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【side:A】エマニュエル・サーガ―黄昏の国と救世軍―  作者: 長谷川
第7章 その苦しみを愛と呼ぼう
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233.永遠はいらない


 目の前に広げられた原稿を見つめて、ジェロディはもう五小刻(五分)もの間ずっと眉をひそめていた。

 あれも違う、これも違う、とあとから文言を継ぎ足したり削ったりした痕跡の残る原稿は、お世辞にも見栄えがいいとは言えない。

 それだけでも頭が痛いというのに、その上内容がしっくりこない。

 かと言って他に名案が浮かぶわけでもなく、亜麻(カルパス)紙の上で踊る自身の筆跡をしばし睨みつけたのち、ジェロディはため息と共に頭を抱えた。

 そんなジェロディの百面相を見ていたのだろう、書類の最終確認をしていたトリエステが微か笑った気配がある。


「ジェロディ殿、もう時間がありませんよ。原稿の出来に不満がおありなら、やはり即興で演説をされるのが一番では?」

「でも、そうすると話したいことがまとまらない気がするし……いや、そもそもこの原稿の時点でまとまってないんだけど。こんな状態じゃみんなを鼓舞するどころか、逆に不安にさせちゃうような気がするよ」

「私はそうは思いませんが。原稿を拝見した限り、ジェロディ殿のおっしゃりたいことは過不足なくまとめられていると思いますよ?」

「そうかな……自分ではどうしても納得がいかないんだけど。ねえ、トリエ。こうなったらいっそ演説なんて取りやめるのはどう? もしくは今日の主役であるロクサーナに代理で演説してもらうとか」

「ジェロディ殿。本日の演説には、フィロメーナの死を公に発表するという重大な意味合いもあります。いくら既に島中の噂になっていることとは言え、現総帥の口からきちんと真実を告げなければ、皆に余計な疑念や不安を与えてしまいますよ」

「分かってる。ちょっと言ってみただけさ」


 もはや現実逃避すらも許される段階ではないと悟って、ジェロディは諦念と共に肩を竦めた。コルノ島で初めて迎える光歌祭(こうかさい)の開始時刻まで、恐らくあと一刻もない。そろそろジェロディも城を出て居住区へ移動しなければならない頃合いだ。

 コルノ城本棟三階にある執務室。ジェロディはそこで書類が山と積まれた席に腰かけながら、力なく椅子に(もた)れて天井を仰いだ。


 今日の光歌祭の進行は事前におおよそ決められていて、救世軍の現総帥であるジェロディは祭りの最初に開会の宣言をしなければならない。

 ついでにちょっとした演説まですることになったのは、会場となる居住区の中央広場に島中の人間が集まる予定になっているからだ。

 この頃ジェロディは城での執務に忙しく、前とはまた違う意味であまり人前に出なくなった。これまでトリエステがひとりで抱えていた仕事を半分手伝うと言ったら、とんでもない量の処理や見直しや計画が必要な案件が転がり込んできて、寝室の隣に設けた執務室に()もりっぱなしの日が増えたのだ。


 おかげで城の外で暮らす住民たちは、普段なかなかお目にかかれないハイムの神子様をひと目見ようと張り切っているという話だし、仲間の大半も会場に足を運ぶつもりだと言っていた。とすると少なく見積もっても三千から四千の島民が居住区に集まってくるはずで、そんな席での失敗は総帥として許されない。

 そうした緊張も相俟(あいま)って、ジェロディが眉間に(しわ)を寄せたまま考え込んでいると、不意に鼻を抜ける爽やかな香りが漂ってきた。驚いてふと目をやれば微苦笑を(たた)えたマリステアが、執務机の上に香茶入りのカップを乗せている。


「マリー? 君、会場の手伝いに行ってたんじゃ……」

「ええ。ですがあちらでの仕事はほとんど片づきましたので、あとのことはマヤウェルさまにお任せして戻ってきました。そうしたらティノさまがまだ難しいお顔で原稿を睨んでおられたものですから」

「良いところに戻ってきて下さいました、マリステア殿。ジェロディ殿はどうしてもご自分のお書きになった原稿が気に食わないと言って、先程からずっとこの調子なのです。私としては、今の内容でも特に問題はないと思うのですがね」

「そうですね……わたしもトリエステさまのおっしゃるとおりだと思いますよ? ティノさまは何でも深刻に考えすぎなんです。今日は特別な式典ではなくて、ただのお祭りなんですから、そこまで肩肘を張らなくても」

「けど、フィロメーナさんの死を伝えるのにおちゃらけた演説をするわけにもいかないだろ? カイルなら許されるかもしれないけど」

「許す許される以前に、彼の話には誰も耳を貸さないでしょう。ですがこれまで様々な場面で同志の心を支えてきたジェロディ殿のお言葉ならば、今回もきっと聞く者の心に届くはずです。誰が何と言おうと、あなたはフィロメーナの正統な後継者なのですから──どうかもっと自信をお持ちになって下さい」


 マリステアが差し出した香茶を受け取りながら、わずかばかり離れたもうひとつの執務席でトリエステがそう言った。彼女の言葉を聞いたマリステアもカップを乗せてきたトレーを抱え、うんうんとしきりに頷いている。

 そんなふたりの反応を少しくすぐったく受け止めながら、そういうものかなとジェロディは改めて不出来な原稿に目を落とした。自分ではやはり納得がいかないものの、ふたりがそう言うのなら無理に背伸びをしなくてもいいのかもしれない。


 しばし考え込んだのち、ジェロディはふぅっと息をつくや、ここ数日自分を苦しめてきた原稿をぐしゃぐしゃにして背後の屑籠(くずかご)へと放った。

 籠の場所を見もせずに適当に放り投げたが、オヴェスト城の戦いを終えて戻ってからというもの、もう何十回……いや、何百回と同じ動作を繰り返してきたおかげで(ねら)(たが)わず、紙屑はすとんと籠中(こちゅう)へ落下した気配がある。


「分かったよ。じゃあ今回は君たちの言葉を信じるから、これで僕が恥をかいたらあとで責任取ってよね」

「おや、何とも責任重大ですね、マリステア殿」

「えぇっ!? わ、わたしだけですか……!? と、トリエステさまも今、一緒にティノさまを説得して下さいましたよね!?」

「確かに助言はさせていただきましたが、私がいくら大丈夫と申し上げてもジェロディ殿はご意見を曲げては下さいませんでしたから。最終的に彼の心を動かしたのはマリステア殿、あなたですよ」

「そ、そ、それは屁理屈と言うのではありませんか……!? ティノさま、今のはトリエステさまも同罪ですよね……!?」


 と、顔を真っ赤にしたマリステアがあまりにも必死に訴えるので、ジェロディはつい可笑(おか)しくなって笑ってしまった。当人は「わ、笑いごとじゃないですよぉ!」と涙目になっているが、机を挟んだ向こう側ではトリエステも笑っている。

 ほどなくジェロディはマリステアを連れて執務室をあとにした。トリエステもいま手もとにある書類を処理したら、すぐに居住区へ向かうという。コルノ城から居住区までは歩いても四半刻(十五分)ほど。わざわざ馬を使う距離でもないし、会場に集まる人数を思えば、そもそも馬は祭りの邪魔になってしまうだろう。


 ゆえにマリステアとふたり、並んで城から伸びる道を歩いた。

 救世軍に加わったばかりの者が迷わなくて済むように、島の主要な区画はすべて草を刈って作った土の道でつながれている。

 ただ、島を覆う下草の多くは季節の移ろいと共に瑞々(みずみず)しさを失い、次第に枯れ草色へと染まりつつあった。おかげで道と草原の境目が曖昧になり始めていて、この上さらに雪が降ったら道なんて完全に分からなくなってしまいそうだ。


「……やっぱり手間でも砂利(じゃり)くらい敷いた方がいいかな」

「え? 何ですか?」

「ああ、いや、こっちの話」


 数日ぶりに歩く道を見下ろしていたら、つい思考が島の整備計画に向かってしまっていることに気づいてジェロディは苦笑した。

 近頃仕事中毒気味のトリエステに毒されてきたのか、暇さえあれば島の運営やこれからの軍事計画について考え込んでいる自分がいる。

 もちろんそれを悪いことだとは言わないし、毎日やることもなくぼうっと過ごしていた時期に比べたら毎日がとても充実していた。

 体を動かすのは今でも好きだが、トリエステやマシューと額を突き合わせて救世軍のために智恵を絞る作業も、最近では悪くないと感じ始めている。


 とは言え今日はせっかくの光歌祭。こんなときまで島のことで頭をいっぱいにしていたら、ジェロディの脳は限界を迎えてそのうち破裂してしまうに違いない。

 だから今日は最初の演説さえ無事に済ませたら、あとは思いきり羽根を伸ばそうと決めていた。島中の人間が集まって祝う祭日なんて初めてのことだし、そもそも光神オールへの感謝を捧げるための日なのだから、今日くらい羽目を外してもきっと罰は当たらないだろう。


「だけど楽しみだね、光歌祭。黄都にいた頃はよく教会の聖歌祭に出席したり、帝立劇場での音楽鑑賞会に招かれたりしてたけど、今年は何と言っても光神の神子(ロクサーナ)がいるわけだし」

「そうですね……」

「マヤウェルさんやアンドリアさんもこの日のために色々と頑張ってくれてたみたいだから、どんなお祭りになるのかすごく興味があるよ。僕は予算を都合することくらいしか手伝えなくて、細かいことは全部ふたりに任せきりにしちゃったのが心残りだけど……」


 と、居住区までの道すがら、ジェロディはひと月ほどかけて進められてきた光歌祭の準備に思いを()せた。祭りの幹事として積極的に働いてくれたマヤウェルとアンドリアはまったく正反対の性格でありながら、今回の共同作業を機にすっかり意気投合したようだ。


 彼女らの息子であるマシューとカイルは歳が近いし、商売をしていた経験なども共通していて、ふたりは思いのほか話が合うらしかった。

 おかげでアンドリアが自分たちの家庭の問題にまで口を挟んできて肩身が狭い、と、リチャードが先日ぼやいていたような気がする。


 ところがジェロディがそうした話題を振ってみても、隣を歩くマリステアはどこか上の空で、ぼんやりとした答えが返ってくるばかりだった。

 そこでようやく彼女の様子がおかしいことに気がついたジェロディは、ふと前に出てマリステアの顔を覗き込み、具合でも悪いのだろうか、と眉をひそめる。


「マリー?」

「……」

「マリー……マリー!」

「……えっ? あ、ど、どうかされましたか、ティノさま?」

「いや、君の方こそどうかした? さっきからぼんやりしてるみたいだけど……」

「い、いえ、すみません……! ただ、このところ少し……寝不足で。こ、光歌祭が楽しみだったせいだと思いますけど……わ、わたしったら、お祭りが楽しみで夜も眠れないなんて、何だか子供みたいですね」


 そう話すマリステアは困ったように眉尻を下げて──明らかに動揺を隠そうとしていた。笑った口もとは口角が上がりきっておらず、無理をして笑顔を作っているのがひと目で分かる。マリステアは昔からずっとこうだ。嘘をつくのがすこぶる下手で、誤魔化そうとしても表情や言葉の端々に困惑がありありと表れる。


 ゆえにジェロディは直感した。これは何かあったな、と。


「マリー、君──」

「──あ! そ、そう言えば今朝、ティノさまのお部屋へ(うかが)う前に、イークさんとお話する機会がありまして……! か、カミラさんが気を遣って仲立ちして下さったんですけど、い、イークさん、ティノさまのことを誤解してたっておっしゃってましたよ。一昨日、わたしと口論になったことも謝って下さって……」

「……」

「さ、最初は怖そうで融通の利かない方だと思ってましたけど、お話してみると不器用だけど良い方ですね。カミラさんが信頼していらっしゃるのも分かるような気がします。す、少しずつ仲良くしていけると良いのですけれど……」


 マリステアは懸命に言葉を(つむ)ぎながら、ジェロディの興味をどうにか自分の話題から逸らそうとしているようだった。当のジェロディも、険悪だったマリステアとイークの仲が改善されたというのなら手放しに喜びたい。しかし今は明らかに何か隠しているマリステアの態度の方が気にかかる。


(マリーは自分でも嘘が下手なことを自覚してる。だから僕の前では滅多に隠しごとをしたりしない。そのマリーが敢えて話さないということは……)


 自分には聞かせられないような内容なのか。はたまた、今はどうしても明かせない理由があるのか。ジェロディは彼女の話を遮ってでも問い詰めるべきかと数瞬迷い──そして、やめた。


 ソルレカランテを離れて十五ヶ月。ジェロディたちの生活は一変し、あのまま黄都で暮らしていたら決して知り合わなかったであろう人々との交流も増えた。

 とすればマリステアだって、ジェロディの知らない秘密をひとつやふたつ抱えるのは当然だろう。それをすべて暴こうだなんて傲慢だ。マリステアにはマリステアの人生があるのだから。


 今はこうして隣を歩いているけれど、彼女もいつか彼女だけの道を歩き出す。いや、そうでなければならない。

 ハイムの神子となった今、自分は彼女と同じ時間を生きられないのだから。

 そしていずれはこの身を神に譲り、世界からそっと消えゆくさだめなのだから。


 だからマリステアにはマリステアの人生を生きてほしい。

 新しい道を見つけて、その先で幸せを掴んでほしい。

 彼女の幸福のためなら、自分の存在が忘れ去られたって構わない。

 もちろん本音を言えば、自分が消えてしまってもマリステアにだけは覚えていてほしいけれど──ジェロディ・ヴィンツェンツィオという人間が存在した記憶が彼女を苦しめるのならば、そんなものはなくなってしまえばいい。


 ゆえに、自分も。


 知らず手套(しゅとう)()めた右手を握って、ジェロディは思った。


 自分もそろそろ、彼女を手放す覚悟を決めなければならない──


 これはその記念すべき第一歩だ。そう自分に言い聞かせ、笑う。


「──そっか。イークさんと無事に和解できたんだ。良かったよ、君たちのことは僕も気がかりだったから……いざとなれば今日の祭りを口実にして、どうにか和解できる状況に仕向けようと思ってたんだけど、余計な心配だったみたいだね」

「い……いえ、そんなことは……」

「僕もサラーレでイークさんと話してみて、あの人のことを誤解してたって気づいたよ。彼は君の言うとおりすごく不器用だけど、自分の役割をちゃんと分かってて、必要ならどれだけ非難されようが恥を晒そうがためらわずに信念を貫ける人だ。イークさんが救世軍に戻ってきてくれて、本当に良かったと思ってる」


 まっすぐ伸びる道の先を見据えてジェロディがそう言えば、隣でマリステアが小さく頷いたのが分かった。彼女が今どんな表情をしているのか、振り返って確かめたい気持ちはあるけれど、辛うじて自分を抑え込む。

 今はふたりで歩く一本の道。されどこの道はもうすぐ分かたれる。

 ならば今のうちから少しずつ、自分を戒めておかなければならない。いつか別々の道へと歩き出すとき、幸福へ向かう彼女の背中を振り返ってしまわぬように。


「マリー」

「は、はい」

「今日はお互い難しいことは忘れて祭りを楽しもう。だって今日は他でもない、希望の神(オール)の祝福を願う日なんだから」


 そう告げてようやくマリステアを(かえり)みた。

 互いの視線が絡み合い、常磐色(ときわいろ)の瞳がじわりと熱に滲むのを見る。

 されどマリステアも笑って「はい」と短く頷いた。

 今のジェロディにはその笑顔だけで充分だった。

 これ以上は望まない。望まないから──どうか、神様。


 いつか訪れる別れの日まで、一瞬でも長く彼女の傍にいられますように。


「行こう」


 行く手に群集する建物が見え始めていた。

 居住区に集いつつある人々の熱気も伝わってくる。

 その喧騒に急かされるように、ジェロディはマリステアへ手を差し伸べた。


 握り返してきた彼女の手の温もりを、細い指の頼りなさを、(てのひら)のやわらかさを、決して忘れまいと、誓う。


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