229.雨のち晴れ
あと一葉足を伸ばせば爪先が届くというところで、細波が遊んでいた。
湖上を吹き渡る風は冷たい。カミラは霧が晴れる前のコルノ島みたいにぼんやりした意識の片隅で、いつものチュニックに厚手のケープ一枚という格好で来てしまったことを後悔しながら自らの肩を抱く。
コルノ島の南の外れにある小さな岩場。その岸辺にひとりぽつんと腰を下ろして、カミラはじっとサラーレの方角を見つめていた。
イークの説得に向かったジェロディとウォルドがいつ帰ってきてもいいように、無心で待つ。ただひたすらに、待つ。
「ブルルッ……」
そうして二刻(二時間)あまりが過ぎた頃、草を食むのにも飽きたらしいエカトルが背後から首を伸ばしてきた。白斑がまったく見当たらない鼻先をカミラの横顔に寄せ、まだ帰らないのか、と言いたげに鼻を鳴らす。
「ごめんね、エカトル。もう少しだけ待って」
カミラは愛馬の催促に謝りながら、彼の陽だまり色の鬣へ顔をうずめた。そうしながらエカトルの首を抱き、彼の体温に身を委ねる。
抱きつかれたエカトルはやれやれと言いたげにゆっくりと瞬きをした。長い睫毛を従えて上下する彼の瞼は呆れているのか、はたまた憐れんでいるのかどうか。
イークがコルノ島を訪ねてきた翌日。ジェロディたちと共に彼の説得へ赴くことを許されなかったカミラは、朝からずっとこうして皆の帰りを待っていた。本当は自分もついていきたかったけれど、ジェロディとウォルドは今朝、起床の鉦が鳴るのも待たずに島を発ってしまって、呼び止める隙もなかったのだ。
かと言って部屋に引き籠っていては気が滅入るし、皆にも腫れ物を触るように扱われてしまう。だからしばらくの間ひとりきりになりたくて、ほとんど人の往来がないこの場所を選んだ。
隊の調練は午後からだから、それまでには彼らが帰ってきてくれるといいと願う。でないと説得の結果が気になりすぎて、たぶん調練どころじゃない。
……でも、こんなんじゃ私、隊長失格ね。そう思いながら面を上げたカミラはおもむろに身を乗り出して、無言で湖を覗き込んだ。そこに映った自分は、細波が鏡像を歪めていることを差し引いてもずいぶんひどい顔をしている。両の目の周りは殴られたあとみたいに真っ赤に腫れて、頬もむくんでいるようだ。
一瞥しただけでひと晩泣き明かしたあとだと分かる下膨れ。カミラはそんな自分の顔を数瞬睨みつけたあと、はあ、と肩を落としてため息をついた。
午後までにはこの顔も少しはマシになっているだろうか。でないと事情を知らない部下たちにまで心配をかけてしまう。
オヴェスト城の戦いを経て、隊長職とは常に端然とあらねばならないと学んだはずなのに、我ながら学習能力がないというか何というか。思えば同じ過ちを何度も繰り返す悪い癖も、幼い頃からイークに散々叱られ続けてきたっけ、と思うと、カミラはますます自己嫌悪に陥ってぎゅうっときつく眉を寄せた。
「──カミラ殿」
ところが水鏡の中の自分がまたじわりと滲むのを眺めていたら、突如背後から呼び声がする。我に返ったカミラは慌ててごしごしと目元を拭い、声の主を顧みた。
振り向いた先には一頭の立派な鹿毛の姿。その背で少し困ったように眉尻を下げているのは、黄色い外套を寒風に翻した──ギディオンだ。
「ギディオン……?」
「こちらにおられましたか。探しましたぞ。城の誰に訊いても皆、貴女の居場所を知らぬと申しますのでな。おひとりで?」
「う、うん……そう、だけど……私に何か用だった?」
「いえ、用というほどのことでは。ただ朝からお姿が見えないので少々気になりましてな。よもやジェロディたちを追いかけて、おひとりでサラーレへ向かわれたのではないかと」
「あー、うん……いっそそうしようかとも思ったんだけど。でもいま私がふたりを追いかけても、余計に話がこじれそうだから……」
「なるほど。それでこちらに?」
「……うん。スミッツはどうしてる?」
「スミッツ殿も今朝は仕事が手につかぬようで、城にて待ち侘びておられます。イーク殿のお戻りを」
ギディオンがいつもと変わらぬ口調で紡いだイークの名前が、ずしりとカミラの胸に響いた。皆がカミラの前で彼の名前を出さないようにと気を遣っているのが見え見えだから、カミラの方も余計に過敏になっているのかもしれない。
「よろしければカミラ殿も、共に城で待ちませぬか。ここはいささか風が冷たい。薄着のままでは風邪を召されますぞ」
「……ギディオンは……」
「はい?」
「ギディオンは……私を責めないの? 私、再会してからずっと、ギディオンたちのこと騙してたのに……」
馬上の彼を直視できず、うつむきながらそう尋ねれば、ギディオンは小さく息をついたようだった。その嘆息の意図が分からず、カミラはよりいっそう顔を上げるのが怖くなる。イークがそうだったように、ギディオンやスミッツも本心では憤っているのではないか。失望されたのではないか。そう思うとまともに目を合わせることさえためらわれた。ふたりは大人だからそうした感情を叩きつけてこないだけで、本当は自分のことを憎み、呆れ、見限っているのではないかと──
「……え?」
しかし脳裏を駆け巡ったカミラの懸念は一瞬にして氷解した。何故ならバサリと布の舞う音が聞こえた直後、カミラの肩に黄色い外套が回されたからだ。
驚いて顔を上げれば、目の前にギディオンの顔があった。さっきまで彼の痩身を覆っていた外套は、今はカミラの体を包んでいる。長身のギディオンがいつも身にまとっているそれは、カミラにはちょっと大きかった。でも、とても温かい。
「ぎ、ギディオン──」
「確かにフィロメーナ様のことは無念です。できれば獣人区で再会したあの日のうちに、我々にも真実を打ち明けていただきたかった。なれど貴女方はただ忠実に、フィロメーナ様が遺された起死回生の策を守られただけのこと。おかげで救世軍がここまでの組織として復活を遂げたことを思えば、貴女方を責めるのがいかに愚かなことかは、この老いぼれにも理解できますぞ」
「ギディオン、」
「ゆえに貴女もこれ以上、ご自分をお責めなさいますな。真に責められるべきは……我が祖国です。貴女がどれほどフィロメーナ様を慕っておられたかは、我々もよく存じております。そのフィロメーナ様の死を隠し続けることが、どれほどの痛みを伴う決断であったかも……イーク殿とて、そんな貴女のお気持ちを理解できぬほど頑迷ではありますまい。よくぞ耐えられましたな、カミラ殿」
まるで現役の騎士みたいに片膝をつき、ギディオンはそう言って微笑んだ。彼の言葉はじわりとカミラの胸裏に広がり、固く凍っていたものを溶かして、まったくの容赦なく溢れさせる。
──よくぞ耐えられましたな。
ギディオンがかけてくれたひと言が何度も頭の中で響き、カミラはまたしても泣き出してしまった。これ以上顔が腫れたらまずいと頭では分かっているのに、次から次へと涙が零れて止まらない。
ごめんなさい。
ギディオンがかけてくれた外套を胸の前で掻き合わせながら、カミラは言葉にならない声で謝った。フィロメーナを守れなかったこと。彼らを裏切ってしまったこと。憎まれているかもしれない、なんて思ってしまったこと。
そういうことをひとつひとつちゃんと謝りたかったのに、泣きじゃくりすぎてまともに話すこともできなかった。ギディオンはそんなカミラを見てまた困ったように白眉を下げると、笑いながらぽん、ぽん、と頭に手を置いてくれる。
やがて平静を取り戻したのち、カミラはギディオンと馬を並べて城へ戻った。エカトルを厩舎に入れ、カミラが織った救世軍旗の翻るコルノ城本棟へ足を向ければ、入り口の傍で大きな煙管を吹かしている人物がいる。スミッツだ。
「スミッツ」
カミラが駆け寄りながら声をかければ、気づいたスミッツが苦笑を湛えた。どうやら彼も落ち着かなくて、気晴らしに一服していたらしい。
考えることはみんな同じねと笑いながら、二階にあるギディオンの部屋へ招かれ、三人で卓を囲んだ。少しでも気分が落ち着くようにと、ギディオンが自分で茶花を配合したブレンドティーを出してくれて、カミラは久しぶりの彼の香茶に舌鼓を打つ。やっぱり香茶に限っては、ギディオンが淹れてくれたものが一番だ。
「はあ、おいしい……ギディオンが淹れてくれる香茶って、なんでこんなにおいしいのかしら。言われたとおりに真似しても、絶対同じ味にならないんだけど」
「そりゃお前、何たって年季が違うからな、年季が。そもそもギディオン殿の淹れる香茶は、元はと言えば奥方の厳しいお眼鏡に適うために長年の創意工夫が凝らされたもんだ。そんじょそこらの人間にはそう簡単に真似できんよ」
「えっ、奥さんのためって!?」
「これ、スミッツ殿。口が軽いですぞ」
初めて耳にするギディオンの逸話に、カミラが目を輝かせながら身を乗り出せば、当のギディオンは渋い顔で眉を寄せた。
が、スミッツは香茶に酒を混ぜたせいだろうか、ここ数ヶ月ですっかり元の肉づきを取り戻した頬を上気させると、愉快そうにワハハと笑う。
「いいじゃないか。今更隠さんでも、イークやウォルドだって知ってる話だ。そもそもこの話を最初に言いふらしたのはフィロだからな。文句があるならあいつの墓に向かって言うといい」
「まったく貴殿という人は……酒が入ると多弁になる悪癖は健在ですな。〝職人気質〟が聞いて呆れる」
「ねえ、ギディオン、〝奥さんのお眼鏡に適うため〟って? ギディオンの香茶って、元は奥さんのために淹れてたものなの?」
「ほれ、見なされ。カミラ殿まですっかりその気になってしまわれた」
「ワハハ、いいじゃないか、聞かせてやれば。別に恥じるような話でもあるまい」
「儂にとっては、そもそもあのような女を娶ったこと自体が忌まわしき過去です」
「ギディオンの奥さんって、ティノくんが近衛軍にいたときの上官なのよね? 名前は確か……」
と、カミラが顎に手を当てて懸命に記憶を手繰っていると、ついに観念したのかギディオンが深々と嘆息をついた。彼がこれほど露骨な渋面を浮かべる場面なんて今まで出会ったことがなかったから、カミラもつい面白がって根掘り葉掘り聞き出そうとしてしまう。
「……セレスタ・アルトリスタ。それが儂の元妻の名前です」
「そう、セレスタ将軍! ティノくんの話では、女性なのにすっごく強くて有名なんでしょ? 一度だけ手合わせしてもらったときには、強すぎて手も足も出なかったってティノくんが言ってたわ」
「ほう……アレが部下と手合わせを? 珍しいこともあったものだ」
うっすらと皺の刻まれた口もとに皮肉な笑みを浮かべながら、されど表情を隠すように香茶を啜ってギディオンは言った。彼がこんな風に笑うところも初めて目にするカミラは、よりいっそう興味が湧いて話の続きを催促する。
「確かにセレスタは、儂が第四皇子付近衛将校……つまりオルランド皇子殿下専属の近衛軍将校となる頃には、既に軍内で名が知れ渡っておりました。あの女は齢わずか十八にして近衛軍の入団試験に合格しておきながら、以来十年以上、昇格の辞令を蹴って黙々と一兵卒の職務に徹しておりましてな。儂が十七のときに近衛軍へ配属になっていなければ、試験合格の最年少記録保持者は今もあやつであったはず。それほどの実力を持っていながら、何故だか下級兵士であることにこだわり続ける変わり者として、当時からずいぶん有名でした」
「……待って。今、サラッとものすごい事実を聞かされた気がするんだけど?」
「安心しろ。気のせいじゃないからな」
と、蒸留酒入りの香茶を呷りながらこともなげにスミッツは言うものの、まったく何も安心できなかった。
だって、たった十七歳で近衛軍の入団試験に合格? ということはギディオンは、今の自分と同じ歳の頃には既に近衛軍の一員だったということか?
以前ジェロディから聞いた話では、黄皇国にいくつかある軍団の中でも、黄帝直属の部隊である近衛軍及び中央第一軍への入営は非常に名誉なことであるらしかった。特に近衛軍は、ガルテリオのように強い発言力と実績を持つ大将軍の推薦でもない限り、簡単に入ることはできない。近衛軍とは一兵卒から上級将校に至るまで、全員が爵位を持つ家の子弟であり、なおかつ厳しい入団試験に合格できるだけの品位と教養、そして武芸を求められるからだ。
そのような鬼の巣とも呼ぶべきところに、若干十七歳にして入団。カミラは黄皇国軍の仕組みをある程度理解した今だからこそ分かる驚異の事実に、どっと汗が噴き出すのを感じた。自分から話を振っておいてなんだが、すぐ横に座る老剣士がとんでもない経歴の持ち主なのだと今更ながらに思い知り、カップを持つ手が知らず震える。顔面からも血の気が引いて、ギディオンの方を直視できない。
「しかし儂が第四皇子付近衛将校の大任を拝したのとときを同じくして、セレスタにもついに昇格の辞令が下りました。と言うより、陛下──当時はまだ殿下でありましたが──が面白がってあやつを儂の副官にと推挙し、勅命を使って無理矢理昇格させてしまったのです」
「お、面白がってって、そんなふざけた人事が許されるの? 近衛軍なのに?」
「どんなにふざけた命令でも勅命は勅命ってことだろう。皇族の命令とあらば、この国の臣民は誰人であろうと逆らえない」
「スミッツ殿のおっしゃるとおりです。以来儂も仕方なくセレスタを副官として従え、職務に励んでおったのですが、あるとき陛下が突然の思いつきで、儂とセレスタに御前試合を命じられましてな……」
「えぇ……!? なんで……!?」
「さて、儂が理由を尋ねたときには『剣鬼』と『閃鬼』、戦わせたらどちらが強いのか興味がある、としかお答えいただけず……加えて陛下は愉しげに笑われながら〝万一セレスタに敗れることあらば、あの者を妻として娶れ〟と」
「じっ、じゃあまさか、ギディオンが負けたの……!?」
「いえ。実は陛下はその裏で、セレスタには〝ギディオンに負けたらあの者に嫁げ〟と命じておられたようで……」
「詐欺! 詐欺よねそれ!?」
「要するに皇子殿下は鬼の名を持つふたりをくっつけたかっただけってこった。傍目にはよほど似合いの男女に見えたんだろうさ」
「まったく不本意ですな。よもやアレと同類に見られておったとは……」
「え、えっと……で、結局勝負はどうなったの?」
「結果だけ言えば、引き分けでした。と言うのも黄都の開門の鐘と同時に試合を始めて、閉門の鐘が鳴るまで斬り結んでも一向に勝負がつきませんでな。やがて観戦していた陛下の方が飽きてしまわれて、最後は〝もういい、結婚しろ〟と……」
「横暴! 横暴だわ!」
「で、勅命には逆らえずに結婚したんだよな?」
「……うむ。セレスタは式を挙げる前日まで、いかにすれば儂を殺せるかと頭を悩ませていたそうな」
「黄帝はなんでそんな誰も幸せになれない結婚を強要したのよ」
「さて、いつもの退屈しのぎ……と当時はおっしゃっていましたが、陛下の気まぐれには必ず何かしらのご深慮が隠されておりましたからな。恐らくは近衛軍兵としての職務に邁進するあまり、すっかり行き遅れていたセレスタの身を案じてのことだったのでしょう。あの頃は儂も身重だった先妻を胎児共々病で亡くし、少々気落ちしておったことですしな」
俗にヴィーテ焼きと呼ばれる、鮮やかな色彩と精緻な図柄で有名な陶器のティーカップ。それを再び口元へ寄せながら、ギディオンは静かに瞑目してそう答えた。
が、返ってきた答えがあまりに慮外すぎて、カミラは蜂蜜瓶へ伸ばしかけていた手を止める。……先妻? ということはギディオンはセレスタと夫婦になる前にも一度結婚していたということか?
しかもその前妻を、生まれる前の子と共に亡くした……。
彼がそんな過去を持っていたなんて初耳で、カミラは思わずギディオンを凝視してしまった。すると視線に気づいた彼はふっと笑い、目尻の皺をわずか綻ばせる。
「意外ですかな? 陛下が下々のことを思い、かように回りくどい手段を用いて慰めようとされたことが」
「い、いや……えっと……」
「ああ、先妻のことならばお気になさいますな。薄情な言い草に聞こえるやもしれませぬが、元は親同士が勝手に決めた許嫁です。今はもう記憶の彼方へ去った昔の話……セレスタとの離縁同様、気に病んではおりませぬ」
「……でもギディオンがセレスタ将軍と別れたのは、黄帝から一方的に近衛軍団長の肩書きを剥奪されたからよね。理不尽だとは思わなかったの? ふたりを仲立ちしたのは、他でもない黄帝だったのに」
「いえ。セレスタと離縁した直接の理由は、近衛軍団長を罷免されたことではありませぬ。陛下から馘首の勅令を頂戴する前に、儂からセレスタへ離縁を申し入れたのです。公衆の面前で陛下をお諫めすることを決意した日……己が人生のすべてを陛下に捧げてきたセレスタを、儂の自儘に巻き込まぬように」
「それって──」
またしても予想外なギディオンの答えに、カミラは愕然と目を見張った。
つまりギディオンは、自分が近衛軍団長の座から引きずり下ろされることを予期した上で妻を守るために離縁を申し込んだということか?
カミラはてっきり、ふたりの離婚の理由はギディオンが官職を失ったことにあると思っていたから驚きを禁じ得なかった。セレスタの方はギディオンの真意を知っていたのかと尋ねれば、すべて承知の上だった、という。
「しかしセレスタは離縁の申し出が不服なようでした。他に方法はないのかとしつこく問い詰められましてな……いつものように眉ひとつ動かさず〝分かりました〟と言われて終わるかと思いきや、なかなか了承が得られず弱り果てたものです。あげくの果てには〝あなたが淹れた香茶を飲めなくなるのはいささか困る〟などと言い出す有り様で、この女も人の子であったのかと、正直いたく驚きました」
「ワハハ、なんて言い草だよ。奥方はそれだけあんたの淹れた香茶を気に入ってたってことだろ。だが最初の頃は、茶を馳走するたびに渋い顔をされてたって話じゃないか」
「ええ。どうもアルトリスタ家は、代々優秀な執事に恵まれた家系のようでしてな。その執事が淹れた茶と儂の茶を比べてはいちいち顰め面をされるので、儂も少々腹が立ったと申しますか……ならばと茶の道を極め、あやつの舌を満足させてみせようと」
「……つまり、奥さんの笑った顔が見たかったってこと?」
「ふむ。世間的には、そういう解釈になるのやもしれませぬな」
真っ白な髭を扱きながらギディオンがそんな言い方をするので、世間的にも何もそういうことだろうとカミラは呆れてしまった。要するに自分は今の今まで、黄皇国最強と思しき老夫婦の壮大なのろけ話を聞かされていたということか。
そう思ったら急に馬鹿馬鹿しくなってきて、カミラは乾いた笑みを湛えながら蜂蜜入りの香茶へ口をつけた。まったくなんてひねくれた夫婦だろう。何だかんだと言いつつも、結局はお互いまんざらでもなかったということだろうに。
でも、この香茶が飲めなくなるのは困ると言い張ったセレスタの気持ちも分からないではないなとカミラは思う。ましてやそれが自分を喜ばせるために編み出されたものだと知ったなら、別れ難いと感じるのは至極自然な心の機微だ。
きっとふたりは互いに素直になれなかっただけで、似合いの夫婦だったのだろう。その点で言えば、ふたりを強引にくっつけた黄帝の判断は慧眼だったということか。
後年、ギディオンに働いた仕打ちは許せないものの、そもそも黄帝が正常な判断力を失ったのはルシーンのせいであるということは、ハーマンの証言で判明していた。つまりギディオンとセレスタを引き裂いた元凶もまた、あの憎き魔女であるということ……そこまで思い至ったところで、カミラはつと胸が苦しくなった。
ギディオンは、つらくはないのだろうか。たとえ双方の合意の上であったとしても、望まぬ離婚に追い込まれ、愛する人と敵対しなければならないなんて。
セレスタのことだけじゃない。ギディオンは救世軍に身を置く今も黄帝を敬愛している。彼を救いたいと願うからこそ剣を取り、甘んじて逆臣の汚名を着ているのだ。ルシーンさえ黄皇国に現れなければ、きっとこんなことには……。
「さようなお顔をなさいますな、カミラ殿。儂もセレスタもこうなることを承知の上で選んだ道です。セレスタはセレスタのやり方で……儂は儂のやり方で、陛下への忠誠を尽くさんとしているまでのこと。手段は違えど、我々の願いは常にひとつ──黄臣の家に生まれた者として、陛下をお救いすることが我らの果たすべき使命です」
「でも……セレスタ将軍との間には、その……お子さんとかお孫さんとか、いるんじゃないの? ギディオンは家族みんなを敵に回して……」
「ああ……それについてはご心配には及びませぬ。儂にもかつて愚息がひとりおりましたが、正黄戦争の折り命を落としました。より正確には、儂がこの手で斬ったのですが」
「え?」
「愚息は浅はかにも偽帝フラヴィオと通じておりましてな。偽帝軍に取り入るために己の妻子をも売った愚か者です。ゆえに儂が止めねばならなかった……孫娘が今も生きておれば、ちょうどカミラ殿と同じ年頃になっていたことでしょう」
ギディオンの口から紡がれる予想外の言葉の連続に、カミラはもはや呆気に取られるしかなかった。自分は仲間のことをこんなにも知らなかったのかと思うと、いっそ眩暈を覚えそうだ。
ギディオンが、自分の息子を斬った……。そんな話は誰からも聞いたことがなかった。十年前の戦争で、彼と彼の息子の間に何があったのかは知らない。でも。
(もしかして、ギディオンが私のことを気にかけてくれるのって──)
──亡くなったお孫さんと歳が近いから?
そう尋ねてみようかとも思ったが、さすがに訊けなかった。ギディオンはまるで他人事のように淡々と話してみせたけど、我が子の死について何も感じていないなんてことは絶対にありえないだろうから。
「しかし子供と言えば──スミッツ殿。貴殿の方はいかがなのです? その後ご息女とのご関係は?」
と、ときにギディオンが何食わぬ顔で向かいのスミッツへと話題を振り、途端にスミッツが口に含みかけていた香茶を噴き出した。ぎょっとして振り向けば、彼は身を折るようにして激しく咳き込み、とんでもなく苦しんでいる。が、カミラが驚いたのはスミッツが急に噎せ出したことよりも、
「え……!? ちょ、ちょっと待って!? 〝ご息女〟ってもしかして、スミッツ、娘さんがいるの……!? ていうか結婚してたの!? 嘘!?」
「い、いや……あんな可愛いげのない娘のことなど知らん! ウチだってとっくに離婚してるんだよ! 今更妻子のことを蒸し返すのはやめてくれ!」
「ふふ……またさような戯れ言を。儂とてフィロメーナ様より伺っておりますぞ。貴殿がジャンカルロ様への義理を果たすため、〝他に女ができた〟などという無粋な嘘をついて奥方と別れたことは。おかげでご息女に恨まれ、関係修復に苦心惨憺しておられるとか。お悩みならば、ご息女と同じ年頃のカミラ殿にご相談されてみては?」
「ぐっ……フィロのやつ……! なんで人の家の問題をペラペラと……!」
未だ苦しそうに胸を押さえつつ、スミッツは憎々しげに拳を卓へ叩きつけた。他方ギディオンは勝ち誇った様子で優雅に香茶を啜っていて、この人たち、いい歳して案外大人げないな……という感想がカミラの脳裏をちらりとよぎる。
それにしてもまさかフィロメーナが、皆の秘密をこうもあちこちにバラ撒いていたとは知らなかった。ウォルドの件があったから、彼女の口は極めて堅い方だと思っていたのに、実は意外と口軽だったのだろうか?
いや、だけどそう言えば、フィロメーナもスミッツと同じでお酒が入ると変なことを口走る癖があったっけ……と思い返したところで、カミラは何だか可笑しくなって吹き出した。今まではフィロメーナとの思い出を回想するたび、悲愴な気持ちでいっぱいになったものだけど。仲間たちに真実を打ち明けられた今は、不思議と楽しかった思い出として噛み締めることができる。
──フィロ。私たちみんな、あなたのことが大好きだった。
もう二度と会えないのが悲しくて、信じたくなくて、完全に受け止めるにはまだ少し時間がかかりそうだけど。
だけどやっと一歩、前へ進めた。
フィロメーナを失ったあの日以来、止まっていたカミラの時間が動き出した。
彼女と過ごした日々が遠くなっていくことが、寂しくないと言えば嘘になる。
けれどカミラには、彼女が遺してくれた救世軍がいる。
「ギディオン、スミッツ。──ありがとう」
ごめんなさい、ではなく。
仲間としていま一番伝えるべき言葉を、ようやく口に出して言うことができた。
それまで卓を挟んで啀み合っていたふたりも、カミラが笑って礼を告げたのを聞くや舌戦を中断してふっと笑い返してくる。
「なあ、カミラ。おれたちは──」
と、スミッツが何か言いかけたときだった。突然部屋の外が騒がしくなり、皆の意識がそちらを向く。扉一枚隔てた先で、複数人の足音が慌ただしく行き交っているようだ。
「──おい、オーウェン! あんた、カミラを見てないかい!?」
「カミラ? さあ、今日は朝から見てないな……そういやさっき、ギディオン殿にも同じ質問をされた気がするんだが?」
耳を澄ませばそんな会話が聞こえてきて、カミラは思わずふたりと顔を見合わせた。どうやら外が騒然としているのは自分が探されているせいらしい。
ひょっとしたら他の皆も、自分がジェロディたちを追ってサラーレへ向かったと誤解しているのだろうか。そう思ったカミラは途端に申し訳なくなって、かけていた椅子から腰を上げた。これ以上仲間に心配はかけられないと思い、扉を開ける前に深呼吸してから把手を拈る。
「あのー、ケリーさん? 私ならここにいますけど……」
ほどなく扉を開けて外を覗けば、そこには切迫した様子でオーウェンを問い詰めているケリーと、その剣幕に気圧されているオーウェンがいた。
ふたりは扉の隙間からひょっこり顔を出したカミラを見るなり「あ」という顔をして、通路に流れる時間が一瞬止まったような気がする。
「か、カミラ……!? お前、なんでギディオン殿の部屋から──」
「良かった、カミラ! あんたを探してたんだよ!」
予想外のところからカミラが現れたせいだろう、完全に度肝を抜かれた様子のオーウェンを押しのけて、ケリーが安堵の声を上げた。
それを見たカミラが、ケリーさんってティノくんやマリーさんのことは大事にするのにオーウェンさんの扱いだけ雑だよなあ……などと場違いなことを考えていると、なおも急き込んだ口調でケリーが言う。
「あんた、今すぐ船着き場に行きな! ジェロディ様が戻ったよ!」
「えっ……」
「コラードが屋上から戻ってくる舟を見つけたらしい。『神弓』の目が確かなら──イークとアルドも一緒だよ!」




