222.我想う、ゆえに我あり
ぎょっとしすぎて思考も体も固まり、数瞬、不自然な沈黙が流れた。
胸壁に預けたままの額が上がらない。されど確かにカイルの左側、すなわち城内へと通じる唯一の出入り口がある方角に人間の気配を感じる。
……誰だろう。さすがにこのまま知らんぷりはまずいかな? まずいよね?
だってこんな時間にこんなところでひとりごと言ってるのを見られただけでも、わりとヤバめにまずいもんね? 絶対怪しいやつだと思われてるよね?
まあ、変な目で見られるのは今に始まったことじゃないんだけど?
いやー、でもやっぱ知らんぷりしたいなー、できれば朝までこうしてたいなー何も聞かなかったことにしたいなー、という思考のループを何周か繰り返したあと、カイルはついに観念して恐る恐る顔を上げた。そうしてぎこちなく視線を送った先には、予想よりだいぶ小さな人影がある。カイルもそこまで背が高い方ではないが小さすぎて一瞬視界に入らず、空耳だったのかと思ったほどだ。
「……ターシャちゃん?」
未だ明るい月明かりの下、カイルはゆっくりと目を丸くして少女を眺めた。
身長は二十八葉(一四〇センチ)に届かないくらい、踝まで覆う白の貫頭衣に身を包み、さして珍しくもない虫でも眺めるようにこちらを見上げているのは間違いなく、ターシャだ。
「その呼び方、やめて」
かと思えば彼女は、遊び盛りの女の子とは思えないほど平板な口調で、直前のカイルの発言をピシャリと叩き落とした。喉の奥から滲み出る嫌悪の情を少しも隠そうとしないあたり、今、彼女は相当に不愉快な気分でいるらしい。しかし果たして何が彼女を不快にさせたのか、確認の意味を込めてもう一度、
「……〝ターシャちゃん〟?」
と繰り返したら、道端で汚物でも見つけたような顔をされた。
「ご、ごめんごめん。つまり〝ちゃん〟づけがイヤなわけね? じゃあ、えーっと……ターシャさん? ターシャさま?」
「なんでいちいち敬称をつけるの。しかも敬称の選択がおかしい」
「い、いやあ、だってさあ、ターシャちゃんって歳のわりにすげえ大人びてるから、尊敬の念を込めて呼んだ方がいいかな? と思って……なんていうかこう、面と向かって話してると足もとにひれ伏したくなるオーラがあるし?」
「普通に呼び捨てでいい。気色悪い」
「ごめんなさい」
「理解したなら、次からは善処して」
なんでそんな難しい言葉を知ってるんだろうこの子、というカイルの疑問をスルーして、ターシャは屋上の胸壁に手をかけた。
転落防止用の石積みは、身長三十四葉(一七〇センチ)弱のカイルの胸元くらいまであって、端的に言えばターシャの身の丈と代わらない。彼女がそこに手をかけると中途半端に万歳しているみたいな姿勢になって、何だか少し面白かった。
もしかして壁の向こうが見たいのかな? もしそうなら手を貸した方がいいか──なんて思ったのも束の間、ターシャはトンッと軽い足取りで床を蹴る。
刹那、まるで彼女の意思を汲んだかのように風が吹いた。それもカイルたちの真下から、ターシャの小さな体を壁の上まで押し上げるみたいに。
色素の薄い彼女の髪と、たっぷりとした貫頭衣の裾が月明かりの下でふわりと踊る。どこか神秘的で幻想的な眼前の光景に、カイルは目を奪われた。
風の腕に抱かれ、無事胸壁の上へ乗り上げたターシャは、そこを椅子代わりに腰かける。体は城側に向け、細い脚を投げ出し、夜空にはためく救世軍旗を見上げた横顔に、図らずも背筋がぞくりとした。
彼女のことは出会った当初からお人形さんみたいだと思っていたが、月光の下だと肌の白さや生気のなさが際立って、余計にそう感じてしまう。そもそもカイルはターシャとまともに言葉を交わすの自体、実はこれが初めてだ。
「え、えーっと……ターシャちゃ……じゃなくて、ターシャ? 君さ、こんな時間にこんなところで何してるわけ……?」
「別に何も。ただ、眠れないから星を見に来たらキミがいた。それだけ」
「星を……? ターシャ、星が好きなの?」
「大して好きでも何でもないけど」
「へ、へえ……じゃあ星を眺めてると眠くなる体質とか?」
「そんな体質聞いたことない」
「ですよねー」
自分で口走ったことを自分で否定する形になって、直後、カイルは敗北感に似た何かに苛まれた。おかしい。まさかこのカイル様が女の子──しかもまだとても小さい──に会話の主導権を握られたあげく軽くあしらわれてしまうなんて。屈辱だ。
「そう言うキミはここで何してるの」
「えっ……お、オレはそのー……まあ、君と似たようなもんかな? 眠れなくてさ。今日はちょっと、色々あったし……」
「ふーん」
自分から尋ねてきたくせに、ターシャは心底興味がなさそうに鼻を鳴らした。彼女の視線はずっと空を向きっぱなしで、本当に星を見ているんだなと思う。ついでに言うと、マジでまったく一葉もオレには興味がないんだな、とも。
「で? 少しは眠くなった?」
「う、うーん、どうだろなー。さっきよりは若干眠くなってきた気がしなくもないけど、部屋に戻って即刻眠れるほど眠いかと言われると何とも……」
「じゃあお酒でも飲んでくれば。食堂に行けば、今ならまだ誰かしら飲んでるんじゃない。ここは無駄に夜更かしする人が多いから」
「ま、まあね。元は湖賊の城だしね……ていうかターシャ、もしかしてオレのこと心配してくれてるの?」
「は? 何をどう解釈したらそうなるわけ? わたしはキミにこのままいられると邪魔だから、遠回しにさっさと消えてほしいって言ってるんだけど?」
「わー。噂には聞いてたけど君、すげー毒舌だねー。ダメだぞー、年端もいかない女の子がそんな邪険な態度ばっか取ってちゃー。それでなくともここにはおっかないお兄さんたちがいっぱいいるんだからー」
「あんな連中、別に怖いとも何とも思わないけど。とりあえず人を子供扱いするのはやめてくれる? 迷惑だし、鬱陶しいし、切り刻みたくなるから」
「すみません、反省してます」
ターシャは相変わらずこちらを一顧だにしなかったが、カイルは何か怒らせてはいけない存在を怒らせかけている気がして即座に謝罪した。
まったく想定外だし、フェミニストの鑑を自負する身としては非常に悔しいものの、これは駄目だ。全然歯が立たない。長年、十人や二十人ではきかない数の女の子をナンパしてきたカイルでさえ出会ったことのないタイプ。果たしてどのように攻略すればいいのか見当もつかない。
いや、むしろ攻略したいのか? と言われれば、そこからして既に疑問だ。
オレに攻略をためらわせるなんて、何なんだこの子は。
一応何もかも噂どおりではあるけれども。子供なのに子供らしさも可愛げもなくて、あの世話好きのカミラですら匙を投げたという伝説の少女、ターシャ。
彼女が一体何者なのか、カイルは知らない。ただターシャは気がついたら島にいて、いつの間にか我が者顔で城の書物庫──収められている蔵書のほとんどはトリエステが個人的に集めたものだが──の住人になっていた。カイルがターシャについて知っていることと言えば、いつも書物庫で本を読んでいることと、島の誰とも一切交わろうとしないこと、ゆえに島民の間で彼女に対する心ない噂が立っていること、あとはカミラとすこぶる仲が悪いらしい、ということくらいだ。
ジェロディは彼女が最初に島へ来たとき、「自分の遠縁の親戚の子」だと皆に触れ回っていたけれど、あれもどことなく嘘くさい。
ターシャ本人が否定も肯定もしないからそういうことになっているものの、当のジェロディさえターシャを遠巻きにしているのは端から見ても明らかだった。
結局ターシャが何のために島へ来て何をしようとしているのか、知る者は一人としていないのだ。身寄りのない子供だからと、とりあえず島に置くことには同意しているだけで、誰もそれ以上は触れないしターシャも触れさせない。
一説にはこうして会話が成立することすら、彼女との間では奇跡に近い事象なのだという──大概の場合、ターシャは自ら誰かに話しかけるという行動を取らないし、誰かが話しかけても涼しい顔で無視するそうだから。
(けど、そういやこの子……昼間オレらが島に帰ってくるなり、カミラのことを思いっきり睨みつけてたよな)
なんてことを何故だかいま思い出して、カイルは内心首を傾げる。先述したとおり、カミラとターシャはどうも折り合いが悪いらしく、島内では犬猿の仲で知られていた。
老若男女を問わず、誰とでもすぐ打ち解けてしまうカミラにしては珍しいことだが、昼間の様子を思い返すに、ターシャの方もカミラを相当嫌っているらしい。帰島したカミラと鉢合わせるなり無言で睨み据えていた形相には、とても十歳前後の子供とは思えぬ嫌悪の情が溢れ出ていた。
かと言って彼女が何故カミラを嫌うのか、理由を問い質すのは何となく憚られる。尋ねたところでまともな答えが帰ってくるとは思えないし、余計な詮索はただでさえ悪い彼女の機嫌をさらに損ねてしまいそうだ。
ここは大人しく部屋へ戻るが吉か。そう判断したカイルは適当に「おやすみ」とでも言って、そそくさと城内へ戻ろうとした。
ところが「じゃあ、オレは部屋に戻るから」の「じ」を口にしかけたところで、
「で、誰に会いたいの」
と、壁の上から予想外の問いかけが降ってくる。
カイルは再び硬直した。硬直、というか、凍りついたと言ってもいい。
「い……いやあ、ハハハ……ひょっとしてさっきのひとりごと、聞かれちゃってた感じ? ヤだなーもー、こんな時間に屋上に来るやつなんていないだろうから別にいっか! って、油断してたらこれだものー」
「別に答えたくないならいいけど」
「へっ……?」
何とか話を誤魔化そうと思考を高速回転させていたら、さらに予想外の返答がきて思わず間抜けな声が出た。本人が別にいいと言ってくれたのだから、ここはお言葉に甘えてうやむやにするべきところなのに、何故聞き返してしまったのか。一拍前の自分を今の自分から取り出して正座させ、一刻ほど問い詰めたい。
「ただ、本当に会いたそうに見えたから。暇だし占ってあげようかと思って」
「……占う?」
「そう。星占い」
「ターシャって占いができるの?」
「まあね。一応賢者候補だから叩き込まれた。わたしはそんなの、なる気はないって言ったんだけど」
「賢者候補?」
「やるの、やらないの。やらないならそれでいいから、さっさと視界から消えて」
「自分で引き留めたんじゃん……」
とつい口から零れそうになった本音を、カイルは慌てて飲み込んだ。だけどこれはある意味チャンスだ。気まぐれだか何だか知らないが、ターシャは自らカイルをこの場に引き留めた。彼女が噂どおりの少女ならば、恐らくまたとない機会。
彼女の情報を引き出せるとしたら、今しかないんじゃないか?
(ターシャの話題なんて、オッサンとの会話に上げたことないけど……)
でも彼女は一応ジェロディの血縁者ということになっている。カイルは嘘だと睨んでいるが、ジェロディの名前を出せばたぶんあの男は食いつく。
どんな些細な情報でもいいから、報告として出せる情報がなくなったとき、つなぎとなるものが今は欲しい。ただでさえ自分はウォルドやヴィルヘルムに警戒されて、救世軍の内部情報をあまりもらえなくなっているから……。
(……けど、だからってこんな小さい子まで利用するのか、オレ)
不意にそんな自問が頭をもたげて、カイルはぎゅうと喉が絞られるような感覚を覚えた。ターシャは確かに口も態度も悪いけれど、黄都のそこそこ裕福な家庭に生まれていれば、幼年学校に通っていてもおかしくない歳の子だ。
それをまんまと利用する? 自分一人の保身のために?
そう思った刹那、口の端に自嘲が滲んだ。
ターシャが突然現れたとき、とっさに懐にしまった手紙に触れる。
──会えないな。
どんなに会いたいと願っても、今のオレじゃ君に会えないよ、アーニャ……。
「……ターシャの占いってさ。どれくらい当たるの?」
胸の手紙に触れたまま、試しにそう尋ねてみた。
「さあ。歴史の転換点とか、大きな災害の発生くらいなら何度も当ててきたけど。他人の人生について占ったことなんてないから、何とも言えない」
ターシャは相変わらず星空を眺めたままで、首が痛くならないのかな、なんて、カイルは場違いなことを思う。
「いや、けど充分すごくない? 歴史の転換点って……」
「別に、星読み人の間では普通。逆に一人の人間の、細々した悩みとか先行きとかについて占う方が難しい。世界にとっては小さすぎてどうでもいいことだから」
「どうでもいい……か」
「うん。どうでもいいよ」
見上げたターシャの横顔はやっぱりつくりものめいていて、カイルは何だか少し悲しくなった。ああ、たぶんこの子は親の愛情もまともに受けられず、孤独に育ってきたんだろうなと、勝手な想像と一緒に同情が芽生えた。
だってアーニャがまさしくそうだったのだ。生まれつき耳に障害を持ち、世の中に溢れるいかなる音も聞くことなく育った彼女は、両親から使い物にならない欠陥品として扱われ、家の恥だからと屋敷に閉じ込められて育った。
何も聞こえない静寂の世界で誰からも愛されず、愛し方も分からずにいた少女。
自分は彼女を救ってやりたいと思った。
最初は若気の至りとでも呼ぶべき、ちゃちな正義感だったのだろうと思う。
だけど今は違う。自分はどうなっても、彼女には笑っていてほしい。
うつむいて悲しそうな顔をしている女の子がいたら、笑わせてあげたい。
──それこそが、オレという人間じゃないか。
「あのさ。ターシャって恋したことある?」
「……は?」
顔を上げて尋ねたら、予想どおりの反応が返ってきた。また道端の汚物でも見るような視線が降ってきて、カイルはにへらっと笑う。よかった。やっとオレを見てくれた。
「オレはさあ、あるよ。いっぱいある。物心ついた頃から、むしろ恋しかしてなかったね。だってソルレカランテってさあ、かわいい女の子がいっぱいいるんだよ! 右を見ても左を見ても女の子。あれで恋するなって方が無理だよね、うん。無理だと思う。男ならね、目移りしてもしょうがないっていうか」
「いきなり何の話」
「だーかーらー、恋の話だって。ターシャは恋したことないの?」
「……」
「お、だんまり? ってことは、ひょっとして好きなやつがいたりする?」
「そんなやついない」
「そっかー、いないのかー。けどさ、もしちょっとでも気になる相手がいるなら恋、した方がいいよ? だって世界が変わって見えるし? かく言うオレもさ、実を言うと現在進行形で恋しちゃってるんだよねー。しかもこれが困ったことに、二人の女の子に同時に惚れちゃっててさ。自分でもそれってどうなんだよと思いつつ、まあ好きになっちゃったもんはしょーがないよね的な? だってどっちも好きなんだもん。どっちか片方だけなんて選べないくらい好き。だけどこういうときってさ、ぶっちゃけどうすればいいんだろうね?」
「知らないし、訊く相手を間違えてると思うけど」
「そうかな? あ、ちなみにオレ、ターシャのこともちょっと好きかもしんない」
軽い嫌悪の眼差しが一転、心の底からの蔑みに変貌する瞬間をカイルは見た。けれど完璧な天使の彫像みたいだったターシャの表情がほんのわずかでも動いたのが嬉しくて、カイルは「よっ」と自分も胸壁へよじ登る。ちゃっかり隣に座ろうとしたら、あからさまに距離を取られた。
「あれ? ターシャ、ひょっとしてオレのこと、今〝キモい〟とか〝ウザい〟とか思ってる? 思ってるよね? たははー、まあよく言われるんだけどさー」
「……わたし、やっぱり部屋に戻る」
「あー、ちょっと待ってちょっと待って! その前にぜひ占ってほしいことがあるんだけど!」
「やらない。気が変わった」
「そう言わずに! こう見えてオレ真剣だから! 超真剣だから! なんたってターシャとお近づきになるチャンスだし!? いや、それ以上にマジで占ってほしいことがあるんだよね実は!」
「……めんどくさいから手短に言って」
「あっ、つまり占ってくれるってこと!? そうだよね!? ありがとう! もしかしてターシャって意外と優しいのかな!? 君はオレの天使!」
「さようなら」
「あー、ウソ、ウソ! いや、ウソではないんだけども!? オレさ、今、どうしても守ってあげたい子が二人いて! どっちか片方を守ろうと思ったら、もう片方を守ってあげられなくなっちゃうかもしれないわけ! だけどオレ的には、やっぱりどっちも甲乙つけがたいというか、できればどっちも守ってあげたいわけで、そういうワガママって果たして許されるのかなーと……!」
ターシャがどこの誰で、何のためにこの島にいるのかなんてどうでもいい。ただ可能な限り彼女に近づいてみたい。彼女のことをもっと知りたい。そういう一心でカイルは捲し立てた。占いは単なる口実だ。
島の誰もがターシャを拒んでも、自分はそうじゃない。ちゃんと話を聞きたいし、聞いてほしい。まずはそれだけでも伝わればいいと思った。
だってこんな小さな女の子が周りから白い目で見られ、ただでさえ窮屈になっている心をどんどん押し込めていくなんて可哀想だ。
せめて自分は、自分だけでもいいから、ターシャの理解者になってあげたい。いや、理解できなくてもいい。ただ寄り添ってあげたい。
世界の半分は確かに闇で覆われているけれど、もう半分は陽だまりでできているのだということを、彼女にも知ってほしいから。
「そりゃあさ、他にも守ってあげたい女の子はいっぱいいるよ? マリーさんとかラフィちゃんとかメイベルちゃんとかさ? でも心を鬼にして絞りに絞ってやっと二人なわけ! これ以上はどうあっても絞れないわけ! そういう場合ってどうすればいいんですかね……!?」
「……」
「もちろん二人一緒に守ってあげるのが本物の男ってもんだと思うよ? オレも本心ではそうできたらいいなって思ってるし? けどオレってそこまで腕っぷしが立つわけじゃないし、頭もよくないからさ? 守りたいと思っても限界があるっていうか、そもそも片方だけでも守れるかどうか怪しいっていうか……」
「……」
「いや、ほんとマジで……何なんだろうねオレって? 父ちゃんの受け売りで〝人生は楽しんだもん勝ち! 夢を見るのは自由だ!〟とか言ってきたけどさ? 夢を見る前に見るべきものが他にあるだろっていうか? 分かってたはずなんだけど分かってなかったというか、さすがに考えが甘すぎたというか……あ、ちょっと、なんか自分で言っててガチめに悲しくなってきちゃったわけだけども──」
「──太陽の標からひと雫、零れ落ちた光が軌跡を描く」
え、と聞き返したはずの声が、虫と蛙の合唱に呑まれた。
けれどターシャの声は何故だか、凛と鳴る硝子の音のように耳に届く。何ものも彼女の言葉を妨げられない。顔を上げたカイルの視線の先で、ターシャの細い指は天を示し、何かをなぞるように宙を滑る。
「光の尾は青き星の下に集いて星守りの星となり、涙を流した太陽の沈黙は、やがて微笑みへと変わるだろう。軌跡を辿りし者どもも、やがては星守りの星となる。天の声は青き星を導き、ただ紊れるは、流るるふたつの赤き星のみ……」
「た……ターシャ?」
彼女が突然唱え始めた小難しい言葉の意味が分からず、カイルは疑問符を飛ばしまくった。すると白い繊手を下ろしたターシャがため息をつき、年齢に似合わず完成された長い睫毛を静かに伏せる。
「……要するにキミが救世軍へ来ることはあらかじめ天の運行によって定められていて、何も間違ってないしむしろ正しい形だということ。さらに分かりやすく説明してあげるとすれば、キミが二人の人間を同時に守りたいと思っていることは、別に悪いことでも何でもない。キミにその意思があるのなら、どちらも守ってみせるといい。少なくとも星はそう言ってる」
「そ……それって──」
「ただキミが守りたいと思っている片割れは、どうも神々にとても嫌われているみたい。だから仮に守れなくても、キミのせいじゃないから気にしなくていい。だってそういう運命だから」
「ターシャ」
「すべての始まりは海の国の魔女がカミラを隠したことにある。だから悪いのは魔女であってキミじゃない。わたしから言えることは、それだけ」
ターシャは最後まで平板な口調でそう言うと、滑るような動きで胸壁を下りた。そうしてカイルを一瞥するや、話は終わりだとでも言うように身を翻し、音もなく歩き出す。
「ターシャ」
「何」
呼び止める声に返事をしながらも、ターシャは足を止めなかった。今度こそ本当に部屋へ戻るつもりのようだ。
だからカイルも急いで胸壁を下りて、小さな背中に向き直った。訊きたいことは山ほどある。だけどその中から一つだけ許されるなら、
「なんで占ってくれたの?」
高さもなければ模様もない、ただ真っ白なだけの靴が動きを止めた。ザアア、と草原を撫でるように風が吹き、虫たちの声が止む。振り向きざまに舞い上がる彼女の長い髪は、まるで一本一本が毛先まで命を吹き込まれているかのよう。
「占ってあげたのは、キミが正直者だから」
「正直者……?」
「キミは嘘をつかない。腹立たしいけど、それは本当」
「え、えっと……つまり?」
「わたしは嘘つきが嫌い。この世の何よりも嫌い。でもキミは……嘘をつかない。わたしにも、自分自身にも。だから、ほんの少し……見直した、というか……」
「え?」
「と……とにかくそういうことだから。わたしはもう行く。──おやすみ」
いささか投げやりに言い捨てるや、ターシャは身を翻して駆け出した。彼女の白い姿はあっという間に夜に呑まれて見えなくなり、あとには立ち尽くしたカイルと宵っ張りの虫たちだけが残される。占いの結果を告げるときはあんなにはっきり聞こえた声が、最後の最後で聞き取れなかったことが惜しまれた。
けれど去り際に投げかけられた言葉が「さようなら」ではなく「おやすみ」であったことに気がついて、カイルは口の端を持ち上げる。
「……なあんだ、意外とかわいいとこあるじゃん?」
頭の後ろで手を組みながら、そう呟いて小さく笑った。かと思えば唐突に眠気が込み上げてきて、ふわあ、と頭上の月にも負けないあくびを零す。
「けど、そっかー。オレ、間違ってなかったのかー。じゃあ、とりあえずはこのままでいいのかな?」
なんて誰にともなく尋ねながら、最後に彼女のいる北の地を顧みた。ターシャの占いがどれくらい当たるのかなんて、カイルは知らない。でも。
「だったら近々、君にも会いに行けるかも。──おやすみ、アーニャ」
そう信じることにして、カイルは歩き出した。
あれほど煩わしかったはずの虫の声が、今はもう気にならない。
むしろ自分も陳腐な鼻歌を口ずさみながら、カイルはご機嫌に夜を渡った。
自分の往くべき道を見失うことは、もう当分なさそうだ。
(第6章・完)
いつもご愛読ありがとうございます。他章の2倍近いボリュームでお送りした第6章もこれにてようやく完結です。お付き合いありがとうございました。
おかげさまで4月の終わりと同時に区切りよく幕を下ろすことができましたので、新章突入を記念して、7章冒頭部は毎日更新でお送りしたいと考えております。つきましては2019年5月1日(水)~5月5日(日)の5日間、最新話を連続投稿する予定でおりますので、GWのお供にお楽しみいただけましたら幸いです。
ちなみに7章は展開の都合上、1話1万字を超える回が非常に多くなっております。読者様のご負担を増やしてしまって申し訳ありませんが、お時間の許すタイミングでゆっくりお楽しみいただけましたら嬉しいです。
次章でようやく物語も折り返しに入ります。作者的にはここまで書いてようやく前置きが終わった、という感じです。7章は激動の章となりますが、今後もエマニュエル・サーガを何とぞよろしくお願い申し上げます。




