず、即座に返答を迫られた。

 黄皇国軍の誘いを断れば、待つのは凄惨(せいさん)な戦のみ。かと言って受け入れれば、獣人居住区は内乱が終息するまでの間、黄皇国の属領として扱われることになる。

 話を聞いたグルは悩んだ末に、マティルダの軍使を追い返した。

 つまり救世軍との盟約を守り、官軍の誘いを蹴ったのだ。


 獣人区で暮らす獣人たちの間には、第五軍の侵攻によって受けた酸鼻極まる戦いの記憶がまだ生々しく残っている。だというのにグルは黄皇国軍の脅迫に屈さず、救世軍との友情を信じた。たとえ過酷な戦いの幕が再び切って落とされようとも、獣人を人類(ひと)と思わぬ黄皇国には従わぬという意思を、改めて世間に表明したのだ。

 そうまでして救世軍への信義を貫こうとする彼らを、カミラたちが見捨てるわけがない。報せを受けた救世軍はただちに臨戦態勢に入った。

 目標は敵軍の撃退と獣人居住区の死守。

 救世軍幹部が一堂に会した作戦会議室で、ここまでの経緯をつぶさに説明したトリエステは、壁に掲げられた黄皇国の巨大な地図を指示棒の先でタンと叩いた。


「マティルダ将軍がビースティアに急襲をしかけず、わざわざ降伏勧告の使者を寄越した理由は単純明快です。救世軍(われわれ)に対する宣戦布告──つまり我が軍をコルノ島から(おび)き出すための方便に過ぎません。救世軍が島に籠もっている限り、陸の戦力である第六軍には攻撃の手立てがない。ゆえに我々の上陸を誘い、野戦にて叩くという実に簡潔な作戦です」

「しかしそれを分かっていて我々は今回、敢えて敵の思惑に従うしかないというわけですな。ここで救世軍が上陸を拒めば第六軍はそのままビースティアへ雪崩れ込み、獣人たちを虐殺する……これはいわば、同盟相手である獣人たちを人質に取った脅迫です。あの聡明なマティルダ将軍がこのような手段に訴えかけるとは、まったく遺憾であるとしか言いようがありません」


 落胆のため息と共に失望を吐き出したのは、四角を描くように並べられた席の上座に腰かけたリチャードだった。彼の言葉はマティルダ・オルキデアという将軍を知る全員の代弁でもあったらしく、かつて軍に身を置いていた面々──ジェロディやケリー、オーウェン、ギディオン、コラード──は一様に表情を曇らせている。


「マティルダ・オルキデア……やつはハーマンとは対照的な、軽騎兵による機動戦を得意とする将軍だ。第六軍が抱える軽騎兵団は馬の装甲を薄くすることで、守備力を代償に高い機動性を獲得している。早い話がネズミのようにちょこまかと動き回って、敵を翻弄(ほんろう)する戦いを得意としているということだ。よって向こうに戦の主導権を握られると非常に厄介……そうでなくともマティルダは即断即応を信条に掲げている女だからな」

「ケッ。だからグルの野郎にも即答を求めたってのかよ。とんだイラチ女だな、マティルダってのは。ついでに勝つためなら手段を選ばねェ性悪ときたモンだ」


 ヴィルヘルムの講釈を聞いてそう嘲笑ったのは、軍議の場にまで得物の狼牙棒(ろうがぼう)を持ち込んだ猿人(ショウジョウ)族のウーだった。彼は肉食獣のように鋭い牙を剥きながら口角を持ち上げたが、冷笑の裏には赫然(かくぜん)と燃える怒りと憎しみが見え隠れしている。


「しかしよ、一体全体どうなってんだ。てめえの予想じゃ官軍は冬が明けるまで動かねえはずじゃなかったのか、トリエステ? 兵法じゃ冬の間は戦をしねえってのが常識なんだろ? だがあとひと月もすりゃ、北じゃ雪が降り出すぜ」

「ええ、おっしゃるとおりです、ライリー殿。ですが私もこうした事態をまったく想定していなかったわけではありません。可能性は限りなく低いと思われていましたが……どうやら官軍もオディオ地方の陥落を受けて、捨て身の賭けに出ることにしたようです」

「というと?」

「つい先程、官軍の狙いは我々救世軍を野戦で叩くことだと申し上げましたが、敢えてこの時期を選んだのはもうひとつ別の思惑があるためと推測されます。その思惑とは──救世軍の糧秣(りょうまつ)を浪費させることです」

「救世軍の糧秣を?」

「はい。そもそも兵学において冬季の戦闘行為が下策と言われているのは、軍隊による食糧や燃料の消費が温暖な季節の倍になるためです。たとえばこれが夏場であれば、燃料を消費する場面はせいぜい夜間の照明と煮炊きに限られますが、冬場は兵たちが暖を取るための大量の焚き火が必要となります。さらに体温の低下が引き起こす様々な疾病を防ぐために、冬の戦陣では温かく量も確保された食事が不可欠です。もともと人間が食事を必要とするのは、食糧を体内に取り込むことで燃料に替え、生物としての活動が可能な体温を維持するためですから」

「なるほど……つまり冬場にまともな食事が取れない状態が続くと、どんどん体温が下がって生命の危険に晒されるってことだね。だから冬の間は食糧の節約が難しい……そのせいで普段より余計に糧秣が消費されてしまうってこと?」

「ご明察です、ジェロディ殿。ゆえに兵法では、冬場の戦争は可能な限り避けるべきであるという考えが基本とされています。しかし今回、マティルダ将軍は兵学の常識を逆手に取った。すなわち我々を敢えて冬季の戦に引きずり出すことで、輜重(しちょう)の蓄えを作らせまいとしているということです」


 それはトラモント黄皇国という巨大な国家が背後に控えているからこそ実行できる、典型的な物量作戦だった。要するに官軍は国が持つ圧倒的な蓄えを武器にして、未だ少量の備蓄しか持たない救世軍を押し潰そうとしているのだ。

 確かに今秋の収穫で、救世軍が活動を維持するために必要な糧秣は確保されたかに見えた。しかしひとたび戦となれば、平時とは比べ物にならない量の食糧や(まぐさ)が動く。たった一回の出陣であってもひと月、いや、あるいは数ヶ月にも及ぶ戦いに備えて事前に輜重を用意しなければならないためだ。


 さらに戦闘中、せっかく運んだ糧秣が敵に奪取されたり燃やされたりした場合に備えて、食糧は予備まで持たなければならない。

 その時点ですさまじい量になるというのに、このうえ冬季の戦となれば食糧や(たきぎ)の消費量はとんでもないことになる。

 官軍はそうして糧秣を浪費させることで、救世軍を飢えさせようとしているわけだ。もちろん戦が長引けば長引くほど官軍も食糧を空費することになるが、彼らの蓄えは膨大にして無尽蔵。救世軍にとっては深刻な事態を招く支出も、官軍にしてみれば微々たる損耗に過ぎないのだろう。


「加えてビースティアが万一官軍の手に落ちるようなことがあれば、先般手に入れたばかりのオディオ地方とコルノ島が分断されてしまいます。そうなればかの地を治めるハーマン将軍との連携は極めて困難となり、最悪の場合、孤立したオディオ支部は官軍の集中砲火を受けて潰滅することになるでしょう」

「それだけは何としても阻止したいところだが……その前にひとつ気になることがあります。以前ハーマン将軍から(うかが)った話によれば、魔女ルシーンは各地を治める大将軍のもとへ魔族を派遣し、呪術によって彼らを支配しようとしているとか。かく言うハーマン将軍も一時的に魔族に操られ、暴走を(きた)したことは皆さんのご記憶にも新しいかと思います」

「ああ。俺もちょうど同じことを考えてたぜ、コラード。マティルダ将軍は必要とあらば残酷な判断も辞さない人だが、軍師殿の父君みたいに常に冷血ってわけじゃあない。むしろ民のことをいつも第一に考えてる人で……そんな人が、下手すりゃ領民の暮らしまでズタボロにしちまうような策を取るかね?」

「つまりあんたたちは、マティルダ将軍もハーマン将軍のように魔族に操られてる可能性がある、と言いたいわけだね、オーウェン?」

「ああ、そうさ。ルシーンが既に動いてる以上、可能性はゼロとは言えないだろ? いや、むしろそう考えた方が──」

「──気が楽だ、とおっしゃりたいのでしたら、そうした楽観視はおやめ下さい、オーウェン殿。確かにハーマン将軍がもたらした魔族の情報は信憑性がありますし、私も魔界の関与を疑っています。ですが我々はオディオ地方で一度、ハーマン将軍を操っているのは下級魔族だと思い込んだことで想定外の損害を被りました。さらに言えば、マティルダ将軍が正気を保っておられた場合……」

「これが魔族の仕業でないと分かった途端、動揺し戦意阻喪(せんいそそう)する者が必ず現れる。ならば安易な希望的観測は初めから捨て去るべきだ。そうだな、トリエステ?」

「はい。おっしゃるとおりです、ギディオン殿。ですので我々は実際にマティルダ将軍と相見えるまで〝彼女は魔族の支配を受けていない〟という前提で動きます。無論魔族の存在を無視するわけにはいきませんが、将兵の命を守るために必要な措置だとお考え下さい」


 指示棒を手に瞑目(めいもく)したトリエステからぴしゃりと言われ、コラードやオーウェンは失意の表情を見せた。

 だがトリエステの言い分も正論だ。魔族の影に怯えるあまり目の前の敵を見誤れば、救世軍はまたしてもオディオ地方での過ちを繰り返すことになるだろう。


「となると目下最大の問題は敵軍の兵力だな。確か第六軍の総兵力は二万だったか? パウラ地方は官軍の支城が多いから、あちこちに分散してるとは言え……」

「ええ。現在のパウラ地方の情勢や部隊の配置から考えて、第六軍が獣人区攻略に動員できる兵数は八千から一万程度と予想されます。コルノ島からはライリー一味を除く五千の兵力が出撃可能ですが……」

「仮に相手が一万で来るなら、島の兵力だけで迎え討つのはちと厳しいか。だが今からハーマンに援軍を頼んで間に合うか?」

「いえ。此度(こたび)の戦、オディオ支部からの援軍は望めません。よって第六軍に対しては、本部とビースティアの戦力のみで対処します」

「援軍が望めない? どうして?」


 直前までトリエステとウォルドのやりとりを静聴していた仲間たちが、途端に身を乗り出してどよめき出した。オディオ地方を治めるハーマンとの同盟は、こんなときのための命綱として結ばれたものだったはずだ。

 だのに彼からの援軍は来ない。そう聞いて皆はどういうことだと顔を見合わせた。が、カミラはそこではたとあることを思い出し、一気に背筋が寒くなる。


「もしかして──ヴォリュプト地方の中央第四軍……?」


 思わずそう呟けば、皆の視線が今度はカミラに集中した。誰もの目に驚きが弾ける中でただひとり、トリエステだけが顔色を変えずカミラを見ている。


「そのとおりです、カミラ。ハーマン将軍からは現在〝ファーガス・マーサー率いる中央第四軍とソルジェンテ川を挟んで対陣中〟との連絡が入っています。第四軍がサント・アリーゴ城を出撃した時期から見て、此度の戦はマティルダ将軍とファーガス将軍による共同戦線の可能性が高いでしょう」

「まさか! そんな話は……!」


 聞いていない、と言いたげに机を叩き、血相を変えて立ち上がったのはコラードだった。彼はもともと冬の間だけコルノ島で弓兵を育てるという名目で来たハーマンの副官だ。上官であるハーマンが強敵(ファーガス)との戦闘に入っていると聞かされて、黙っていられるはずもない。されど今にも会議室を飛び出さんばかりのコラードを、トリエステの冷静な声が押さえた。


「落ち着いて下さい、コラード。ハーマン将軍から出陣のご報告をいただいたのは昨夜のことです。オディオ支部の状況をわざと伏せていたわけではありません。さらに言えば、ファーガス将軍の目的はあくまでハーマン将軍とオディオ支部軍をかの地に足止めすること。とすれば敵方は敢えて戦況を膠着(こうちゃく)させ、本格的な交戦は避けようとする可能性が高いでしょう」

「ファーガスが単独でハーマンに挑んでも勝ち目は薄いから、か。だったら北のガルテリオは?」

「幸い……と申し上げるのは(はばか)られますが、ガルテリオ殿率いる中央第三軍は現在もシャムシール砂王国軍との戦闘を継続中です。ゆえにハーマン将軍の背後が第三軍に脅かされるおそれはないかと」

「なら、クソ皇女のいる第二軍は?」

「トラモント水軍の動きはさほど警戒せずとも大丈夫でしょう。出撃の構えを見せてこちらを牽制してくる可能性はありますが、かの軍は先の戦で失った船と兵力を補充し切れておりません。そのような状態で神術砲(ヴェルスト)を保有する我々にまともな戦をしかけてくるとは考え難い。無理に攻めれば皇女殿下のお命とお立場を危険に晒すことになりますから」

「ってことは支部(あっち)はヴォリュプト地方の第四軍と、本部(こっち)はパウラ地方の第六軍とそれぞれサシで()()う形になるってこったな。いーじゃねーか。魔砲にビビッて動けねえお姫サマはほっといて、アタシらも派手に戦ろうぜ? たとえ相手が二倍の兵力で攻めてこようと、魔砲で全員吹っ飛ばしちまえば済む話だろ?」


 と、ときにだらしなく椅子に(もた)れ、さらに机に脚を上げたカルロッタがケケケと笑った。彼女だけは今回の戦にも最初から乗り気なようで、早く戦いたいあまりウズウズしているようにも見える。そうした態度や好戦志向は問題だが、まあ、カルロッタの言い分もあながち間違いとは言い切れなかった。

 黄皇国唯一の水軍を擁する第二軍が動けないなら、カミラたちは神術砲を陸での戦に大きく割ける。とすれば中央軍とて脅威ではないはず……。


 そう考えれば勝機はある。カミラは一抹の希望を見つけて怯みかけていた気力を奮い起こした。そもそも第六軍に痛撃を与えることができれば、彼らを撃退するだけでなく追撃を加えてパウラ地方を手中に収められる可能性だってある。

 要は発想の転換だ。そこに思い至ったカミラは、カルロッタほどではないが俄然(がぜん)やる気になって「勝とう!」と声を上げかけた。

 しかし寸前でふと気づいてしまう。

 刹那、すっと口を閉ざしたトリエステの瞳の奥に、微かな惑いがあることに。




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