235.星屑の唄
光歌祭の幕が上がった。
今やコルノ島の居住区はどこもかしこも歌声と踊り狂う人々に埋め尽くされて、悩みや不安なんてものとは永遠に無縁の異世界へ迷い込んだような気分になる。
季節は晩秋に差しかかろうとしているというのに、噎せ返るほどの熱気だった。
会場では人々の汗の匂いと料理の香り、ついでに酒精が入り混じって、人より嗅覚がきくジェロディはそれだけでもう酔いそうだ。
(マリーを探さなきゃ)
できれば少しばかり静かな場所に移動して、ひと休みと洒落込みたかったけれど。ジェロディは人があちこち跳び回ったり、手を取り合ってくるくる回転したりしている音楽の海をひとり泳いで、マリステアの姿を探していた。
近隣の家々の厨房を借りて用意されていた料理は、既にあらかた運ばれたあとだ。とすれば彼女も今頃どこかでひと息入れているはず。せっかくの光歌祭だ、今日は彼女と共にこのお祭り騒ぎを楽しみたい。ゆえに休みたがる心を励まして、目の前の踊り子たちが作った腕のアーチをひょいとくぐった。
(これぞ救世軍って感じだけど……やっぱりまだ慣れないなあ)
と、自分の姿を見つけて口々に呼びかけてくれる人々へ手を振り返しながら、ジェロディは自分の知る光歌祭と目の前のそれとの違いについ苦笑してしまう。
ソルレカランテの光歌祭も希望と音楽の祭典であることには違いなかったけれど、ジェロディもあそこでは貴族と呼ばれる人種だったから、記憶の中の光歌祭はいつだって貴族街の中で完結していた。
だけどもしかしたらジェロディが知らなかっただけで、毎年城下町で行われていた光歌祭もこんなだったのかもしれない。
東方金神会の大聖堂で一日中厳かな聖歌を鑑賞したり、帝立劇場へ赴いて高名な楽団の演奏に酔いしれたりするのではなく、たまたま隣り合った人と手を取り合って、旋律に心と体を乗せて、思いのままに踊り明かす……。
自分には想像もできなかった世界の景色。でも、戸惑いはあれど嫌いじゃない。
見渡せばあちらでもこちらでも、誰もが掛け値なしの笑顔で歌ったり、踊ったり、乾杯したり……まるで地上の喧騒を祝福するかのような天の光も相俟って、何もかもがとてもまぶしい。楽器の音色と笑い声が降る広場の真ん中で、ジェロディは思わず瞳を細めて立ち止まってしまった。これを幸福と呼ばないのなら、この世界の一体どこにそんなものがあるというのだろう?
「おっ──」
ところが感慨に耽っていたら、いきなりドンッと背中に軽い衝撃が来た。完全な不意討ちだったので反応しきれず、よろけて二、三歩前に出る。
そのまま危うくつんのめりそうになり、どうにか踏み留まったところで「ああ、悪い──」と謝る男の声が追いかけてきた。
が、謝罪は不自然な形で途切れ、即座に気の抜けたような語調へ変わる。
「……って、なんだお前か、ジェロディ」
「イークさん?」
何とか利き足を前に出し、立ち止まりつつ振り向いた先で驚いた。そこにいたのは今日も今日とて真っ青な外套を背に流したイークで、どうやら彼もあまりの人混みに押し出され、たたらを踏んだ先でジェロディと衝突したらしい。
「お、おはようございます。カミラとは一緒じゃないんですか?」
「ああ……ちょうど今、あいつを探してるとこでな。化け物に追われて逃げ回ってるうちに、いつの間にかはぐれたらしい」
「化け物?」
「キテレツな顔にキテレツな髪をしてキテレツな服を着たキテレツなオカマだよ」
「ああ……」
と、ジェロディは何とも形容し難い心境になって、ただただイークに同情の眼差しを注いでしまった。どうやらイークは不運にもジュリアーノと邂逅し、彼……いや、彼女……? に目をつけられてしまったらしい。
「なんていうか……すみません。ジュリアーノさんはああ見えて、北方に独自の販路を持つ闇商人たちの元締めで。救世軍の補給路を維持するためにはどうしても手を借りないといけないんですけど、その……有り体に言うと見境がなくて」
「なるほど。つまり男たちはさしずめ、糧秣の代償として差し出される人身御供ってことか。……お前も追われたのか?」
「いえ、僕は〝あと十年経ったら〟って言われて何とか……神子は歳を取らないから、十年経っても変わらないと思うんですけど。どうもあの人は、基本的に二十歳以上の男性にしか興味がないみたいです──いや、より正確には二十歳以上四十歳未満って言ってたかな?」
「今日仕入れた情報の中で一番要らない情報だな。というか何なら今すぐ記憶から消し去りたいんだが?」
「叶うことなら、僕もそうしてます」
言いながら何かひどい徒労感というか、虚脱感のようなものに襲われて、この話はもうよそう、とジェロディは心に誓った。今までにもオーウェンやヴィルヘルムといった面々がイークと同じ被害に遭っているが、あたかも不可触の禁忌のごとく、島では誰もジュリアーノの話題に触れたがらないし。
「まあ、やつの件は今はいい。できれば考えることすらしたくないからな……ところでジェロディ、お前、今すぐその癖をやめろ」
「え?」
「敬語。俺のことも今後は呼び捨てでいい。でないと周りに示しがつかない。新救世軍での俺は取るに足らない一兵卒で、お前は総帥なんだからな」
「い、いや、だけど──」
「旧救世軍での俺の肩書きは忘れろ。というより、なかったことにした方がいい。でなきゃ俺がわざわざ負けた意味がないだろ。あのとき俺が言ったことをもう忘れたか?」
「……いえ」
歓声や歌声が飛び交う祭りの場には似つかわしくない剣呑な声。
ジェロディはそれを浴びせられてうつむき、されど同時に理解していた。イークは口調こそ厳しいものの、怒っているわけでも責めているわけでもないのだと。
救世軍の拠点がロカンダにあった頃と同じ。
彼は言うべきことを言うべきときにきちんと言葉にしているだけだ。
以前の自分なら威圧されていると受け取ったかもしれないが、今は違う。
ジェロディは束の間の逡巡のあと、顔を上げてまっすぐにイークを見返した。
「分かったよ、イーク。じゃあこれからは、お互い対等な立場で話すってことで」
「対等じゃないだろ。さっきも言ったが、お前は新救世軍の総帥で──」
「確かに戦場ではそうかもしれない。だけど島にいる間は、カミラもウォルドも僕を〝総帥〟じゃなくてただの〝ジェロディ〟として扱ってくれる。だから、いいんだ。僕としてもそっちの方が嬉しいし」
最後にそう付け足して微笑めば、イークは一瞬呆気に取られたような顔をした。
が、次の瞬間にはばつが悪そうに舌打ちし、あからさまに目を逸らしながら、肩にかかる羽根飾りを払い除ける。
「分かったよ。だがいざというときにまで分別を失うな。格下はいくらでも代えがきくが、総帥はそうはいかない。……フィロはそのことを分かってるようで、分かってなかった」
「うん。でも、だからこそ……フィロメーナさんは誰にも代えられない、かけがえのない人だった。僕じゃとても彼女のようにはいかないよ」
「そうか?」
「え?」
「俺は悪くなかったと思うぞ。……少なくとも、さっきの演説はな」
「イーク──」
「俺の錯覚というか……願望だったんだろうが。さっき一瞬、お前の隣に……」
「──あーっ! やっと見つけた! イーク! あとティノくんも!」
刹那、イークが何か言いかけたのを遮って、甲高い呼び声があたりに響いた。
見れば踊り狂う人々の間を縫って、大きく手を振ったカミラがやってくる。
カミラの後ろには、彼女にぐいぐい腕を引かれるヴィルヘルムの姿もあった。
どうやら彼の方は無理矢理引っ張られて来たらしく、いつもどおりの無表情でありながら、祭りの熱気に辟易しているのが挙動から窺える。
「カミラ、それにヴィルヘルムさんも。ふたりとも会場に来てたんだね」
「当然! だってティノくんの初演説を聞かないなんて選択肢はなかったし? 途中でイークとはぐれて大変だったけど、でもかっこよかったわよ、総帥!」
まったく何の気負いもなく、屈託のない笑顔と共にそう称讃されて、ジェロディは不覚にもかあっと頬が熱くなった。異性──しかも同じ年頃の──から面と向かって〝かっこいい〟なんて言われると、嬉しい気持ちよりこそばゆさの方が勝ってしまって、そんな心中を誤魔化すために頭を掻いて苦笑する。
「そ、そう……かな? なら、良かったけど……でも、どうしてヴィルヘルムさんとここに?」
「あー、そうそう! そう言えばまだヴィルのこと、イークに紹介してなかったなあと思って。ヴィルがティノくんの演説を聞き終わるなりさっさと城に帰ろうとするから、引き留めて引っ張ってきたのよ。ね、ヴィル!」
「俺は別に今でなくてもいいだろうと言ったんだがな……あまりにしつこくせがまれるので、断るのが面倒になった」
「だって少しでも早くイークと会わせたかったんだもん。ね、イーク、覚えてる? この人、ヴィルヘルム・シュバルツ・ヴァンダルファルケっていうんだけど。ずっと昔に一度だけ、お父さんを訪ねてルミジャフタに立ち寄ったことがあるんだって。イークともそのときに会ってるって言うんだけど……」
「ヴィルヘルム……?」
と、紹介を受けたイークはしばし訝しげに眉を寄せ、まじまじとヴィルヘルムを眺めやった。古い記憶を辿っているのか、はたまたヴィルヘルムの風変わりな面貌を警戒しているのか、少々不躾な眼差しだ。が、ややあって何か思い出したようにはっとするや、彼はみるみる目を見開いた。かと思えばいきなり腰の剣を掴み、やや茶色がかった短髪をうなじからぞわりと逆立たせている。
「ヴィルヘルム・シュバルツ・ヴァンダルファルケ──〝ヴァンダルファルケ〟ってことは、もしかしてあんたがベルントの言ってた〝裏切り者〟か?」
「ああ……そうか。フィロメーナから聞いてはいたが、お前もベルントに会っていたんだな。ジルヴィアたちは達者だったか?」
「そんなこと訊いてどうする? あんた、あの連中とは一体どういう──」
「あー、めんどくさい! それねえ、誤解だから! そのベルントとかいう人たちが勘違いして難癖つけてるだけだから! ヴィルは誰も裏切ってなんかないし、今は私たちの仲間だし! ていうか思い出してほしかったのはそこじゃなくて……」
「カミラ、言ったはずだぞ。連中の言い分も一部は正しいとな。俺がこうしてここにいること自体が、一族を裏切った何よりの証拠で……」
「そういう御託はいいから! ヴィルは確かに間違ったかもしれないけど、一族のことだって裏切りたくて裏切ったわけじゃないんだし! ていうかイークも覚えてないの? ヴィルが郷に来たときのこと」
「あー、いや……そう言われてみれば薄ぼんやりと会った記憶があるような、ないような……」
「はあ……使えない。お兄ちゃんなら絶対覚えてるのに。イークの記憶力ってほんと鶏鶩並みよね」
「そ、そういうお前はどうなんだよ! 自分も覚えてないから俺に訊きに来たんじゃないのか!?」
「私はまだ小さかったから覚えてなくてもしょうがないんですぅ! だって七年も前のことだからね、七・年・前! 当時の私、まだ十歳よ? そんな子供の頃の話なんて……」
「開き直るな、俺は覚えてるぞ。俺たちが十歳かそこらだった頃、お前が絵本を読んでほしいとか何とか言って、親父さんの部屋にあったとんでもないものを──」
「あーっ!! あーっ、覚えてない!! 全ッ然覚えてないですぅ!! だからその話は今はやめましょ、ね!? 今日はせっかくの楽しい光歌祭だし!? ね!?」
イークが遠い昔の出来事を回想し始めるや否や、カミラは戦場でも見たことがないくらい必死の剣幕で彼の話を遮った。
ふたりの話を聞きながら〝とんでもないもの〟って何だろう……と考え込むジェロディの傍らで、ヴィルヘルムが心底呆れ果てた顔をしている。
でもこうして見ると改めて、ふたりは本当に幼馴染みなんだなと、ジェロディは何だか今更なことをしみじみと実感した。イークはジェロディが知り得ない在りし日のカミラのことをよく知っていて、良くも悪くも彼らの間には垣根がない。
幼い頃からずっと傍にいて、変わらない関係。それが今は羨ましい。
自分もマリステアと、ずっとそうありたかった。
けれどこの右手に《命神刻》がある限り、自分は──
「──いよう、新入り! 楽しんでるか~!?」
ところが刹那、沈みかけていたジェロディの思考に上機嫌な声が割り込んできて、はっと現実に引き戻された。かと思えば短い悲鳴を上げたイークが後ろから肩に腕を回され、つんのめりそうになっているのが見える。やにわに彼の背後から現れ、肩を抱いたのはオーウェンだった。ほとんど面識のない相手から突如絡まれたイークは、まったく事態が呑み込めないといった様子で目を白黒させている。
「はっ……? だ、誰だお前──」
「おいおいおいおい、再会して早々つれないこと言うなよ! せっかく親睦を深めようと思って来てやったんだからさ! 今日は待ちに待った光歌祭、こんなときは一緒に酒でも飲んで昔話に花を咲かせようぜ? たとえば、そう──ビヴィオで俺を殺しかけてくれたときの話とか、な?」
そう言って全体重をイークの背中に乗せたオーウェンが、ニヤッと邪悪な笑みを浮かべた。そこでジェロディもようやく思い出したが、そうだ、確かにオーウェンはビヴィオで一度イークに殺されかけている。
あれはクアルト遺跡の異変調査へ向かう道中のこと。ビヴィオ郷庁が救世軍に襲われる現場に遭遇したジェロディたちは、郷守に代わって地方軍の指揮を執った。
そのとき軍の中心にいたジェロディを狙い、イークが放った神術をオーウェンが身代わりとなって引き受けてくれたのだ。おかげでオーウェンは一時的に意識を失い、マリステアの癒やしの術がなければ命を落としていたかもしれなかった。
「おい、そこの長髪馬鹿。せっかくの光歌祭だってのに、始まって早々陰湿な絡み方をしてるんじゃないよ。それともあんた、まさかもう酔っ払ってんのかい?」
が、直後、間髪入れずに背後からオーウェンをひっぱたいた人物がいる。呆れ切った様子をまったく隠そうともしていないのは、言うまでもなくケリーだ。
どうやらふたりは既にどこかで飲食をしてきたあとらしい。オーウェンは右手に飲みかけの酒瓶を携えているし、ケリーもほとんど顔色は変わらないものの、ほんのりと酒の匂いを漂わせていた。
「いでででで! おいっ、そこの暴力女! 人の髪を引っ張るな、髪を!」
「あんたが〝どうぞ引っ張って下さい〟と言わんばかりに髪なんか伸ばしてるからだろ。悪いねイーク、こいつが変な因縁つけて。だけど私らはもうビヴィオでのことなんか気にしちゃいないんだ。あんただってそうだろ?」
オーウェン自慢の長髪を力任せに巻き取りながらケリーがそう尋ねれば、イークはちょっと引き攣った顔で「あ、ああ……」と曖昧な答えを返した。
彼の返事の歯切れが悪かったのは、ビヴィオでの一件をまだ根に持っているからというよりも、オーウェンを痛めつけながら顔色ひとつ変えないケリーに恐れをなしたからのようだ。彼はさりげない足取りでケリーから一歩距離を取るや、気まずさを誤魔化すように軽く咳払いして言葉を続けた。
「あのときのことは……お、俺も悪かったな。あれはどう考えても不可抗力だった。お前らがビヴィオの郷守の悪行を知らなかったってのも本当だったみたいだし……そこの長髪はともかく、お前らはちゃんと間違いを認めて、自分の手で償った。なら俺もこれ以上とやかく言うつもりはない。マリステアにも、今日までのことはお互い水に流そうと言われたしな」
「へえ、マリーが? そりゃ良かった。なら和解の印に、あんたもこっちに来て一緒に飲まないかい? ゲヴラー殿やパオロもいるんだ、ふたりとはあんたも積もる話があるだろ?」
「ああ……そういうことなら。カミラ、お前はどうする?」
「じゃあ私も行くー! もちろんヴィルもね!」
「何故俺まで勘定に入っている?」
「いいじゃない、せっかくのお祭りなんだし! こんなときくらいその顰めっ面を何とかして、少しは楽しそうにする努力をしたら?」
「お前までマナみたいなことを言うな。余計なお世話だ」
「まあまあ、ヴィルヘルム殿もそう言わず。さっきアンドリアがいい酒を都合してくれたんです、ヴィルヘルム殿もきっと気に入ると思いますよ」
ケリーが笑いながらそう促せば、ヴィルヘルムもやれやれと肩を竦めた。
こうなったら断る努力をするだけ無駄だと悟ったのだろう、彼もケリーたちに続いて歩き出す。彼女たちについていけば、そこにマリステアもいるだろうか。
束の間そう考えたのち──ジェロディはふと思い立って、人混みに紛れようとするカミラを後ろから呼び止めた。
「カミラ、ちょっと待って」
「ん? どうかした?」
「実は君に話しておきたいことがあって……イークのことなんだけど」
改まって彼の名前を口にすると、カミラはきょとんと不思議そうな顔で立ち止まった。が、ケリーたちに連れられて先に行くイークとジェロディを見比べるや、何故だか急にサーッと青い顔をして、申し訳なさそうに口もとへ手を当てる。
「ご、ごめん……もしかして私が目を離した隙にあいつ、また何かティノくんに失礼なことを……!?」
「いや、そうじゃなくて、むしろ逆さ。今はお互い立場が変わったんだから、敬語は使うなとか名前は呼び捨てでいいとか、色々と気を遣ってくれて……マリーとの関係も君が取り持ってくれたんだってね。ありがとう」
まずはそれについて彼女に礼を言いたかったから、忘れる前に告げられてジェロディは内心ほっとした。するとカミラもちょっと意外そうに目を丸くしたのち、照れ隠しだろうか、しきりに前髪へ手をやりながら破顔する。
「い、いやあ、そんなのは全然! 私もイークとマリーさんがギスギスしたままなんてイヤだったし。でも……そっか。あいつ、私が思ってるよりずっとティノくんのこと認めてるのね。やっぱり決闘に負けたからかな?」
「いや、その件なんだけど──実は僕、イークに勝ってないんだ」
「へ?」
「このことは誰にも言うなって口止めされたんだけど……でも君にだけは伝えておきたくて。サラーレでの決闘は、イークがわざと負けてくれたんだよ。正直言って今の僕じゃ彼の足もとにも及ばなかった。自分では全力を出しきったつもりなんだけど、あの決闘を振り返ってみればみるほど、手も足も出なかったなって……」
苦笑に脱力を加えてそう言えば、ただでさえ大きなカミラの瞳がますます見開かれた。周りは相変わらずとんでもないお祭り騒ぎで、会話の内容は誰にも聞こえていないだろうが、カミラの耳にはちゃんと一言一句届いたようだ。
「えっ……えっ? イークがわざと負けたって、つまり──」
「ああ。決闘で僕が勝ったからっていうのは真っ赤な嘘。最後にイークが手を抜いてくれたからそういうことになっただけ。僕は当然抗議したけど、今の自分の実力と勝負の結果を受け入れるのが島へ戻る条件だって言われちゃってね。だから口裏を合わせたんだ。決闘の見届け人になってくれたウォルドやアルドも一緒にね」
「で、でも、イークはなんで……」
「そうした方が収まりがいいからだって言ってたよ。旧救世軍時代からイークと一緒に戦ってきた兵たちは、今でも彼を慕ってる。だから中には、ガルテリオ・ヴィンツェンツィオの身内である僕が次の総帥だってことに納得しない人たちもいるだろうって。そういう人たちを説得するには、副帥だった自分が負けたことにした方が都合がいいと言われて……最後は僕も条件を飲んだ。どんな形であれ、やっぱり救世軍には彼が必要だって、そのとき強く思ったから」
新生救世軍の秩序を守るために、自らの戦士としての名を汚す。
ジェロディにはイークのそんな潔さが意外だったし、目を開かされた。
これがカミラやフィロメーナが慕い続けたイークという男なのだと。
イークにとって新救世軍に合流するという選択は、屈辱を伴うものであったはずだ。何しろそれは自分の不在中にフィロメーナを奪われ、副帥の座も奪われ、その原因を作った男の下に降るという決断だったのだから。
しかし彼はカミラのためにここへ戻る選択をした。さらには自分の顔に泥を塗ってまで、ジェロディの総帥としての立場も守ってくれた。フィロメーナの理想を叶えると言ったあの言葉が本物ならば、証明してみせろとそう言って。
「ついでに〝八百長をされたのが悔しいならいつか俺を越えてみせろ〟とも言われたよ。〝神子の命は永遠なんだろ? なら百年でも二百年でもお前が追いついてくるのを待ってやる〟って……そう言われたら、僕も悔しさなんてどこかへ行っちゃった。二百年も待っててもらえるなら、別に焦らなくていいかってね」
最後にほんの少し戯けてそう言えば、カミラも可笑しそうに笑った。けれどそうして細められた彼女の瞳が、いつもよりきらめいて見えるのは気のせいじゃないはずだ。サラーレでのいきさつを聞いたカミラはもう一度「そっか」と呟くと、安心したように目尻を拭った。彼女の双眸はすぐそこで楽器を掻き鳴らす人々を眺めているようでいて、もっと遠いどこかを見つめている。
「なるほど、おかげで謎が解けた。郷でも人一倍負けず嫌いだったイークが、自分で負けを認めるなんて変だなって思ってたのよ。でも、そういう事情があったなら……あいつもちょっと会わない間に成長したってことかしら?」
「はは、そうだね。彼もここに来るまで色んな苦労を重ねたはずだから……」
「そうね。だったら今日くらい、私たちがその苦労をねぎらってあげてもいいのかもしれないわね──ありがと、ティノくん。イークのために話してくれて」
そう言って笑ったカミラの顔が、やっぱりジェロディの目にまぶしかった。
フィロメーナを失った直後の日々を思うと、彼女がこうして笑いかけてくれるのは本当に奇跡だと思う。イークが戻ってきてくれて良かった。改めてそう思った。
これでもう彼女の悲しむ顔を見なくて済む。あとはカミラのお兄さんさえ無事に見つかってくれれば、何も文句はないのだけれど。
「じゃ、僕は行くよ。引き留めてごめん。カミラも光歌祭を楽しんで」
「そりゃもちろん楽しむ気満々だけど、ティノくんは一緒に来ないの? 誰かと先約があるとか?」
「ああ、先約というか……マリーとも少し話がしたくて。今朝の彼女、ちょっと様子がおかしかったから……今はマリーをひとりにしたくないんだ」
率直にそう答えたら、カミラがほんのわずか眉を上げた。そんな彼女の反応にジェロディも「おや?」と首を傾げたところで、不意にカミラが視線を泳がせる。
「あ、あー……あのさ、ティノくん。すごく不躾な質問なんだけど、もしかして最近マリーさんと何かあった?」
「〝何か〟……? いや……特に取り立てて話すようなことはなかったと思うけど、どうして?」
「ほんとに? たとえばちょっとしたことでマリーさんと口論しちゃったとか、マリーさんの前で他の女の子と仲良くしたとか、そういうこと、ない?」
「い、いや……僕の知る限りは……」
「うーん、そっか……ってことはこの線じゃないのか……」
と、何故だか難しい顔を作ったカミラは、顎に手を当てながらじっと虚空を睨みつけた。その反応を見る限り、カミラもマリステアの様子がおかしいことには気がついていたということだろうか。だとしたら一体いつから? どのようにして?
「あのね、ティノくん」
ところがジェロディが質問を投げかけるよりも早く、怖いくらい真剣な顔をしたカミラが突然ずずいと鼻を寄せてきた。危うく地鼠人式の挨拶ができそうな距離まで迫ってきたカミラは、なんというか、端的に言って──近い。とても近い。おかげでジェロディの心臓が変な音を立てて飛び跳ねる。
「ぶっちゃけると、私もマリーさんに何があったのかはよく知らないわ。でもね、これだけは言える。マリーさんのこと、大切にしてあげて」
「え?」
「いや、今のティノくんがマリーさんをぞんざいに扱ってるって意味じゃないのよ? ただ、なんていうか、今よりもっともっともーっと大事にしてあげてほしいの。私、ティノくんとマリーさんはコルノ島イチお似合いだと思ってるから! だからどんなときもマリーさんの手をぎゅっと握っててあげて。いい?」
「い、いや、〝お似合い〟って、僕らは別にそういう──」
「返事は〝はい〟か〝分かりました〟かのどっちかで簡潔に!」
「それ両方〝イエス〟だよね……!?」
「そうだけど、何か問題が?」
「いや、問題は……ない、けど、でも……」
「じゃ、言い方を変えるわ。たとえ相手がティノくんであろうとも、もしもこの先マリーさんを泣かせるやつが現れたら……」
「あ……現れたら?」
「私がそいつを丸焼きにしてあげる。だからティノくんもそのつもりでよろしくね?」
嫌に上機嫌な口振りでそう言って、カミラはぱちんと器用にウインクしてみせた。粧し込んだ美少女に至近距離でそんな顔をされたら、普通はドキッとしてしまいそうなものだが──いや、認めよう。確かにドキッとはした。ただしときめき的な意味ではなくて、生命の危機的な意味でのドキッだったけど。
「で、肝心のお返事は?」
「は……はい……分かりました……」
「うん、素晴らしい模範的回答! 今の言葉忘れないでね、言質は取ったから」
「……」
「あと、私も力になれることがあれば手伝うし! とにかく私はティノくんとマリーさんの関係を応援してるから! だからぎゅっとしてあげてね? ぎゅーっとだからね……!」
カミラは何度も念押しするようにそう言いながら、そろそろ先へ行ったイークたちを追うことにしたのだろう、手を振って人混みの向こうへ消えた。ジェロディはそれを沈黙で見送ったあと、嘆息と共に肩を落とす。
「……今の、どういう意味だろう……」
と思わずひとりごちてしまう程度には、カミラの言葉に動揺している自分がいた。おかしいな、こんなはずじゃなかったろ、と前髪を掻き上げつつ自分に言い聞かせてみるも、心のざわめきは一向に鎮まる気配がない。
『マリーさんのこと、大切にしてあげて』
何度も繰り返される短いフレーズの音楽に乗せて、聞いたばかりのカミラの言葉がリフレインしていた。彼女はあれをどういう意図で口にしたのだろう? マリステアを〝大切〟にしろって? もちろんジェロディだってそうするつもりだ。
自分もマリステアを傷つけたくはないし、彼女を傷つけるものは許さない。
そしてだからこそ、彼女を手放すべきだと思っている。
まだ〝今〟ではない〝いつか〟の話だけれど。マリステアが、今日までふたりで歩いてきたのとは違う道を見つけられるその日まで。
(僕はマリーに……この想いを伝えては逝かない。《神蝕》の存在を知った夜に、そう決めた。それはきっと彼女を縛る呪いになるから……だからこれが、僕が彼女のために出来る精一杯なんだよ、カミラ。僕は、マリーに──マリーを愛しているからこそ、人として生きて、人として死んでほしい)
こちら側に彼女の真の幸福はない。
未来のことなんて誰にも分からないけれど、しかしジェロディは確信している。
だって自分はもう人ではないから。だからこそ心臓を抉り出して潰してしまいたいほどによく分かる。こちら側はあまりに冷たくて寂しい場所だと。
今ならロクサーナがトビアスに自らの血を与えたことを〝罪〟と呼んだ理由がよく分かる。ここにひとりでいるのが寂しいから、苦しいから、だから縋る縁を求めて愛する者を引きずり込む。
そんなことは、どう考えたって許されない。
そんなものは、真に彼女を愛しているとは言わない。
それはただのエゴだ。マリステアを失いたくないがゆえに、共にいたいと願うがゆえに、寄り添ってほしいと求めるがゆえに、彼女をこちら側へ誘うだなんて。
(だから、マリー)
許してほしいとは言わない。分かってほしいとも言わない。
ただ、今は。今だけは。
彼女と共に、このきらめく星屑のような時間を過ごすことを許してほしい。
今日という日の思い出さえあれば、僕は百年先もひとりで歩いていける。
そう信じて縋りたくなるほどには、まぶしかった。
フィロメーナが遺してくれた、たくさんの希望の灯火が。
(フィロメーナさん。僕は──)
先刻彼女と再会した演壇を顧みる。
そこにはまだ彼女がいて、笑っていた。まるでジェロディの背中を押すように。
たとえ自分の願望が見せた都合のいい幻だったとしても構わない。ジェロディは拳を握り、踵を返した。今度こそフィロメーナに別れを告げて走り出す。
そんなジェロディを見送って、フィロメーナは微笑んでいた。
遠のくジェロディの背中を見据え、薄桃色の唇を微か動かす。
次いで食卓を囲み、仲間と笑い合っているカミラやイークを見つめて、フィロメーナは瞳を細めた。
カミラが視線を感じて演壇を見上げたときには、そこにはもう誰もいない。
ただ、どこからともなく花びらを運んできた風がひゅうっとひと筋逆巻いて、降り注ぐ天の光の中へ、消えた。




