237.仄暗き夢路にて
「──で、誰だよ、こいつに酒なんか飲ませたのは……」
と、イークが一歩間違えば人を殺せそうな渋面でぼやいたのは、光歌祭の会場となった居住区からコルノ城へ向かう帰り道でのことだった。
無数の星影が散らばる空はまだ暗く、夜明けまであと数刻ある。背後の居住区では今も踊り足りない人々によって祭りが続けられているが、時刻はもう深更だ。
午からずっとあの騒ぎの真ん中にいてさすがに疲れを覚えたイークは、ひと足先に切り上げて城へ戻ることにした。
が、いざ会場を去ろうとしたら、まだ残るというウォルドに呼び止められて、酔っ払ったあげくすっかり眠りこけてしまったカミラを押しつけられたのだ。
おかげでイークは現在すやすや寝息を立てているカミラを背負い、城までの帰路を歩くという苦行を強いられていた。カミラが下戸で、ちょっと酒を飲むとすぐに舞い上がり、散々騒いだのちバタリと倒れるように眠り出すことは周知の事実だ。
だのにせっかくのお祭りだからと、こいつに酒を勧めたやつがいる。
俺はそいつを呪うぞと内心呪詛を吐きながら、イークはだらしない顔で惰眠を貪っているカミラを大儀そうに背負い直した。
「ごめん、イーク。手伝えることなら僕も手伝いたいんだけど……」
と隣で角灯を手に持ち、苦笑しているのはジェロディだ。
彼の隣には同じく微苦笑を浮かべたマリステアがいて、後ろにはケリーとオーウェンが、逆隣にはヴィルヘルムとトリエステがいる。
皆、祭りの間に親睦を深め、ある程度話せるようになった者たちだった。
一日でこれだけの人間の顔と名前を覚えたのだから、自分にしては上出来だろうとイークは思う。自分とカミラ以外、ここにいる全員がかつて黄皇国軍にいた経歴を持っているという点だけが、何だか妙に浮いていて現実味を帯びていないけど。
「ジェロディ様じゃ、カミラを背負うにはまだちょっと上背が足りないですもんね。というか今年もそろそろ終盤だってのに、ジェロディ様、全然身長が伸びてないんじゃないですか?」
「失礼だな、オーウェン。こう見えて一応、去年に比べたらちょっとは伸びてる……はずだよ、たぶん。最近忙しくて、身長なんて全然測ってないけど……」
「でしたら今度新兵たちの身体測定をする際に、ジェロディ様も身長を測られてみてはいかがです? 視力や聴力は《命神刻》の恩恵で格段に良くなっているでしょうが、身長の微々たる変動は数値化してみなければ分かりませんから」
「ケリーまで!」
後ろのふたりから多分な揶揄を含んだ言葉を投げかけられ、ジェロディはひどく立腹している様子だった。が、周囲からはどっと哄笑が上がり、ジェロディはますます不服そうにしている。どうやら彼は歳のわりに小柄であることを、思いのほか気にしているらしい。ならば同じ歳の頃、自分はどうだったかと思案して、イークは隣のジェロディと記憶の中の自分とを見比べた。
「まあ……言われてみれば俺が十五のときにはもう、身長は三十四葉(一七〇センチ)近くあったような気がするな。そう考えると確かに、今のお前はだいぶ小柄だってことになるが」
「う……い、いや、でも、マシューだって僕と大して身長が変わらないし……カイルはもうすぐ三十四葉に届くって言ってたけど……」
「ジェロディの場合は、神子になったことで成長がゆるやかになっているせいもあるだろう。若いうちに大神刻に選ばれると、不老の力の影響で肉体の時間が止まってしまうケースがあると聞いている。個人差はあるようだがロクサーナがいい例だ。あいつの容姿は《光神刻》を刻んだ時点からほとんど変化していないらしいからな」
「えっ……じ……じゃあ、もしかして僕……このまま一生、身長が伸びない可能性もあるってことですか……?」
「絶対にない、とは言い切れん。中には大神刻を刻んでも、肉体が成熟するまで成長が止まらなかった事例もあるようだから一概には言えないが」
「た、たとえば?」
「アビエス連合国の建国者、ユニウス・アマデウス・レガリアがそうだった。やつは生まれながらに《愛神刻》を宿した天授児だったが、さすがに赤子の姿のまま成長しないなんてことはなく、十五、六歳になるまでは普通に歳を取ったそうだ」
「南東大陸の歴史書によれば、パルヴァネフ豊王国を建国したイフサーン=マフムド=ハミデフもそうだったようですね。彼は十六歳の頃、人獣に導かれて豊穣神アサーの神子となったと言われていますが、今も数多く残る彼の肖像画や彫像は、いずれも二十代半ばの精悍な男性の姿をしています」
「いや、けどイフサーンの肖像って、本人の遺言で年齢を改竄してるって噂がなかったか? 初代豊王の肖像画が少年の姿じゃかっこがつかないってんで、敢えて歳を取った姿で描くよう絵師に命じたとかいう逸話があったような……」
「驚いたね。オーウェン、あんたが六百年も前の偉人の逸話を知ってるなんて」
「お前は俺を何だと思ってんだよ! これでも一応、黄都で中等教育までは受けてるんだからな!」
「ですが肖像画の逸話はあくまで噂の域を出ません。晩年のイフサーンの容姿については諸説あり、真実は闇の中ですから。あるいはイフサーンと同じ時代、同じ大陸に生まれたロクサーナであれば噂の真相を知っているかもしれませんが……」
「でしたら今から居住区に引き返して、ロクサーナに話を聞いてきますか、ジェロディ様?」
「い、いや……確かに真偽は気になるけど、答えを知りたいような、知りたくないような……」
微か震えた声でそう答えたジェロディの横顔は、心なしか青ざめて見えた。もしかしたら今後一生肉体が成長しないかもしれないという事実が想像以上にこたえたらしい。だが皆がその話題で持ちきりになっている間、イークはふとある異変に気がついた。ジェロディの隣を歩くマリステアが足もとに視線を落とし、じっと口を閉ざしているのだ。他の仲間はみな歴代神子の逸話に花を咲かせているというのに会話に参加しようともしない。ロカンダで初めて会った頃から、ジェロディのこととなるとすかさず食いついてきたあのマリステアが。
「イーク」
ところが彼女の様子に気を取られていると、不意に反対側から名を呼ばれた。
我に返ってみれば、いつの間にやらジェロディたちの会話から一抜けしたヴィルヘルムが、闇を塗り込めたような隻眼でこちらを見ている。
「お前、カミラから星刻の話は聞いたか?」
「グリント……? 何だそれ?」
「カミラが左手に刻んだ神刻だ。この世にたったひとつしか存在しない稀少な神刻でな。アレは大神刻に準じる力を持っている。神刻としての単純な力の話ではない。持ち主に降りかかる影響すらも、大神刻に勝るとも劣らない代物だ」
「な……」
「詳しい経緯は本人から聞け。だがこれだけは言っておく──カミラを二度とひとりにするな」
「は……?」
「カミラがこちら側に留まれるかどうかは、恐らくお前次第だ。失いたくなければ傍を離れるな」
「ま……待てよ、〝こちら側〟ってどういう──」
「カミラは以前〝自分には何もない〟と漏らしていた。兄を失い、お前とはぐれ、フィロメーナとも死に別れて……自分が本当に大切に想っていたものは、もう何ひとつ残っていないとな。そういう縁の希薄さが、カミラをあちら側へ渡す最大の要因になる。そうなったら最後、待つのは誰も望まぬ終焉だけだ」
「おい、あんた、さっきから何の話を……」
「現時点で俺から言えることは他にない。だがカミラにあんな言葉を吐かせるのは、これきりにしろ」
そう言って最後に一瞥をくれ、ヴィルヘルムはさっさと立ち去った。イークの言い分は初めから聞く気がないようで、城への道をすたすたと先へ行ってしまう。
まったく意味が分からなかった。〝こちら側〟とか〝あちら側〟とか、あの男は一体何を伝えたかったのだろう? いや、そもそも伝える気があったのかどうかすら怪しい。カミラはずいぶんなついている様子だったが、イークは過去にヴィルヘルムを敵視する男とつるんでいたこともあり、なおさら不信感が募った。
(まさかあいつ──ヒーゼルさんの死について何か知ってるのか……?)
〝連れていかれた〟。
あの日カミラを眠らせた巫女も、思えばそう言っていた。
『ヒーゼルはね、連れていかれたのさ。この娘の代わりにね……』
何も知らず眠る幼子の髪を、そっと撫でやっていた老婆の手を覚えている。
『そうすることで守ったんだよ。私たちの未来をね』
イークはただ、父を失った親友が、すべてを呑み込むところを見ていることしかできなかった。
『ミトル・チ・マリ。ミトル・チ・マリ。神のまにまに──』
「──イーク?」
突然名を呼ばれて、はっと記憶の海から顔を上げた。そこには不思議そうにこちらを見下ろすジェロディたちがいて、イークはやっとコルノ城へ辿り着いたことを思い出す。目の前には城の二階へ続く石階段。どうやらイークはその手前でじっと立ち止まっていたらしかった。七年前の記憶に深く潜りすぎていたようだ。おかげでヴィルヘルムと別れてからの時間の感覚が曖昧だった。
「大丈夫かい? さすがのあんたも、あの距離を人ひとり背負って歩いてきたんじゃ疲れたろ。あんたさえ良けりゃ、ここから先はオーウェンに背負わせるけど」
「いや、お前が代わってやるんじゃないのかよ……」
「あんたの馬鹿力はこういうときのために神から授かったんだろ。なら少しくらい世の中のために役立てな」
「……神のまにまに、か……」
「……? イークさん、何かおっしゃいました?」
「いや……大丈夫だ。このくらいの階段なら、こいつを背負ってても上がれる。カミラの部屋は階段室を出て左に行った先の突き当たりだったな?」
「ああ、そうだよ。けど本当に手伝わなくて大丈夫かい?」
「問題ない。こいつのお守りには慣れてるからな……」
イークがげんなりしながらそう答えれば、皆から苦笑に近い笑いが上がった。ジェロディたちとはそこで別れ、一歩ずつ踏み締めるように階段を登る。やがて辿り着いた二階の階段室を出てすぐ左へ折れ、通路の最奥にある扉をくぐった。鍵はかかっておらず、必要最低限の家具が並んだ無人の個室に見覚えのあるカミラの私物が置かれている。どうやらここで間違いないらしい。ようやく目的地に到達したイークは大息をついて、敷き藁の上に白布が被せられた寝台へと歩み寄った。
その上に軽く腰かけてからカミラを下ろし、丸太の枕に頭を乗せてやる。
靴を脱がせているうちに起きるかと思ったが、よほど気持ち良く眠っているのかカミラはぴくりともしなかった。こいつはこれでよく戦士を名乗ってやがるなと内心悪態をつきつつも、剣帯から外した彼女の剣を枕もとに立てかける。
最後に毛布を一枚かけてやれば任務完了だ。二十三にもなって俺は一体何をやらされてるんだ……という気がしなくもなかったが、考えれば考えるほど自己嫌悪に陥りそうだったのでやめた。今はただ何も考えずにたたまれた毛布を手に取り、広げて──それをカミラに被せる寸前で、先程のヴィルヘルムの言葉を思い出す。
『カミラから星刻の話は聞いたか?』
……星刻。
聞いたこともない神刻の名前だった。ヴィルヘルムの話が事実なら、世界にたったひとつしか存在しないかなり稀少な神刻らしい。そんなものを何故カミラが? 左手に刻んだということは、こいつは二刻使いになったということか?
きっかけがなかったせいかもしれないが、カミラは新しい神刻の話など一度もしていなかった。おまけに経緯は本人に聞けと突き放されたせいで、イークにはどんな神刻なのか見当もつかない。だがヴィルヘルムは大神刻にも準じる神刻だと言っていた。気にならないと言ったら、嘘になる。
「……」
今のうちに改めておくべきか。毛布を携えたまま、イークはカミラの寝顔を見下ろして少時迷った。彼女が両手に嵌めている革の手套さえ外せば、神刻を確かめることはできる。しかし分かるのはあくまで姿だけだ。星刻とやらがどんな力を持った神刻で、何故ここにあるのかは結局カミラに訊かなければ分からない。
(……なら、別に明日でもいいか)
逸る気持ちを抑え、ため息と共にそう結論づけた。本当なら叩き起こして問い質したいところだが、酒の入ったカミラが素直に目を覚ますとも思えない。
そう考えて大人しく部屋へ戻ることにしたのに、いざカミラを寝かせて踵を返したら、突然ぎゅっと首が絞まった。
思わず「ぐぇっ」と短い悲鳴を上げ、青い外套の首もとをゆるめつつ振り向けば、腰に吊った角灯の明かりの中、寝惚け眼でこちらを見上げたカミラがいる。
「カミラ? お前……」
目が覚めたのか、と言おうとして、いや、俺が起こしたのか、と思い直した。あの無防備な寝顔を見る限り、まず明朝まで起きないだろうと思っていたのに、さすがにもたもたしすぎたらしい。だからと言っていきなり人の外套を引っ張るのはやめろと言いたいところだが。
「悪い、起こしたか?」
「んーん……半分起きてた……」
「は? いつから?」
「イークにおんぶされたときから……」
「……ってことは何か? お前、起きてたくせに人にここまで運ばせたのか?」
「だってすんごく眠かったしぃ……」
「お前な……」
思わず額に青筋が走りそうになり、されどすんでのところでイークはこらえた。
何しろ相手は酔っ払いだ。
まともに怒ったところで徒労に終わるのは火を見るより明らかだろう。
「なら説教は明日だ。今日はこのまま大人しく寝ろ。腹出して寝て風邪ひくなよ」
「んー……」
「分かったら外套を放せ、酔っ払い。俺を床で寝かせる気か?」
「そぉじゃないけどぉ……」
「じゃあ何だよ?」
「別に何でも……ただ、イークがいるなあ、と思って……」
「……何だそれ」
猛烈に眠いというのは本当なのだろう。カミラは半分眠ったままの瞳で、とろんとイークを見つめていた。その表情が幼い頃のまま、何ひとつ変わっていないことに気がついて、イークは束の間返すべき言葉を失くす。
「……安心しろ。もうお前を置いて消えたりしない」
「うん……」
「エリクが見つからなくて不安なら、代わりに俺が傍にいてやる」
「うん……」
「だから、自分には何もないなんて言うな。エリクが聞いたら泣き出すぞ」
「……うん」
「分かったらもう寝ろ。……また明日な」
「うん……おやすみ、イーク……──」
そこまで聞いてやっと安心できたのか、カミラはゆっくり瞼を閉じた。途端に彼女の右手から力が抜け、外套を掴んでいた腕がだらしなく寝台から垂れ下がる。
イークはその手を取って、そっと毛布の下へ収めてやった。
ついでに赤い髪紐を解き、ほどけたカミラの髪を軽く手櫛で梳いてやる。
(また明日、か)
そうしながら今し方自分が口ずさんだ言葉を反芻し、奇妙な感慨に満たされた。
明日も明後日も明々後日も、こんな日々が永遠に続けばいいと願う。
もちろん内乱の渦中に身を置いている以上、そんなものは青臭い夢物語だと分かっていた。けれどいつか手が届くと信じて、夢を追うのも悪くない。
(そうだよな、フィロ?)
カミラの胸もとで閃く蒼い涙に目をやって、イークは淡く微笑んだ。
そうして今度こそ踵を返し、カミラの部屋をあとにする。
居住区から戻って、食堂で飲み直している者たちがいるのだろうか。
今夜は城が賑やかだった。
自由の旗の下に集った人々の希望を乗せて、光歌祭は続く。
◯ ● ◯
暗い廊下に、硬い足音が戛々と響いていた。
これは夢だろうか。いや、夢に違いない。
ぼんやりとした意識の水底を漂いながら、カミラは眼下を通りすぎようとするひとりの女を眺めていた。温かそうな毛糸のケープを羽織り、上品なハイウエストスカートの裾を翻して歩いてくるのはフィロメーナだ。
しかし闇を見据える彼女の眼光は鋭く、暗く、カミラの知るやわらかな陽だまりのにおいはどこにもない。触れればたちまち指先から凍りつき、粉々に砕かれてしまいそうなほど冷たくささくれ立った気配。カミラは見知らぬ屋敷の廊下にふよふよと浮かびながら、そんなフィロメーナの姿を見下ろしていた。頭が浅い眠りから起こされた直後のようにぼうっとしていて、思考に靄をかけている。
「お嬢様」
左手にいくつも並ぶアーチ型の硝子窓。そこから注ぐ蒼白い月光を次々と擦り抜け、屋敷の奥へ、奥へ進もうとするフィロメーナを後ろから呼び止める声があった。されど彼女は足を止めない。制止する女の声など聞こえていないかのようにドレスシューズのヒールを鳴らし、夜の闇へと吸い込まれていく。
「お嬢様、お待ち下さい──お嬢様!」
されど彼女を追いかける声の主も諦めなかった。
玲瓏と響いていた女の声がついに荒らげられると、フィロメーナもようよう足を止め、はあ、と煩わしげなため息をつく。
「……何かしら、ベルナデッタ。見てのとおり、私はいま急いでいるのだけど」
「申し訳ございません。ですが……」
前を向いたまま振り向きもしないフィロメーナに〝ベルナデッタ〟と呼ばれたのは若い痩身の女だった。女と言っても声を聞かねば男と見まがうほどすらりと背が高く、髪も短い。服装もどちらかと言えば男性的で……そう、あれは……かつてリチャードの屋敷で見た使用人のお仕着せに似ていた。確かローガンと呼ばれていた屋敷の執事が、あんな感じの黒い上着と脚衣に身を包んでいたように思う。
「お嬢様。出すぎたことを申し上げているのは承知の上です。ですがご出立の件、やはり考え直してはいただけないでしょうか?」
切れ長の目をした女執事は、そう告げてフィロメーナの背中をじっと見つめた。
ところが彼女の言葉を聞いた途端、フィロメーナの顔にははっきりと嫌悪の色が浮かび、空気がピリッと張り詰める。
「ベルナデッタ」
血のように赤いショールを握り締め、フィロメーナがついに体ごと使用人を顧みた。彼女の憎悪を帯びた眼差しに、ベルナデッタは一瞬怯んだように見えたが引き下がらない。負けじとフィロメーナを見返す双眸には、強い意思の刃があった。彼女は小さな白刃で主人を斬りつけるように、言う。
「お嬢様のお気持ちは、わたくしも充分理解しているつもりです。ゆえにこうしてお引き止めすることに心苦しさも感じております。しかしあなた様は他でもない、オーロリー家の──」
「あなたの言いたいことは分かっているわ。陛下が何故私に白羽の矢を立てたのかもね。けれど私、くだらない建前のために生きるのはもううんざりなの。誰も彼もが自分勝手に、生きたいように生きているのに、私だけいつまでも籠の鳥なんて不公平でしょう? だからあなたも無理に忠僕の仮面を被らなくていいのよ、ベルナデッタ。私が死んだら、あなたもあなたの好きなように生きればいいわ」
「お嬢様」
「その腹立たしい御為顔をやめてちょうだい。確かに私はオーロリー家の恥晒しよ。だけど生憎、自分の代わりがとっくに用意されていることに気づけないほど愚かでもないの。そうでしょう、ベルナデッタ?」
「おっしゃる意味が分かりかねます」
「あら、そう。あなたはもう少し賢い女だと思っていたけれど。だから父様もあなたを気に入っているのだとね」
ベルナデッタの細い眉がぴくりと跳ねた。次いで己を映す切れ長の瞳に殺意が宿ったのを見て取ったのだろう、フィロメーナはさも愉快だと言いたげにくすりと笑う。見る者の背筋をぞくりと刺すような、とても冷たい嘲笑だった。
あんな顔で笑うフィロメーナをカミラは知らない。知りたくない。
「まあ、いいわ。誰に何と言われようと、上層部の許可はもう下りているのだから。今更引き返せやしない」
「お嬢様」
「あなたもそこまでオーロリー家の行く末を案じてくれているのなら、祈ってちょうだい。私が生きて戻れることを、ね」
鳥肌が立つほど酷薄な表情で吐き捨てて、フィロメーナは踵を返した。そうして再び歩き出した彼女の行く手から新手の使用人が現れる。フィロメーナの姿を見つけ、折り目正しく一礼した初老の使用人は今度こそ男だった。彼は白髪の混ざり始めた髪を地に向かって垂れたまま、作りものめいた声色で言う。
「お嬢様。お荷物のご準備が整いました」
「いいわ、行きましょう。表に馬車を回してちょうだい」
「は。そのまま黄都をお出になられるので?」
「ええ。もうこの街に未練はないわ。元々ずっと出ていきたいと思っていたんだもの。これでようやく長年の夢が叶う……」
極上の絹を細く細く梳いたような栗色の髪を払って、フィロメーナは冷然とそう言った。されど彼女の口もとに浮かぶ笑みは、淡い自嘲のようにも見える。
ほどなく手に手に荷物を携えた使用人たちが奥からやってきて、凍てついた小川のごとく粛々とカミラの眼下を流れていった。ベルナデッタはそれを見て複雑な表情を浮かべていたが、もはやフィロメーナを止めようとはしない。
「さあ、行きましょう、スッドスクード城へ。彼らが動き出すまで時間がないわ。到着は早ければ早いほどいい──まずはシグムンド将軍に、きちんとご挨拶しないとね」




