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22.迷子の仔犬


 雨が降り始めるとたまらなくなる。

 あの日、抱き締めてくれた腕の温かさを思い出してしまうから。

 その温もりが今は傍らにないことを、思い知らされてしまうから。



              ◯   ●   ◯



 いや待て冷静に考えろ、この状況はまずい、まずすぎる、だから待て、待てって言ってるだろおいフィロ聞いてるのか待て待て人の話を聞けあああああああ……!

 と小声で騒いでいるイークを置き去りにして、寝台を下りたフィロメーナはためらいもなく客室のドアを開けた。その向こうに、小さく肩を竦めた少女がいる。

 まるで帰る家もなく、雨に打たれて困り果てた仔犬のような。少女はフィロメーナが姿を見せるとびくっと後ずさって、それから申し訳なさそうに顔を伏せた。

 カミラ。イークがジェッソから連れてきた、太陽の村出身の女の子。

 彼女は暗い廊下に手燭(てじょく)を持って佇んでいて、そのちらちらと揺れる蝋燭の火が、燃えるような赤い髪をよりいっそう鮮やかに染め上げている。


「あ、あの……」


 と、ようやくにしてカミラは口を開いた。

 昼間の溌剌(はつらつ)とした口振りが嘘のような、遠慮がちな声で。


「こ、こんな遅くにすみません。もしかして起こしちゃいました、か……?」

「いいえ、まだ休んでいなかったから大丈夫よ。だけどこんな時間にどうかしたの、カミラ?」


 フィロメーナが小首を傾げながら敢えて名前を呼んでやると、カミラはぱっと頬を赤らめた。かと思えばちょっと恥ずかしそうに目を逸らし、空いている右手をさまよわせる。その手が膝上まで丈のある綿のチュニックをぎゅっと握った。

 さっきまで部屋で休んでいたのだろうか、今はケープも手套(しゅとう)もまとっていないようだ。髪も少し寝癖がついているし、こんな時間にひとりでうろつく格好にしてはちょっと無防備すぎる。もっとも腰に巻かれた剣帯にはしっかりと得物が差されているから、まったく危機意識がない、というわけではないのだろうけれど。


「あ、の……ごめんなさい。雨が……」

「……雨?」

「あっ……い、いや、あの、すみません! 新入りの分際でいくら何でも(おこ)がましいかなって思ったんですけど、何だかちょっと眠れなくて……」


 言って、カミラはさらにぎゅうううっとチュニックを握る手に力を込めた。

 まるでそのあたりにいる悪い虫か何かを握り潰そうとしているかのようだ。

 けれどその眉根には微かな苦悶の色があって。


「だ、だから少しだけ、フィロメーナさんに話を聞いてもらえないかなー、なんて……あ、ほ、ほんとはさすがに気が引けたんで、最初はイークの部屋に行ったんですよ? なのにあのバカ、のんきに爆睡してるみたいで、いくら呼んでも起きてきてくれなくて……」

「ああ、彼なら……」


 と、ときにフィロメーナが部屋の中を(かえり)みれば、カミラの死角に待避したイークが「やめろ、頼むからやめてくれ」と訴えかけるようにぶんぶん首を振っていた。

 服も青いが今は顔まで真っ青だ。

 が、フィロメーナは思う。彼との関係は隠していたっていつかカミラにもバレるのだし、わざわざ隠す必要があるだろうか、いや、ない。

 だからフィロメーナは自分の判断に則って視線でカミラを促した。

 カミラもそんなフィロメーナの誘導に気づいたのだろう、不思議そうにひょこっと室内を覗き見る。瞬間、カミラはもともと大きな目をさらに見開き、イークは頭を抱えて座り込んだ。どちらもまるでこの世の終わりだとでもいうように。


「あ……あ、あ、あぁあぁぁあぁあぁあっ!?!?」


 チッタ・エテルナに激震が走った。

 カミラの上げた絶叫は深夜の静寂を引き裂いて、雨音をも退散させる。

 フィロメーナは彼女が勢い余って入り口をくぐったのを見ると、まずは冷静にドアを閉めた。もちろん衝撃に打ち震えるカミラはそんなことには気づかない。


「なっ、なんっ、な……!?!? な、なななんでイークがここにいるのよ!? しかもこんな時間に!?」

「い、いや……これには色々とわけがあってだな……」

「わけって!? わけって何よ!? こんな時間に男が女の人の部屋に来るわけなんてひとつしかないでしょ!? 変態! 淫乱! むっつりスケベ!!」

「お、おまっ……大声で人聞きの悪いことを言うな! 別に俺がいつフィロの部屋にいようが俺の勝手だろ! 俺とフィロは、その、つまり……」

「恋人同士なのよ、私たち」

「こ」


 とひと声発したまま、カミラはその場に固まった。イークはついに自分で告白する勇気がなかったのか、赤くなった顔を押さえてうなだれている。

 そうしてしばしの沈黙が流れた。

 フィロメーナはイークとカミラ、双方の反応を待って黙っていたのだが、どちらも再起不能に陥っているようだったので、仕方なく自分から口を開く。


「ごめんなさい、カミラ。別に隠していたわけじゃないのだけれど……」

「い……いえ、ソレは、フィロメーナさんが謝るようなコトでは……」


 ギ、ギ、ギ、ギ、と効果音がつきそうなほどぎこちない動きで、カミラはこちらを顧みながら言った。何となくその言葉つきが片言のように聞こえるが、カミラはもともとルミジャフタ(なま)り──とイークが言っていた──によって独特の抑揚がある喋り方をするので、どちらにせよフィロメーナの耳には珍しい。


「で……でも、本当なんデスカ? イークなんかがフィロメーナさんの恋人って、何かの間違いナンジャ……」

「イーク()()()って何だ。俺がフィロの恋人じゃ悪いのかよ」

「悪いわよ。悪いに決まってるでしょ!? だってイークよ、あのイークなのよ!?」

「全然説明になってないが、要するに釣り合わないって言いたいんだろ。そんなことはお前に言われなくたって……」

「そうじゃなくて! なんでイークなのよ!? イークがオーケーなら私もオーケーでしょ!?」

「は?」

「わ……私だって……私だって、フィロメーナさんとお近づきになりたかったのに……! なのにイークばっかり抜け駆けしてずるい!」

「……お前、酔ってるのか?」

素面(しらふ)ですが何か!」


 悲しみに肩を震わせながら、しかし大真面目にカミラが即答するので、フィロメーナは思わず吹き出した。

 一方のイークは部屋の隅からげんなりとカミラに視線を送っている。あれはたぶん「真面目に羞恥(しゅうち)した自分が馬鹿だった」とか、そんなことを考えている顔だ。


「あぁああ……! でもってフィロメーナさんに笑われたし! もう恥ずかしくてお嫁に行けない……!」

「知るか。お前がアホなこと抜かすからだろ。だいたいお前、こんな時間に何しに来たんだ?」

「それは、雨が……っ!」


 と自棄っぱちに答えかけて、しかしカミラはそこではっと我に返った──ように見えた。かと思えば彼女は急速に威勢を失うと、しおしおと(しお)れた花のように大人しくなる。フィロメーナはそんなカミラの唇がきゅっと引き結ばれているのを見て、おや、と心持ちを変えた。


「……? 雨が何だよ? 借りた部屋が雨漏りでもしたか?」

「そう、じゃ、なくて……そうじゃないけど、抜け駆けしたイークには教えない」

「はあ?」

「もういいわよ。すっかり気が削がれちゃった。私、やっぱり部屋に戻る」

「おい、お前……」

「フィロメーナさん。イークとのこと、知らなかったとはいえお邪魔しちゃってすみませんでした。しかもこんな時間に……イークがお騒がせして」

「騒いでたのはお前だろ」

「あの、今夜はもう遅いので、ちゃんとしたお詫びはまた明日にします。本当にすみませんでし──」

「待って、カミラ」

「──た?」


 引き止めたフィロメーナの声に、カミラが下げかけていた頭を止めてこちらを向いた。その中途半端な体勢と、彼女が手にした灯りのおかげでよく見える。

 カミラの()。じっくり確かめるまで確信が持てなかったがやはりそうだ。

 ほんの微かにではあるけれど、目もとが腫れて濡れたような痕が残っている。

 フィロメーナはそれに気づいた上で、敢えて彼女に微笑んだ。


「ねえ、せっかくチッタ・エテルナで過ごす最初の夜なんだもの。慣れない場所にひとりじゃ心細いでしょうし、今夜はこの部屋に泊まっていかない?」

「えっ」

「ここ、もとはふたり部屋だから。寝る前に少しあなたの故郷や旅の話を聞いてみたいの。というわけだからイーク、いいわよね?」

「えっ、えっ」


 とカミラは突然の提案に目を白黒させていたが、フィロメーナは構わずイークへ視線を投げかけた。これにはイークも虚を衝かれたのだろう、年端もいかない少年みたいに目を丸くしている。

 けれど彼はほどなくため息をつくと、それ以上の抗議もなく立ち上がった。

 そうして壁際に立てかけてあった剣を取り、慣れた動作で腰に戻しながら言う。


「分かったよ。じゃ、また明日な」

「えっ、えっ、えっ」

「ごめんなさいね、イーク」

「いや、こっちこそ。カミラ、あんまり夜中まで騒いでフィロに迷惑かけるなよ」

「えっ、ちょっ、あのっ、待っ──」


 まったく事態を呑み込めないでいるうちにカミラは置いていかれた。イークはベッドサイドに置かれていた自分の手燭を手に取るとさっさと部屋をあとにする。

 再び沈黙が流れた。びっくりするほどあっさり取り残されたカミラは、やがて途方に暮れた様子でこちらを振り返る。

 その顔がやっぱり捨てられた仔犬みたいに見えて笑ってしまった。

 こちらが提案したことなのだから、そこまで萎縮しなくていいのに。


「そんなに困った顔をしないで、カミラ。それともかえって迷惑だったかしら?」

「めっ、迷惑だなんて滅相もないです! でも……」

「イークのことなら気にしないで。長旅のあとで彼も本当は疲れているはずだから。なのにわざわざ私を心配して会いに来てくれたのよ。今回は留守にしていた期間が長かったからって」

「そう……なんですか?」

「彼はそういう人。それはあなたもよく知ってるんじゃない?」


 確かめるようにフィロメーナが言えば、カミラは少し考えるような素振りをしたあと頷いた。それを見てフィロメーナは微笑み返す。

 この子は馬鹿じゃない。フィロメーナがイークを部屋に帰す口実も兼ねてカミラをここに留めたことを、今の会話で察したようだ。


「でも、あの、ほんと意外でした。まさかあのイークがフィロメーナさんと……郷にいた頃は恋愛とかそういうの、全然興味なさそうだったのに」

「あら、そうなの? 彼、昔の話はあまり聞かせてくれないの」

「恥ずかしいんですよ、きっと。うちの郷、黄皇国(ここ)じゃものすごく特別な場所みたいに言われてるけど、実際はただのド田舎ですから。自分が田舎者だと思われたくなくて、だから何も言わないんです」

「そういうものなのかしら。()(かじ)った限りでは伝統的でしっかりした秩序があって、とても素敵な郷だと思うのだけど」

「イークはかっこつけですからね。おまけに意地っ張りだし。あ、でも、ああ見えていいとこもいっぱいあるんですよ! 態度は素っ気ないけどちゃんと心配してくれてたり、何かあると率先して守ってくれようとしたり……」

「ええ、そうね」


 フィロメーナがそう相槌を打てば、カミラは「あ」というような顔をした。

 次いでちょっとはにかんで、照れ隠しなのだろうか、意味もなく前髪を引っ張りながら言う。


「え、えへへ、こんなこと私がいちいち言わなくたって、フィロメーナさんなら全部分かってますよね。つまり何が言いたいかっていうと、イークのことよろしくお願いしますってことなんですけど」

「あら、よろしくされるのは私の方よ。イークには本当に、数えきれないほど助けてもらっているし」

「そ、そうですか? でももしあいつに嫌気が射すことがあればいつでも言って下さいね。そのときは私がガツンと一発かましてやりますから!」

「ふふ、ありがとう。幼馴染みのあなたにそう言ってもらえると、頼もしいわ」


 実際彼はカミラにずいぶん甘いみたいだし。

 フィロメーナはこっそりそんなことを思いながら笑った。

 カミラを救世軍(ここ)へ連れてきたことにしてもそうだし、さっきすんなり部屋を出ていったのだって、本当はカミラの異変に気がついていたからに違いない。

 当のカミラはそれに気づいているのかいないのか……見たところ気づいてはいなさそうだけど、彼女は彼女なりにイークを信頼しているように見えた。

 あいつは妹みたいなもんだ、とイークもそう言っていたし。

 だとしたらカミラの方もイークを兄のように思っているのかもしれない。

 もっとも彼女の本当のお兄さんは、三年前から行方不明だと言うけれど。


「ねえ、カミラ。あなたのお兄さんについて()いてもいい?」


 とフィロメーナが思い切ってそう切り出したのは、カミラを普段使っていない方の寝台へ案内し、向かい合うようにそれぞれ腰を下ろしたあとのことだった。

 唐突に兄の話題を振られたカミラは、「え」という表情のまま固まっている。

 彼女は腰から抜いた剣を、ちょうど寝台の脇に立てかけたところだった。


「お、お兄ちゃんのこと、ですか? それならイークが……」

「ええ。さっき彼からも色々聞かせてもらったのだけど。でも他にも色んなことを知っておきたいのよ。もしかしたら些細な情報がお兄さんを見つけ出す手がかりになるかもしれないし」


 フィロメーナがじっと視線を送りながらそう言えば、カミラの方は戸惑うように目を逸らした。何か話すことに抵抗がある、のだろうか。

 少なくとも昼間のうちは、そんな素振りはなかったように思うのだけど。


「不躾にごめんなさい。もしも話したくないなら無理にとは言わないけれど──」

「い、いえ! いえ、違うんです。ただ、今夜はなんか感傷的になっちゃって、ダメだなーって……」

「この雨のせい?」


 言って、フィロメーナは夜の静寂に耳を澄ませた。窓の外からは今も雨音が聞こえている。先程までフィロメーナにも過去の幻を見せていた、雨。

 何となくだけれど、カミラにもそんな雨にまつわる記憶があるのではないか。

 確証はないのにそんな気がした。そしてそれは図星だったのか、カミラは向かいで羽毛入りの枕を抱え、ちょっと驚いた顔をしている。


「な、なんで分かるんですか? ま、まさか読心術……?」

「ふふ、そんな大層な術は持っていないわ。たださっき雨がどうとか言いかけていたようだったから」

「す、鋭いですね……私、雨の日ってダメなんです。どうしても昔のことを思い出しちゃって。こんな風に誰かと一緒にいるときなら平気なんですけど、ひとりだと、どうしても……」


 言いながら、カミラは徐々にうつむいて寝台の縁に足をかけた。

 そうして小さく体を丸め、それでいてなおも枕は大事に抱え込んでいる。


「あの……ちょっとだけ、昔話をしてもいいですか?」

「ええ。ぜひ聞かせて」

「ありがとうございます。何から話せばいいかな……」


 そう言ってカミラはほんの少しだけ眉間を寄せた。

 過去の出来事を説明するのにどう順序立てたものかと考え込んでいるようだ。

 フィロメーナはそれをじっと待った。


 やがて、カミラの昔話が始まる。



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