217.昏い水音
古い夢を見ていた。
あれは確か、正黄戦争が始まる少し前。
当時、黄皇国中央軍の中核を担っていたラオス・フラクシヌスの招聘に応じ、ソルレカランテを目指して旅していた頃のことだっただろうか。
「わーい! ヴィル、見て! 海ー!」
遠くから波音が聞こえたかと思ったら、突然何も言わずに駆け出して、彼女が飛び込んだのは澄んだ水を湛える海──ではなく、トラモント黄皇国の豊かさを司ってきた三神湖の一つ、ラフィ湖だった。
あの日は、そう、今日みたいに晴れた夏の日で、蝉の声がとてもうるさかったのを覚えている。湖の傍を通る街道は湿度が高く、何度左眼の眼帯を外したい衝動に駆られたか分からない。
「……マナ。それは海じゃない。湖だ」
「ぶー。そんなの知ってますよーだ。でも水平線が見えるし、波もあるし! ほとんど海みたいなもんじゃなーい!」
口を尖らせてぶうたれたかと思えば、次の瞬間には子供みたいに無邪気に笑って、マナはキャハハと足元の水を掬い上げた。そうして両手に汲んだ水を盛大にぶちまけ、あたりに水滴を撒き散らす。
飛び散った飛沫が夏の陽射しを照り返し、ほんの束の間、星のように瞬いた。光の中で両腕を広げたマナは笑いながら、愉快そうにくるくると回っている。
「お前は本当に海が好きだな」
「んー? まー、そりゃーねー? なんたって海の国の女王さまですし? 即位させられるのがイヤでこんなとこまで逃げてきちゃったけどー。あはっ」
「笑いごとじゃないだろう……」
「笑いごとじゃなくても笑うんですー。マナさんはこれまでもそーやって生きてきたんだから。ヴィルも少しは見習いなさいよー? ただでさえ顔が怖いのに、暇さえあれば眉間に皺寄せてるんだからー」
「その皺が誰のせいで刻まれているのか教えてやろうか?」
「あっ、白鷺! きれいねー!」
羽音を聞きつけたのだろうか、ときに湖上を渡っていく水鳥の姿を見つけたマナが、手で庇を作ってヴィルヘルムから顔を背けた。
あからさまに話題を逸らされたヴィルヘルムは聞こえよがしのため息をつき、湖岸にぽつねんと佇む樹木の幹に背を預ける。
──何もかもが、懐かしかった。
時折腹立たしくなるほど間延びした彼女の喋り方も、他人を振り回してばかりのマイペースさも。陽の光を浴びて太陽のように輝く金髪も、傭兵を名乗るにはあまりに華奢で薄い肩も。
夢の中のヴィルヘルムは、これが過去の記憶であることを頭のどこかで理解している。だからと言って過去を変えることはできないし、目の前の情景は記憶のままに流れていくだけなのだが、今はもどかしさよりも穏やかさが胸を満たしている。
あの日、彼女は生きていた。確かに生きていたのだ。
いつだったか、マナは己の人生をはした金のようだと言った。けれどヴィルヘルムは彼女と歩いた八年間の軌跡を、決して忘れないだろうと思う。
「ねー、ヴィルー」
「何だ」
「私と出会ったこと、後悔してない?」
細波が寄せては返す波打ち際で、マナは急にそんなことを言い出した。
こちらには背を向けたまま。あれは彼女のクセのようなものだ。時折何の脈絡もないところから、意図の読めないあやふやな問いを繰り出してくる。
だからヴィルヘルムも、あまり深く考えずに答えた。
「……後悔するも何も、俺に選ぶ余地などなかっただろう。死にたがっていた俺をお前が勝手に助けて、勝手に妬んで、勝手についてきたんだからな」
「うふっ。そうとも言うわねー」
「そうとしか言わん」
「でも、ヴィルなら私を捨てて遠くに行くこともできたでしょ?」
揺らめくように立ち上る熱気の中。
ヴィルヘルムは無言で隻眼を細め、マナを見た。
彼女の小さな背中が、湖面のきらめきに紛れて消えてしまいそうだ。
けれどヴィルヘルムは、彼女をつなぎとめる術を持たない。
「……そうしてほしかったのか?」
「んー……どーだろね。そうしてほしかったのかもしれないし、そうしてほしくなかったのかもしれない」
「どっちなんだ」
「どっちの気持ちもあるかもなーってことよ、にぶちん。乙女の心がそう簡単に割り切れるわけないでしょー?」
「俺の二倍の歳月を生きてるやつが、涼しい顔で乙女を名乗るな」
「まあ、ひどい! マナさんは見た目も心も永遠の乙女なのにぃー!」
「魔女だからな」
「魔女じゃなくて渡り星ですぅー!」
ようやく振り向いたと思ったマナはひどい膨れっ面だった。そうしてぶーぶー言っている彼女を眺めつつ、我ながら不毛な会話だなと徒労感に苛まれる。
けれどその瞬間、ヴィルヘルムは確かに何かが満たされていた。もしかするとマナもそうだったのだろうか。
そうであればいい、と願う。フラルダを失ってからずっとからっぽだった自分は、からっぽのまま生きてきた彼女のおかげで再び歩き出すことができたから。
「分かった分かった。今はそういうことにしておいてやるから、そろそろ行くぞ。今日中には次の町に着いておかないと、約束の期日に間に合わん」
「あーん、待ってー! 置いていかないでよー!」
取り残されたくないならさっさと岸へ上がってこい。言外にそう伝えるために、ヴィルヘルムは容赦なくすたすた歩き始めた。それを見たマナが慌てて水を蹴立てる音がして、今頃靴を履き始めた頃か、と歩幅を計算する。
「あのね、ヴィル」
刹那、叫ぶでもなく呼び止めるでもなく、マナが言った。
思わず足を止め、振り向いた先で、マナが海色の瞳を細めている。
「一緒にいてくれて、ありがとう」
そう告げた彼女の表情は笑っているようにも、泣いているようにも見えた。
あのとき彼女はどんな想いであの言葉を紡いだのだろうと、今でも思う。
「──あーもー、マジで信じらんないよねー」
そこで意識が覚醒した。
すぐ傍からやけに間延びした声がする。だがマナの声ではない。
低すぎず高すぎない男の声だ。ヴィルヘルムは草葺きの屋根を支える柱の硬さを背に感じながら、ゆっくりと目を開けた。
伸びやかな水鳥の声と、そよ風の音が耳をくすぐる。風を入れるために巻き上げられた簾が揺れて、木製の風鈴が独特の音色を奏でた。
頭上で揺れる吊り鐘型のそれに一瞥をくれ、次いで室内に視線を転じれば、葦の筵で眠るカミラがいる。その枕頭で胡座を掻き、自分の脚で頬杖をついているのはカイルだった。仕切りらしい仕切りと言えば、柱の間に垂れる簾しかない宿の部屋にいるのはこの二人だけ。少し前に出かけたマリステアはまだ戻っていないらしい。ジェロディとメイベルは角人族を無事に説得できただろうか。
「……何が信じられないんだ?」
「うわっ!? ヴィ、ヴィルヘルムさん、起きてたの……!?」
気まぐれに尋ねれば、人差し指でイライラと膝を叩いていたカイルが跳び上がって驚いた。いちいち大袈裟な反応に声をかけたことをうっすら後悔しつつ、我ながら暑苦しい前髪を掻き上げる。
「お前はわざわざ寝ている人間の前であんなデカいひとりごとを言うのか? ここには他に誰もいないようだが」
「い、いや、だって、ちょっと腹が立ってきたからさ……もう昼過ぎだっていうのにラファレイ先生、まだ帰ってこないんだぜ? カミラがこんな状態なのに、よくほったらかして遊びに行けるもんだよ。しかもちゃっかりラフィちゃんと二人きりでさ……」
「別に遊びに行ったわけではないだろう。蛙人族の患者を診られる機会など、滅多にないことだからな。稀少な獣人の診察は生態の研究にもつながる。加えてこの里には、あいつの知らない医術や薬種も多い。何とか里にいる間に、蛙人たちの知識を吸収しておきたいんだろう」
「けど、そう言うわりにはすげー楽しそうに出かけて行ったじゃん? アレは研究っていうより完全に遊びに行くときのノリだったじゃん?」
「まあ、あいつにとって未知の病や医術との出会いは愉悦だからな……俺もそこは否定しないが」
「ヴィルヘルムさんって、よくあんな変な人と何年もつるんでるよね」
「それも否定はしない。が、レイもお前にだけは言われたくないだろうな」
部屋の出入り口から見える沼の様子に目を向けながら、ヴィルヘルムは淡々とそう言い捨てた。その言い草が不服だったのか、カイルが口を尖らせている気配が伝わってくるものの、いつものようにぶーぶーと騒ぎ出す様子はない。
今日はずいぶんと殊勝だな、と頭の片隅でそう思った。いや、今日は──と言うよりも、カミラが倒れてからずっと、と言った方が正確だが。
「心配するな。カミラは必ず目を覚ます」
だからヴィルヘルムも珍しく、真面目に相手をしてしまった。
この里へ戻ってきてからというもの、片時もカミラの傍を離れないカイルの肩が視界の端で小さく揺れる。
「……なんでそう言い切れるわけ? カミラがこうなってから、今日でもう十四日だよ? そりゃオレだってこんなこと考えたくないけどさ。もしかしたらもしかする可能性だって……」
「俺は根拠のない気休めは言わん。ただ、カミラは必ず目覚める。それを知っているから事実としてそう言っているだけだ」
「だから、なんで」
「ここでカミラが死ねば計画が狂う。だからやつらは決してカミラを殺しはしない」
「やつらって?」
「お前たちが常日頃〝神〟と呼んでいるものだ」
「……ヴィルヘルムさんって、時々分かるようで分からないことを言うよね」
「日常会話の八割が意味不明なお前よりはマシだと自負しているがな」
視線の先で、深い緑を湛えた沼の水面に波紋が立った。水の上に浮かび、滑るように移動する小さな虫を魚がぱくりと呑み込んだようだ。あんな風に簡単に命が取れるものなら、やつらはとっくにカミラを殺している。いや、カミラだけでなく兄のエリクさえも、無慈悲に八つ裂きにして殺すことを考えただろう。
けれどそうしなかったのは、もっと優れた見せしめの方法を思いついたからだ。運命と呼ばれるものを自らの手で糾おうとした愚かな魔女と、等しく傲った赤髪の反逆者たちに、無力さと無益さを思い知らせるための手駒。
カミラはエマニュエルという名の盤上で踊る、ちっぽけなそれらの一つに過ぎない。そして神々の遊戯はまだ続いている。
だから自分はここにいるのだ。マナが生前望んだように──カミラという手駒をやつらの手から掠め取り、くだらない遊戯の盤面をひっくり返してやるために。
「……あのさ。これ、オレの考えすぎならいいんだけど」
と、ときにカイルが生気のないカミラの寝顔を見つめて言った。
「カミラってさ。ひょっとしてオレたちが思ってる以上に、なんかヤバいことに巻き込まれてない?」
「……」
「それが何なのかまでは、オレには分かんないけどさ。でも、このまま放っておいたらカミラ、色んな意味で手が届かないところに行っちゃいそうで……」
「知りたいか?」
ヴィルヘルムが短く放った言葉が、カイルの呼吸を止める。彼が息を詰まらせたのはほんの一瞬だったが、まるきり静止した背中から今、どんな表情をしているのかは察しがついた。
「……そりゃ、知れるもんなら知りたいよ。ヴィルヘルムさんは全部知ってるんでしょ? だからいつもカミラを見張ってる。カミラがどこにも行かないように……連れていかれないように」
「俺がカミラの傍にいる理由は、確かにそうだ。だがお前は?」
「え?」
「何故知りたい? カミラを取り巻くものの正体を」
「何故、って……」
言いかけて、カイルが右耳にぶら下がる耳飾りに触れたのを、ヴィルヘルムは見た。オヴェスト城の戦いですっかり血にまみれたはずの羽根飾りは、カミラが使った時戻しの力によって元の姿を取り戻している。
「だって、オレも……カミラを守ってあげたいし。いざというとき女の子に守られっぱなしの男なんてさ、やっぱりかっこ悪いじゃん?」
「それだけか?」
「そ、それだけってことはないけど……カミラは強いし、かわいいし。でも時々ちょっと人とズレてたり、弱さ? みたいなのを見せるときもあるじゃん? そういうコって、下手にか弱い女の子よりも守ってあげたくなるっていうか。カミラってば救世軍のためとなるとすぐこんな風に無茶しちゃうし。それに……」
「それに?」
「……オレだってさ。人並みに責任くらい感じるよ。カミラがこうなった原因の一つはオレだもん。カミラは、オレを……オレなんかを、助けるために……」
うつむいたカイルの言葉は、そこで途切れた。再び夏の湿気を孕んだ風が吹いて、カラカラと鳴る木風鈴を、ヴィルヘルムの黒衣の襟を、眠ったままのカミラの赤髪を──そして、カイルの耳飾りを揺らしていく。
「安心しろ。カミラはあのとき、別にお前を助けようとしたわけじゃない。主にギディオン殿とメイベルを救おうとしたんだ。だったらお前が余計な責任を感じる必要はない」
「……ねえ、ヴィルヘルムさんさ、もしかして慰めてくれてるつもり? だとしたらオレ、いま余計に傷ついてるんですけど?」
「俺は根拠のない気休めは言わんと言ったはずだ」
「ひどくない!? ヴィルヘルムさんがオレに容赦ないのは知ってるけどさ!? こっちはわりと真剣に仲間の心配をしてるってのに……!」
「……仲間、か」
ようやくこちらを向いたカイルを見る目を細めて、ときにヴィルヘルムは足元に寝かせていた愛剣を拾い上げた。その動作をどのように誤解したのか、あれほど騒がしかったカイルがびくりと跳ねて、怯えた様子で黙り込む。
だが当然、物理的にカイルを黙らせようと剣を取ったわけではない。ヴィルヘルムはおもむろに立ち上がりつつ、慣れた動作で鞘を剣帯に収めると、青い顔をしたカイルに背を向けた。
「ならば少し、考える時間をやる」
「へっ……?」
「じきにマリステアが戻るだろう。それまで俺も席を外す」
「え、えっと……つまり?」
「俺から言えることは一つだけだ。さっきの言葉が、もしもお前の本心から出たものなら──カミラを、裏切るなよ」
カイルの表情が固まった。しかし今回だけは特別に見なかったことにして、ヴィルヘルムは踵を返す。
ほどなく、宿の一室にはカミラとカイルだけが残された。ヴィルヘルムの足音は本当に遠のいて聞こえなくなり、すぐに引き返してくる気配もない。
長い──長い沈黙だけがあった。
楽しげに歌う水鳥たちに背を向けて、カイルはただ一人、床下で幽か揺らめく昏い水音を聞いている。




