231.彼女の味方
こんなに深く眠ったのはいつぶりか、思い出すことができなかった。
それほど長い間、フィロメーナを探して国中を駆けずり回っていたのだったかと首を傾げてみるも、実際にはあれから一年も経っていない。
たった十四ヶ月。
されどイークにとっては、五年にも十年にも感じられた十四ヶ月だった。
いつ襲い来るとも知れない官軍を警戒し、浅い眠りを繰り返した日々がこれほど己の心身を蝕んでいたのかと、部屋の窓から覗く朝日を望みながら痛感する。
黄暦三三六年、光神の月、光神の日。
神界戦争の終わりに降った《嘆きの雨》。その雨が晴れたのち、最初に希望をもたらしたという光明神オールを讃えるにはぴったりの朝だった。
湖の向こうから昇る日は水平線を真白く燃やし、やがて湖上に伸びる光の道を描き出す。いっそ神々しいまでに漂白された天の端は、太陽が水面から生まれ出ずると鏡のごとくタリア湖の青を映し始めた。
コルノ城で初めて迎える朝は、存外悪くない。疲れ切っていたせいもあるだろうが、人が多いわりに夜は静かで、昨夜は身を横たえるなりあっという間に寝入ってしまった。自ら望んで兵舎の方へ行ったアルドは充分に休めただろうか。あてどなく各地をさまよった半年あまり、常に傍らで自分を支えてくれた青年のことを思いながら、イークは壁にかけた着替えへ手を伸ばした。
「──だーかーらー、なんであんたまで一緒に来るわけ? 紹介ならあとで改めてするから、ついてこないでって言ってるでしょ!」
「だってさー、イークさんってカミラにとってもうひとりのおにーさん的存在なんでしょ? だったらやっぱ挨拶は早めに済ませとかなきゃじゃん? こういうのって先延ばしにすればするほど印象悪くなっちゃうし? これでも一応、結婚を前提にお付き合いさせてもらってるわけだからさ……」
「付き合ってるって、誰と、誰が!?」
「そりゃもちろん、オレとカミラが?」
と、部屋の外からそんな会話が聞こえ始めたのはイークが着替えを終えて、部屋に備えつけの鏡を覗き込んでいたときのことだった。ひと部屋につき一枚鏡があるだけでも贅沢なのに、壁に掲げられたそれはやりすぎだろと呆れるくらいピカピカに磨かれている。窓から射し込む朝日が反射して、正直なところかなりまぶしい。
しかしおかげで、ここ数ヶ月まともに正視することのなかった自分の顔をまじまじと確認することができた。
髭はこまめに剃るようにしていたし、髪も伸びれば適当に切っていたものの、何もかも十四ヶ月前のまま……というわけには、やはりいかなかったようだ。
ひと晩ぐっすり眠って顔つきはいくらかマシになったとは言え、しばらくろくな食事を取っていなかったせいで、髪はすっかり色艶を失っていた。ただ鏡を見ているだけなのに眼光も異様に鋭く、頬もやや削げたままだ。長らく荒んだ生活の中に身を置いていたことがひと目で分かる、毛並みの悪い野良犬みたいな風貌。ささくれ立った自分の姿を再確認して、イークは内心ため息をついた。
これじゃカミラが余計な気を回すのも無理ないな、と思う。昨日、カミラは自分の隊の調練に出かけた以外は片時もイークの傍を離れず、今日も起床の鉦が鳴ったら部屋まで迎えに行くから待っていろと、しつこいくらい念を押された。
まあ、イークもまだこの城の見取り図がまったく頭に入っていないし、ひとりで出歩くよりはカミラが傍にいた方が何かと助かるだろうからそれはいい。
が、扉が叩かれたのを聞いて応対に出てみれば、迎えに来たカミラの隣に、いかにも軽薄そうな少年がくっついているのは一体どういう了見だろう。
「おっはよーございまーす! いやー、今日もいい天気ですねー! 本日はオヒガラも良く、みたいな? ここまで見事に晴れてると、もしかしてオレとおにーさんの出会いを天が祝福してくれてるのかなーなんて思っちゃったりなんかしちゃったりして? というわけでオレ、カミラの恋人のカイルでーす! 以後よろしくお願いしますからの妹さんをオレに下さい!」
「……………おい、カミラ。何なんだ、コレは」
「見てのとおり、世界で一番不愉快な目覚まし時計よ。最近エレツエル神領国で流行ってる時計だってラファレイが言ってたわ。朝になると枕もとでやかましくベルを鳴らして、人の安眠を妨害するはた迷惑な機械なんですって」
「へえ……神領国は人型の機械まで作れるのか。そいつは驚いたな」
「うん。というわけでコレの存在はとりあえず無視していいから。今から食堂に朝ごはん食べに行くけど、準備できてる?」
「ハイ! ハイ、ハイ、ハイ、ストーップ! 君たち、わりとマジでオレの存在を無視して話を進めるつもりだね!? だけどそうはいかないからね!? カミラ、ここまで来たんだから照れないでオレのことおにーさんに紹介してよー!」
「別に誰も照れてないし、その〝おにーさん〟って呼び方やめてくれる? ティノくんなら別にいいけど、あんたに言われるとなんか無性に腹立つのよね」
「またまたー、カミラってばそうやってすぐ照れ隠しするんだからー! ま、オレはカミラのそういう照れ屋さんなとこが好きなんだけど──ね?」
……俺は朝から何を見せられてるんだ? とイークがわりと真剣に考え込んだところで、カイルと名乗ったひょろい少年が、さも親密そうにカミラへ体を密着させた。訛りからして生粋のトラモント人──しかも恐らくは下町育ち──と思しい彼は、そうしてカミラの耳もとに顔を寄せるや悪戯っぽくフッと息を吐きかける。
途端にカミラの肩がびくりと跳ねた。今日のカミラは髪を団子状に結っているから両耳が綺麗に露出している。だからだろうか、彼女は常にない過敏さで耳を押さえるや、身をよじりながらもう一方の手でカイルを押しのけようとした。
「ちょっ……そっ……それはやめてってこないだ言ったでしょ! だいたいあんた、いちいち距離が近いのよ……!」
「あー! やっぱりオレの予感的中しちゃった? 前に目隠しドッキリしたときに気づいたんだけどさ、カミラ、ひょっとしなくても耳、弱いよね? ずっとそんな気がしてたから、隙あらばもう一回試してみようと思ってたんだよねー!」
「だっ、だからやめてって言って──んっ……! や、やだっ……くすぐったいんだってば! もうっ、イーク! お願い、こいつ何とかして!」
「分かった。とりあえず四肢をもげばいいのか?」
「コワッ!? おにーさん、そういうとこカミラにそっくりですね!?」
「少なくとも今ひとつだけ言えることは、俺はお前に兄呼ばわりされる筋合いは一葉たりともないってことだ」
ひとまず敵か味方かで言えばこいつは敵だな、と無慈悲な判決を下し、イークは七割ほど本気で腰の剣に手をかけた。
するとカイルも身の危険を感じたのか、猫みたいな機敏さでサッとカミラから離れるや、腹が立つほど気の抜けた顔でにへらっと笑ってみせる。
「なんだよー、兄妹揃ってつれないなあ。じゃあなんて呼べばいいわけ? 〝イークさん〟、〝イーク殿〟、〝イークさま〟……いや、やっぱ呼び捨てかな?」
「勝手に俺を兄貴呼ばわりしなければ何でもいい。というか、お前は結局誰の何なんだ?」
「名前ならさっき名乗ったじゃん? オレはソルレカランテ出身のカイル。近い将来カミラのお婿さんになる男でーす!」
「……だそうだが、そうなのか、カミラ?」
「た……タリアクリに誓って違います……!」
いつの間にやらイークを盾にする位置に隠れたカミラは涙目になりながら、両手でしっかりと左右の耳を防御していた。その耳に見慣れない金色の耳飾りが下がっているのが気になったが、ともかく目の前の少年とカミラの間には何か特別な関係が通っている……というわけではないらしい。
とすればこれはいわゆるアレだろう。イークもこの国に来てから何度か目撃し、辟易してきたトラモント人の性癖というやつ。
彼ら……特にトラモント黄皇国出身の男どもは、相手が女と見るや誰彼構わず口説き落とそうとする特殊な趣味を持っている。実際、宿屋『チッタ・エテルナ』の亭主がそうだったし、彼と共に戦った旧救世軍時代にも、カミラはしょっちゅう歳の近い男どもから言い寄られていた。
つまるところこいつもそうした手合いのひとりだろうと判断し、イークは浅いため息をつく。こういう輩は可能な限り遠ざけておかないと、あとでエリクがうるさいのだ。イーク、お前がついていながら、妹に変な虫を近づけるとは何事だ──と理不尽すぎる怒りと暴力を振るわれるのは、イークだって勘弁願いたい。
「とにかく……お前の名前と出身は覚えた。できれば朝から顔を会わせるのは絶対に避けたい人種だってこともな。俺はカミラの人付き合いについてとやかく言うつもりはないが、本物の兄貴からこいつのことを頼まれてる。もしも本気でこいつと付き合いたいと思ってるなら、俺とサシで勝負しろ。逆にその気も覚悟もないのに冗談で言ってるんだとしたら、寿命を縮めることになるだけだからやめておけ」
「えぇっ……寿命が縮まるって、なんで……!?」
「こいつに不用意に近づく男には死神が取り憑くからだよ。そいつに夜道で刺されたくなければ、軽々しい発言は慎むことだ」
「けどオレ、カミラのことはわりと本気だし。冗談で言ってるつもりはないよ? そもそもオレが救世軍に入ったのだって、カミラにひと目惚れしたからだもん」
「なら俺と勝負するか?」
「うーん……そうしたいのは山々だけど、当分はお預けかな。今のオレじゃあんたに勝てないことくらい分かるよ。伊達に親分にかわいがってもらってないからね」
「かわいがる?」
いきなり何の話だ、と首を傾げるイークを余所に、カイルはふっと意味深な笑みを浮かべた。けれど笑ったのは口もとだけで、やはりどこか猫っぽいライトグリーンの瞳はにこりともしていない。
イークはそこでようやくおや、と気がついた。ただ軽薄でうるさくておちゃらけているだけのやつかと思ったが──この少年、意外にも瞳の奥に獣を飼っている。
「ま、そういうわけなんで、今日のところは宣戦布告だけ。オレ、こう見えてカミラ隊の隊員だし? おにーさんもうかうかしてると、かわいい妹を誰かに取られちゃうかもよ?」
「……だから、その呼び方をやめろと言ってるだろ」
「おにーさんもオレの要望を聞いてくれるなら考えてもいいけど?」
「聞き入れるかどうかは別として、言いたいことがあるなら言ってみろ」
「別に難しいことじゃないよ。ただ──次、またカミラを泣かせたら、あんたのこと許さないから。そんだけ!」
そう言ってニッと笑うや否や「じゃあオレ、次はターシャちゃんを口説いてくるから!」と身を翻し、カイルは嵐のごとく立ち去った。
取り残されたイークはしばし無言で立ち尽くしたのち、あのふざけてるんだか本気なんだかよく分からない少年についての第一印象を改めておく。
「……なるほど。猫は猫でも山猫か」
「え? イーク、なんか言った?」
「いや……それで結局、今のやつは何だったんだよ?」
「さっきも言ったけど、何もかも見てのとおりよ。黄都で初めて会ったときからとにかくしつこいの! 根は悪いヤツじゃないんだけど……」
「だが向こうは本気らしいぞ?」
「……知ってる。だから余計にタチが悪いのよ」
未だイークの背に隠れたまま、ムスッとした様子でカミラが小さく吐き捨てた。そうして彼女がそっと触れた先には、先程イークの目に留まった耳飾りがある。
「お前がそんなものつけてるなんて珍しいな」と声をかけようとして、しかしイークは思い留まった。今まで散々〝朴念仁〟だの〝変なところで鈍感〟だのと言われてきた身ではあるが、ここで事情を察せないほどイークとてにぶくはない。
「……で? 朝飯を食いに行くんじゃなかったのか?」
「あ、そ、そうだった。昨日は部屋に食事を運んでもらったから、イーク、食堂の場所知らないでしょ? 普段はみんなあそこで食事を取るの。居住区の方にも小さな食堂や屋台があるから、お昼は向こうで食べることも多いけど」
「へえ……なら、スミッツの工房は?」
「工房?」
「ああ。昨日、あいつに剣を預ける約束をしてな。研ぎを頼むことにしたんだ。近頃得物の斬れ味がにぶって、戦闘に支障が出てたからな」
「そういうことなら食事のあとに案内するけど、珍しいわね。イーク、剣の手入れはいつも自分でしてたでしょ?」
「そうなんだが、放浪中はまともな砥石ひとつ手に入れるのもひと苦労でな。有り合わせのもので手入れしてるうちに、刃の均衡が狂っちまった。戦闘に次ぐ戦闘で中茎もガタつき始めてるし……」
「……」
「……何だよ?」
「いや、なんか……ごめん」
「は?」
「わ、私がこの城でのびのび過ごしてる間に、イークはそんな大変な思いをしてたんだなって思ったら、なんていうか、ちょっと……」
両手を後ろでゆるく組みながら、カミラはまごまごしてそう言うと、最終的にうつむいてしまった。剣の具合ばかり気にしていたイークはそれを見てしばし静止し、やがて本日何度目かのため息をつく。
……まったくこいつは、朝から何度人にため息をつかせれば気が済むんだか。
しかし自分はここへ来るまで、ため息をつく心の余裕すら失っていた気がする。
だから妙になつかしく感じてしまうのだろうか。カミラの言動にいちいち呆れ、叱ったり窘めたりするこんな日常を。
「俺は逆に安心したけどな」
「え?」
「ここには充分な食糧も、まともな衣服も寝床もある。お前まで俺たちみたいな思いをしてなくて、良かったよ」
「イーク──」
「午には光歌祭が始まるんだろ? ならさっさと案内してくれ。騒がしくなる前にひと通り島を見ておきたいからな」
「……うん!」
柄にもないことを言ってしまった。そんなばつの悪さはあったものの、頷いて嬉しそうに笑ったカミラの顔を見ていたら、わりとどうでもよくなった。
ふたりは連れ立って部屋を出て、一階にあるという食堂を目指す。ここ、コルノ城本棟はどうやら救世軍幹部の居住地のようだ。一階の空間のほとんどは風呂や食堂や倉庫といったものに割かれているが、二階から上にはずらりと個室が並んでいる。そのひとつひとつが幹部たちに割り振られていて、総帥であるジェロディや救世軍の同盟相手であるライリーの部屋は三階にあるらしい。
イークはたまたま空室だった二階東側の部屋をあてがわれ、これからはそこで起居するようにとトリエステから指示があった。西側にあるカミラの部屋とは正反対の位置らしいが、そもそもイークは両隣が誰の部屋なのかも分からない。
ましてやカミラの部屋の場所なんてサッパリだ。新救世軍の一員となるために、まずはこの広大な城の構造を覚えるところから始めなければならないのかと思うと、さすがのイークも気が滅入った。旧救世軍のアジトだったロカンダの地下遺跡もなかなかに複雑だったものの、コルノ島の規模はあの遺跡とは比較にならない。
「あ、マリーさん……!」
ところが城内にふたつある階段のうち、イークの部屋から近い方の階段を目指して歩いていると、不意にカミラが声を上げた。
見ればちょうど下の階から女がひとり上がってきたところで、彼女の顔を見るなりイークは「げ」と声を漏らしそうになる。突如視界に現れたのは他でもない、マリステアとかいうジェロディの世話役だった。人の顔と名前をまったく覚えないことに定評のあるイークも、彼女の名前くらいはさすがに覚えている。
何しろマリステアはジェロディがロカンダに現れた頃から彼の傍にいたし、イークがジェロディをぞんざいに扱うたびにいちいち文句をつけてきた。つい一昨日、イークが初めて島へ上陸した際にも派手な口論をしたばかりだ。
はっきり言ってこの女とはまったく反りが合いそうにない。何しろ彼女の口から出る意見は一から十までジェロディのためのもので、過保護という言葉の範疇を超えている。聞けばマリステアはヴィンツェンツィオ家の養女だというから、義理の弟であるジェロディを庇いたがる心理は理解できるものの、それにしたところで彼女の言動は度を過ぎているように感じた。きっと彼女の世界はジェロディを中心に回っていて、その世界の外側のことなんてほとんど目に入っていないのだろう。
そういう女はどうも苦手だ。いや、そもそも女という生き物自体むかしから苦手と感じているが、特にマリステアのようなタイプは依存心が強くて視野狭窄で、分かり合える気がしない。過去に一度、イークは故郷で似た性格の女につきまとわれたことがあって、独占欲に支配された彼女はしまいにはカミラを……と思い出しかけ、やめた。あの一件を朝一番に回想したりしたら、イークは今日という日を丸々最悪な気分で過ごさなければならなくなるから。
「あ……カミラさん、おはようございます。今からお食事ですか?」
「はい。そう言うマリーさんは? 朝ごはん、もう済ませちゃいました?」
「ええ。今日はこれからお祭り用の料理の支度に行くものですから」
「あー、すみません。ほんとはそれ、私も手伝いに行く予定だったんですけど、午前中はイークの案内をするようにってトリエステさんから頼まれちゃって……」
と、気まずそうに頭を掻いたカミラの言葉に誘われ、マリステアの瞳がこちらを向いた。途端に視線が搗ち合って、イークはびくりと肩が震えそうになるのをどうにかこらえる。じっとこちらを見据えるマリステアは無表情で、イークに対してどのような感情を抱いているのかまるで読めなかった。とは言え一度はジェロディと対立したイークを快くは思っていないだろうし、そのイークがおめおめと島へ戻ってきたことについても怒りや嘲りを覚えているのかもしれない。
そうした感情が最後に行き着いた先があの無表情だとしたら、彼女とはますます歩み寄れそうにないな……と視線を泳がせていると、俄然、脇腹ににぶい衝撃が走った。あまりにも突然のことだったので「うっ」と呻きながら目をやれば、半眼になったカミラがこちらを睨んでいる。どうやら今の衝撃は彼女の左肘によってもたらされたものらしい。そこそこいいダメージを受けた。
(おいおい……ここでこいつと和解しろってことか?)
と目だけで尋ねれば「当たり前でしょ」と言わんばかりにカミラの眼光が鋭さを増す。これで無視を決め込んだら、次は神術が飛んできそうだ。
……まあ、とは言え新救世軍に合流することを決めた以上、いつまでもこの問題から目を背けているわけにもいかなかった。たとえどんなに苦手な相手であろうとも、今後は共に戦う仲間としてどこかで折り合いをつけなければならないはずだ。
実際ジェロディとの関係についても、そうやって落としどころを見つけた。ならばマリステアとも正面から話をすればきっと分かり合えるはず──などという友情論を振りかざす柄ではないが、女々しく逃げ回っていたところで仕方がない。
イークは腹を決めて、小さく息をついた。肩にかかる母の形見を払い、軽く精神を統一してから〝言葉を選びながら喋る〟という世界で一番の苦行に挑む。
「あー……マリステア、とか言ったか。この間は、その……怒鳴りつけて、悪かったな。ロカンダでもそうだったが……どうも俺は、ジェロディやあんたのことを色々と誤解してたらしい。昨日ジェロディと話をして、ようやくそれが分かった」
「……」
「あ、あんたが俺のことを良く思ってないのは知ってるが……まあ、何だ……今まで俺がジェロディに浴びせた罵声は全部撤回する。許してくれとは言わない……が、とりあえず、今後は救世軍の仲間として……よ、よろしく頼む」
イークが必死に謝罪の言葉を紡いでいる間も、マリステアは精巧な彫像のごとく無言と無表情を貫いた。……この反応はもしかして怒ってるのか? というか既に修復不可能なほどの恨みを買ってしまったのか? などと喋りながら考えているうちに、だらだらと変な汗が噴き出してくる。
だから無理だと言ったんだと、イークの中にはだんだんカミラに八つ当たりしたい衝動まで芽生え始めた。ところがその衝動を辛うじて抑え込んでいると、ときにマリステアの唇から、ふう、と珠のようなため息が転がり落ちる。
「──いいですよ。わたしももう先日のことは気にしていません」
「え?」
「確かにあなたの言動には腹が立ちましたし、今も許せない気持ちはありますけど。でもティノさまがあなたを仲間として迎える決断をされたのですから、わたしも心を入れ替えます。何よりこれ以上カミラさんを困らせたくありませんし」
「ま、マリーさん……」
「今日までのことはお互い水に流して、またいちから関係を始めましょう。それでいいですよね?」
「あっ? あ、ああ……そ……そうしてもらえると有り難い。俺はこのとおり、口が悪いから……また何か失言をしたら、遠慮なく諫めてくれ」
イークが目を泳がせながらそう答えれば、マリステアが初めて表情を綻ばせた。そうして「ふふっ……」と小さく笑い、つられてカミラまで笑い出す。何が可笑しいんだと問い詰めたら、カミラには「別に~?」と笑ってはぐらかされた。マリステアも口もとを隠しながらくすくすと笑い続けていて──なんだ、笑うとずいぶんやわらかい印象の女じゃないかと、イークは微かな驚きと共にそう思う。
「ですがカミラさん。わたし、カミラさんにも謝らなければいけないことが……」
「え? 私にですか?」
「はい。一昨日、光神聖堂で……わたし、カミラさんにとても失礼な態度を取ってしまいました。せっかく心配して下さったのに、きちんとお礼も言わないで……あのときは慌てて逃げてしまってすみません」
「ああ、そっか、ありましたっけ、そんなことも」
と、やがてふたりはイークには分からない会話を始め、申し訳なさそうな素振りをするマリステアを前に、カミラは苦笑して頬を掻いた。
一昨日というと、ちょうどイークが初めてコルノ島の土を踏んだ日のことだから、あれより前にふたりの間には何かしらの行き違いがあったらしい。
「いいですよ、全然気にしてませんし。ていうか私の間が悪すぎましたよね。マリーさんが聖堂を出ていったあと、ロクサーナにこってり絞られました。そういうところまでお父さんに似たのかって」
「そ、そんな……あ、あれは完全に不可抗力でしたし、わたしも聖堂に伺うタイミングが悪かったんです。カミラさんのせいじゃありませんよ」
「ありがとうございます。でも、マリーさん」
「は、はい?」
「もしも何か困ってることや悩みごとがあるなら、遠慮しないでいつでも言って下さいね。だって私たち、友達じゃないですか。私で力になれることなら喜んで力になりますよ──なんて、本音を言えば単にマリーさんのことが心配だから、私も力になりたいってだけなんですけどね」
「カミラさん……」
「あ、もちろん、誰にも話したくないことなら無理に聞き出したりはしません。でもここにはケリーさんやトリエステさんや、メイベルだっているし……とにかく、どんな些細なことでもそうでないことも、ひとりで抱え込まないようにして下さいね。私たち、みんなマリーさんの味方ですから!」
そう言ってカミラが握り拳を作ってみせれば、途端にじわ、とマリステアの瞳の輪郭が滲んだ。されど彼女はすぐにそれを拭って「はい」と頷いてみせる。
何の話かはさっぱり分からないものの、イークは目の前で交わされるふたりのやりとりをいささか意外な思いで眺めた。どうやらカミラとマリステアは、自分が救世軍を離れている間にすっかり親密な関係を築いていたらしい。
まあ、ふたりは同性だし歳も近いし、話してみたら存外気が合ったと言われても不思議はなかった。カミラとマリステアの性格はどちらかと言うと正反対に思えるのだが、だからこそ噛み合うものがあったのかもしれない。実際自分とエリクも性格は真逆ながら、互いに親友だと自負しているし。
「ありがとうございます、カミラさん。今はまだわたしも気持ちの整理がついていなくて、上手くお話できませんけど……いずれ話したいと思えるときが来たら、そのときは聞いていただけますか?」
「もちろんですよ! マリーさんさえイヤじゃなければ、またメイベルやラフィとお泊まり会しながら話しましょ。ね!」
「はい。では、わたしはティノさまに朝の香茶をお届けしないといけないのでこの辺で──イークさん」
「……あ? な、何だ?」
「余計なお世話かもしれませんけど、カミラさんのこと、もう二度と悲しませないで下さいね。次に彼女を泣かせたら、わたし、今度こそあなたを軽蔑しますから」
最後ににっこり微笑みながら言い置いて、マリステアは踵を返した。濃紺のエプロンドレスの裾が舞い、彼女は軽やかな足取りで三階への階段を上っていく。
……果たして今のは、にこやかな笑みを湛えながら紡がれるべき台詞だっただろうか。イークは青い顔をしながら上階へ消えゆくマリステアの背中を見送った。
やはりああいう女は苦手だ。世の女がみんなカミラみたいに単純で考えなしで分かりやすい性格ならば、こちらの気苦労も減るというのに。
「……というか、カミラ。お前、新救世軍じゃどういう立ち位置にいるんだ?」
「え? 最近新しくできた騎馬隊の隊長だけど……なんで?」
気になったことをたまらずその場で尋ねると、至極不思議そうな顔で聞き返された。それを見たらまた「なんでも何も……」と小言を垂れたくなったが、本人に自覚がないようなのでやめておく。
……まったくちょっと目を離した隙に、本当に変わったものだ。
新生救世軍。
どうやらここでは、誰もがカミラの味方らしい。




