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【side:A】エマニュエル・サーガ―黄昏の国と救世軍―  作者: 長谷川
第7章 その苦しみを愛と呼ぼう
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234.ラ・リベルタ


 ねえ、ティノさま。


 どうかその手を放さないで下さい。

 置いていかないで下さい。

 もしもどこか遠くへ行こうとしているのなら──わたしを(さら)っていって下さい。


 どんな(いばら)の道だって、あなたの隣にいられるのなら怖くない。


 そう伝えたいのに伝えられないのは、あなたを困らせてしまうと分かっているから。あなたの顔が悲しみで歪むのを見ていられないから。


 目を閉じるたび、光の神子さまの言葉が脳裏をよぎって泣きたくなる。


 ああ、神様──お願いです。


 どうかこのひとを、連れていかないで



              ◯   ●   ◯



 万雷に似た喝采に包まれながら、ジェロディは演壇へ続く階段を上った。

 広場の真ん中に建てられたそれは、演壇というより(やぐら)に似ている。

 高さは一(アナフ)(五メートル)ほどもあって、一番上に設けられた物見台の四方に木製の手摺(てすり)が回され、三六〇度広場を見渡せる造りだ。

 そこに立つと、今日のために飾りつけられた居住区の町並みがよく見えた。

 どの家にも──今、ジェロディが佇む演壇にまで、星をかたどった()(つた)のリースが高々と掲げられている。いずれのリースも美しい花々や木の実で彩られているから、こうして町を一望すると春が舞い戻ってきたのかと錯覚してしまいそうだ。


「ジェロディさまー!」

「ジェロディ様!」

「どうかお言葉を、ジェロディ様!」


 ところが着飾った町を見て感慨に(ふけ)る暇もなく、足もとからは口々に自分の名を叫ぶ群衆の熱狂が伝わってきた。

 居住区に足を踏み入れた時点で「うわぁ」とは思っていたものの、改めて高みから見下ろすと、広場を埋め尽くす人の数に眩暈(めまい)を起こしそうになる。


(これ……一体何人集まったんだろう?)


 まるで人間の顔で作られた巨大な絨毯(じゅうたん)を眺めているかのような光景。

 ほぼ円形に近い広場は身動きを取る隙間もないほどの群衆で埋め尽くされ、果ては近隣の家屋の屋上にまで詰めかけた人々の姿があった。

 中には獣人居住区からやってきた獣人たちの姿もあって、彼らは毛むくじゃらだったり一際体格が良かったりするからここからでも見つけられる。

 されど人間に限定すると、この中から見知った顔を見つけ出すのは至難の業だ。


 神から与えられた視力のおかげで、今のジェロディには広場の端にいる人間の顔まで克明に見分けることができた。しかしあまりにも人数が多すぎて、誰がどこにいるのか把握しようにも術がない。

 誰でもいいから親しい仲間をひとり見つけて、彼または彼女に話しかけているつもりで演説すれば緊張もいくらか薄らぐだろうと思っていたのに。自分の目算の甘さに苦笑しつつ、ジェロディは目の前の手摺にそっと手をかけ、息を吸った。


「お集まりの紳士淑女の皆さん。中にはこうして僕の顔を見るのは初めてだという方もいらっしゃるかもしれません。ですのでまずは自己紹介を。僕の名前はジェロディ・ヴィンツェンツィオ。救世軍の三代目総帥にして二十二大神のひと柱、生命神ハイムに選ばれた神子です」


 とは言え登壇してしまった以上、今更逃げ出すわけにもいかない。

 ゆえにジェロディは腹を決め、あらかじめ用意していた第一声を上げながらハイムの宿る右手を掲げた。そこにいつも()めている革の手套(しゅとう)は今はない。初めからこうしようと決めていたから、階段を上っている途中で外して(しま)った。

 そうして名乗りを上げたジェロディの意思に呼応するかのごとく、ときに右手の《命神刻(ハイム・エンブレム)》が瞬き出す。直後、ジェロディの頭上には青白い光によって描かれたハイムの神璽(みしるし)星樹(ラハツォート)》が浮かび上がり、群衆からどよめきが上がった。

 この表璽の術(シンボライズ)こそが、ジェロディが真のハイムの神子である何よりの証明だ。

 偽者には決して真似できない、神子だけに許された神の御業(みわざ)……。


「今日は新生救世軍が発足してから初めての光歌祭(こうかさい)ということで、総帥である僕が開会の前にこうして挨拶をさせてもらうことになりました。まずは今回の祭りの準備に最も貢献してくれたマヤウェル・アラッゾさんと、アンドリアさんに最大の感謝を。彼女たちの尽力なくして今日の光歌祭は実現しなかったと思います。皆さんもどうかおふたりに盛大な拍手を送って下さい」


 魂の象徴である五芒星(ごぼうせい)(はら)む円と、その円を(いただ)いた樹幹(クロス)のシンボル。それを頭上に掲げたままジェロディがそう言えば、たちまち群衆から割れんばかりの喝采が上がった。マヤウェルとアンドリアが今、会場のどこにいるのかは定かではない。されど皆の拍手と称讃がふたりに届いていればいいと願う。


「皆さんもご存知かと思いますが、光歌祭とは光の神であり希望の神でもある光明神オールに、一年の感謝と今後ますますの加護を願う神聖な祭日です。僕たちが普段、当たり前のように使っているハノーク暦が誕生した太古の時代から世界中、あらゆる国で祝われてきた希望の祭り……ですが僕はいかにエマニュエル広しと言えど今、この瞬間、ここコルノ島で祝われる光歌祭以上に希望に満ちた光歌祭はないと自負しています。何故なら救世軍は僕らの祖国であるトラモント黄皇国に、再び希望の灯をともすべく立ち上がった冀求(ききゅう)の軍──ここにはいま間違いなく国中の希望が集まっている。だからこそ今日は皆で光ある未来の到来を祈って、オールに最大の感謝を捧げましょう」


 群衆の歓呼に掻き消されぬよう、ジェロディが声を張ってそう呼びかければ、広場は沸騰した大釜みたいな昂揚(こうよう)に包まれた。まさか自分の言葉に人々がここまで一喜一憂してくれるとは思っていなかったから、ジェロディは嬉しいやら気恥ずかしいやらで、金細工が揺れるバンダナの上から頭を掻く。


「ですが祭りを始める前にひとつ、皆さんにどうしてもお伝えしておかなければならないことがあります」


 会場がこれほどの盛り上がりを見せているのだから、今すぐにでも開会の宣言をしてしまいたいところだけれど。ジェロディはそんな誘惑を振り切って、壇上からさらに言葉をつないだ。この事実と役目からは、どうしたって逃げるわけにはいかない。そうした覚悟が表情に表れていたのか、直前まで興奮気味に手を打ち鳴らしていた人々も波が引くように息をひそめていく。


「今からお話することは、既に島のあちらこちらで噂になっているようですし……僕の最初の挨拶を聞いてお気づきになった方もいるかもしれません。今日まで僕ら救世軍の首脳陣は、二代目総帥であるフィロメーナさんの生存を大々的に(うた)ってきました。今年の春先に決行された、官軍による反乱軍掃討作戦……彼女はあの凄惨(せいさん)な現場を生き残り、国中に散らばった仲間を再び結集させるため、身を隠しながら旅をしていると。中にはその噂とフィロメーナさんが持つ奇跡の軍師(エディアエル)の血を信じて、遥々集われた方もいるでしょう。ですが──フィロメーナ・オーロリーはもうどこにもいません。旧救世軍の本部があったロカンダの町が官軍の急襲を受けた日、彼女はたったひとりの幼い少年を守るために剣を取って戦い、そして命を落としました」


 あれほど広場を沸かせていた熱狂が、たちまちどよめきへと姿を変えた。

 中には噂を聞いていたのか「やはり」という顔をしている者もちらほらいるが、大半の人々は顔を見合わせ、息を呑み、驚愕で言葉を失っている。


「僕は……僕は彼女が息を引き取る現場に居合わせたひとりです。今日まで僕らが重ねてきた彼女の生存を伝える嘘は、他でもないフィロメーナさんが遺した最期の策でした。彼女はようやく燃え始めた革命の種火を消さないために自分の死を隠し、救世軍を再興する道を示してくれたのです。僕たちはそんな彼女の遺志を継ぎ、今日まで真実を隠蔽(いんぺい)してきました。ですがもう……もうこれ以上、彼女の魂の(かいな)に守られているわけにはいかない。生前彼女がそうしたように、僕たちも自分の足で立ち上がり、前を向いて歩き出すべきときが来ました。ですから今日、この場を借りて改めて宣言します。救世軍三代目総帥として──新生救世軍の発足を」


 どよめきがひとつ、またひとつと、火が消えるように静まっていくのが分かった。代わりにジェロディを見上げた人々の瞳に確かな光が宿り始める。

 涙。祈り。悲壮。覚悟。

 色や形はそれぞれ違えど、決して消えない意思の光が広場中に伝播(でんぱ)した。

 その様子を高みから見下ろしたジェロディは、ああ、と息を呑む思いがする。

 だってたったいま眼下にある光景はまるで、真昼の地上に星空が降ってきたかのようだ。いつかロカンダの地下でフィロメーナと共に見上げた満天の星空が。


『ジェロディ。この国は今、救世主を求めているの。そしてあなたはきっと──』


 あの日の彼女の言葉が(よみがえ)る。ふと隣に目をやれば、今もフィロメーナがいるような気がした。何故だろう。自分たちは特別親しかったわけでも、長い年月をかけて育まれた絆があったわけでもない。でも。

 フィロメーナは確かにそこにいて、ジェロディの視線に気がつくや、栗色の髪を(ひるがえ)しながら振り向いた。そうしてかつて星空の下で見たのと同じ笑顔で優しく笑いかけてくれる。だから自然とジェロディの口もとも(ほころ)んだ。


 ──フィロメーナさん。


 心の中でそう呼びかけてみる。


 僕はまだ救世主になれる自信はないけれど。

 だけど僕たちはもう大丈夫。前を向いて歩いていけます。


 だから、おやすみなさい。また会う日まで、どうか安らかに。


「皆さん。フィロメーナ・オーロリーという偉大な女性を失ったことは、僕たちにとって大きすぎる痛手です。ですが僕は今日、ここに集ったあなた方の瞳の中に彼女を見た。フィロメーナさんは──彼女が遺した希望の火は、今もあなた方の中で燃えている。だからどうか悲しまないで下さい。救世軍がある限り、ジャンカルロさんも、フィロメーナさんも……敵も味方も、戦いで犠牲になったすべての人々は生き続ける。ですから今日は悲しみの歌ではなく、希望の歌を歌いましょう。みんなで声を合わせて、高らかに、僕らの想いが彼女たちのいる天まで届くように!」


 喝采が弾けた。もはや〝弾けた〟という以外に形容のしようがなかった。

 広場を埋め尽くす群衆から発せられた熱狂が渦を巻いて天を()き、巨大な火柱のごとく燃え上がって爆発する。

 そんな狂騒のただ中に、抜けるような楽器の音色が響き渡った。あの音はクラリーノか。軽やかでいて勇壮なファンファーレ。流れる旋律を辿(たど)るように振り向けば、金色の楽器の口を天高く掲げた有志たちが開会の合図を奏でている。


 ジェロディは目を見張った。自分の挨拶よりあとのことは成り行きに任せるような形で細かく決めていなかったから、高みから見えた光景に驚いた。

 だって気づけば大観衆の真ん中で、手に手に楽器を携えた一団が整然と列を組んでいるのだ。軍隊で言うところの二列横隊を組んだ彼らの眼前に佇んでいるのはロクサーナ。小柄な彼女は群衆にもみくちゃにされないためか、大きな木箱の上に立って得意気に棒状の何かを掲げている……あれはもしや指揮棒か?


〝一、二、三、四──〟


 小さな楽団に向き直ったロクサーナが、満を辞して指揮棒を振るのが見えた。

 先端へ行くほど細く削られた白い棒が軽快に四拍子を刻んだ直後、広場は力強い楽器の音色に包まれる。ヴィオラ、トラヴェルソ、クラリーノ、リュート。ありとあらゆる楽器が奏でる軽快な旋律を、ジェロディは知っている。



   〽

   あの星が君に見えるか

   我らが誓った自由の星

   母神(イマ)が遺した道標(みちしるべ)

   剣を持て! 盾を鳴らせ!

   勇ましく足を踏み鳴らし

   歌声上げて共に行こう!

   神は恐れぬ者に宿る

   解放の日はすぐそこに──



 風が吹いた。

 ジェロディの髪を煽り、強く吹き抜けたその風は音楽と言う名の風だった。

 半年前、戦勝の宴に沸くチッタ・エテルナで歌われていた救世軍歌。

 それがジェロディの胸の中を吹き抜け、鼓動を打ち鳴らし、心音さえも旋律とひとつになった。これこそが光歌祭だ。希望の神であり音楽の神でもあるオールへの感謝と信仰の証に、人々は一日中歌い、踊り、奏でる。誰もが誰かと、好きな歌を好きなところで。日が沈み夜が明けるまで、島はきっと賑やかになる。


「さあさあ、みんな! 好きなだけ歌って、踊って! 腹が減ったら料理も酒もたんまりあるよ! 食って、飲んで、騒いで、歌って、最高の光歌祭にしようじゃないか! 〝救世軍ここにあり〟ってね!」


 やがて櫓の下から威勢のいい声が聞こえ、ジェロディは手摺から身を乗り出した。そこには両手に料理の大皿を掲げたアンドリアがいて、この騒ぎの中でも驚くほどよく通る声を張り上げている。

 彼女の後ろに続くのは、近隣の家という家から運び出されてくる卓と椅子。次々と並べられていく色とりどりの料理たち。人混みに見えつ隠れつしているが、料理を運ぶ女たちの間には広場の入り口で別れたマリステアの姿もある。


 さあ、光歌祭の始まりだ。


祖国の(ヴィヴァ・)ために(パトーリア)!」


 人々が上げる歓呼の声が噴き上がった。陽気に(つむ)がれる旋律に誘われて子供たちが歌い出し、男女も手を取り合って、男たちは軽快な足取りで、女たちはスカートの(すそ)を翻しながら、皆が一斉に踊り出す。

 まったくとんでもないお祭り騒ぎだ。櫓の上からしばし眼下の光景を見下ろし、ジェロディは自分の口もとが自然と緩んでいくのを感じた。


 ──ああ、これでこその救世軍だ。


 あの日、ジェロディが憧れと共にまぶしく見上げていたものが、今も変わらずここにある。


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