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【side:A】エマニュエル・サーガ―黄昏の国と救世軍―  作者: 長谷川
第7章 その苦しみを愛と呼ぼう
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227.海賊はかく語りき


 レナードが漕ぐ()の音が、湖上に規則正しく響いていた。

 彼やジョルジョが漕ぐ舟はいつ乗っても快適だ。安定を失ってぐらぐらと揺れることがないし、水を掻く音も最低限。舟は滑るように水面(みなも)を走り、秋のにおいを(はら)んだ風と、舟底で遊ぶ水音に耳を傾ける余裕すらある。

 最近は気持ちのいい秋晴れが続くなあと、ジェロディは櫂座(かいざ)に座りながら何気なく空を仰いだ。ゆっくりと冬に向かって移ろいゆく世界は、少しずつ色彩を失いつつあるけれど、それでもこの青天には心を洗われる。


 ──明日の光歌祭(こうかさい)まで、天気が持ってくれるといいな。


 ちらほらと雲が見え始めた空を眺めながら、そんなことを考えた。

 現実逃避としてではなく、心から。


「おう、見えてきたぜ」


 と、不意に舟の後方から声がかかって、ジェロディは我に返った。視線を地上へ引き下ろせば、タリア湖の(ほとり)に群集する塗り壁の民家が見える。

 サラーレの町。昨日、新生救世軍に訣別を告げてコルノ島を去ったイークとアルドは、どうやらあの町へ向かったらしいとトリエステから情報を得た。

 二人はハーマンが治めるオディオ地方に仲間を待たせ、獣人居住区を経由して島へ来たと言っていたが、そのまま獣人区へは戻らなかったらしい。


 恐らくはひと晩の休息を求めて、敢えてサラーレへ向かったのだろう。コルノ島から獣人居住区までは、脚の速い舟を飛ばしても一両日はかかる。

 フィロメーナの死という真実を知らされた直後に、凍えるような秋の夜を湖上でやり過ごす気力と体力は、さすがのイークにも残されていなかったのだ。そう思うとジェロディは胸が軋んで、知らず握った拳に力を込めた。


「心の準備はできてるか、ティノ」


 と、今度は向かい合うように座ったウォルドが尋ねてくる。現在、大人六人くらいなら優に運べそうな小舟に乗り込んでいるのはジェロディとウォルド、そして漕ぎ手のレナードだけだ。もっとも自分以外の二人の体格が良すぎるせいで、三人しか乗っていないはずの舟は既に満席に見えた。これからここにイークとアルドも乗り込むかもしれないのに、果たして彼らを乗せるだけのゆとりがあるだろうか、なんて考えながら、ジェロディは小さな笑みを返す。


「大丈夫だよ、ウォルド。殺される覚悟なら昨夜のうちに決めてきた」

「ほう、そりゃ頼もしいな。お前がイークに刺されたら、トリエステあたりが全軍を率いてあいつに戦争を吹っかけそうなのだけが気がかりだが」

「心配すんな。そんときゃオレらの大将が代わりに救世軍をもらい受けるからよ。心置きなく死んできてくれて構わねえぜ」

「しかし今朝、島にジュリアーノの野郎が来てただろ? 俺らが島へ帰る頃には、ライリーもあいつにカマ掘られてくたばってるかもしれねえぜ」

「ウォルド、下品だよ」


 ジェロディがコメントに(きゅう)しつつそう忠告すれば、後ろでレナードがガハハと笑った。まったくこの二人は、酒や賭博を通してすっかり意気投合しているのは知っていたが、ジェロディとは人種も育った環境も違いすぎる。

 救世軍に入らなければ、きっと一生交わることのなかった者たち。そういう面でもジェロディは、救世軍と共に生きると決めたことを後悔していない。


 イークの突然の来訪から一夜。彼が昨日のうちに町へ入り、宿を取ったらしいことを確認したジェロディたちは、もう一度話し合いの場を設けるべく一路サラーレを目指していた。もちろん先触れの使者などは出していない。

 イークはまた怒り狂うかもしれないが、会う前から対話を拒まれたら一巻の終わりだ。彼を説得する機会はもう永遠に訪れないかもしれない。


 そうなる前に、一度だけ。


 一度だけでいいから、ジェロディはイークと向き合うチャンスが欲しかった。

 仮に彼を説得できなくてもいい。本音を言えば、イークにはカミラのために救世軍へ戻ってきてほしいが、フィロメーナを死なせてしまったのはあのとき彼女と共にいた自分たち全員の責任だ。だからイークがどうしてもジェロディたちを許せないと言うのなら、無理強いするつもりはない。


 されど今のまま別れたら、きっと後悔だけが残る。

 ジェロディはそれが嫌だった。何もすることなく手を(こまね)いて、結局イークとは最初から分かり合えなかったのだと自分に言い訳したくない。

 だってフィロメーナが言っていた。イークはとても優しい人だ、と。

 だったらまだ分かり合える可能性はゼロじゃない。自分はイークを信じたフィロメーナを信じる。後悔しないために、そう決めた。


 自分で選んだこの道を、これからも迷わず胸を張って歩いていきたいから。


「……カルロッタがさ」

「ん?」

「昨日、カルロッタがいいことを教えてくれたんだ。おかげで僕も吹っ切れたというか、腹が決まったというか……海賊も案外捨てたものじゃないなって思ったよ」

「へえ。何だよ、〝いいこと〟って」


 サラーレ到着まではまだあと半刻(三十分)ほどある。それまでの時間潰しにと、ジェロディは昨日の出来事を回想してみせることにした。

 あれはイークが島を去ってから数刻後のこと──ジェロディは城の仲間たちが食堂で昼食を取っている頃にひとり、島の桟橋にいた。

 皆でわいわい食卓を囲めるような気分ではなかったし、そもそも腹も空いていなかったから、少し気をまぎらわせようと思ったのだ。


 というのもジェロディは近頃、ロンから教わった釣りというものに没頭していた。以前ジェロディがトリエステから仕事を任せてもらえず、毎日が退屈だと嘆いていた頃に、ロンが「釣りでも教えてやるか」と言っていたことがある。そして彼はその約束を、オヴェスト城の戦いがひと段落するまで覚えていてくれたのだ。

 ジェロディはこれまで弓と矢を使った狩猟には興じたことがあるものの、釣りについてはまったくの門外漢だった。黄都で暮らしていた頃は魚と言えばもっぱら川の魚より海の魚ばかり食べていたし、そもそも魚というものは、網や罠を使った漁によって水揚げするものだと思っていたから。


 けれど釣りというのも始めてみるとなかなか奥が深く、使用する竿や浮き、餌の種類によってまったく違う魚が釣れることが新鮮だった。

 他にも釣りをする時間帯や場所によって釣果(ちょうか)は大きく変わってくる。何よりジェロディを魅了したのは、狩りと違って釣れるまで獲物が何か分からないことだ。釣った魚は食べられるものならアンドリアに調理してもらえるし、悠大なタリア湖を前にじっと腰を下ろしているだけでもなかなかいい気晴らしになった。


 ゆえにジェロディは昨日もまた、桟橋でひとり釣り糸を垂らすことで心の整理をつけようとしていたわけだ。正直イークの怒りと失望を目にしたばかりで思いは千々に乱れていたが、だからこそ今一度彼について考える時間が必要だと思った。

 脳裏に去来するものは、作戦会議室に響き渡ったイークの怒号。ギディオンやスミッツの言葉。アルドの涙。泣いていたカミラの後ろ姿……。


 そうして立ち竦んだ追憶の只中で、改めてフィロメーナという存在の大きさに気づかされる。彼女は今なお皆の心の中で生き続けていて、愛され、必要とされ、希望として語り継がれているのだ。自分には逆立ちしたって真似できない。ましてや彼女の代わりになることなんて。


(だけど、それなら……どうすればイークさんを救える?)


 〝救う〟なんて(おこ)がましいと、イークが聞けばまた怒り出すかもしれない。けれどフィロメーナの死という現実が彼の誇りを踏みつけ、希望を奪い、人生を狂わせようとしていることはまぎれもない事実だ。

 彼が今いる絶望の底の深さを、ジェロディは想像することしかできなかった。イークがどれだけフィロメーナを愛していたのか、救世軍のためにどれほどの血を流したのか……思えば自分は彼についてあまりにも無知すぎる。

 こんな自分に、果たしてイークを説得することなんてできるのだろうか? 向き合いたいなんてエゴを押しつけたところで、傷ついたイークの心を余計に()(にじ)るだけじゃないのか? そうなれば今度こそ自分たちの関係は決裂して、カミラをまた苦しめることになってしまう……。


「──よう、大将。どうした、シケたツラして」


 ところが暗い暗い思考の海に潜っていると、にわかに頭上から声がした。

 何だと思って顎を上げ、白い喉を反らしてみれば、ジェロディの背後には真っ黒な海賊船──クストーデ・デル・ヴォロ号がある。

 その遥か頭上の甲板に、一際目を引く赤い上着が見えた。船縁に腰かけ、体を(ひね)るようにしてこちらを見下ろしているのは船長のカルロッタだ。

 ジェロディはとにかくひとりになることだけを考え、最も人気の薄い桟橋を選んで釣り糸を垂らすことにしたのだが、どうやらそこは彼女の船の真下であったらしい。朝の騒動のことで頭がいっぱいで、そんなことにも気づかなかった。


「……カルロッタ。昼食はもう済ませたのかい?」

「ああ、船の上でテキトーにな。魚くせえ湖賊どもとおんなじ空間でメシを食うなんざ願い下げだからよ。ったくあいつら、マジでうるせーし品がねーよなァ。やっぱ(カシラ)がクソ野郎だと、手下までクソ色に染まっちまうのかね」


 やれやれまったく嘆かわしいと言わんばかりに降り注ぐ罵倒の雨に、ジェロディはただただ苦笑した。正直言ってジェロディには、ライリー一味もライモンド海賊団も乗る船が違うだけでまったくの同類に見えるのだが、言えばまず間違いなくカルロッタの不興を買う羽目になる。とすれば、言わぬが花だ。


 しかし彼女たちが救世軍に合流して七ヶ月あまり。口では文句を垂れつつも、ライモンド海賊団はもうすっかりコルノ島での生活に馴染んでいるように見えた。

 海賊たちは湖賊と(いが)()ってばかりいるものの、本心から憎み合っているわけじゃないのは見ていれば分かるし、カルロッタも最近は歳の近いカミラやカイルと話しているのをよく見かける。何だかんだと言いながら、ライリーとも一緒に酒を飲んだり博奕(ばくち)に興じたりしているらしく、案外二人は相性がいいんじゃないか、なんてジェロディは思っていた。


 何より救世軍がオヴェスト城の戦いに勝利できたのは、カルロッタが持ち込んでくれた神術砲(ヴェルスト)のおかげだ。あれがなければいかなトリエステの軍略をもってしても、十倍の兵力を(よう)する中央軍に打ち勝つことなんてできなかっただろう。

 ゆえにあの戦い以来カルロッタは島中の人間から一目置かれている。相変わらず自分が兎人(ラビット)の血を引くことは隠しているみたいだけれど、今なら真実を明かしても、誰も彼女を〝半獣〟と(わら)うことはないはずだった。


「しかしくせえと言えば、てめえも何だよそのツラは。んな顔で釣り針を垂らしても、餌が辛気臭すぎて魚どもが逃げてっちまうぜ。ケケケ」


 と意地の悪い笑い方をしながらカルロッタは酒瓶を(あお)る。こんな昼間から酒を飲んでいるのかと(とが)めたかったが、ライモンド海賊団(いわ)く、海賊にとって酒とは水と同義であるらしかった。ゆえにいくら咎めたところで彼らが酒を手放すことはない。ジェロディは自分の忠告が徒労に終わることを知っていたから、敢えてそこには触れなかった。時間帯の問題もあるとは思うがカルロッタの言うとおり、今日はまだ一度も魚がかかっていないのも事実だったし。


「……ちょっと朝から色々あってね。気晴らしにと思って釣りをしに来てみたんだけど、全然身が入らないや。今朝、旧救世軍の副帥だった人が島に来たことは知ってる?」

「あー、あの全身真っ青男か? 変に目立ってたから船の上からでも分かったぜ。けどあいつ、島に上がったと思ったらさっさと帰っちまったじゃねーか。よっぽどマズい酒でも出したんじゃねーの、お前」

「そんな単純な問題だったら良かったんだけどね。どうも彼は、僕が救世軍の新総帥なのが気に入らないみたいなんだ」

「へえ。そりゃ話の分かるヤツだな。これで服のセンスさえ良けりゃ、アタシとも気が合いそうだ」


 なおもケケケと笑いながら、カルロッタはわりとグサリとくる皮肉を平然と吐いてみせた。確かに自分がハイムの神子としてカルロッタに認められていないことは知っている。そういう意味では彼女もイークと同意見というわけだ。ならいっそのこと、イークの説得はカルロッタに任せたらいいんじゃないかな……などと後ろ向きなことを考えていたら、ときに彼女が「ん?」とが首を拈った。


「いや、けどよ。てめえは新総帥っつーより総帥代理とかいう立場なんだろ? 本当の総帥は別にいて、官軍の追及を(かわ)すためにあちこち逃げ回ってるって話だったじゃねーか。なら──」

「いや。彼女はもういない」

「あ?」

「二代目総帥だったフィロメーナさんは、亡くなったんだ。旧救世軍の本部があったロカンダが官軍の攻撃を受けたあの夜に」


 水面(みなも)に浮かぶ黄色い浮きを見るともなしに眺めながら、ジェロディは告げた。

 トリエステがイークにフィロメーナの死を告げた時点で、仲間たちに嘘をつき続ける必要はもうなくなっている。

 だからジェロディも真実を話すことにためらいを感じなかった。どのみち数日のうちには、皆の前で正式にフィロメーナの死を公表しなければならないだろうし。


「……あー、なるほど? つまりてめえらは、今まで敵だけじゃなくて味方も全員騙してたってことか? 前の総帥はまだ生きてるってことにしておけば、昔の仲間も喜んで救世軍に戻ってくるから?」

「まあ……簡潔に言ってしまえばそういうことかな。フィロメーナさんは自分の死が原因で救世軍が散り散りになってしまうことを恐れてた。だから僕らは彼女の遺言に従って……だけどイークさんはフィロメーナさんと恋仲だった。彼女のことを誰よりも大切に思っていたんだよ」


 自分たちはそんなイークの心を踏み躙った。話していると改めてその現実を突きつけられ、ジェロディは喉の奥がきゅうっと(すぼ)まるような息苦しさを覚えた。

 謝って許されることではない、と思う。イークは初めからこうなることを危惧していた。だからあれほど痛烈にジェロディたちを非難し、フィロメーナを(いさ)め、彼女を守ろうとしていたのに。


(僕は何も……分かってなかった)


 あの頃のジェロディはイークのことを、ただ短気で融通のきかない男だと思っていた。己の価値観以外何も信じられず、ゆえに〝大将軍の息子〟という肩書きだけで自分を否定するひどく狭量な人物だと。


 けれど今なら少しは分かる。彼は決して愚かではないし、言動のすべては救世軍を──ひいてはフィロメーナを守るためのものだった。たとえ憎まれ役になろうと見るべきものをきちんと見て、言うべきことを言っていただけだったのだ。だからカミラもフィロメーナもイークには一定の信頼を寄せていた。きつい態度や言葉の陰に隠れてしまう彼という人間の本質を、二人はちゃんと知っていたから。


「ははーん、なるほどな。そういうことならジェロディ、てめえにひとついいことを教えてやるよ」


 しかし再び暗い海底(うなぞこ)へ引きずり込まれそうになっていたジェロディを、ときにカルロッタの声が引き上げた。フィロメーナとは一切面識がないためだろうか、彼女の死を知らされてもカルロッタは大して動じていないようだ。いや、あるいはみな心のどこかで薄々勘づいていたのかもしれない。生きていると言いながらまったく姿を現さず、消息さえも掴めない前総帥が既に帰らぬ人であることを。


「てめえは(おか)育ちのお坊ちゃんだから知らねーかもしれねーけどな。アタシらが普段暮らしてる海ってのはとんでもなく気まぐれで、シケるときはマジでやべえくらいに荒れやがる。嵐の日には(いかり)を下ろしてたって船がひっくり返るんだ。てめえは本物の高波ってモンを見たことがあるか?」

「いや……生憎(あいにく)と海を見たの自体、君たちとピエタ島で出会ったあのときが初めてだったからね。でも嵐が来ればタリア湖だって同じくらい荒れるだろ?」

「バァカ、シケたときの海はあんなモンじゃ済まねえよ。ひでえときにはこの船よりもデカい波が平気な顔して襲ってきやがる。だがそのたびに船ごとひっくり返ってたんじゃ、命がいくらあったところで足りやしねえ。そういうときアタシらがどうするか教えてやろうか」

「……転覆を避けるために波から逃げる?」

「違う。向かっていくんだ。大波を見つけたら、正面からまっすぐに」


 頭上から降ってきた予想外の答えに、ジェロディは思わず目を見張って顔を上げた。湖賊の船の何倍も大きな海賊船──それをも超える大波に自ら向かっていくだって? そんなのはどう考えても自殺行為だし、はっきり言って狂気の沙汰だ。

 もしやカルロッタは海のことを何も知らない自分を騙してからかおうとしているのだろうか。しかしこちらを見下ろすカルロッタの隻眼(ひとみ)は、澄んでいる。


「アタシらの乗る海船ってのはな、川船と違って船体が船底(そこ)へ向かうにつれて細くなってる。そうして喫水(きっすい)を深くしねーと、ちょっとした波に煽られただけですぐに転覆しちまうからだ。だがあんまり喫水を深くしすぎても船脚が落ちる。だからこう見えて、とんでもなく繊細なバランスの上に浮かんでるんだよ。おかげでデカい横波や追い波には、どうやったって敵わねえ」

「なら、どうして」

「よく見ろよ、この船の船首を。アタシらの船の舳先(へさき)が何のために尖ってると思う? こいつは高波を割って進むためのモンだ。船ごとひっくり返してやろうと向かってくる大波(なみ)に対抗するために、アタシらが持ち得る唯一の武器──だからアタシらはどんな波からも逃げやしねえ。何度押し寄せようが、真っ正面からぶつかって粉々に砕いてやる。それが海原で生き残る唯一の方法だ。なあ、ジェロディ。逃げ出せばそこで終わりだぜ?」


 そう言ってカルロッタが刻んだ不敵な笑みが、今も網膜に焼きついて離れなかった。逃げ出せば確かに楽にはなれる。だが彼女たちが生きてきた海原という舞台において、〝楽になる〟ということはすなわち死だ。


 だからカルロッタは《命神刻(ハイム・エンブレム)》がジェロディの身に宿り、自分が神子に選ばれなかったと知っても逃げずにここまで追ってきた。そう思うと、ジェロディの胸はたちまち決意で満たされた。自分は神子としても総帥としてもふさわしくない──なんていじけている場合じゃない。(かじ)を取るのだ。


「フン、なるほどな。海賊風情が、たまにはいいことを言うじゃねえか。ただの(しお)くせえ飲んだくれかと思ってたが、今の話が本当なら、少しは見直してやってもいいぜ」


 と、ジェロディの後ろで艪を握ったままのレナードが、面白くなさそうに鼻を鳴らすのが聞こえた。一方、ウォルドは彼方で(きら)めく水平線に目をやりながら、わずか口角を上げている。


「上出来だ。今の話、そっくりそのままイークにぶつけてやろうじゃねえか。お前もそうするつもりで来たってことだろ、ティノ?」

「うん。ついでにカルロッタから伝言を頼まれてる。僕についての愚痴ならいくらでも聞くから、一緒に酒でも飲みませんか、ってね」


 ジェロディが肩を竦めながらそう答えれば、レナードがまたガハハと笑った。ひどい言われようなのに慰めてもくれないあたり、まったく薄情な仲間たちだ。

 けれどそういうところも含めてジェロディは救世軍という組織を愛していた。

 ゆえに立ち向かいたいと思えたのだ。

 同じように救世軍を愛し、守り続けてきたイークという大波に。


「よっしゃ。そんじゃ上陸すっか」


 一際大きな水音を立て、レナードが力強く艪を漕いだ。

 三人を乗せた小舟が、目の前に迫ったサラーレの桟橋へぐっと近づく。


(思えばこの町から始まったんだよな)


 今からおよそ半年前、フィロメーナを失った新生救世軍の戦いが。



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