218.ただいま
「ミレーナ」
意識の外で、誰かが誰かを呼んでいた。
「ミレーナ」
呼び声は続く。されどその声は、思考を閉ざす暗い帳を破れない。
「──カミラ」
そこでようやく、我に返った。
はっと呼吸の仕方を思い出すと同時に、意識を覆っていた暗幕が上がる。途端に視界へ飛び込んできたのは、地の果てまで続く鮮烈な赤。
夕暮れどき。カミラの眼前に広がるエオリカ平原は鏡のように、真っ赤に燃える空の色を映していた。肌寒い秋の風が夜を呼ぶ虫たちの合唱を運んでくる。眼下に蛇行して伸びるアレは街道だろうか。
見慣れているはずなのに、何故だか妙に新鮮な景色。カミラは自分がそれをかなり高い位置から俯瞰していることに気がついた。
とするとここはもしや城壁の上……だろうか?
黄都ソルレカランテを睨む南の城塞──スッドスクード城の。
「あれ……?」
自分はいつからここにいるのだろう。時間の概念が何となく曖昧になっているのを感じながら、カミラは背後を振り向いた。
そこには一人の男が佇んでいる。視界の真ん中でチカリと瞬いたのは、彼の左胸に輝く金の勲章。黄皇国の将官にのみ与えられる赤い綬の胸章だ。
風に煽られた砂色の外套がはたはたと音を立てて舞い、男のまとう軍装の全容をあらわにしていた。いかにも機能優先と言った感じのそれは、彼の引き締まった痩身を引き立ててくれるのはいいが、全体的に色合いが地味だ。
仮にもこの国の貴族なら、もう少し派手ないでたちでいた方が周りに馴染みやすいだろうに。周りが何を言ったって、彼はまったく聞く耳を持たない。
「……シグさま」
ぼんやりとしたまま、そんな地味さ際立つ男の名を口にした。対するカミラの上官──黄都守護隊長のシグムンド・メイナードは茫洋と佇むカミラを見やり、怪訝そうに片眉を上げている。北を向いた城壁の上に、彼とカミラ以外の人影はなかった。とすれば恐らく、先程カミラを呼んでいたのはシグムンドなのだろう。
「大丈夫か? 私の呼びかけが聞こえていないようだったが」
「あー、えーっと……すみません。ちょっとぼんやりしてました」
「体調でも悪いのか」
「いえ、そういうわけじゃないんですけど……」
苦笑を浮かべたカミラの答えを遮るように、城内から鉦の音が響き渡った。あれは終業を告げる鉦だ。修練場の方から調練中の兵士を呼び集める声がして、また一日が終わろうとしていることを実感する。
何の変哲もなく、いつもどおり流れる時間。この城でこうして過ごす日々は、カミラの中でいつしか当たり前のことになっていた。
郷を出る前は想像もしていなかった石の城での暮らしは、初めこそ戸惑うことも多かったけれど、今ではここが我が家だと思えるまでになっている。
毎日騒がしいものの、一日一日が大切でかけがえのないカミラの日常。けれどその日常が今、静かに壊れ始めようとしているのをカミラも感じ取っていた。
「……さっき、黄都行きの使者が城を出ていくのが見えました。出動の日取りは決まったんですか?」
「ああ。出陣は四日後だ。今回は急を要する事態だからな。各隊の装備は必要最低限に抑え、可及的速やかに進軍する。緒戦で機先を制することができるかどうか──すべてはそこに懸かっているのでな」
そう言いながら歩を進めたシグムンドが、立ち尽くすカミラの隣に並んだ。彼の横顔を一瞥したカミラもエオリカ平原へ向き直り、共に地平線の彼方を見据える。
二人の足元から歩哨の呼び交わす声が聞こえた。城壁の際を歩いているのだろう、ここからでは覗き込まないと姿が見えない。
一方、歩哨もまさか自分の頭上に城の主がいるとは夢にも思っていないだろう。しかし上官の耳目があろうとなかろうと、城兵たちはいつだってやるべきことを厳格にこなしていた。何しろ黄都守護隊は中央第一軍唯一の実働部隊だ。
正黄戦争の終結以来、平和という名のぬるま湯に浸かりすぎ、ふにゃふにゃにふやけてしまった第一軍本隊とは違う。カミラたちは黄帝の直轄領であるジョイア地方を守護し、黄都の治安を維持するため、近年増え続けている魔界のものや、北東のアレッタ平野で範図拡大をもくろむ異民族と戦い続けてきた。
要するに黄都守護隊は、今の黄皇国では稀少な実戦経験を持つ部隊だということだ。さすがにシャムシール砂王国との国境を守っている第三軍には見劣りするものの、この城の軍ならばガルテリオが指揮する軍隊とだって渡り合えるはずだとカミラは思っている。
有事の際、国中に散らばるどの軍団よりも素早く駆けつけ、国家に仇為す輩を殲滅する黄都防衛の生命線。それがカミラら黄都守護隊に課せられた役割だ。
ゆえにいつ何時であろうとも、油断も慢心もあってはならない。黄都守護隊の将兵は末端の兵卒に至るまで、そのことをちゃんと理解している。
「だけど驚きましたねー。まさかウチの部隊に管轄外への出動許可が下りるなんて。ほとんど事後承諾みたいなものでしたけど、てっきりもっと熱烈に反対されるんじゃないかと思ってました」
「オディオ地方が落ちたことで、反乱軍の存在をさしたる脅威と見なしてこなかった貴族たちもようやく危機感を覚えたということだ。彼らとしては、自分たちの権益を脅かすものを叩き潰せるのであれば手段は問わないということだろう──特に今回は上手くすれば、私と反乱軍の共倒れも期待できるわけだしな」
「いいですねー、黄都のお偉い皆さまはどいつもこいつも頭の中がお花畑で。きっと毎日楽しいんだろうなあ。世の中に何の不満も悩みもなくて、一日中おいしいものを食べながらみんなでキャッキャウフフしてればいいんですから」
「いや、さすがにそれは言い過ぎだろう。彼らとて悩みくらいあるさ。たとえばどうすればもっと効率よく金を稼げるか、誰に取り入れば将来安泰か、娘を嫁がせるにふさわしい爵位と富を持つ家はどこか……そんな悩みが山のように、な」
「わー、すごーい。お貴族さま方は悩みのスケールまで庶民とは違うんですねー。私には全然理解できないやー」
「私ももういい歳だが、最近、子がないことをつくづく幸運に思うよ」
太陽を呑んで燃える陵線に目を向けながら、シグムンドは口角を持ち上げた。カミラは自分の上官が親友にさえ煙たがられる皮肉屋であることを重々承知しているものの、しかし今日の皮肉は一段と冴え渡っているな、と内心拍手を送る。
「しかし嫁がせると言えば──カミラ。君もそろそろ婚姻を考えてもいい歳なのではないか?」
「へ?」
「十七と言えば、我が国の貴族社会では充分通用する年齢だ。誰かいい仲の相手はいないのかね」
「い……いやいやいやいやいや、シグさまったら急に何言い出すんですか~。これから戦の準備で忙しくなるからって、現実逃避したくなるお気持ちは分かりますけどね? 私、恋バナとかそういうの、乗りませんよ?」
「私は至って真面目に話しているのだがな。我が隊の中には君に想いを寄せている者も多い。加えて部隊長たちはみな独身だ。一考の余地はあると思うが」
「ないです。タリアクリに誓ってないです」
「ふむ。では隊の外から候補者を募るべきか。君と近い年頃と言うと、ジェロディやエリジオなどはどうだ? どちらも人格、家柄共に申し分ない。彼らも君のことは悪しからず思っているようだし……」
「どっちも名家中の名家じゃないですか。あの二人と縁談とか冗談でもやめて下さい。胃が千切れます」
「年下は嫌いかね? まあ、確かにジェロディの方は既に意中の相手がいるようだしな。であればウィルやリナルドという候補もいるが──」
「シグさま。シグさまって時々人の話を聞いてくれませんよね」
「いや、ちゃんと聞いているさ。だがその上で敢えて無視しているだけだ」
「だから周りに敵ばっか増えるんですよ、シグさまは!」
カミラはついに我慢がきかなくなって、地団駄を踏みながら抗弁した。シグムンドが自分をからかって遊ぶのはいつものことだが、分かっていても腹立たしい。
案の定半分は冗談だったのだろう、シグムンドは苛立つカミラを見て愉快そうに笑っていた。笑うばかりで絶対に謝らないのが、この人のさらに憎々しいところなのだけど。
「とにかく、私はまだ結婚なんてしません! そんな相手いませんし、作る気もないし! そもそも毎日忙しくて、恋愛なんてしてる暇ありませんから! だいたいこれからは今まで以上に忙しくなるって言うのに──」
「では君の業務を少しばかり減らせば、結婚のことも前向きに検討しようと思えるのかね?」
「揚げ足を取らないで下さいっ! そうやって私を城から追い出して、自分から引き離そうったってそうはいきませんからね! 私は死ぬまでシグさまのお傍にいるって決めたんです! たとえ迷惑だって言われても、絶対に離れませんから!」
なおも地団駄を踏みながら、カミラは力の限りそう叫んだ。するとシグムンドもついに眉尻を下げ、やれやれと肩を竦める──なるほど。勢い任せに怒鳴ったが、どうやら図星だったようだ。
「まったく、君もつくづく頑迷だな。カミラ、君はまだ若い。この先の人生にも無限の可能性があるというのに、死ぬまで私のような老いぼれに尽くすなどと思い定めてしまうのは、いささか早計なのではないか?」
「今更何言ってるんですか。途中で〝やっぱやーめた!〟なんて投げ出すくらいなら、最初からこんなところまでシグさまについてきてませんよ。私は別に、誰かにそうしろと言われてここにいるわけじゃない。自分で決めて、自分がいたいからここにいるんです」
深紅の軍服の腰に右手を当てて、カミラは高らかにそう宣言した。
そうしながらまっさらな左手を自身の胸に伸ばす。そこにある銅の勲章──黄都守護隊に所属する下級将校の証──は、今やカミラの誇りだった。
「それに今はシグさまだけじゃありません。黄都守護隊のみんなが大切で……大好きです。だからこの手で守りたい。一年間ここで過ごして、そう思いました」
「……」
「あ、当然セドリックは除きますけど。あいつ以外はみんな、私の大事な家族です。黄都守護隊は私の家です。そう言ってくれたのは、他でもないシグさまじゃないですか。私は、もう──ひとりは嫌です」
秋の風が二人の間を吹き抜けた。赤い髪に結ばれた髪紐が煽られ、先端の緑玉がぶつかり合い、チリチリと音を立てている。
カミラは束の間目を閉じて、その音に耳を澄ませた。後ろ髪を引くような音色に一抹の郷愁を覚えつつ、されどカミラには心に決めたことがある。
「シグさま。今回の戦、やっぱり私もお供します」
「……いいのか。つらい戦いになるぞ」
「それでも行きます。私はシグさまの部下ですから」
自分の覚悟を伝えるために、正面からまっすぐシグムンドを見据えた。彼の青鈍色の瞳が夕日の色を反射して、今にも光に溶け込みそうなカミラの姿を映している。
「……こんなこと言って、シグさまに迷惑ばかりかけてるのは分かってます。頭がフローラルな連中に下世話な噂を立てられていることも。でも私はやっぱりここで生きてここで死にたいって、そう思うんです」
「……」
「わがままばっかり言ってすみません……呆れましたか?」
「ああ、大いにな。だが不思議と君のわがままは聞いていて嫌な気がしない。だからこそこの城の者たちも、君を慕うのだろうな」
微苦笑を浮かべたシグムンドの言葉が、カミラの面輪に喜びを散りばめた。そんなカミラの様子を見たシグムンドはますます苦笑し、観念した様子で踵を返す。
「まったく、君には負けたよ。そうと決まれば行くとしよう。終業の鉦は鳴ったが、日が沈む前にやるべきことは山ほどある。存分に働いてもらうぞ」
「はい、シグさま!」
胸の中がきらきらしたもので満たされていくのを感じながら、カミラは一歩踏み出した。階段へ向かうシグムンドの背中を追って駆け出そうとする。
ところがそこで異変が起きた。次に踏み出そうとした右足が動かないのだ。「あれ?」と疑問に思って見下ろせば、カミラの右足は城壁に縫い留められている──石の床から青白く伸びた、幾本もの手によって。
「……え?」
カミラは目を疑った。何かの見間違いだろうと、何度も瞬きしてみる。
しかしどうやら見間違いではないらしい。
絵本の中の幽霊みたいに、青く透き通った何本もの人の腕。
その腕が絡み合い、重なり合いながら、カミラの右足を掴んで放さない。
「ちょ、ちょっと……何なの、これ──」
「──それ以上は駄目よ、カミラ」
かと思えば突然知らない女の声が耳朶を打ち、カミラははっと顔を上げた。振り返った先に見慣れぬ人影を認めて、とっさに腰の剣へ手をかける。
そこにいたのは波打つような金の髪に、海色の瞳を持った華奢な女だった。夕焼けに染まった世界で一人だけ、幽鬼のごとく青白い顔をしてカミラを見つめている。こんな女、さっきまではどこにもいなかったのに──
「あんた、誰。まさかこれもあんたの仕業……!?」
「そうよ、カミラ。思い出して。ここはあなたのいるべき場所じゃない」
「はあ……!?」
「この世界は滅んだの。滅んだものに囚われては駄目」
「悪いけど、何言ってるのか全然分からない。放して……!」
「カミラ、お願い──私はあなたを助けたいのよ」
そう言って女が不意に両手をもたげた。彼女が胸の前で合わせた手の中に、小さな光が生まれていく。光はゆっくりと渦巻きながら星のように瞬いた。瞬間、カミラはぞっと背筋が寒くなる。
ああ。自分は彼女を、あの光を知っている。
けれど駄目だ。思い出してはいけない。忘れていたい。
だって思い出してしまったら、自分は──
「シグさま」
全身を逆撫でするような絶望の中で、カミラは彼の名前を呼んだ。シグムンドは背後で起きている異変に気づいていないのか、城内に下りる階段の方へすたすたと歩いていってしまう。
「シグさま」
呼び止めたいのに、声が震えて叶わなかった。
大好きなあの人の背中が、階段の向こうへ消えてしまう、
「待って……置いていかないで下さい、シグさま……!」
「──シグさま……!!」
伸ばした左手に、星が見えた。
頭の横に置かれた何かがぼんやりと光って、太古の文字に囲まれた青白い五芒星を照らし出している。……何だろう、これ。
カミラは数瞬ぼんやりとその星を眺めてから、頭だけをゆっくり動かした。衣擦れの音を立てて目をやれば、どうやら仰向けになっているらしいカミラの枕元に変わった灯具が置かれている。何かの蔦で編まれた目の粗い籠の中に、淡い光をまとった苔のような植物が入れられているのだ。
耳を澄ませば虫の声がする。でもさっきまで聞こえていた秋の虫の声とは違う。ジリリリリリリリ、と暑苦しく鳴くあの声はもしや夏の虫、だろうか?
いや、虫の声だけじゃない。闇の中には蛙の鳴き声も反響している。……蛙?
そう言えばじっとりと肌が湿っていて、生臭い。
あたりの暗さからして今は真夜中と思しいものの、夏特有の熱気と湿気がまとわりつくように充満している……蛙人族の里。
不意にそんな言葉が脳裏を掠めた。何故?
蛙の大合唱。耳を塞ぎたいほどにうるさい。あれのせいだろうか。
いや、違う。そもそもここはどこで──自分は誰だ?
分からない。分かりたくない。
でも、分からなければならない。
「──カミラ?」
心がバラバラになって飛び散ってしまいそうだ。薄暗い部屋の中、顔面を覆い、今にも叫び出しそうだったカミラは自分を呼ぶ声で我に返った。
簾の揺れる音がして、頭の上から誰か来る。起き上がろうとしたが、体が鉛を呑んだように重くて無理だった。
視線だけをどうにか上へ向ければ、そこからにゅっと覗き込んできた顔がある。
繊細な金細工がチリチリと揺れる、朱いバンダナを頭に巻いた彼は、
「……ティノ、く──」
名前を呼ぼうとして、自分の声が喉に閊えた。急に息が詰まってゲホゲホと身を折れば、慌てたジェロディがとっさに膝をつき、寝返りを打った背中を摩ってくれる。
「か、カミラ、大丈夫かい……!? そうだ、水……!」
動転しつつも機転をきかせ、ジェロディは即座に飲み水を用意してくれた。そうしてカミラの上体を支え、ゆっくり起き上がらせると、口元まで杯を運んでくれる。
「あんまり冷えてはいないけど、飲んで」
言われるがまま、カミラは震える手で杯をくるもうとした。しかし指先に力が入らず、自分では物を掴めない。それを察したのか、ジェロディは最後まで杯から手を離さずに濡れた縁をそっとカミラの唇へあてがった。そこから静かに杯を傾け、カミラの口内にほどよくぬるい飲み水を流し込んでくれる。
「大丈夫かい?」
たった数滴分の水を飲むだけでも難儀して、切れ切れに息を吐くカミラを、ジェロディが改めて覗き込んできた。光苔の行灯が、彼の瞳に浮かぶ気遣いと安堵を照らし出す。
「ティノくん、私──」
──私は、誰?
そう尋ねようとしたが、言葉が続かなかった。果たしてジェロディはその沈黙をどのように解釈したのか、なおもカミラの背を摩ってくれる。
「無事に目が覚めてよかった。ここはジャラ=サンガの宿屋だよ。君が目を覚ますのを、みんなで待ってたんだ」
「ジャラ、サンガ……?」
「ああ。オヴェスト城の戦いで、君が星刻の力を解放したのを覚えてるかい? 君はあのあと気を失って……今日までひと月近く、ずっと眠っていたんだよ」
星刻。ジェロディが耳元で唱えた神刻の名前が、生き物のようにするりと鼓膜を擦り抜けてカミラの脳へ侵入した。おかげでカミラは思い出す。左手の星。
そうだ。これは星刻だ。
自分は渡り星──そう、救世軍を救うために選ばれた渡り星で、あの日仲間を救うため、己の限界を超えた力を解き放った。
そこから先の記憶はない。が、思い出した。思い出してしまった。
私は、救世軍のカミラ。
心の中でそう呟いたとき、パキンと何かが罅割れる音がして、とても、とても大切だったはずのものが跡形もなく消えてゆく。
「本当に……本当によかった。ラファレイ先生から、君はこのまま目覚めないかもしれないと聞かされて……今はみんな寝てるけど、マリーやメイベルもずっと君を心配してた。君が無事に目を覚ましたと知ったら、きっと──」
瞬間、昂揚した様子で声を滲ませていたジェロディが突然言葉を呑んだ。
理由は言うまでもない。カミラが何の前触れもなく彼の胸に縋ったからだ。
「えっ……」と息を飲んだきり、ジェロディは硬直してしまった。けれどカミラはただ悲しくて──悲しくて悲しくて、胸が張り裂けそうなほど悲しくて、叫び出したくて、だけどもう忘れてしまった、あの人の声も言葉も、優しさもぬくもりも、何もかも忘れてしまったし忘れたことすら忘れてしまった、なのに心を引き裂くような悲しみだけが胸に残って、わけも分からぬまま溢れ出す涙を、感情をどうしたらいいのか分からず、ただ、ただ泣きじゃくりながら、目の前の彼の体温に縋りつくことしかできなかった。
あああ、と自分の意思とは関係なく嗚咽が零れる。皆が寝ていると聞いたばかりなのに、心が暴れて制御がきかない。
激しくしゃくり上げるあまり、息の仕方を忘れそうだった。苦しい。溺れていく。助けて。××さま──いや、そんな人は知らない。助けて。誰でもいいから。
私を、助けて……!
「カミラ」
そのとき絶望で砕けてしまいそうなカミラの体を、ジェロディの両腕が抱き留めた。彼は泣きじゃくるカミラの背中に腕を回し、まるでこの世界につなぎとめようとするかのように、力いっぱい抱き締めてくれる。
「大丈夫だよ、カミラ。大丈夫だから」
耳元で繰り返される言葉。本当はジェロディだって、何が大丈夫なのかちっとも分かっていないはずだ。それでも彼はカミラを抱き竦めて、何度だってあやしてくれる。
「君には僕たちがいる。だからもう大丈夫」
そう言って髪を撫で下ろされたとき、ようやく息が吸えた。
胸の引き攣けも治まって、徐々に呼吸が楽になる。
ジェロディの腕の中に収まりながら二、三度深呼吸をした。
喉はまだ震えて、涙も止まらなかったけれど、大丈夫だ、と心が言う。
「……少しは落ち着いた?」
「……うん」
「そっか。よかった」
「……いきなり取り乱して、ごめんなさい」
「いや。いいよ」
鼓膜のすぐ傍で聞こえるジェロディの声は、どこまでも優しかった。
おかげで余計に涙が溢れてしまう。彼に愛されているマリステアは、幸せ者だ。
羨ましいけれど、祝福したい。何故だかそんなことを思った。だけど今は──今だけは、少しだけ彼の優しさに甘えることを許してほしい。
「おかえり、カミラ」
刹那、ジェロディが紡いだその言葉はカミラが今、世界で一番ほしかった言葉かもしれなかった。だからカミラも唇を噛み締めて、鼻をすすり、最後の涙が零れ落ちるのを待ってから顔を上げる。
「ただいま」
自分でもそうだと分かるくらい、ヘタクソな笑顔でそう言った。けれどジェロディも笑ってくれたから、これでよかったのだと納得することにする。
ときに横合いからカミラを呼ぶ声が上がった。見れば巻き上げられた簾の向こうに、光苔の行灯をぶら下げたマリステアやメイベルがいる。
後ろにはヴィルヘルムやカイル、ラファレイにラフィもいるようだった。中でもマリステアやメイベルは、振り返ったカミラと目が合うなりたちまち唇をわななかせ、わっと泣き声を上げ始める。
「か、カミラさん……カミラさん……! 会いたかったですぅ……!」
ずっと傍にいてくれたはずなのに〝会いたかった〟とはどういうことだろう?
なんてカミラが思っている間に、泣きじゃくった二人がいきなり突撃してきた。あまりの勢いに為す術もなかったカミラは悲鳴を上げて押し倒される。その段になって「あれ? ひと月近くも寝てたってことは私、今、汚くない?」とそんなことが気になった。
しかし二人はお構いなしだ。ひとしきりカミラに縋ってわんわん泣いたマリステアとメイベルは、眉を吊り上げたラファレイに力づくで引き剥がされるまで、口々にカミラの無事を喜んでくれた。出遅れたラフィも遠慮がちに傍らへ膝をついて、天使のようににこっと微笑みかけてくれる。
宿での騒ぎを聞きつけた蛙人たちも集まってきた。彼らは手に手に明かりを携え、部屋の様子を見に来るや、喉を膨らませてカミラの無事を喜んでくれる。
光と、笑顔と、蛙の合唱と。
鮮やかに彩られた夜の下で、流れ星がひとつ、空を流れた。




