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【side:A】エマニュエル・サーガ―黄昏の国と救世軍―  作者: 長谷川
第7章 その苦しみを愛と呼ぼう
232/350

230.大好き


 カミラが息せき切らせて船着き場へ駆けつけたとき、そこには既に舟を降りたジェロディたちの姿があった。

 彼らが向き合って話をしているのは、トリエステだ。カミラよりも先にジェロディたちの帰島を聞きつけて、彼女も出迎えに来たらしい。

 そのトリエステが視線を向ける先で、見慣れた青い羽根飾りが揺れているのを目に留めて、カミラは性懲りもなく泣いてしまいそうだった。

 トリエステと言葉を交わすイークは平静で、昨日のように取り乱したり怒気をあらわにしている気配はない。


「──ではあなたも今後、新救世軍に合流していただけるということでよろしいのですね? 加えてオディオ地方に待機させている五百名の同志も島へ呼び寄せたいと?」

「ああ……オディオ地方にいる仲間の待遇さえ保証してもらえるなら、これ以上ゴネるつもりはない。今後は何なりと、あんたらの命令に従うよ」

「感謝します、イーク。あなたが再び救世軍で戦って下さるとなれば、兵たちもますます意気軒昂(いきけんこう)するでしょう。あなたさえ良ければ、新救世軍でも引き続き副帥として皆を率いていただく用意があるのですが……」

「よしてくれ。俺は新救世軍(ここ)じゃ新参だ。そんなやつがいきなり副帥を名乗ったところで、すんなり納得するやつの方が今は少ないだろう。第一自分がそういう器じゃないことは、フィロが生きてた頃に痛感した。今後は一兵卒として使ってもらえればそれでいい」

「しかし官軍によるロカンダ襲撃以降、旧救世軍の同志を守り導いて下さったあなたの功績には、何かしらの形で報いねばなりません。よって新救世軍でのあなたの肩書きについては追って沙汰を……」

「あ、カミラだ」


 小舟が係留された桟橋へ近づくにつれて、ふたりの会話がはっきりと聞こえてくる。ところがある程度まで近づくと、ジェロディがカミラの到着に気づいて声を上げた。彼の視線に導かれるように皆がこちらを振り向いてくる。おかげでイークと目が合って、心臓がドキリと音を立てた。


「ティ、ティノくん……それに、イークとアルドも……も……戻ってきて、くれたの……?」


 しかしこうして彼らを目の前にしても、イークがまたコルノ島へ戻ってきたことが信じられない。ゆえにカミラは皆の傍へ駆け寄るなり、息が整うのも待たずに声を絞り出した。イークはそんなカミラを見るや、ちょっとばつが悪そうな顔をして横を向く。彼の隣に佇むアルドも困ったように頭を掻きながら、へらりと覇気のない笑みを浮かべた。


「やあ、カミラさん、昨日はすみません。えっと、結局戻ってきちゃいました」

「で、でも、ふたりとも、なんで……」

「……お前らのリーダーとの決闘に負けたからだよ。俺が負けたら新救世軍に入る、そういう条件でな」

「え……!? イークが負けた……!?」


 予想もしていなかった答えに面食らって、カミラは思わずイークとジェロディとを見比べてしまった。イークの方は相変わらずツンとしているものの、ジェロディはうっすら苦笑して「そういうことだから……」と言葉を引き継ぐ。


「今日からはイークさんも僕らと一緒に戦ってくれるってさ。イークさんがオディオ地方で待たせてる兵たちも、数日中に呼び寄せる。彼らをどの隊に組み込むかは、追々考えていかなきゃいけないけど……そういうことでいいんですよね、イークさん?」

「俺に()くな。新救世軍の総帥はお前なんだからな」


 腕を組んだままぶっきらぼうに、イークはジェロディを突き放した。されどカミラはたったいま聞いた言葉の数々が信じられなくて、茫然と立ち尽くしてしまう。

 イークが負けた? 決闘で、ジェロディに?

 確かにジェロディはこの半年あまりの間にずいぶん強くなったと思う。

 でも、まさかイークが一対一の勝負で負けるだなんて。

 それだけじゃない。カミラの耳が願望のあまりおかしくなってしまったわけでないのなら、今日からはイークもここで戦うとジェロディがそう言ってくれた。


 本当に?


 イークもアルドも、あの日ロカンダで生き別れた仲間がみんな、救世軍に戻ってくる……?


「……ねえ、これって……もしかして壮大なドッキリなんじゃ……」

「なんでだよ。んなもん仕掛けて得するやつなんざどこにもいねえだろ」

「で、でも、だって……またみんなで一緒に戦えるなんて、そんなの──」


 ──そんなの、夢みたいじゃない。


 そう続けたかったのに言葉にならなくて、カミラは両手で顔を覆った。

 ああ、泣くな、泣いちゃダメだと思うのに喉が震える。唇がわななく。こんな日がまた訪れるなんて、本当に夢物語だと思っていた。ずっと心の底で願ってはいたけれど、きっともう二度と叶うことはないのだと、どこかでそう諦めていたのだ。

 だけど今、ここにある光景は夢じゃない。幻でもない。


 本当に、イークが帰ってきてくれた。


「あーあ。イーク、お前またカミラを泣かせたな。エリクの野郎に殺されるぞ」

「い、今のは俺のせいじゃないだろ……! ただ普通に話してたら、あいつが勝手に……!」

「イークさんが心配ばっかりかけるからですよ。フィロメーナ様のときもそうでしたけど、もうちょっと乙女心ってやつを分かってあげないと」

「アルド! お前も早速寝返るな!」


 (とげ)のあるイークの怒声が飛び、皆がどっと哄笑した。

 賑やかな笑い声はさらにカミラの胸を揺さぶって、泣き止ませてくれない。

 以前出会った魔族どもには(テヒナ)の呪いがどうとか不吉なことを言われたし、生命神(ハイム)がいつかジェロディの体を乗っ取ってしまうのも嫌だけど。

 だけど今だけは言わせてほしい。


 ──ありがとう、神様……。


 これでまた一つ、カミラが救世軍(ここ)で戦う理由ができた。


「では私は、城へ戻って皆にこのことを伝えてきます。レナード、あなたにはライリー殿への先触れを頼めますか?」

「おう、任せとけ。ウチの大将もきっと()()するだろうよ」

「その〝歓迎〟が言葉どおりの意味だといいんだけど……」

「アルド、お前も来い。ロカンダ時代の仲間に会わせてやるよ」

「はい、お願いします!」


 トリエステが桟橋から(きびす)を返したのを皮切りに、皆が一斉に歩き始めた。まずトリエステがレナードを伴って城を目指し、アルドを連れたウォルドが続く。

 皆、立ち尽くすカミラのすぐ横を通りすぎ──最後にジェロディが小さく笑って、すれちがいざま、ぽん、とカミラの肩を叩いた。

 残されたのはカミラとイークのふたりだけだ。未だ顔を上げられずにいるカミラの鼓膜を、遠ざかっていく仲間の話し声と、岸辺を濡らす細波(さざなみ)の音が震わせる。


「……おい。いつまで泣いてるんだ」

「……ごめんなさい……」

「い、いや……今のは別に、責めたかったわけじゃなくてだな……」

「分かってるわよ。イークが人一倍ぶきっちょで、口も態度も目つきも最悪なのが標準(ふつう)だってことくらい……」

「おい」

「……でも、もう二度と……こんな風に、口きいてもらえないと思った……」


 いつまでもめそめそしてるなんて私らしくない。そう思うのに一向に引っ込む気配のない涙を拭いながら、カミラは小さく(はな)をすすった。それを見たイークがため息をつきながら、肩にかかった羽根飾り(カラリワリ)を軽く払う。──ああ、変わらないんだな。困ったときや気まずいとき、ああやって母親(テナミア)の形見に触れるのは……。


「……悪かった。昨日は俺も、頭に血が上って……何のために(ここ)へ来たのかも忘れて、感情的になっちまった。お前らを責めたところでどうしようもないことくらい……分かってたのにな」


 やがて返ってきたのは、至極決まりの悪そうな返事。されどイークは救世軍旗たなびくコルノ城の方角を見据えたまま、どこか遠い目をしていた。

 今の彼は、あの旗の向こうに何を見ているのだろう。

 新しく生まれ変わった救世軍? はたまたフィロメーナと共に生きた日々?

 ここではフィロメーナの存在が、少しずつ過去のものになっていく。

 つい昨日まで彼女の無事を信じてやまなかったイークにとって、それはきっと身を切られるよりもつらい現実だ。ギディオンはこれ以上自分を責めるなと言ってくれた。けれどやっぱり、カミラは……。


「あ……あの……あのね、イーク。私──」

「──案内してくれ」

「えっ?」

「あの旗のところへ行きたい。旗が立ってるってことは、登れるんだろ?」

「え、あ、えーと、確かに登れるけど……なんで?」

「あそこからなら島が見渡せそうだ。第一、ここで立ち話は目立つ。さっきから妙な視線も感じるしな……」


 視線を感じるって、どこから? と疑問に思い、ぐるりとあたりを見渡せば、ときにカミラの視界の端で何かが動いた。はっとしてそちらへ目をやれば、そこにはやたらと黒くて大きな船があり、その上でバタバタと海賊旗が暴れている。

 言うまでもなく、カルロッタが乗るクストーデ・デル・ヴォロ号だった。しかし動いて見えたのは夜魔神ヤレアフの象徴たる《墜角の牡牛(ヴィック)》を描いた旗ではない。


 カミラがじーっと目を凝らせば、やがて恐る恐る船縁から顔を出しかけ、されどすぐに引っ込んだ人影があった。他と見間違えるはずもない薄紫色の髪は、恐らく──いや、絶対にメイベルだ。傍らにはカイルやカルロッタまでいるらしく、「見つかった!?」とか「いやいや、ギリギリセーフじゃない……!?」とか甲板で騒いでいるのが聞こえる。……全然セーフじゃないんですけど。


「はあ……分かった。案内するから、ついてきて」


 自分たちが好奇の対象として観察されていることを理解したカミラは、イークの要望を聞き入れ歩き出した。クストーデ・デル・ヴォロ号のすぐ下を通り抜けるとき、頭上から「ああっ、行っちゃう……!」と焦り気味の声が聞こえた気がするけれど、聞かなかったことにする。


 明日は光歌祭(こうかさい)ということもあって、コルノ城周辺は今日も大いに賑わっていた。兵舎が整備されるまでのあいだ湖賊たちが(たむろ)していた天幕街は縮小されて、ずいぶん落ち着いたはずなのだが、あの頃の雑然とした活気がまた城の周りに戻ってきている。


 その只中を通り過ぎ、コルノ城本棟の入り口をくぐって階段を上がった。途中、すれちがう仲間からは揃って好奇の眼差しを注がれたものの、今はとにかく屋上を目指す。冬が近づき、ようやく階段の天辺に取りつけられた木製の扉を開けば、途端にびゅうと一際強い風が吹いた。髪を煽る木枯らしの冷たさに束の間怯み、次いで屋上を見渡すも、あたりに人影はない。


「ここよ」


 階段の真上を覆う塔屋(とうや)と、そこに佇む救世軍旗以外には何もない巨大な石の角枡(マス)。そうとしか形容のしようがない開放的な空間に、カミラはイークを導いた。

 本当に何もない場所ではあるが、見晴らしがいいのでカミラは存外ここを気に入っている。この時期はさすがにちょっと寒いものの、昼間に来ればどこまでも続く青の世界を堪能でき、夜に来れば星が近いのがお気に入りだった。


「いい眺めでしょ?」


 されど今日はタリア湖に面した東側ではなく、西側から島を俯瞰(ふかん)する。コルノ城の屋上からは、麓にわずか残った天幕街から、島の中心部に栄えつつある居住区まで見渡せた。南へ移動すれば大小の小舟が並ぶ船溜(ふなだ)まりだって一望できるし、北には馬たちが放された牧場(まきば)と、麦穂が生み出す金色の海がある。

 十四ヶ月前のあの日から少しずつ人が集まり、創り出した小さな国。それをイークと並んで眺め渡すと、今までとは違った感慨がカミラの胸をいっぱいにした。

 たぶん自分はこの景色を、ずっとイークに見せたかったのだと思う。

 そして叶うことならば、今は亡きフィロメーナにも。


「……ずいぶん人が集まってるとは聞いてたが、こいつは予想以上だな。少し前までロカンダで()()()をやってたのが嘘みたいだ」

「うん」

「今、島には八千人近い人間が暮らしてるんだって?」

「そうよ。これ以上は人を増やせないから、今後はちょっとずつオディオ地方に移住させていくって話だけど。島の人口の半分は兵士。志願兵はまだまだいるんだけど、島の整備が追いついてないから、受け入れが難しくって……」

「だが島にある兵力だけでも、とっくに旧救世軍の規模を超えてる。……でかくなったもんだな、ちょっと目を離した隙に」

「イーク、」

「救世軍だけじゃない。お前も、ジェロディもだ」


 吹きつける風に目を細めながら、じっと島の景観を眺めるイークの横顔を、カミラは意外な思いで凝視した。次いで自分の体を見下ろし、ぱっ、ぱっ、ぱっ、と、肩から膝のあたりまで順に両手で叩いてみる。


「えっと……私、そんなに背伸びた?」

「そういう意味じゃない。俺は今、人間としての器の話をしてるんだ」

「や、そ、それは何となく察せましたけど……だけどイークがティノくんや私を褒めるなんて、どういう風の吹き回し? もしかして明日、世界が滅ぶの?」

「お前は俺を引き留めたいのか怒らせたいのか、どっちなんだ?」

「うっ……だ、だって私のことはともかく、イークがティノくんのことをそんな風に言ってくれるなんて、夢にも思わなかったから……」


 明らかにイラッとした様子のイークから剣呑(けんのん)な視線を向けられて、カミラは目を泳がせた。しかし幼い頃から彼を知るカミラに言わせれば、イークの口から他人を褒める言葉が出るというだけでも珍しいのに、その相手がジェロディだなんて天地(てんち)開闢(かいびゃく)以来の大変事だ。


 彼らがサラーレでどんなやりとりをしたのかは知らない。けれどさっきのやりとりを見た限りでは、少なくともイークはまだジェロディを邪険に思っている様子だった。ただでさえ初対面のときからジェロディを毛嫌いしていたのに、さらに決闘で敗れたとあっては、ふたりの関係は断裂の危機に直面していたとしてもおかしくはない。


 だのにこうしてふたりきりで話してみると、イークは意外にもジェロディのことを認めつつある様子だった。一体何がどうしてそうなったのか、サラーレでの経緯を知らないカミラは、驚きと困惑でどう反応して良いやら分からない。


「正直、あいつがフィロの次の総帥ってのにはまだ納得がいってないけどな。お前らがあいつをリーダーに望んだ理由は何となく分かった。今のあいつは周りに流されるがまま内乱に首を突っ込んで、ふらふら迷ってた頃のあいつとは違う。サシで話してみてそう思った。……まさかあいつの口から〝黄皇国を打倒して、フィロが願った新国家を樹立する〟なんて言葉が聞けるとはな」

「イーク……」

「俺はロカンダにいた頃の、あいつの煮え切らない態度が気に食わなかった。だが今回剣を交えてみて、今のあいつの覚悟が本物だってことも理解できた。だから賭けてみてもいいと思ったんだよ。フィロがあいつの中に遺した(こころざし)ってやつにな」

「……うん。ティノくんは私たちにも約束してくれた。ジャンカルロさんやフィロが見た夢を自分たちの手で守るんだって。そう言って今日まで私たちを導いてくれたの。救世軍がここまで大きくなれたのは、間違いなくティノくんのおかげよ」

「……そうか」


 殊更(ことさら)真面目くさった顔をするでもなく、不服そうにするでもなく、イークはただ頷いた。たったそれだけのことが何故だか無性に嬉しくて、カミラはまた目頭が熱くなる。本当にイークがこの島へ来てからというもの、自分の涙腺はどうしてしまったのだろう。そう思いながら滲みかけた涙を拭った。そんなカミラを一瞥(いちべつ)して、イークが言う。


「……で、お前は」

「え?」

「お前は大丈夫なのか」

「だ……大丈夫って、何が?」

「ウォルドから聞いた。フィロの(ひつぎ)を焼いたのはお前だと」


 刹那、イークの言葉がにわかに鋭利な質量を帯びて、ぐさりと胸に突き立った。完全な不意討ちにほんの一瞬呼吸が止まり、視界が暗転しそうになる。


「そ……それ、は……確かに、そうなんだけど……」

「けど、何だ?」

「あ……あれは、私が自分で決めたことだから……他の誰も悪くない。ただ、フィロの最期の願いを、ちゃんと、叶えてあげたくて……」


 ──だから、燃やした。真白い花に包まれて眠っていたフィロメーナを。


 あのときの選択を、カミラは後悔していない。他でもないフィロメーナの望みだったから、持てるだけの神力(ちから)と誠意で彼女に応えた──つもりだった。

 けれどフィロメーナに永遠の別れを告げた朝の情景は、未だ(まぶた)に焼きついている。真っ赤に噴き上げた炎。瞬く間に燃えた棺。

 花びらと共に降り注ぐ、()()()()()()()()()()()

 今も時折夢に見る灰の雨。思い出すたび、あの朝はカミラの胸を焼く。


 ねえ、フィロ。


 本当は、さよならなんて言いたくなかった……。


「……ごめんなさい」

「は? なんで謝る?」

「だって、私……イークとの約束、守れなかった。ロカンダを離れる前に、フィロのことは何があっても守ってみせる、なんて大口叩いたのに……あげくの果てには、勝手に棺まで燃やして……今までずっと、みんなに嘘ついて……」

「おい、カミラ」

「ギディオンたちは、仕方のないことだったって言ってくれたけど……やっぱり私は、自分で自分が許せない。あの日からずっと、なんで生き残ったのが私で、死んだのがフィロなんだろうって……どうせなら、何もかも逆だったら良かったのにって──」

「──カミラ!」


 そのとき、自らの体をきつく抱いていた腕を、思いがけない力で引っ張られた。おかげでぐらりと体勢を崩し、気づいたときにはイークの腕の中に収まっている。

 頭の中も胸の中もからっぽで、カミラは数瞬、自分の身に何が起きたのか理解できなかった。ただ、カミラの心に開いた大きな(うろ)を埋めるかのように、耳もとでイークの鼓動が響く。


「……今の言葉、二度と口にするな。さもないと俺は、今度こそ救世軍を抜けるからな」

「……イーク、」

「お前が代わりに死ねば良かったなんて……フィロが聞いたらどんな顔するか、考えろ。俺はお前にそんな台詞を吐かせたくて救世軍に入れたわけじゃない」

「イーク、私──」

「──傍にいてやれなくて、悪かった」


 額を胸もとに押しつけられたまま、カミラはイークの微かな声の震えを聞いた。色を失っていた空虚な世界が、途端にぶわっと色彩を取り戻す。

 透き通るように青い空。木枯らしと共に舞う落ち葉の色の鮮やかさ。どんな日にも地上を包み込んでくれる太陽の光と、誇らしげに(ひるがえ)る救世軍旗の白と青……。

 それらがあまりにもまぶしくて、カミラは泣いた。あんなにめそめそするなと自分を叱ったはずなのに、声を上げて泣いてしまった。

 だってフィロメーナを失くした今も、世界は変わることなく回っている。

 夜が来て、朝が来て、鳥が飛び、風が吹く。そうして流れゆくときの中、自分だけがずっと取り残されているような気がしていた。


 けれど今日からはもう、ひとりじゃない。


 同じ痛みを心の底から分かち合ってくれる、イークがいる。


「イーク……ごめんなさい」

「ああ。だがもう謝るな。誰もお前を恨んじゃいないし、責めてもいない」

「うん……」

「……今のお前をエリクが見たら、なんて言うだろうな」

「たぶん……無言でイークに殴りかかると思う」

「それは、まあ……覚悟の上だ。お前を救世軍に入れた時点でな……」


 頭の上からげんなりしたイークの声が降ってきて、カミラは泣きながら笑ってしまった。同時に故郷でエリクとイーク、ふたりの兄に囲まれて過ごした日々がなつかしく思い出される。あれからずいぶんときが流れた。自分もイークも、あの頃へ戻るのはもう不可能なのかもしれない。でも。


「イーク」

「何だ?」

ありがとう(ネ・ムナイ・クァン)


 その一瞬、イークの心臓がドッと不自然な音を立てたのを、胸板越しにカミラは聞いた。されど彼の心音はすぐに平静を取り戻し、ややあってばつの悪そうな答えが返る。


「……こっちこそ(ネ・タント)


 相変わらずぶっきらぼうで愛想のかけらもない返事だったけれど、カミラにはそれだけで充分だった。もしかしたら子供の頃以来かもしれないイークの体温を享受(きょうじゅ)したのち、小さく笑って体を離す。


「あのね、イーク。これからは今みたいに、かわいいかわいい妹分のカミラちゃんをどんどん甘やかしてくれていいのよ? そしたらお兄ちゃんも情状酌量じょうじょうしゃくりょうして、半殺しで許してくれるだろうし」

「調子に乗るな。お前は甘やかすとそうやってすぐ付け上がるから、厳しすぎるくらいがちょうどいいんだよ」

「えー。せっかく感動の再会に託つけてイークを改心させられると思ったのにー」

「改心するのはお前の方だ。だが……そうだ、カミラ。お前、ちょっと後ろ向け」

「え? なんで?」

「いいから。渡したいものがあるんだよ」


 言うが早いか、イークは半ば強引にカミラの肩を押し、ぐるりと真後ろを向かせた。後ろを向かせて〝渡したいもの〟とは何だろう? とカミラが首を傾げていると、臙脂色(えんじいろ)のケープの胸もとにとん、と軽い衝撃がある。

 驚いて見下ろせば、そこにあったのは雫の形をした空色の宝石だった。まるで澄んだ泉の水を結晶化したようなその石は、清湍石(せいたんせき)だ。極めて清らかな川の流れの底でしか採れないと言われる稀少な宝石。しかしカミラは突如首にかけられた繊細な銀の鎖と、この奇跡のような空色の煌めきに見覚えがある。


「え……!? ちょ、ちょっと待って、イーク、これって……!」

「ああ……フィロの形見だ。さっきウォルドから渡された。あの野郎、ロカンダを離れる前に、フィロの棺からちゃっかり取ってきたんだとよ」

「そ、それ、私も初耳なんですけど……!?」

「なら、あとであいつに蹴りを入れてこい。死人から物を盗むなってな」


 不機嫌そうに言いながら、しかしカチリと、首の後ろでイークが鎖の金具をしっかり噛み合わせたのが分かった。カミラは自分の胸もとに下がったフィロメーナの思い出を茫然と眺めたのち、困惑してイークを顧みる。


「で、でも……〝渡したいもの〟って、もしかしなくてもこれのことよね? 私がもらってもいいの? このペンダント、イークがフィロに贈ったものでしょ?」

「ああ……だが、買ったのは俺じゃないしな」

「え?」

「い、いや……いくらフィロの形見とは言え、女物の首飾りなんて俺が持っててもしょうがないだろ。だからお前に預ける。失くさないように、大事に持っとけ」

「……」

「な、何だよ」

「いや、イークからこういうものもらうのって何気に初めてだなーと思って……」

「勘違いするな。あくまでお前に()()()だけだ。それもフィロの形見だからであって、特別な意味はない」

「ふーん。じゃ、そういうことにしといてあげる」

「なら、まずはそのムカつくニヤけ面を何とかしろ!」


 いきり立ったイークに頬を掴まれそうになって、カミラはひらりと身を(かわ)した。そうしてキャハハと破顔すれば、忌々しげなイークの舌打ちが飛んでくる。

 刹那、ふたりの頭上に甲高い鳴き声が響き渡った。ふと髪を押さえて仰ぎ見れば、冬を越すために南へ向かう鳥の群が身を寄せ合って飛んでいく。

 ああ、もうすぐこの国へ来て二度目の冬を迎えるのだなあとカミラは思った。


 けれどもう、凍える心配はなさそうだ。



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