221.君が散らばる夜に
──カイルへ。
ごきげんよう。お元気ですか?
こちらは相変わらず、わたくしもカイラも元気にしています。
最近暑い日が続きますね。わたくし、元々暑いのは苦手なのですけれど、今年の夏は特に暑いような気がします。
あまり暑い日が続くと、菜園の野菜も弱ってしまうと院長様がご心配なさっていました。やはり近年の騒乱を受けてシェメッシュ様がお怒りなのでしょうか。
黄皇国が少しでも平和であるように、院の皆で毎日祈りを捧げています。気候も内乱も早く落ち着くといいですね……。
あなたの方はお変わりありませんか? お体、壊されたりしていませんか?
毎日これだけ暑いと心配です。北でこんなに暑いのだから、南部はもっと暑いのでしょうね。いただいたお手紙に、今はサラーレの町の近くにいると書かれていましたけれど、そちらでの暮らしはいかがでしょうか。
あなたがソルレカランテを離れたと伺って、わたくし、とても驚きました。お母様と喧嘩をされたわけじゃありませんよね? もしそうなら、早めに仲直りして下さいね。お母様はあなたにとってたったひとりの大切な家族なんですから。
……なんて、わざわざわたくしからお伝えしなくても、あなたならちゃんと分かっていらっしゃいますよね。だってあなたは優しいひとだから。
あなたとあなたのお母様のことを思い出すと、いつも胸が温かくなります。あなたからいただいた耳飾りや、竜牙山から吹き下ろす風、朝のうららかな陽射しの中……そのすべてにあなたがいるんです。おかげでちっとも寂しくありません。いつもわたくしたちを見守って下さって、ありがとう。
そうそう、そう言えば先日、ヴィーテの町でも車輪祭がありました。
カイラは生まれて初めて参加する車輪祭でしたから、それはもう大はしゃぎで。町の人たちが車輪を回しながら競争する姿を見て、とっても喜んでいました。
ソルレカランテの馬車レースは見ていてちょっと怖かったので、わたくしはこちらの競争の方が好きです。サラーレの町でもやっぱり車輪を回すのかしら?
同じ車輪祭でも、地域によって競技が違って楽しいですね。よかったら今度、サラーレの町の車輪祭の様子も教えて下さいね。
だけどサラーレって一体どんな町なのかしら。先日院に立ち寄って下さった行商の方にお聞きしたら、ヴィーテに似た静かな町だとおっしゃっていました。
わたくしもいつか行ってみたいです。あ、あとあなたが先日訪れたと言っていたピヌイスの町にも。手紙と一緒に送って下さったピヌイス織りのコースター、とても素敵で、大切に使っています。カイラもお気に入りみたいです。
わたくしからもあなたに何か贈れるものがあればいいのに……。いつもいただいてばかりでごめんなさい。今度、封筒に入れて一緒に送れそうなものを見つけたら、きっとプレゼントしますから。楽しみにしていて下さいね。
本当はもっとたくさん……たくさんたくさんお話したいことがあるのですけれど、近頃はインクも紙も貴重ですから、このくらいで筆を置きます。手紙があまり分厚くなってしまうと、運んで下さる伝達屋さんにもご迷惑がかかりますしね。
足りない分はまた夢の中でお話します。夢の中だとわたくし、とってもお喋りになるんですよ。普通に話すことができて、あなたの声もちゃんと聞こえて……ああ、本物のあなたの声もあんななのかしらと、朝、目が覚める度に思います。
夢を通じて、わたくしの声があなたに届けばいいのに……なんて、さすがに夢を見すぎでしょうか? あ、いえ、〝夢〟とかけたわけではないのですけれど。
今夜も夢であなたに会えるように、夢の神様にお祈りしながら眠りに就きます。
気が向いたら、またいつでもお手紙下さいね。楽しみにお待ちしてます。
くれぐれもお体にお気をつけて。
どうかシェメッシュ様が、すべての夜をあなたから遠ざけて下さいますように。
アーニャ・ランベルティ
夏の夜風が、カイルの手の中の亜麻紙をカサカサと鳴らしていた。
星空の下いっぱいに虫の声が響いている。うるさい。うるさすぎる。
ソルレカランテで暮らしていた頃は、虫や蛙の鳴き声にこれほど煩わされることはなかった。実家の『ミード亭』の食堂も夜は酒場として営業するから、あれはあれでうるさかったけど。
でも、夜が更けて教会の鐘も鳴らなくなる頃には、アンドリアがいつも陽気な酔っぱらいどもを叩き出し、ちゃんと家路に就かせていた。だから夜眠るのに困るなんてことはなく、毎晩安眠が約束されていたのだ。
だのにこの島の虫や蛙の多さと言ったら……。都会育ちのカイルは辟易しながら、胸壁の上で組んだ両腕に顔をうずめた。深夜までやかましい虫どもを除いて、コルノ城で暮らす人々はとうに眠りに就いている。昼間何の前触れもなく現れた母親も、さすがに疲れて大鼾をかいている頃だろう。
「まったく、人の気も知らないでさあ……」
と、カイルは顔をうずめたまま小さくぼやく。せっかく母親を巻き込まないよう懸命に努力したというのに、これじゃ苦労が水の泡だ。
父親が生きていればこういうとき、きっと母親を止めてくれただろうにとカイルは思う。父はいつだって優しくて、物静かで理知的で……まったく正反対の性格なのに、アンドリアは父の言うことだけはよく聞いた。
そして父ならきっと今のカイルの選択も受け入れてくれたはずだ。あの日突如として父の命を奪った病を、改めて憎らしく思う。
現実というやつは、本当にどこまでも優しくない。
「ザザッ」
カイル以外誰もいないコルノ城の屋上に、耳障りな異音が響いた。いや、他に誰かがいたとしても、その音が聞こえたのは恐らくカイルだけだっただろう。
『よう。母ちゃんとの感動の再会はどうだった、カイル』
直後、耳元で腹の立つ揶揄が聞こえて、カイルは舌打ちしたい衝動に駆られた。しなかったけど。辛うじて。
「……おかげさまで心臓が止まりかけたよ。オレに死なれたら困るんじゃなかったの、オッサン?」
『いやあ、そこまで喜んでもらえるとは思わなくてな。もしかして意外とマザコンなのか、お前』
「うるさいよ」
『おっと。今日はご機嫌ナナメか。で、報告は?』
わざとらしく耳元で戯けてみせる男に、許されるのならカイルは一発タマ蹴りを喰らわせてやりたかった。同じ男だからこそ分かるあの激痛を、日頃世話になっている礼にと万感の感謝を込めて送りつけたい。
実際の彼はここから遠く離れたどこかにいるわけで、不可能なのは重々承知しているけれども。夢を見るのだけは、いつだって自由だ。
「その前に話してもらうことがあるだろ。なんでウチの母親をここに呼んだの」
『は? 何の話だ?』
「とぼけないでよ。こんなの、あんたの差し金以外に何がある? 母ちゃんのことは危害が及ばないように黄都で面倒見てくれるって話だったじゃん」
『まあ、こっちとしてもそうするつもりだったんだけどな。大人の事情だ。結果としてお前の母親もそっちに送っちまった方が安全だと判断したんだよ。知ってのとおり、今の黄皇国はとても一枚岩とは言えない状況なんでな』
「……だからサラーレの伝達屋に届くはずだった手紙を、わざわざあんたがオレの実家まで届けてくれたってわけ?」
『俺はそこまで暇じゃねえよ。やったのは俺の仲間だ』
「どっちにしろ同じことだろ」
『何だよ。せっかく母親と会わせてやったってのに、いつまでヘソ曲げてんだ? そんなことより、報告。特に第二軍と交戦したライリー一味の状況を詳しく教えろ』
こちらの心情など一切意に介さない男の言葉に、カイルは心の底からため息をついた。まあ、彼がそういう男であることはとうの昔に理解している。今更嘆くだけ時間の無駄というものだろう……当然納得はいかないし、胸の内もまったくすっきりしないけど。
『──ふーん。つまりライリー一味はさしたる損害も出さずに、討てる敵だけ討ってさっさと引き揚げたって感じか。さすが凶刀のライリーは手強いねえ。てっきり神術砲を恃みに本陣まで突っ込むかと思いきや、きわどいところで深追いを避けやがった。これだから野生の勘が働くやつってのは厄介だぜ』
おかげで皇女殿下の面目は丸潰れだ、と耳元で気怠げに男は言った。煙草でも咥えているのか、声が先程よりも若干くぐもっている。次いでふーっと聞こえた長息は、ため息ではなく煙を吐く音だろう。とするとカイルの予想は的中だ。
ついでに酒でも飲んでんのかな、と思いながらカイルは胸壁に顎を乗せ、愛しい人からの手紙をぼんやり眺めた。月明かりが雲間に出たり入ったりしてとても読めたものではないのだが、内容は最初に手紙を開いた瞬間網膜に焼きつけたから別にいい。
「……カルロッタはこのまま勝ちに乗って、エグレッタ城まで突っ込むべきだって主張したらしいんだけどねー。結局ライリー親分が撤退の命令を出したから、カルロッタも渋々引き揚げたんだってさ」
『ま、妥当な判断だな。救世軍が官軍の追撃に入った段階で、エグレッタ城では姫様が自ら第二陣を率いて出ようとしてた。皇族が陣頭に立つとなりゃ、周りの兵は死を厭っちゃいられなくなる。いくら神術砲の援護があったとしても、死に物狂いで向かってくる敵を相手にすりゃ、ライリー一味も無傷じゃ済まなかったろうさ。ライリーにはそれが分かってたんだな』
「けど親分も、よく突っ込むのを我慢したよねー。カルロッタの協力があれば、念願のお姫様の首が取れたかもしれないのにさ」
『マウロの仇を討つことより仲間の命を優先したんだろ。そういう戦い方ができるやつだと見込んだから、マウロも野郎を弟分に選んだわけだ。んなことよりも俺は、海賊どもが湖賊の命令に大人しく従ったことの方が意外だね。調べによれば、ライリー一味とライモンド海賊団の間には浅からぬ因縁があるって話だったが』
「まあ、確かに親分とカルロッタは、島でも顔を会わせる度に喧嘩してるけど……オレには意外とお似合いに見えるよ、あの二人。似た者同士っていうかさ」
『だがライモンド海賊団が救世軍に合流してからまだ日も浅いだろ。いくら相性がいいにしたって、美しい友情が芽生えるにしちゃいささか早すぎる。お前、次はその辺を重点的に調べとけ。官軍も救世軍も、どうせしばらくは身動きが取れねえだろうしな』
「……」
事も無げに言う男の声を聞きながら、カイルはひとり眉を曇らせた。この〝念話術〟というやつは、遠くにいる相手に声を届けられる代わりに、互いの居場所や表情が一切窺い知れないのがいい。
もしも姿まで相手に筒抜けだったら、カイルは今頃役立たずとしてコルノ島にはいられなくなっていたことだろう。いや、あるいは声だけで己を支配する彼は、カイルの心境の変化なんてとっくの昔にお見通しなのかもしれない。
──だったらさっさと殺してくれればいいのに。
そんな考えが脳裏をよぎって、カイルは力なく枯草色の髪を掴んだ。
ダメだ。こんなのオレらしくない。
そう思うのに、思考はどんどん泥沼に嵌まっていく。
──何やってんだろ、オレ。
最近考えれば考えるほど、自分という存在があやふやになっていく感じがした。鏡に映った己の姿が輪郭を失い、水に滲むように掻き消えていく感覚。
それを自覚する度に、ブレていく自分への苛立ちが募った。やるべきことは分かっているはずなのに、何を迷っているのだろう。
──しっかりしろよ、オレ。
そう言い聞かせる傍から、顔は下を向いていた。蛙と虫の合唱がカイルの思考を掻き乱す。うるさい。うるさいよ。頼むから、もう解放してくれ……。
「……あのさ、オッサン」
『何だ?』
「変なこと訊いてもいい?」
『ダメだ』
「じゃあ訊くけど。オレっていつまでここにいればいいの?」
『は?』
「いや、そりゃもちろん、任務が終わるのはまだまだ先の話なんだろうなって分かっちゃいるんだけどさ……そういや具体的にいつまでとかそういうの、聞いてなかったなーと思って──」
『──そりゃもちろん、俺が〝もういい〟と言うまでだ』
カラン、と、どこか遠くで氷の鳴る音がした。案の定男は酒を飲んでいるようだ。次いでふーっと鼓膜を掠める紫煙の音に、カイルはくしゃりと顔を歪めた。
──ああ、ほんと、何やってんだ、オレ。
分かっていた。最初から。
なのに何故こんなにも、男の答えに胸を抉られているのだろう……。
『カイル。アーニャ・ランベルティを助けたいんだろ?』
次の瞬間、男の声は悪魔のそれに代わって、カイルの心臓を鷲掴みした。
『それとも二年会わないうちに、彼女のことなんてどうでもよくなったか?』
「──そんなわけあるかよ」
とっさに口を衝いて出た答えは、偽りようのない本心だった。おかげで返答に怒気が滲み、男への敵意が剥き出しになってしまったことを後悔する。
しかし男は、カイルの暗い怒りをむしろ喜んだ。
『いい返事だ』
空間の壁の向こうで男が満足げに口角を上げ、酒を呷る姿が目に浮かぶ。してやられた。そう思った。やっぱり男は、カイルの胸中なんてとっくの昔にお見通しなのだ。そしてだからこそ確信している。このガキはまだまだ使えると。
『んじゃ余計なことは考えず、黙ってやるべきことをやれ。お前が約束を守れば、俺たちも同じように約束を守る。実に公正で対等な取り引きだ。そうだろ?』
「……」
『ま、お前がどうしても下りたいってんなら俺も止めはしねえがな。その代わり、アーニャとカイラの将来は保証しねえ。お前と母親の将来もだ。何せそういう契約だからな。でもってそいつを了承したのは他でもない、お前自身だ』
「……分かってるよ」
『ならこれ以上話すことはねえな。とにかくまずはライリー一味とライモンド海賊団の関係に探りを入れとけ。ああ、あと前回の報告のときに調べろと言っておいた〝星刻〟──アレについても何か分かったか?』
「いや……そっちはまだ何も。持ち主が、ずっと寝たきりだったし……周りもみんな、よく知らないって……」
『ふーん……しかしありゃどう見ても魔女の力だぜ。放っておけば脅威になるかもしれねえ。アレについても何か分かり次第連絡しろ。期待してるからな、カイル』
最後に念押しするようにそう言って、男からの通信は途切れた。耳元でブツリと紐が千切れるのに似た音がして、カイルを苛んでいた悪魔の声がようやく消える。けれどカイルはしばしの間、頭を抱え込んだまま顔を上げることができなかった。思い出したくなんてないのに、いつか聞いたヴィルヘルムの言葉が脳裏をよぎる。
『俺から言えることは一つだけだ。さっきの言葉が、もしもお前の本心から出たものなら──カミラを、裏切るなよ』
……無茶言わないでよ、とカイルは思った。自分だって、彼女を裏切らずに済む道があるのならぜひ選びたい。だけどどうしろと言うのだ。自分みたいな半端者に守れるものなんてたかが知れている。初めに絶対守ると決めたものさえも、今や腐葉土の上に建つ不格好な塔みたいに、ぐらぐら揺らぎ始めているというのに。
『カイル』
願わくば今、最も聞きたくない声が頭の中でカイルを呼んだ。
『私も初めて人を斬ったとき、誰かにこうしてほしかったから』
そう言って抱き締められたときに感じた熱が、想いが、心の叫びが、自分という存在を根底から覆そうとする。
「卑怯だよなあ、あんなの……」
と、誰にも聞き届けられないであろう抗議の言葉を、自嘲と共に吐き出した。
ときに生ぬるい風が吹いて、再び亜麻紙を鳴らす。その音で未だ手の中に手紙があることを思い出したカイルは、弱々しく頭をもたげた。
低い唸りを上げながら、夜風が頭上から雲を払う。満月に少し足りない月が皓々と地上を照らし、紙面に綴られた流麗な文字を蒼白く浮き上がらせた。
『アーニャ・ランベルティ』
末尾に記された名前を、意味もなく指先でなぞってみる。そうすると二年前、最後に見た彼女の笑顔がまざまざと目の前に甦って、不覚にも涙腺がゆるんだ。
ああ。気の迷いなんかじゃない。自分は確かに今も彼女を愛している。
なのにこんなに心が惑うのは、会えない日々が長すぎたのか。
可笑しな話だ。彼女とはもう二度と会わないと──それが最善の選択だと、互いにそう納得して、つないだ手をそっと放した。二人で決めたことなのだから乗り越えられるに決まっていると、わけもなくそう信じていた。だけど、
「……会いてえ……」
ひと目だけでいい。もしも彼女に会えたなら、自分の中の覚悟はきっと今度こそ本物になる。だからもう一度だけ……いや、駄目だ。会ったら自分は絶対に、彼女に駆け寄らずにはいられない。抱き締めずにはいられない。
けれどそんな真似をすれば、今度こそ彼女を破滅へ導いてしまう。駄目だ。会えない。会わないと決めた。自分も彼女もそのことを分かっているから、手紙には絶対〝会いたい〟という言葉を使わない。だけど、会いたい。会いたい。
こんなにも、会いたいのに──
「──会いたいって、誰に?」
瞬間、鼓膜の内側へ滑り込んできた誰かの声がカイルの心臓を蹴飛ばした。
虫たちの歌が聴こえなくなるほどに、ドクン、と鼓動が胸を叩く。
 




