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【side:A】エマニュエル・サーガ―黄昏の国と救世軍―  作者: 長谷川
第7章 その苦しみを愛と呼ぼう
225/350

223.小さくも愛しき国より ☆


     挿絵(By みてみん)



 美しい三拍子の音色が、湖岸の土を叩いていた。四つの蹄がほんのわずか宙に浮かぶたび、足もとでは飛沫(しぶき)が舞い、キラキラと日の光を反射する。

 清々しいまでの秋晴れの空。カミラはほとんど雲のない空を見上げて、キンと冷えた朝の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。

 一定のリズムを刻んで揺れる鞍の右手には、深く青いタリア湖が広がっている。陽光を照り返す水面(みなも)はまぶしくて、額に手を(かざ)さなければ直視できないほどだ。


 そうして見やった沖には救世軍の小舟がいくつも浮かび、コルノ島の漁師たちが今日も漁に精を出していた。湖底から引き上げられた四角い籠状(かごじょう)の罠の中には、たくさんの魚がかかっているのが見える。

 さらに手綱を(さば)いて内陸へ進路を取れば、ほどなく行く手に広大な農園が見え始めた。(たわ)むほどに穂をつけた麦が生み出す金の海。その刈り入れに追われる農夫たちの姿が、金色(こんじき)の波間に見え隠れしている。


「あ、カミラだ。おーい、カミラ! おはようー!」


 中でもいっとう大きな人影が、馬を駆るカミラの姿を見つけてぶんぶん手を振ってきた。それを認めたカミラも馬を止め、農園の内と外とを隔てる柵の向こうから手を振り返す。


「おはよう、ジョルジョ! ねえ、カイルを見なかった? 午後の調練の前に話しておきたいことがあるんだけど、見つからなくて!」


 声をかけてきたのは、今日も赤い頭巾とキモノ姿がよく目立つライリー一味のジョルジョだった。今やすっかり農園の責任者となったジョルジョはカミラの問いかけを聞くや、大きな顎に手をやって小首を傾げている。


「カイルくん? あー、えっと、カイルくんはねえ……た、たぶんだけど、ライリーと一緒にいるんじゃないかなあ」

「ライリーと? じゃあ、ライリーがどこにいるか知ってる? あいつも朝から見てないんだけど──」

「ん、んーと、えーっと、だいじょうぶ! 二人とも、きっともうすぐ戻るから! 朝練だから!」

「あされん?」

「あっ、いや……そ、そういえばさ! カミラ、これから居住区(まち)の方に行ったりしない……!? ロクサーナからマトルキの花、届けてほしいって頼まれてるんだけど、おれ、いま手が離せなくて……!」

「ええ、まあ、いいけど……代わりにカイルを見かけたら、私が探してたって伝えてくれる? 〝第四期の子たちの件で相談したいことがある〟って言えば、たぶん分かると思うから!」

「う、うん、いいよ! じゃ、花を持ってくるから、ちょっと待ってて!」


 そう言ってわたわたと麦穂を掻き分け、ジョルジョが風車つきの粉挽(こなひ)き小屋へ駆けていくのを、カミラは馬上から見送った。

 あの慌てぶりは明らかに何か隠してるよなあ……と思いつつ、彼の誤魔化し方は相変わらずヘタクソすぎて問い詰める気も起きない。まあ、詳しいことはカイルが戻ったら問い質せばいいかと嘆息し、カミラは再び空を仰いだ。先程からピーヒョロロロ……と笛の音のような鳴き声を上げ、頭上を(とび)が飛んでいる。


 光神の月。


 苛烈を極めたオヴェスト城の戦いから、早くも五ヶ月のときが流れていた。

 あれ以来救世軍は地方軍との小競り合いこそあれ、大きな戦もなく平和な日々を過ごしている。霧の壁が取り払われ、島の姿が外から丸見えとなった今も外敵が攻めてくる様子はない。やはり五ヶ月前、救世軍が見せつけた神術砲(ヴェルスト)の破壊力は、黄皇国軍の中で確かな脅威として認識されたようだ。


 おかげでカミラたちはオヴェスト城の戦いで負った痛手から充分に立ち直ることができた。戦いの直後、半分まで減った兵力は今や五倍近くまで膨れ上がり、もうすぐ五千に届こうとしている。


 加えてハーマンが治めるオヴェスト城には一万の友軍。『新生救世軍オディオ支部』と名を改めたオディオ地方は、先月からついに救世軍の領土として稼働を始めていた。オヴェスト城の再建が進み、ようやく軍事拠点としての機能を取り戻したことで、ハーマンが黄皇国軍からの離脱を宣言したのだ。


 彼の下に集った一万の将兵は、ほとんどが黄皇国中央第五軍の兵士たち。ハーマンはオヴェスト城再建の目処が立った頃、一度第五軍を解散し、救世軍と共に戦う意思がある者をゼロから募った。すると先の戦いを生き残った将兵の大半が、意気揚々とハーマンが掲げた旗の下へ戻ってきたのだ。

 彼らは上官であるハーマンやコラードと、再び共に戦うことを望んだ。二人を窮地に陥れ、魔族による恐怖と支配を蔓延させようとした黄皇国に対して不信を募らせ、民を守るべく立ち上がってくれた。


 何よりあの日、押し寄せる屍人(しびと)の群と手を取り合って戦ったことで、救世軍と第五軍の間には確かな絆が通ったのだ。

 ハーマンの下に()(さん)じた兵の中には、コルノ島への転属を志願した者も多くいて、彼らは島へ来るなり救世軍に馴染んでしまった。まあ、官軍も救世軍も、(ふた)を開ければ中身は同じトラモント人なのだから、当然と言えば当然だけど。


「おかげでここもますます賑やかになったわよねー」


 とカミラはジョルジョを待つ間、愛馬にそう語りかける。エカトルと名づけたこの月毛(つきげ)は、救世軍が初めて買いつけた三十頭の馬の中にいた。その一頭一頭を調教していく中でエカトルとは妙に息が合い、トリエステに頼んで自分の馬にしてもらったのだ。エカトルの方もカミラによくなつき、今ではこうして語りかけるたび興味深げに振り向いたり、耳を動かしたりと反応を返してくれる。


「ハーマン将軍が軍付きの調教師を回してくれたおかげで、私もいよいよ隊の調練に専念できることになったし。月が変わる頃には、第五期の軍馬候補生が島に来るって話よ。次はどんな子たちが送られてくるのか楽しみよねー。あなたも最近は毎日走り回れて嬉しいんじゃない、エカトル?」


 とカミラがさらに話しかければ、エカトルはブルルッ……と鼻を鳴らしてみせた。この馬は特に走ることが大好きだから、厩舎(きゅうしゃ)を出てカミラと過ごす時間が増えた今、毎日が楽しくて仕方がないはずだ。


 というのもオヴェスト城の戦いのあと、ハーマンの協力もあってようやく軍馬の数が揃い、救世軍は念願の騎馬隊結成に漕ぎ着けた。カミラはその隊長に任命され、今は五百の騎兵を率いている。


 当然ながら騎馬隊の指揮を執るのは生まれて初めての経験で、毎日が試行錯誤の連続だった。ゆくゆくはケリー隊も騎馬隊に──との案が出ているため、彼女に助言を仰ぎながら日々隊長職と格闘している。おかげで日が沈む頃には疲れ果て、夜が来るなり寝台に倒れ込む生活が続いていた。けれどもコルノ島で過ごす日々はとても充実していて、目の回るような忙しさもまったく苦に感じない。


(むしろ、毎日楽しいっていうか──)


 自分がいて、仲間がいて、皆と泣いたり笑ったりしながら救世軍を守り育てていく。そんな日常の中に、カミラは己の存在意義とやりがいを見出だしていた。

 黄皇国打倒の道のりはまだまだ遠い。

 されど自分たちの手で、一歩一歩着実に前へ進んでいる実感が愛おしい。


 ──ここが私たちの(ホーム)


 カミラはひどく満たされた気持ちで、風に(なび)く麦畑を眺めた。

 この農園ひとつ取ったって、トリエステやジョルジョの尽力のおかげで、今や当初の三倍にまで耕地が拡大している。収穫も上々で、秋が終わる頃には救世軍が半年食いつなげるだけの糧秣(りょうまつ)が確保できそうだという。


「今の私たちを、フィロも見てくれてるかな」


 頭上を旋回する鳶を目で追いながら、ぽつりとそうひとりごちた。と、ほどなくジョルジョに呼ばれて我に返る。

 麦畑の向こうから戻った彼の腕には、マトルキの花が山盛りになった背負い籠が抱えられていた。黄色い花弁をめいっぱい開いて咲いた秋の花だ。


「おまたせ、カミラ! 今期のマトルキはこれで最後だよ。足りればいいな、と思うけど、どうだろう。いざとなったら、ナナ芋の花もあるから……」

「わあ、すごい。今朝だけでこんなに採れたの? 居住区(まち)の人だけじゃなくて、アンドリアさんも喜びそうね」

「えへへ。確かにこんだけあれば、たくさんマトルキ料理が作れるもんね。明後日が楽しみだなあ」

「私もよ。なんたって今年の光歌祭(こうかさい)は、光の神子さまがいるからね」


 籠を受け取りながらにっと笑って、カミラは山をなすマトルキの花に顔をうずめてみた。キラキラ輝く水滴をまとった花からは、優しくて瑞々(みずみず)しい香りがする。

 このマトルキという花は、花弁の真ん中から飛び出した赤い雌蕊(めしべ)が香辛料になることで有名だった。乾燥させた雌蕊を釜に入れれば、香ばしい黄金色の米が炊ける。祝い事にはぴったりの隠し味だ。


 カミラは受け取った籠に薄布を被せると、中身が零れないよう(ひも)で縛って「よっ」と背負った。そうしてジョルジョに別れを告げ、今度は南へひた駆ける。

 牛や羊が放牧されている草原(くさはら)を横切り、しばらく馳せ続けると、やがて行く手に無数の建物が見えてきた。島の中心部に位置する『居住区』──救世軍に雇われた職人や兵士たちの家族が暮らす区画だ。


「あーっ、カミラさんだ! おはよー!」


 今や人口千人を数える立派な町。コルノ島で最も賑やかなその区画へ足を踏み入れたカミラは、通りを駆け回る子供たちから早速熱烈な歓迎を受けた。

 石造りの建物が並ぶ一角は、秋の朝の肌寒さなんて吹き飛ばすほどの熱気で溢れている。見渡す先には、新しい家屋の建材を担いで歩く大工たち。洗濯のため小川に列をなす女衆。はしゃぎ回る子供たちと、彼らの遊び相手になってやっている牛人(タウロス)族、そして民家の屋根に登った猿人(ショウジョウ)たち……なんというか、ここはいつ来てもいい感じに無秩序だ。


「オイ、コイツァこの辺でいいのかい……!?」

「ああ、上出来だ! そこに(くく)りつけといてくれ!」

「こっちはどうする? 向こうに運ぶか?」

「あー、いや、待ってくれ。そっちのリースはまだ完成してないから……」


 なんて会話が、馬を常歩(なみあし)で進めるカミラの目の前を行き交っている。屋根に上がった猿人たちと言葉を交わしているのは島の住民たちだ。

 オヴェスト城の戦いのあと、救世軍は獣人居住区で暮らす獣人たちと互助同盟を締結し、獣人区の平和が完全に約束されるまで共に戦うこととなった。以来、島には牛人族の戦士と猿人族の勇士が常駐している。ジャラ=サンガからも神術に秀でた蛙人(フロッグ)たちが移住してきていて、さながら小さなビースティアだ。


 救世軍と獣人区をつないでくれた猫人(ケットシー)のアーサーは未だ戻らないものの、移り住んできた獣人たちとコルノ島民の関係は良好だった。互いが互いの存在を認め、理解し合い、助け合う──そんな結びつきが確かに生まれつつあるのだ。

 唯一気がかりなことがあるとすれば、テレルを始めとする角人(ケレン)たちの行方だろうか。オヴェスト城の戦いのあと、彼らは獣人居住区を離れ、消息を絶ったとグルの使いからそう聞いた。


 何しろ角人族が獣人区に留まれば、ルシーンが再び彼らを狙って軍をけしかけるおそれがある。だからテレルたちは引き止めようとしたグルの厚意を拒み、自ら立ち去る道を選んだ。分かっているのは、彼らがオディオ地方の方角へ消えたということだけだ。ハーマンが治めるあの地方であればしばらくの間は安全だろうが、ルシーンがそう簡単に古代兵器の入手を諦めるとも思えない。


 テレルもルエラも無事でいてくれればいいけれど──そう願いながらカミラは馬を下り、道の真ん中で子供と(たわむ)れているケムディーに歩み寄った。牛人たちも今日は()()()に駆り出されてきたのだろうが、子供の大群に捕まってどうやらそれどころではないらしい。


「おはよう、ケムディー。今日も朝から大人気ね」

「ヌウ、カミラ、カ。オハヨウ(サワディー)。朝カラ、ココ来ル、メズラシイナ」

「うん、ちょっと届け物を頼まれちゃって。クワンは一緒じゃないの?」

「大戦士ナラバ、アチラダ。モノ運ブ、手伝ッテイル」


 真っ黒な体毛で覆われた力瘤(ちからこぶ)に人間の子供たちをぶら下げながら、ケムディーは揺れる鼻輪で通りの先を示した。そこでは一際大きな黒い雄牛が金色の角を閃かせ、積み荷が満載の荷車を()いている。

 彼の蹄が力強く大地を掻く度、周りの住民からは歓声が上がった。クワンが運んでいるのは二日後の祭りで使われる大道具や星飾りだ。


 何しろ明後日は光歌祭。毎年光神の月光神の日は光明神オールを讃える祭日で、この日はエマニュエル中の町や村が歌声に包まれる。

 オールは光の神であると同時に、世界に歌をもたらした音楽の神だ。ゆえに光歌祭では人々がオールに感謝の歌を捧げ、夜も光を絶やさずに踊り明かす。


 あちこちの家や(やぐら)に、木の枝や(つた)で組まれた星型のリースが飾られているのもそのためだった。星はオールの象徴であり、希望のシンボルとして人々から親しまれている。カミラが背負ってきた花もリースの飾りにと用意されたもの。マトルキの花はこれから丁寧に雌蕊を取り除かれ、花弁はリースの一部として居住区に飾られるのだろう。


「あ、そう言えばケムディー、カイルを見なかった? もしくはライリーでもいいんだけど」

「ヌウ? カイルナラバ、今朝、西ノ方ヘ行クノヲ見タ。ライリーモ、一緒。ソレカラ、()()ノ……名前、ナントイッタカ……」

「ヒゲ? ヒゲっていうと、もしかしてレナード?」

「レナード、チガウ。モット、小サイ()()ダ」

「も、〝もっと小さいヒゲ〟って、ずいぶん斬新な呼び方ね……だけど他にヒゲを生やしてる人って言ったら、リチャードさん? は、レナードと同じくらいの身長だから違うか。じゃあ、ギディオンかスミッツ?」

「ヌウ……ドチラモ、チガウ……気ガスル……」

「んー、だったら……そうだ、ゲヴラーさん!」

「ゲヴラー?」

「そうよ、救世軍(ウチ)の武術指南役の。髪もヒゲも灰色で、カマヤリ? とかいう、ちょっと変わった形の槍を使ってる……」

「ヌ! ソウダ、ソノ()()ダ!」

「〝ゲヴラーさん〟ね。ケムディー、ほんと人の名前覚えるの苦手よねえ……」

「ヌ、ヌウ……スマン……」


 まだ人間の顔の見分けがつかないのか、救世軍メンバーの顔と名前が一致していない様子のケムディーは恥じ入るように頭を掻いた。すると彼の腕にぶら下がる子供たちがきゃあきゃあはしゃぎ声を上げて、上へ下へと揺られている。

 だけどカイルとライリーとゲヴラーが西へ? カイルとライリーだけならまだしもゲヴラーまで一緒とは珍しいな、とカミラは頭を(ひね)った。

 そもそも居住区から西は未開発で、家畜の放牧地が広がっているだけだ。南へ下れば船着き場から少し外れた位置に墓地が築かれつつあるものの、彼らがこんな朝っぱらから雁首揃(がんくびそろ)えて墓場へ行ったとも考えにくい。


 ──カイルのやつ、やっぱり何か隠してるわね。


 オヴェスト城の戦いを終えて島へ戻ってからというもの、カイルの様子がどこかおかしいのにはカミラも薄々気がついていた。毎日鬱陶しいくらい絡んでくるのは相変わらずなのだが、どうも裏でコソコソと何かたくらんでいる気配がある。それもライリーやカルロッタとつるんで、だ。

 今度はそこにゲヴラーまで巻き込むつもりだろうか。彼は形式上、ライリーの弟分ということになっているから、どんな理不尽な命令であろうとライリーの言うことには逆らえない。その立場を利用して良からぬことを企てているのなら……。


 カミラは額に手を当ててやれやれと嘆息をついた。カイルも今は馬の調教係を卒業し、カミラ隊の一員ということになっているのだから、勝手な行動は慎んでもらいたい。でないと何かあったとき、隊長の自分まで責任を問われるではないか。

 ただでさえカイルを隊に入れるか否かでウォルドと揉めて、トリエステにも渋い顔をされ、「彼の素行が隊の風紀を乱すようであれば即刻除隊します」と釘を刺されているというのに。


「まあいいわ……貴重な情報ありがと、ケムディー。そう言えば今日、これからポレたちが来るらしいわよ。オディオ地方で採掘した神刻石(エンブレム・ストーン)を届けにきてくれるんですって」

「ヌウ……! ソウカ、ポレ、島ニ来ルカ。ソレハ、トテモ楽シミダ」


 ぶるんぶるんと嬉しそうに尾を振るケムディーに別れを告げて、カミラは光歌祭の準備で賑わう通りを、エカトルを曳いて歩いた。

 そうして次に向かったのは、居住区の東の外れにある木造の建物だ。石造りの民家が並ぶ中、非常に質素な佇まいのその建物は、入り口の真上に光神オールの神璽(みしるし)である《六枝の燭台(メノラー)》の破風(はふ)(かざ)りを掲げている。


 あれは光神真教会こうしんしんきょうかいのトビアスとロクサーナが二人で開いた、コルノ島唯一の聖堂だった。かつてここの主だったライリーの深刻な宗教嫌いのせいで、島には聖堂はおろか聖職者さえいなかったのだ。

 しかし無神論者のライリーとは違って、エマニュエルの民の大半は敬虔(けいけん)な信仰者。ほとんどの人間は毎朝聖堂へ(おもむ)いて神々に祈りを捧げることを日課としており、教会はそうした民の心の()りどころでもある。


 ゆえに現役の聖職者であるトビアスは島へ来るなり人々から担ぎ上げられ、ライリーを説得──もとい、トリエステの助力を得て脅迫──した結果、この聖堂が建てられた。トラモント人の大半は金神系教会に帰依(きえ)しているから、本来は教派が違うものの、トビアスはいかなる教会の教徒であろうと関係なく受け入れている。

「黄皇国の人々には、我々光神真教会を温かく迎え入れていただいた歴史がありますから」とトビアスは言った。そして少し寂しそうに「それもこれも、すべてはオルランド陛下のご恩情あってのことだったのですが……」とも。


「ごめんくださーい」


 そんな経緯で建てられた聖堂の前にエカトルをつないで、カミラは真新しい木の匂いがする扉をくぐった。今朝の礼拝の時間はとっくに過ぎているから、中にはトビアスとロクサーナ以外誰もいないだろうと高を括って。


 ところがいざ踏み込んでみて、驚いた。木製の長椅子がずらりと並んだ聖堂内には確かに人影が二つだけ。


 されど正面の説教台、その上方に掲げられた硝子窓(ガラスまど)から射し込む陽光(ひかり)が照らし出したのは、オールの神子たるロクサーナと──両目を真っ赤に泣き腫らした、マリステアだ。


「あ……あれ? マリーさん?」


 突然の闖入者(ちんにゅうしゃ)に驚いた様子の二人が、揃って目を丸くした。


 そのときカミラは確かに見る。満月みたいに大きなマリステアの瞳から、大粒の涙がひと雫、するりと零れ落ちたのを。



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