226.彼女を眠らせて
石造りの階段を、ひと足飛びに駆け上がって広間を目指した。
医務室や応接室、資料室などが集められたコルノ城別棟、その二階。
〝作戦会議室〟と名づけられたこの城で一番の大広間は、そこにあった。島の総力を結集して建造が進められていた別棟は、つい先月竣工の日の目を見たばかり。
以来カミラたちは完成したての作戦会議室に集まって、いかに救世軍を鍛え上げるかという議論を繰り返してきた。今日もこれからコラードたちを迎えての軍議が開かれる予定だったから、皆も集まっているはずだ。
半ばそう確信して階段を上りきったとき、右手に伸びる通路の奥から言い争う声が聞こえてきた。前屈して息を整えつつ目をやれば、手前に見える広間の扉が開け放たれたままになっている。
四角い刳り抜き窓が並ぶ通路に響き渡っているのはなつかしい──あまりになつかしい彼の声。カミラはそれが自分の願望から生まれた幻聴でないことを確かめるために、呼吸が落ち着くのも待たず広間へと飛び込んだ。
「だから、何度も言ってるだろ! フィロとは万が一の事態が起きたとき、所定の町で連絡が取り合えるようあらかじめ二人で取り決めをしてた。だがどの町を回っても、あいつからの連絡はなかったんだ! 俺はその説明を──」
「──イーク!」
半分閉まりかけていたドアを押しやりながら、とっさに発した声は我ながら悲鳴に近かった。瞬間、気づいた仲間たちの視線が一斉にカミラを振り返る。
四角を描くように机を並べて、優に五十人は座れるだけの席が用意された広間には、既に何人もの仲間が駆けつけていた。ジェロディ、ウォルド、ギディオン、スミッツ、マリステア、ケリー、リチャード──そして、イーク。
嘘じゃなかった。扉をくぐるや否や茫然と立ち尽くしてしまったカミラの視線の先には、深い青の外套を背に流したイークが確かに、いた。
彼のすぐ後ろに控えているのはアルドだろうか。ロカンダの地下で開かれたあの宴から、実に十四ヶ月ぶり。しばらく見ない間に、二人は少し痩せたようだ。でもどちらも五体満足でいる。怪我もしていない。生きている。
生きていて、くれた。
「あ……か、カミラ、さん……? カミラさん、ですよね……!? ああ、ほんとに無事だった! お久しぶりです、おれですよ、アルドです……!」
そんなの言われなくたって分かっている。大切な大切な仲間の顔を、たった一年足らずで忘れるわけない。なのにアルドは駆け込んできたカミラを見るなり、感極まった様子でそう声をかけてきた。
ああ、だけど言われてみれば、はぐれる前はどこか頼りなげだったアルドも、顔つきがずいぶん大人びた気がする。ライトブラウンの髪もいくらか伸びたようで、邪魔にならないよううなじでひと括りにしているのが何だか新鮮だ。
そして、イーク。
確かに変わっているはずなのに、幼い頃から少しも変わっていない気がする彼は、カミラを見るなり何か言いかけ、しかし何も言わなかった。
ただ口下手な彼の代わりだとでも言うように、黒髪から垂れた青い羽根飾りが微かに揺れて、飾り珠が小さな音を立てる。
「カミラ」
数拍の奇妙な空白を経て、イークの唇がようやく紡いだ言葉はあまりにも短かった。されどカミラは十四ヶ月ぶりに聞く彼の声が──その声で呼ばれた自分の名前が心臓を震わせたのを聞く。
イーク。もう一度そう呼びかけたかったのに、零れたのは言葉ではなく涙だった。それはぼろぼろととめどなく頬を濡らして、カミラの喉から声を奪う。
「イーク……アルド……ほんとに、生きてた──」
引き攣けを起こしたみたいに言うことを聞かない声帯から、ようよう声を絞り出してカミラは泣いた。もっともっと、再会したらかけたい言葉がたくさんあったはずなのに、どれもこれも涙と共に溶けて流れ出てしまう。
安堵のあまり体中から力が抜けて、座り込みそうになったカミラをケリーが横から支えてくれた。そんなカミラを見てアルドまで涙ぐんでいる。
通路の方からバタバタと聞こえる足音は、追ってきたカイルたちだろうか。振り向いて確かめたいけれど、視界がぐしゃぐしゃに歪んでとても無理だ。
「ほ……ほら、イーク。ようやくカミラとも再会できたんだ。ここはお互い頭を冷やして、一旦仕切り直そう。な?」
と、ときに部屋の奥から声がして、スミッツが場を取りなしている気配が伝わってきた。何とか涙を拭って視線を上げれば、ばつの悪そうな顔をしたイークが軽くそっぽを向いたのが見える。そういうつむじ曲がりなところまでいちいちイークっぽい。いや、〝ぽい〟というかイークだ。あそこにいるのはまごうことなきイークなのだ。ロカンダが落ちたあの日から、カミラがずっと探していた……。
「……分かったよ。なら、新生救世軍の話はカミラから聞く」
ところが刹那、イークが吐き捨てたひと言が場の空気を凍らせたのが分かった。いや、凍るというよりは、空間が丸ごと総毛立ったような……。
「おい、待て、イーク」と呼び止めるウォルドの声が聞こえ、されどイークはそれを無視した。彼は険しい表情でこちらへ向き直るやつかつかと歩み寄ってくる。
近くで見れば見るほどイークだ。泣きすぎてぼうっとしている頭に、間の抜けた感想が浮かんで弾けた。気づいたときには手を伸ばせば触れられる距離に彼がいて、まっすぐカミラを見据えている。
「……久しぶりだな、カミラ。お前も無事だったか」
「うん……うん。あれから色々あったけど、何とか……」
「お前らの活躍は噂で聞いてる。最近じゃどこに行っても救世軍の話題で持ちきりだからな。……遅くなって、悪かった」
彼の青い瞳に映る自分がまた輪郭を失うのを自覚しながら、カミラは懸命に頭を振った。イークだってここまでまったくの無傷で来られたわけじゃないだろう。
生き残った仲間たちを守りながら、きっとカミラたち以上の苦労を重ねて、やっとの思いでコルノ島へ辿り着いたはずだ。だったら今はただ互いの無事を喜び合いたい──そう思ったのも束の間だった。溺れそうなくらいに膨らんだ再会の喜びはしかし、次にイークの口から紡がれた言葉で粉々に砕け散った。
「ところでカミラ、教えてくれ。フィロメーナはどこにいる?」
「……え?」
その一瞬、カミラの頭はものの見事に真っ白になった。イークの問いかけの意味は分かるのに、脳が理解することを拒絶して思考を遮断してしまう。
「さっきから同じ質問を何度もあいつらにしてるんだがな。どいつもこいつも答えをはぐらかして素直に教えようとしない。だがフィロもこの島にいるんだろ? だったら早く会わせてくれ、報告したいことが山ほどあるんだ」
「イーク、」
「フィロは国中に散らばった仲間を集めるために、身を隠して旅してる──なんて作り話はもういいからな。俺はこれまで、フィロからの連絡を待って事前に取り決めていた合流地点を何度も回った。だがあいつが現れることはついになかった。ってことはフィロも島にいるんだろ? 最初の作り話は、官軍の目を島から逸らすための狂言だよな?」
「い……イーク、フィロは、」
「いや、あるいは身を隠してるってのは本当で、ここじゃない別の場所に潜伏してるのか? でなきゃスミッツやギディオンまであんなデマカセを信じてるのは妙だからな。とは言え副帥が合流した以上、もう味方を騙す必要もないだろ。そろそろあいつも前線に復帰して、救世軍の陣頭指揮を──」
「──フィロメーナは死にました。彼女はもうどこにもいません」
「……は?」
今度こそ、世界が凍りついた気がした。
思考だけでなく視界まで真っ白になって、目に映るものすべてが色を失う。
カミラは自分の体が小刻みに震えているのを感じた。寒くて寒くて、今にも凍えてしまいそうだ。それくらい体が芯から冷えて、全身を冷たい汗が濡らしている。
「はじめまして。あなたがイークですね。こうしてお会いできる日を、心待ちにしておりました」
居合わせた全員が、声を忘れて立ち尽くしているのが分かった。
そんな中、広間の外から颯爽と現れた人物が滔々と言葉を紡ぐ。
扉をくぐるなり真実を暴露したのは、トリエステだった。秋らしい配色のピナフォアドレスに身を包み、清潔感漂うブラウスの飾り襟をしゃんと立てて現れた彼女は、一毫の動揺も感じさせない顔色でイークへと向き直る。
「……誰だ、あんたは」
「申し遅れました。私はトリエステ・オーロリー。フィロメーナの遺言に従って、新生救世軍軍師の大任を拝しております。以後お見知りおきを」
「トリエステ・オーロリー……〝オーロリー〟だと?」
「はい。前救世軍総帥であり、あなたの恋人でもあったフィロメーナの異母姉です。生前、妹が大変お世話になりました」
「おい、待て。フィロに姉がいるなんて聞いてない。だいたいあんた、さっきから何を言ってる? 誰が救世軍の〝前総帥〟だって──」
「フィロメーナはロカンダが官軍の急襲を受けた晩、官兵と戦って命を落としました。彼女はここにいるカミラたちとボルゴ・ディ・バルカを目指す途中、軍の動きを察知してロカンダへ引き返したのですよ。そしてそこで敵に討たれた。よって彼女は、ここにはいません。フィロメーナが生きて身を隠しているという話は、救世軍の再興が完了するまでの間、官軍を攪乱するために流布した嘘です」
「トリエ!」
まるで舞台上の台詞みたいに、まったく淀みなく流れ出るトリエステの言葉をジェロディが遮った。彼は彼女を見つめた瞳に困惑をありありと乗せ、同じく真実を隠し続けてきたウォルドやケリーも揃って険しい顔をしている。
「おいトリエステ、どういうつもりだ。なんで今更あいつの遺言を──」
「フィロメーナの死の隠蔽は、瓦解寸前だった救世軍をつなぎとめるための方便でした。おかげで救世軍は無事再起を遂げ、今や一万五千もの兵力を擁する一大組織へと成長しています。妹が遺した最期の策は、既にその役目を終えたと言っていいでしょう。……そろそろ、あの子を眠らせる頃合いです」
トリエステが胸元のペンダントに触れながら零したひと言が、カミラの視界を滲ませた。ぽろり、とこらえる間もなく涙が落ちて、カミラはもう何も言えない。
「いや……待ってくれ。フィロが……死んだ? 冗談だろう……?」
刹那、呻くようにそう漏らしたのはスミッツだった。真実を知らされ、茫然自失した彼の隣ではギディオンもまた言葉を失っている。
カミラは、彼らに会わせる顔がなかった。何せ旧救世軍時代からの仲間を、今日までずっと欺き続けてきたのだ。フィロメーナが望んだこととは言え、スミッツたちにとっては手痛い裏切りであることには変わりない。
──ごめんなさい。
思わず零れそうになる謝罪を殺して、カミラはきつく唇を噛み締めた。
──ごめんなさい。
叶うことなら今すぐ謝ってしまいたい。しかし同時に、謝って許されようなんて虫がよすぎる話だと理解している。自分たちは今日までそれだけの嘘を重ねてきた。けれどだからこそ、トリエステの言うとおりだとも思う。
自分たちはそろそろ眠らせるべきだ。
今日、この瞬間まで、死してなお救世軍を守り続けてくれたフィロメーナを。
「……ふざけるな」
ところがそんなカミラの願いは届かなかった。低く、絞り出すように響いたイークの声が、黒い炎に似た噴気を上げて凍っていた世界を溶かし出す。
「ふざけるな……フィロがロカンダで死んだだと? 俺はそういう事態を避けるために、お前らをつけてフィロを送り出したんだぞ。なのに死んだってどういうことだ? なんであいつを止めなかった、カミラ、ウォルド!」
空間を引き裂くようなイークの怒号が、広間中に響き渡った。
あまりの声量にびくりと震え、されどカミラは顔を上げられない。
ああ。こうなることは分かっていた。イークの憤激はもっともだ。だって自分は託された。確かにイークから託されたのだ。あの日の別れ際、フィロを頼む、と。
(なのに、私は──)
守れなかった。
あんなに愛してやまなかったフィロメーナを。
何と引き替えにしても、必ず守ると誓ったはずのフィロメーナを。
そのくせ彼女の死という事実を隠して、今日までおめおめと生き長らえてきたのだ。彼女の嘘に守られながら。多くの仲間を裏切りながら──
「……悪い、イーク。俺がもっと注意を払っておくべきだった。ロカンダが襲われてると知れば、あいつがどんな行動を取るか予想できたはずなのに──」
「〝悪い〟……? 〝悪い〟だと? これが〝悪い〟で済む話かよ! だから俺は散々反対したんだぞ、お前なんかにフィロの命を預けることをな! なのに、お前が……!」
「待って下さい、イークさん。あのときはカミラもウォルドも、フィロメーナさんを守るために精一杯戦いました。満身創痍になって、それでもフィロメーナさんを助けようと……だから、二人を責めるのはやめて下さい。あれは誰のせいでもなかった。どうしようもなかったんです。みんながみんな、誰かを救おうと必死に戦って、その中でフィロメーナさんは……」
今にも神術を炸裂させそうなほど怒り狂ったイークから、ウォルドを庇ったのはジェロディだった。
彼は苦い記憶を吐き出すように眉を寄せ、されど逃げずにイークと向かい合う。
ところがそんな彼の行動が火に油を注ぐ結果となった。元からジェロディを敵視していたイークの怒りはいよいよ爆発し、城が震撼するほどの怒号が轟き渡る。
「うるさい、部外者はすっこんでろ! お前に救世軍の何が分かる!? そもそもロカンダが襲われたのはジェロディ、お前があそこにいたせいなんじゃないのか!? 官軍に追われてたお前なんかを匿ったから……!」
「なっ……ふ……ふざけないで下さい!」
瞬間、激昂したイークにも負けない勢いで怒鳴り返したのはマリステアだった。ついさっきまで聖堂で泣き腫らしていたはずの彼女は、今や別人のように顔を真っ赤にして、烈火のごとくイークへと反駁する。
「確かにわたしたちは、あのときはまだ部外者でした! フィロメーナさまのご好意に甘えて、ずるずると匿っていただいたことも事実です! ですがその件はまったくの別問題でしょう!? そっちこそこれまでのことを何も知らないくせに、勝手なことを言わないで下さい!」
「勝手なことを言ってるのはお前らの方だろう! 官軍の回し者が、状況が不利になったからって救世軍に寝返りやがって! 俺は最初からお前らを信用してなかった! 軍人の身内なんざとっとと追い出すべきだったんだ! いっそ力づくでもそうしていれば……!」
「あ、あなたという人は……ティノさまのお気持ちも知らないで、よくもそんなことが言えますね!? あの日、ティノさまがどんな思いでフィロメーナさまと共に戦ったのかお分かりですか? どうしてこの方が今も救世軍にいるのか、本当に分からないんですか!? ティノさまはたったおひとりのご家族も敵に回して、たくさんの重荷を背負って、それでもなおフィロメーナさまの理想を守ろうと戦っていらっしゃるんです! なのに、あなたは……!」
「マリステア殿。お気持ちは分かりますが、今はそこまでにしておいて下さい。現状でいくら怒鳴り合っても、お互いに歩み寄ることは不可能でしょう。幹部同士の諍いを外の者たちに覚られるのも、あまり好ましくはありません」
と、ときに舌戦を止めに入ったのは、なおも泰然と構えたトリエステだった。カミラは二人のやりとりをただ立ち竦んで見ていることしかできなかったのに、トリエステはどこまでも冷静で怖いもの知らずだ。
「ですが、イーク。先程の言葉は確かに聞き捨てなりません。ジェロディ殿を〝部外者〟や〝官軍の回し者〟と侮辱した前言は撤回していただけますか?」
「撤回? 冗談じゃない、だって事実だろう! こいつはあのガルテリオ・ヴィンツェンツィオのひとり息子で、本来ここにいていい人間じゃないはずだ! それを──」
「いいえ。ジェロディ殿はフィロメーナに代わる救世軍の総帥です。このお方は自らの意志で祖国と訣別し、我々と共に戦うことを誓って下さいました。そのジェロディ殿を謗ることは、彼の軍師として私が許しません」
まるでひと振りの剣のごとく、毅然と放たれたトリエステの言葉がイークを絶句させた。他方、庇われたジェロディも、彼女の力強い言葉に意表を衝かれたのか目を見張って立ち尽くしている。
直前まであれほど荒れ狂っていた場の空気が、ようやく凪の状態を取り戻した。
かと思えばイークがよろりと一歩あとずさり、まるで頭蓋が割れようとするのを押さえるように前髪を掻き上げる。
「ハ……冗談だろ? こいつがフィロの次の総帥だって? あんた、こんなガキにフィロの代わりが務まると本気で思ってるのか?」
「フィロメーナの代わりとなり得る人物はここにはいません。いえ、たとえ世界中を探し回っても見つけ出すことは叶わないでしょう。ですがジェロディ殿は新生救世軍の発足から今日まで、立派に我々を導いて下さっています。ガルテリオ・ヴィンツェンツィオの息子でも、ハイムの神子でもなく──黄皇国の未来を憂う救世軍の一員として」
「トリエ……」
彼女の言葉に胸打たれたのか、ジェロディは唇を震わせ、それきり何も言わなかった。しかし直後、広間にはイークの乾いた笑い声が響き、カミラは何かが罅割れていくのを感じる。
「スミッツ。ギディオン。あんたらはどうなんだ? こいつがジャンとフィロの後継者だと言われて納得できるのか?」
「……少なくとも儂は、トリエステの言葉に嘘や誇張はないと感じております。ジェロディは今や立派な救世軍の総帥です。イーク殿、貴殿も先のオヴェスト城攻略戦に参加していれば、きっと同じ結論に至ったでしょう」
「……そうか。スミッツ、あんたは?」
「お、おれは……おれには正直、ジェロディが総帥として適任かどうかはまだ分からん。だが十五歳という若さで、こいつはよくやっている。そう思うよ。フィロのことは……なんと言えばいいのか、今は考えられないが……受け止めるしかない。ジャンカルロのときも、そうだったんだからな……」
頭に乗せた職人帽の鍔を下ろして、独白のようにスミッツは言った。
ジャンカルロとフィロメーナ。二人の友を立て続けに失ったスミッツの胸中を思うと、カミラは体を八つ裂きにされたような気分になる。
だが感傷に溺れている暇はなかった。スミッツの意見を聞いたイークが「そうか」と再度呟いたのち、突如踵を返したからだ。
カミラはそこではっと我に返り、彼の外套が音もなく翻るのを見た。
そのときにはもうイークはこちらに背を向けて、振り返らない。
「おい、待てよ、イーク。お前、どこに──」
「ここはもう俺のいるべき場所じゃない。フィロがいないなら、救世軍に留まる理由もないしな」
「な、何? イーク、お前……!」
「スミッツ、ギディオン。今まで世話になった。この先、俺は俺で勝手にやらせてもらう。あんたらの邪魔はしない。だから──俺のことも、放っておいてくれ」
「イーク、待って……!」
どんなに炙られても凍りついたままだったカミラの喉が、ようやく声を絞り出した。しかしイークは足を止めず、扉の向こうへ姿を消してしまう。
それを見たアルドが慌てた様子で駆け出した。イークを止めるのではなく、追いかけるつもりのようだ。だからカミラもとっさに彼の腕を掴んでしまった。引き留められたアルドが、苦しげな面持ちで振り向いてくる。
「アルド、待って。もう一度私たちの話を──」
「すみません、カミラさん。でもおれ、行かなくちゃ」
「アルド」
「イークさんをひとりにできません。あの人は今日まで、傷だらけになっておれたちを守ってくれた。イークさんがいなかったらおれたちみんな、とっくに死んでたんですよ。だからおれたちのリーダーは、今までもこれからもイークさんです」
「アルド、」
「ほんとに……すみません。でもイークさんはロカンダが陥落してからずっと、フィロメーナさまのご無事を信じて……それだけがあの人の心の支えだったんです。なのに──こんなのは、あんまりだ……」
もっと引き留めていたかったのに、指先から勝手に力が抜けた。唇を噛み締め、涙ぐんだアルドの横顔を見たら、彼に触れていられなかった。
カミラの拘束から解放されたアルドは乱暴に涙を拭うと、身を翻して広間を飛び出していく。カミラは一歩も動けなかった。
できたのは彼らが立ち去った扉をぼんやりと見つめて、涙を零すことだけ。
「え、えっと……どうする? 追いかける?」
と、そこで遠慮がちに尋ねてきたのは、扉の傍で立ち尽くしたカイルだった。彼の隣にはメイベルやコラード、ポレもいて、文字どおり三者三様の複雑な表情を浮かべている。
「……いえ。今は追うべきではないでしょう。彼らにも真実を受け入れるための時間が必要です」
「しかし、トリエステ殿。このままではイーク殿は、本当に救世軍を去ってしまいかねませんぞ。引き留めなくてよろしいので?」
「彼らの行き先は手の者に調べさせます。説得に赴くのは先方の心の整理がついてからの方がいいでしょう。もっとも説得を試みたところで、成果が上がるかどうかは難しいところですが……」
「なら、イークさんの説得には僕が行く。いいだろ、トリエ?」
と、真っ先に名乗りを上げたのは意外にもジェロディだった。先刻イークから痛罵されたあとだというのに、トリエステを見つめる彼の眼差しには迷いがない。動揺をあらわにしたのは話を聞いたマリステアの方だ。
「ティ、ティノさま、本当に行かれるおつもりですか? あの様子ではティノさまが会いに行かれたところで、イークさんはきっと……」
「分かってる。だけどイークさんとは、一度きちんと向き合わなきゃいけないと思うんだ。今の救世軍があるのは、フィロメーナさんを支え続けてくれたイークさんのおかげでもあるんだから……」
ジェロディが思い詰めた様子でそう答えれば、それ以上は止める手立てがないと判じたのか、マリステアも黙りこくった。
今までの彼女ならもう少し食い下がるか、さらに何か言いたげな素振りを見せたはずなのに、今日は諦めたように口を噤み、そっと目を伏せている。
「そういうことなら俺も行くぜ、ティノ。あいつにはどうしても話しておかなきゃならねえことがある。第一お前ひとりで行かせたら、今度こそ殺されるかもしれねえからな。同じ嫌われ者でも、護衛がまったくいねえよかマシだろ?」
「ありがとう、ウォルド。そういうことならお願いするよ。さすがに今回ばかりは、僕ひとりで説得できる気がしないし……」
「だ……だったら、私も……!」
と、カミラはそこで、気づけば二人の会話に割って入っていた。ほとんど無意識のうちに取った行動だったが、イークをこのまま放っておけないという気持ちはまぎれもない本心だ。
「私も一緒に行く。行って、フィロのこと……ちゃんとイークに謝らないと──」
「──いや、ダメだ。お前は来るな、カミラ」
「……え?」
ところが返ってきた答えはまったく予想外のものだった。一瞬何と言われたのか分からず顔を上げれば、視線の先には珍しく真面目くさったウォルドがいる。
──どうして?
目だけでそう尋ねても、ウォルドは答えてくれなかった。ただため息をつきながら横を向き、今日も今日とてボサボサの髪を掻いただけだ。
「ケリー。悪いが頼めるか?」
「ああ。確かに頼まれたよ」
さっきからカミラのすぐ傍にいるケリーが、迷う素振りもなくそう答えた。しかしウォルドが何を頼み、ケリーが何を了承したのか、カミラには分からない。
いや、違う。分からないというより分かりたくないだけだ。だからカミラは、ジェロディを伴って歩き出したウォルドを引き留めようとした。けれどその手をケリーに掴まれ、逆に引き戻されてしまう。
「ちょ……ちょっと待って……待ってよウォルド、ティノくんも……! どうして──」
「ごめん、カミラ」
ウォルドに続いてカミラの目の前を通り抜けざま、ジェロディが短く謝った。彼は少しばかり心苦しそうにしながら、されど足を止めることはなく、先に行ったウォルドを追いかける。
取り残されたカミラは、またしても立ち尽くすことしかできなかった。右腕はしっかりケリーに掴まれてしまっているし、たぶん追いかけても相手にされない。
それが分かって、カミラは為す術を失った。
二人は何故カミラの同行を拒んだのか──答えは簡単だ。
恐らく自分は、守られたのだろう。今のイークは怒りと失望で我を失っている。たとえカミラの言葉であっても耳を貸してくれない可能性は高い。場合によっては関係が完全に決裂するおそれだってあるだろう。
でもカミラは構わないと思った。どんな罵声を浴びせられようと自業自得だ。自分はイークの信頼を裏切ったのだ。
だったらむしろ矢面に立って、彼の憎しみを一身に受けるべきだろう。フィロメーナを守ることができなかった自分にはふさわしい罰だ。
二度と立ち直れなくなるくらい責められて、殴られて、見放されるくらいがちょうどいい。許されようなんて思っていない。
けれどウォルドやジェロディは、それを是としなかった。
彼らはカミラの考えなんて全部お見通しで、だからこそ同行を拒んだのだ。
カミラが責められないように。カミラが殴られないように。
カミラがこれ以上、傷つかなくていいように。
「……どうして……」
二人が去った広間に立ち尽くし、カミラは深くうなだれた。もはや何の感情から溢れてくるのか分からない涙がぼろぼろと零れて、石の床に染みを作っていく。
そんなカミラを、ケリーが何も言わずに抱き寄せてくれた。
光歌祭を待ち侘びる人々の歓声が、秋空にそらぞらしく響き渡っている。




