216.暗雲、晴れて
──それから。
トラモント黄皇国中央第五軍の降伏を受け、彼らを傘下につけた救世軍は、オヴェスト城を屍人の群から解放すべく戦った。戦った、とは言うものの、実のところ当初の予想ほど激しい戦闘が行われたわけではない。ジェロディがトリエステから全軍の指揮を移譲された頃には、屍人の数は三百体足らずまで減っていた。ここまで減れば、手を取り合った救世軍と第五軍の敵ではない。
ハーマンが正気を取り戻し、第五軍の陣頭に立ったことで、将士の士気が頂点まで高まったのも大きかった。両軍は最後の力を振り絞り、烈火のごとき攻勢に出て、屍人で埋め尽くされていたムゲット平野を焼き尽くした。
しかし焼き尽くすと言えばトリエステだ。両軍が被害を最小限に留めて屍人を殲滅できたのは、彼女の功労によるところが大きい。
三千以上にも上った屍人の大群。トリエステは彼らを敢えて城内へ引き入れることでまんまと一網打尽にした。屍霊が炎に弱い魔物であることを利用して、彼らを密室に誘い込み、炎の海へ投じたのだ。
だが神術使いは軒並み神力を使い果たし、神術砲を使うのも困難な状況で、どうやって魔物を燃やし尽くしたのか。この方法が実に斬新だった。
トリエステはオヴェスト城の石積み部分、兵舎区内の中心に、第五軍の食糧庫があることを把握していたのだ。
そして食糧庫には官兵たちの毎日のパンを焼くための、製粉された小麦が大量に保管されていた。トリエステはウォルド隊とケリー隊を囮とし、屍人の群を食糧庫とその直上へそれぞれ誘い込むと、小麦粉の詰まった麻袋を手当たり次第破かせ、皆が咳き込むほど庫内を粉まみれにして──そこへ、火を放った。
いわゆる、粉塵爆発というやつである。
ジェロディはあとから説明されて初めて知ったのだが、空中に多量の粉塵──これはたとえば埃でもいいらしい──が舞っているところに火を放つと、熱に触れた塵が燃焼する。燃え上がった塵はすぐ傍を舞う他の塵にも火をつけ、そのもらい火がさらに他の塵にも移り、また新たな塵に延焼して……という現象が連続して起きることで、とんでもない爆発を引き起こすのだそうだ。
小さな炎の連鎖はほんの一瞬で庫内の隅々まで行き渡り、膨張し、炸裂して、ひしめき合う屍人の群を根絶やしにした。
大地をも揺るがす大爆発は直上階まで噴き上げ、そこにいた屍人をも焼き尽くしたが、囮役を引き受けたトリエステたちは爆発の直前、食糧庫から伸びる古代の地下道へ飛び込み、入り口を塞いだことで何とか事なきを得た。
要するにトリエステは最初から、オヴェスト城の構造をすべて把握した上で抜かりない策を立てていたわけだ。まったく彼女の頭脳と胆力には毎度毎度驚かされる。もっとも当の本人は、
「第五軍が保有していた食糧は、可能な限り無傷で鹵獲したかったのですが……」
と至極残念そうで、劇的な勝利をちっとも喜んでいなかったけど。
ともあれそうした経緯があって、オヴェスト城の戦いはついに幕を閉じた。
早朝から始まった戦いが果てる頃にはすっかり夜も更け、生き残った者たちは肩を寄せ合い、うつらうつらしながら夜明けを待った。
やがて時計の針が黎明を指し示す頃、ジェロディは一人、城壁に佇んでみる。
気づけば雷鳴は遠のき、一晩中降り続いていた雨もしっとりと肌を湿らす程度になっていた。雨の匂いと共に立ち上ってくる、夏の草熱れを深く吸い込む。
そのとき、音もなく雨が止んだ。
あれほど分厚かった暗雲の向こうから、朝日が斜めに降ってくる。
◯ ● ◯
「──と、というわけで、重ね重ね申し訳ないんだけど……でもやっぱりあの杖がないと、あたし的には不安でたまらないっていうか……あ、あたしの聖刻ってすごく不安定で、今までにも何度も力が暴発してるの。だからそうならないために角人族の技術を使って、神刻の力を抑制する道具を作ってほしいなーっていうか……あ、有り体に言えば、希石を一つ譲ってほしいなーっていうか……」
と、目を泳がせながらしどろもどろに話すメイベルの目の前で、テレルが渋面のお手本みたいな渋面を浮かべていた。
ジェロディはそんな彼の通訳として先程から同席しているのだが、場の空気は気まずいことこの上ない。人間の言葉を話せないテレルは黙りこくったままだし、半眼になった黒目に宿る光は明らかに友好的なものではないし、必死に説得を試みるメイベルの声は終始上擦っている。
三人が向き合って座った部屋の外、簾一枚隔てた向こうで、パチャン、と軽い水音がした。燃えるような季節とは裏腹に、真冬のごとく冷え切った水上の空気など知る由もない沼の魚が、無邪気に飛び跳ねたのだろうか。
巨大な沼の真ん中に浮かぶ蛙人族の里、ジャラ=サンガ。
ジェロディたちは目下その里で、長かった戦いの疲れを癒していた。当初の目的であった獣人居住区の解放がついに成り、勝利を祝した蛙人たちが、里を挙げてジェロディたちを歓待してくれたのだ。
実に二ヶ月もの間、真夏の獣人区とオディオ地方を走り回っていた一行は、彼らの好意に甘えてしばしの休息を取ることに決めた。期間はタリア湖を渡って上陸した救世軍が、コルノ島への帰投を無事に完了するまでと取り決めて。
ジェロディたちがこうして里の厄介になっている間にも、救世軍の将士は獣人居住区の東端に集結し、少しずつ湖を渡っている。来たときほど急ぐ必要がないので進捗はゆるやかだが、しかし着実に滞陣する兵士の数は減ってきているようだ。
「あ、あのさ、テレル。メイベルもこう言ってるし……彼女も君たちに悪いと思っているんだよ? 君たちが創る純正の希石は貴重なものだと、ちゃんと知っているからね。でも、メイベルはこれから僕らとコルノ島で暮らすことになる。故郷のアビエス連合国には当分帰れないんだ。だから……」
と、やがて説得の言葉が尽きて涙目になっているメイベルを見かねたジェロディは、不毛とは知りつつも横から助け船を出すことにした。今回の一件で救世軍にかなりの貢献をしてくれたメイベルはジェロディたちの仲間として、このあと共にコルノ島へ渡ることが決まっている。
内乱の激化に伴い、魔物の数が急増している黄皇国で、少しでも誰かの役に立てるなら──そう言って救世軍入りを決意してくれたメイベルの想いに、ジェロディは総帥として……否、一人の友人として報いたかった。だからテレルの説得にひと肌脱ごうとしたわけだが、ときにそのテレルが、華奢すぎるほど華奢な肩を竦めてため息をつく。
《はあ……なんていうか、おまえら間抜けだな》
「うっ……」
《間抜けも間抜け、大間抜けだ。悪いけどそういうことだから、おまえらに希石はやれない》
「い、いや、君の言いたいことは分かってるよ。けど、そこを何とか……」
《いいや、何も分かってないね。そもそも神子、おまえ、希石ってものが何だか理解してるのか?》
「そ、それは……もちろん君たちほど詳しくはないけど、人の魂を糧に色んな力を発揮する未知の水晶……だろ?」
《まあ、大雑把に言えばそうだ。希えば何でも叶う石──希石とはそういうものだ。でもこいつが持ってた杖は違う。あれにくっついてたのは希石じゃない》
「え?」
《あれはただの青水晶だ。早い話が、色のついたちょっと珍しい石英。南東大陸でよく採れる水晶で、あんなに大きいのは滅多に見ないけど、何にせよ天露石や清湍石と変わらない、ただの青い鉱石だよ》
「ちょ、ちょっと待ってくれ。だけどメイベルの神力は、杖のおかげで暴走せずに済んでたって……」
話が見えず、慌てて問い重ねれば、テレルはいよいよ呆れ切った表情でジェロディを見た。他方、ジェロディの声しか聞こえていないメイベルは会話の内容が見えないらしく、きょとんと目を丸くしている。
《あのな。おまえ、〝偽薬効果〟って知ってるか?》
「ぎ、ぎやく……?」
《たとえばおまえが風邪をひいたとするだろ。で、医者が診察して薬を出していく。でも実は薬はただの小麦粉で、薬効なんて微塵もない。だけどおまえは風邪薬だと騙されたままそいつを飲む。するとたちどころに風邪が治って元気になる……嘘みたいな話だが、そんなことが現実に起こり得るんだ。実際に小麦粉を薬と信じて飲み続けて、不治の病を克服した人間の例もある。要するに思い込みの力だ。偽物を本物だと信じて使うことで、自分で自分に暗示をかける。すると人は想いの力で、一見解決不可能な問題も乗り越えてしまうことがある》
「じ、じゃあ杖をもらってから今まで、メイベルの力が一度も暴走しなかったのは、あれを本物の希石だと信じて使っていたからってこと?」
《そういうこと。人が何かを心の底から信じる力っていうのは、おまえらが思っているよりずっと強い。人が神の力を借りずに起こせる唯一の奇跡だ。こいつはもうその奇跡を使いこなしてる。だったらぼくらが貴重な希石を分ける必要なんかないだろ。ま、どうしても心の依りどころが必要だって言うなら、適当な杖でも買えばいいんじゃないか? 神術使いの中には術の発動をイメージしやすいように、杖や指輪を媒介にするやつが結構いるから》
テレルとの話し合いはそれで終わりだった。言いたいことを言うだけ言ったテレルは、これ以上人間とは馴れ合いたくないと言わんばかりに席を立ち、跳ねるような足取りで簾の向こうへ消えてしまう。
なお、ジェロディがテレルから聞いた話を伝えたところ、里中にメイベルの絶叫が響き渡ったことは言うまでもなかった。ここまでの一部始終を聞いて愉快そうに笑い出したのは、彼女と同じ連合国出身のアーサーだ。
「なるほど、さすがはマドレーン教授。メイベルくんは彼女にまんまと一本取られたというわけだ。あの方は昔からああなのだよ。いつもにこにこしているが、笑顔の裏では他人を玩具にすることしか考えていない恐ろしい女だと、彼女の旧友であるサヴァイ学長がおっしゃっていた。まあ、彼の言はいささか酷評が過ぎるが」
「でも、だからって悩める教え子を騙すとか……ひどい……ひどすぎる……」
「ま、まあ、でも、おかげで杖がなくたって、君は初めから正常に神術を使えたことが証明されたわけだしね? そのマドレーン教授という人は、メイベルが自力で神刻を操る方法を身につけられるように、敢えて偽物の杖をくれたんじゃないかな……?」
テレルとの面会のあと、ジャラ=サンガの浮き橋を渡りながら、ジェロディは懸命にメイベルを慰めようと言葉を尽くした。正直言ってマドレーンという女性のことは何も知らないし、アーサーの話を聞く限りまともな相手とは思えないのだけれども、今はとにかくメイベルに両手で顔を覆って歩くのをやめてほしい。でないと彼女が浮き橋から転げ落ちてしまいそうでハラハラする。
つい数日まで戦乱の渦中にあったとは思えない、のどかな夏の日。
ジェロディたちは眩しいくらいの青天の下を、宿まで連れ立って歩いた。ジャラ=サンガにも一応宿屋はあって、一行はそこで寝泊まりしているのだ。
と言ってもアーサーは、明日には獣人居住区を去る予定でいる。
彼はクラウカに乗って一度アビエス連合国へ帰り、これまでの経緯を連合国宗主レガトゥス・コンキリオに報告してくるつもりだという。
そもそもアーサーが黄皇国へやってきたのは、救世軍がアビエス連合国の支援に値する組織かどうか、それを見極めるためだ。彼にはその使命をまっとうする義務がある。せっかく戦友になれたのに、別れなければならないのは寂しいけれど。
「何、ご心配召されるな、ジェロディどの。レガトゥスさまへの報告が済み次第、私はまた黄皇国へ舞い戻って参ります。此度の戦で失った騎士たちの弔いもあるゆえ、少々時間は頂戴しますが……あなた方のことは私の口からしっかりと、国を挙げて支援すべき組織であると本国に伝えてきましょう。次にお会いするときは、山ほどの手土産を持参しますよ」
「ありがとう、アーサー。楽しみにしてるよ」
宿への道を歩きながらそんな話をしていると、不意にメイベルが「あ」と声を上げた。どうしたのかと目をやれば、彼女の視線の先に人影がある。
ジェロディたちの前方、ゆらゆら揺れる浮き橋の上を同じ方向に向かって歩いているあのメイド服の背中は……マリステアだ。
「おお、マリステアどの! 貴女も外出されていたので?」
「ひぃっ……!?」
と、アーサーが後ろから声をかけるや否や、マリステアの肩がびくりと跳ねた。かと思えば彼女は何か大事そうに抱えたまま、ぷるぷると震えて立ち止まる。
振り向いた顔は、何故か半泣き。
大きな常磐色の瞳を潤ませ、唇をわななかせたマリステアは、
「あ、アーサーさん……! お、おど、おどかさないで下さい……!」
と涙声で訴えた。そこでジェロディはようやく理解する。アーサーが呼び止めるまで彼女がそろりそろりと忍び足で歩いていたのは、揺れる浮き橋から足を踏み外しやしないかと怯えていたためだったのだと。
「こ、これは失敬。まさかそこまで驚かせてしまうとは……里に来てもう二日になるが、未だに浮き橋が怖いのだな、マリステアどのは」
「あ、当たり前です! だって見て下さい、この沼の色! も、もう見るからに底なしじゃありませんか……! こんなところに落ちたら絶対に助かりませんよ!? 溺れながら永遠に水に沈んでいくなんて、恐ろしすぎて考えただけで気絶しそうです……!」
「い、いや……蛙人たちが普通に水中を行き来してるし、さすがに底なしではないと思うけど……でも、そんなに怖いならせめて誰かと出かければいいのに。一人でどこ行ってたの?」
涙目で熱弁を振るうマリステアに苦笑しつつ、ジェロディは彼女が腕に抱えているものを覗き込んだ。見たところ、それは籠だ。細く裂かれた樹皮で編まれた、マリステアの細腕にも収まる程度の小さな籠で、見たこともない植物がふんだんに詰まっている。もしかするとこれらは野菜……だろうか? よく見ると瓜に似た実が一つ、二つ、青々とした葉っぱに埋もれているから。
「じ、実は宿屋の女将さんから、ポヴェロ湿地に自生している水草の中に食べられるものがいくつかあると教えていただいたんです。蛙人族の皆さんは稗や粟と一緒にお粥にして召し上がるらしいんですけど、どれもとっても滋養があると伺って……それで、お粥くらいならカミラさんも食べられるんじゃないかと思って、食材屋さんに行っていたんです。理由を話したらお代はいらないと言われて、タダでこんなにたくさんいただいてしまったんですけど……」
後ろめたそうにそう話すマリステアの視線の先には、瓜に似た実の他にも穀物がたっぷり入った麻袋や、茎の先端が渦巻きになった植物、何かの根っ子、嗅ぎ慣れない匂いを放つ香草などが折り重なっていた。彼女がそれらをカミラのために購いに行ったのだと知って、ジェロディは束の間言葉に詰まる。
オヴェスト城での戦いから既に半月。あの日、星刻の力で仲間を救ったカミラは今も昏々と眠り続け、一向に目を覚ます気配がなかった。
ラファレイ曰く、カミラは「あと一歩踏み込めば死ねる領域」まで片足を突っ込んで時戻しの力を行使したそうだ。ラファレイは先代の渡り星とも面識があるらしいのだが、カミラより遥かに星刻を使いこなしていた先代さえ、死人を生き返らせるほどの力は持ち合わせていなかったという。
しかも一人のみならず、複数人。「驚嘆を通り越して呆れ果てるな」と、いきさつを聞いたラファレイは言った。人の身でありながら神の領域へ土足で踏み込むなど、エレツエル人に言わせれば天をも恐れぬ蛮行である。ゆえにこの件がエレツエル神領国の元首たる聖主エシュアの耳に入れば、カミラは間違いなく冒涜者として命を狙われるだろう、とも。
「あ……あたしが今こうして生きてるのも、カミラのおかげなんだよね……ほんとは一回死んだはずなのに、カミラが時戻しの力で助けてくれた。あたしがあんな無茶しなければ……」
「いや、違うぞ、メイベルくん。カミラどのはあのときあの場にいた全員を救おうとしたのだ。君一人の責任ではない。すべては黄皇国を狂わせている魔女と魔族、やつらの卑劣な策略によるもの。だから自分を責めてはいけない」
そんなことをすればカミラが悲しむ。ジェロディの肩に乗ったアーサーがそう言えば、メイベルは今にも零れそうな涙をこらえ、ぎゅっと唇を噛んだ。
大事そうに籠を抱えたままのマリステアも、不安そうだ。カミラの状態を診たラファレイは、命に別状はないが一生目覚めない可能性もある、と言っていた。
これまで彼が診てきた患者の中にも神力を極限まで使い果たしたのち、死んだように眠り続けて意識が戻らなかった者が何人かいたという。そういう者は眠りながら徐々に衰弱し、最後は静かに息を引き取ると聞いた。
(人間の全身を走る〝神術回路〟……それが焼き切れて脳に損傷を与えていたら、僕がいくら生命力を分け与えても、カミラが目覚めることはないと先生は言っていた。そして、意識のない人間を今の医術で生かし続けるのには限界があると……)
ジェロディはラファレイから告げられた事実を反芻しながら、《命神刻》の宿る右手を無意識に握り締めた。このままカミラが目覚めなければ、ジェロディはもう一度テレルに頼んで希石の力を頼ろうかと考えている。あの万能の石ならば、現代医学では手が出せないという神経の損傷も癒やせるのではないか、と。
けれどもし、希石の力をもってしてもカミラが目覚めなかったら──?
そう考えると足が竦む。一番恐ろしいのは、思いつく限りのすべての方法を試し尽くしてしまったあとのことだ。
そのときジェロディたちはカミラと共に、最後の希望をも失うことになる。そこから先は為す術もなく、彼女がゆっくりと死んでゆくのを見守るだけ。
(そんなのは……耐えられない……)
既にこの半月、眠ったまま窶れていくカミラを見ては、いたたまれなくなって目を背けた。こんな自分が彼女の死という未来を受け入れられるわけがない。
『ティノくん!』
太陽みたいな笑顔で呼びかけてくるカミラの姿が、キラキラ光る沼の水面に浮かんで消えた──ああ、いつからだろう。あの笑顔を見るたび胸がいっぱいになって、失いたくない、と願うようになったのは。
(フィロメーナさんも同じ気持ちだったんだろうか)
カミラの笑顔には人の心を照らす力がある、と思う。それは彼女が意図してそうしているわけではなくて、生まれつき天から与えられた才能だ。
彼女が隣にいるだけで、誰もが自然と笑顔になれる。まだ戦える、と、背中を押された気分になる。彼女が自分たちを心から想ってくれていることが伝わってくるから。だからきっとフィロメーナも、そんなカミラの笑顔に応えたい一心で、逃げずに救世軍の旗を振り続けた。
「もしもこのまま、カミラさんが目覚めなかったら」
と、籠を抱き締めたマリステアがぽつりと言う。
「わたしは、ルシーンさまを……許しません。元から許すつもりなんてありませんけど、何度生まれ変わったって、絶対に許しません。だってルシーンさまは、ティノさまやガルテリオさまを苦しめるだけじゃ飽き足らず、ハーマン将軍や陛下まで……」
ぎゅう、と彼女の腕に抱かれた籠が小さく軋んだ。その音が、マリステアの心が上げるか細い悲鳴のように思えて、ジェロディも胸が締めつけられる。
「──陛下は既に魔の手に落ちた」
救世軍一同がハーマンからそう聞かされたのは、オヴェスト城の戦いが果てた翌日のことだった。コラードと共に降将となったハーマンは現在、オヴェスト城に残って城の修繕作業に手を尽くしている。表向きには反乱軍を撃退したということにして時間を稼ぎ、オヴェスト城を救世軍第二の拠点にできるよう鋭意工作中だ。
トリエステはハーマンが治めていたオディオ地方を丸ごと救世軍の領地として、民から上がってくる食糧や税金で将兵を養うという大胆な策を打ち出した。
だがそのためにはまず、オヴェスト城が軍事拠点として完璧に機能していなければならない。ハーマンの離反を知った周辺の中央軍が、いつオディオ地方へ攻め寄せてくるか分かったものではないからだ。しかし問題はオディオ地方の防衛だけではない。ハーマンがジェロディたちを集めて告白した真実はあまりに衝撃的すぎて、聞く者の思考をしばし凍らせるほどだった。
「無論信じたくはないが、これは動かし難い事実だ。私はルシーンの口から直接そう聞かされた。あの魔女はエヴェリーナ妃の崩御によって傷ついた陛下の御心に、憑魔という猛毒を塗り込んだのだ。今や陛下はルシーンの操り人形にすぎぬ……そうと分かれば今すぐにでもソルレカランテ城へ駆け込み、陛下を魔物の支配から解き放って差し上げたいが」
「現実的には不可能でしょうね。ルシーンは今回、ハーマン将軍につけていた魔族が敗れたことで、将軍への警戒を強めているはずです。とすれば将軍を黄都に入れることを拒むか、その場で拘束するか、とにかくいずれかの方法で陛下の救出を妨害してくるでしょう。あるいは将軍がオディオ地方を出る前に、口封じのための刺客が差し向けられる可能性も……」
「そうだな。私もそう思う。ならばせめてこの事実を世間に知らしめたいところだが、魔女は今回私に憑いていたのと同等の力を持つ魔族を、他の将軍たちの身辺にも放ってあると言っていた。陛下が既に人ではなくなっていることを知れば彼らも心を乱し、魔族に付け入られるかもしれん。加えて市井にも混乱が広がり、今以上に国が乱れることになるだろう」
そうなればかえってルシーンの思う壺。ハーマンの話を信じるならば、あの女の目的は黄帝を始めとする国の重鎮を魔術で操り、黄皇国を丸ごと手に入れることだ。そんな途方もない野望の果てに、ルシーンがどんな絵図を描いているのかは知らない。だが彼女が魔界と手を結び、大神刻の奪取を企てる魔女である以上、きっとろくでもない未来が待っていることだけは確かだろう。
その未来を避けるためには、やはり救世軍が動くしかない。
ルシーンが黄帝を利用して、己の盾としている大将軍たちを一人一人彼女から引き剥がし、ソルレカランテまでの道を開く……。
そしてオルランドに取り憑いている魔を祓い、ルシーンを討つのだ。今のジェロディたちには聖刻に愛されたメイベルもいる。
考えれば考えるほど遠い道のり──けれどきっと不可能ではないはずだ。
「だがそれでも私は、やはり陛下をお救いしたい。ゆえに共に戦うことを許してくれるか、ジェロディよ」
そう言ってくれたハーマンと固く握手を交わした記憶が、今も手に新しかった。
あの節榑立った手の感触を、掌に思い出せる。
時代は間違いなく動き始めた。
彼女が守り続けた希望の種が芽を出したのだと、カミラにそう伝えたい。
「ね、ねえ、マリーさん。だったらそのお粥作り、あたしも手伝うよ。ぶ、ぶっちゃけ料理ってあんまりしたことないんだけど……でも、あたしもカミラのために何かしたいし。あ、あとついでに料理もちょっと覚えたいかなー、なんて……」
「ほ、本当ですか、メイベルさん……! 実はわたしも知らない食材ばかりで調理の仕方が分からなくて、これから女将さんに教えていただこうと思っていたんです。ですが一人だと上手くできるか心配なので、一緒に挑戦していただけると大変心強いです……!」
「む。そういうことなら私も手伝おうか。こう見えて物覚えには自信があるのだ。女将どのに調理法を教えていただけるのであれば、手順の記憶は私に任せて……」
「あ、アーサーさん……お、お気持ちはとても嬉しいのですけれど、調理場ににゃんこを入れるのは、えっと……え、衛生上問題があるというか、料理に毛が入ってしまうと困るというか……」
「にゃんこではない、猫人だ! マリステアどの、私はいま著しく傷ついたぞッ……!」
ところがそんなことを考えている間に、気づけば周りがずいぶん賑やかになっていた。ジェロディの肩の上ではアーサーが先だけ白い手で連続猫パンチを繰り出し、マリステアは失言を詫びている。
ふと目をやれば、浮き橋の向こうに見える宿の傍らで、橋に伏せた翼獣が大きなあくびを零していた。さらに里のあちらこちらでは、蛙人たちがのんびり舟を漕いだり、井戸端会議をしたり、子供同士で駆け回ったり……。
──ようやくいつもの日常が戻ってきた。
夏の陽射しの中で弾けるメイベルの笑い声を聞きながら、ジェロディもふっと頬を緩めた。あとはカミラが無事に目を覚ましてくれれば、何もかも元どおりだ。
当たり前の平穏。当たり前の幸せ。
それが当たり前に手に入る時代が、この国にももう一度訪れればいいと願う。
(黄皇国はここにあるよ、父さん──)
すぐ北の地にいる父を想いながら、ジェロディは晴れ渡った空を仰いだ。
真っ白な積乱雲の下で、夏の虫が鳴いている。
 




