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21.雨はまだ


 記憶を掘り下げていくうちに、あの日の光景を思い出した。

 雨。溢れた血を洗い流していく。

 冷たかった。髪を伝って滴る冬の雨よりも彼の手は冷たかった。

 なのにあの人はそっと笑って。


「君が無事でよかった」


 何が〝よかった〟の。何にもよくないわ。こんな結末望んでなかった。

 こんなはずじゃなかった。私はあなたの隣にいるために、


「フィロメーナ。君は」


 彼の手が濡れた頬に触れる。

 血まみれの手。けれど頬についた血は、雨と涙であっという間に洗われた。


「君は、どうか、幸せに」


 幸せに? 馬鹿を言わないで。

 あなたを失ったこの世界の、一体どこにそんなものがあるというの。

 本当はそう叫びたかったのに、想いは声にならなかった。

 辛うじて零れた嗚咽(おえつ)さえ雨は洗い流してしまう。

 けれどもこの胸を裂く悲しみだけは、雨も流してはくれなかった。

 彼の体から溢れた血は綺麗に拭い去ったくせに。

 私の心から流れ続けるこの真っ赤な血は、決して、



「君を救いたかった」



 ワルツが聴こえる。

 アンジェロ・ベレ・ルシェロ作曲、『黄昏の王に捧げる円舞曲』。

 もしも。もしもあのとき。


 この手が、心が、血にまみれていなかったとしたら、私は、






「フィロ」


 不意に名を呼ばれて我に返った。

 はっとして視線を上げた先で、自分が驚いている。鏡に映った虚像の自分。

 その後ろに青い人影が歩み寄ってくるのを見て、フィロメーナは細く息を吐いた。屈み込んだイークが鏡面越しにフィロメーナの瞳を覗き込んでくる。

 再会したのは昼間のことなのに、数ヶ月ぶりにまっすぐ見つめてくる彼の瞳を、今頃になってなつかしいと思った。


「どうした、ぼーっとして?」

「いえ……いえ、何でもないの」

「お前が何でもないって言うときは、大抵何かあるときだけどな」

「もう、からかわないで。ちょっと考えごとをしていただけよ」

「何を考えてた?」

「今後の黄皇国軍(おうこうこくぐん)の動きについて。今回私たちがジェッソ郷庁(きょうちょう)を襲撃したことで、黄皇国軍はいよいよ危機感を強めるでしょう。これまでは私たちのことを取るに足らない弱小勢力だと侮っていたようだけれど、ジョイア地方、トラジェディア地方、パウラ地方、ヴォリュプト地方に続いてオディオ地方でまで反乱を許したとなれば国の面子に関わるわ。とすれば今後は今まで以上に反政府勢力の抑え込みに躍起になるはず……」

「確かにな。だがそれは作戦を決行する前から想定してたことだ」

「ええ。だからあなたたちが帰還するまでのひと月あまり、黄都(こうと)に人をやって黄皇国軍の動きを探らせていたのよ。その結果国は私たちの資金源を断つのが急務だと考えたみたい。それが事実なら、こちらも早急に対策を立てなければいけないわ」


 言ってから、フィロメーナはふう、とふたつの意味でため息をついた。ひとつは今後しばらくは金策に奔走する羽目になり、身動きが制限されるであろうという憂鬱から。そしてもうひとつは平然とイークに嘘をついてしまった罪悪感から。


「ちっ……あと一歩でオディオ支部結成に漕ぎ着けるってのに、連中も嫌なタイミングで腰を上げやがったな」

「そうね。けれど今まで私たちの問題がほとんど放置されていた方が奇跡だった、と言ってもいいくらいよ。国の対応としてははっきり言って遅すぎるわ。もっとも軍の首脳陣は、今も楽観派と武断派で割れているみたいだけれど」

「そのまま当分内輪揉めをしてくれてると、こっちとしても助かるんだがな。そう呑気なことも言ってられないか」

「ええ。当分は協力者も動きを制限されるでしょうし、資金調達のための新しい(つて)を開拓する必要がありそうね。そのためには多少手荒な方法も覚悟しないと……」


 言いながらフィロメーナは目の前の鏡台へ手を伸ばし、置かれていた豚毛のブラシを手に取った。それを乾き始めた髪に当て、ゆっくりと毛先まで下ろしていく。

 チッタ・エテルナ最上階の一室。そこはフィロメーナが救世軍参入当初から借り切っている上客向けの客室だった。かつてはそこで初代総帥のジャンカルロと共に過ごすことが多かったが、彼がいなくなった今はふたつ並ぶ寝台の片方だけを使っている。ここチッタ・エテルナの三階にある客室は、亭主であるカールの好意で救世軍メンバーの私室として提供されていた。三階どころか二階も半分以上をメンバーが利用していて、一般客の大半は一階に泊まる。

 このところ救世軍に加わりたいという志願者は格段に増えた。

 おかげでこの宿だけでは収容できなくなり、他にも救世軍に協力的な宿を使わせてもらったり、地下の遺跡に残る民家を活用したりして(しの)いでいる。

 けれどもそれもそろそろ限界で、フィロメーナは近いうちにどこか新しい拠点を作らなければならないと考えていた。その計画のひとつがオディオ支部の結成なのだが、ここに来て財政的な問題が浮上し、雲行きが怪しくなっている。


 現在の救世軍の主な資金源は組織の理念に賛同する貴族、豪族、豪商たちからの献金と、国の専売品である鉄及び鉄鉱石の密売。それから黄皇国軍との戦闘で鹵獲(ろかく)した武器や防具の転売だった。しかしそのうちの献金と密売についてはどうも黄皇国側も勘づき始めた気配がある。どこの誰が救世軍に協力し、資金繰りを助けているかという情報を入手して内偵に入っている気配があるのだ。

 ということはそのほとぼりが冷めるまで、救世軍は別のルートから資金を調達しなければならない。フィロメーナはそれについて頭を痛めていた。色々と方策は考えてあるものの、秘密裏にルートを開拓するにはそれなりの時間と手間がかかる。


 いずれこうなることは予想できていたのだから、もっと早いうちから手を打っておくべきだった。今のところフィロメーナの思考の大半を占めているのはそんな後悔ばかりだった。黄皇国の首脳たちは現在、反乱軍など何するものぞと事態を楽観視する楽観派と、逆賊討つべしという武断派に分かれて足並みが揃っていない。

 フィロメーナの予想ではそうした彼らの足の引っ張り合いがもう少し続くはずだった。そのために裏で手を回してもいたし、元詩爵家(ししゃくけ)令嬢として黄皇国内部の腐敗ぶりは知悉(ちしつ)しているつもりでいたから、彼らはそこまで俊敏に動くことはできないだろうと侮ってもいた。

 その油断と甘さが招いた結果がこれだ。もしもジャンカルロが今も組織を率いていたならば、こんな風に対応が後手に回り、遅きに失することもなかっただろう。


 ──結局私にはこの程度の器量しかない。


 建国の英雄フラヴィオを助けた軍師エディアエルの末裔。三百年の間黄皇国を支え続けたオーロリー家の才女。神が遣わした救世主。人はそんな風に呼ぶけれど、


「で、本当は何を考えてた?」

「え?」

「ただ単に黄皇国の動きを考察してたにしては、ずいぶん思い詰めたような顔をしてたが?」


 と、ときにすぐ後ろからそう言われてフィロメーナは目を丸くした。

 思わず髪を()いていた手を止め、同時にじわりと苦笑する。


「イーク、あなたって変なところで鋭いのね」

「変なところでって何だよ。普段はにぶいって言いたいのか?」

「だってそうじゃない? この間だって、キミーに告白されるまで彼女の好意に気づいていなかったのでしょう? 周りはみんな気がついてたのに」

「そっ……それは、あいつも俺とお前の関係を知ってると思ってたから……であってだな……」


 途端にしどろもどろになって視線を泳がせているイークを鏡越しに見やり、フィロメーナはくすくす笑った。彼はこの話題になるといつも面白いくらい取り乱す。

 ジェッソ行きが確定する前、この宿の手伝いをしている娘に好意を告げられたのがよほど衝撃的だったようだ。フィロメーナはそれに嫉妬するどころか、当初狼狽(ろうばい)しきりだったイークの反応を楽しんだくらいだけれど。他にもこの宿の従業員の中にはイークに想いを寄せている娘が何人もいる。イークは少々短気で人見知りが激しいところを除けば性格は優しいし、剣の腕も立つし、見目もいい。

 何よりあの聖地ルミジャフタから黄皇国を救うべくやってきた若き戦士だ。本人にそんなつもりはなくとも、トラモント人の娘たちが憧れを抱くのは無理もない。


 ──そんな人が、どうして。


 フィロメーナは時々そう尋ねたくなる。

 ねえイーク、どうしてあなたは今も隣にいてくれるの? と。

 その想いが、先程まで見ていた過去の幻を(よみがえ)らせた。

 雨。赤い。ワルツ。……もしかしたら。

 フィロメーナはその可能性をイークに告げるべきか否か、数瞬悩んでやめる。

 代わりに、


「それに直感の鋭さを自認するなら、そろそろウォルドと歩み寄ってもいい頃じゃない?」


 とそう吐き出せば、鏡の向こうでイークが露骨に顔を歪めた。


「おい。ふたりきりのときにあいつの名前を出すなよ」

「だって私、期待していたのよ。今回の作戦であなたたちももう少し友好的な関係になってくれるんじゃないかって。そのためにあなたとウォルドをふたりでジェッソへ派遣したのに、望んだ成果は上がらなかったみたいね」

「当たり前だ。むしろあいつに対する不信感が増したくらいさ。ジェッソ郷庁でのあいつの振る舞いをお前にも見せてやりたかったよ。あの野郎、平然とデタラメを並べて郷守(きょうしゅ)を言いくるめたあげく、最後は地方軍の連中と酒盛りまでしてやがったんだからな」

「彼はそれだけ機転がきいて順応力もあるということでしょう? ウォルドのあの才能は得難いものよ。長く傭兵をしてきただけあって、洞察力や判断力も人並外れているし、今の私たちにはなくてはならない人材だわ」

「お前はその機転だの順応力だのを、あいつが救世軍(ここ)でも悪用してるとは考えないのか?」

「それはあなたがウォルドをよく見ていないからよ。確かに彼は出身や経歴について不明瞭な部分も多いわ。だけど腰を据えてじっくり対話すれば、そんな人じゃないってすぐに──っ!?」


 そのとき俄然、フィロメーナの視線が上を向いた。というか()()()()()

 後ろから伸びてきたイークの手がフィロメーナの白い顎を掴み、ぐいっと黄砂岩(こうさがん)造りの天井を向かせたのだ。けれどそれに驚いている暇もなくいきなり接吻(せっぷん)が降ってきて、フィロメーナはまんまと口を塞がれた。ああ、またこれだ。

 呆れながらもフィロメーナはイークの抗議(キス)を受け入れる。彼は機嫌を損ねるとすぐこうなのだ。口ではフィロメーナに勝てないと分かっているから強引に口論を終わらせる。一方のフィロメーナも力では到底イークに敵わないし、どこか年下の彼に甘いところがあって、仕方がない、とため息混じりに諦める。

 今日もそうして諦念が頭をよぎった頃に、イークがフィロメーナを抱き上げた。

 そのまま寝台に転がされ、仰向けになったところにイークの青い羽根が降ってくる。フィロメーナはそっとその羽根に触れた。

 遠い彼の故郷にのみ棲息(せいそく)するという、七色の翼を持つ鳥の羽根。


「ねえ、イーク。あなたは不服だと思うけど、私はまだ諦めないわよ?」

「そいつは残念だな。俺も折れるつもりはない。けど今夜はもういいだろ。何ヶ月も我慢したんだ」


 言って、イークは()ねた子供のようにフィロメーナの胸へ顔を埋めた。その感触がくすぐったくて、フィロメーナも小さく笑いながら彼の頭を抱え込む。

 イークの手がフィロメーナの肌を滑った。胸もとに(ひだ)飾りがついた白い寝間着は貫頭衣(ワンピース)のような簡素な作りで、抵抗なく彼の体温を受け入れる。

 けれどもそのとき、フィロメーナは気づいた。雨音がする。……幻聴?

 いや、違う。たぶん閉じた窓かけの向こう、そこで雨が降っている。

 途端に一度は振り払った幻が戻ってきた。

 胸もとにあるイークの顔がぼやけて(かす)む。代わりに最愛の──かつて何度も愛し合った──金髪の──共に歩こうと──菫色(すみれいろ)の瞳──結ばれるはずだった──彼の姿がそこに重なり、フィロメーナは悲鳴を上げそうになった。

 いや。いやだ。違う。彼は死んだ。私が殺した。

 それともこれは、このままだといつか(イーク)をも失うという暗示?

 だけど今更引き返せない。だって、今になって逃げ出すというのなら。

 それならあの日、自分は何のために彼の手を、


「コンコンコン」


 不意に聞こえたその音が、雨音と思考の濁流を遮った。フィロメーナは顔を覆いかけていた手を退けてはっとする。我に返ったのはイークも同じだったようだ。


「コンコンコンコン」


 ふたりは同時に部屋の入り口へと目を向けた。音は確かにそこから聞こえる。


「あ、あの……夜分にすみません。フィロメーナさん、起きてますか……?」


 次いでフィロメーナは目を見張り、イークは「げっ……」と石化した。


 ドアの向こうから聞こえたのはまぎれもなく、カミラという少女の声だった。



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