215.コハブヤヴァル
「……コラード、か?」
目覚めたハーマンが最初に口にしたのは、すべてを擲って己を救わんとした副官の名前だった。喧騒に包まれていた広間に、静寂が広がっていく。
上官の覚醒に気づいた黄皇国兵たちが足を止め、緊張した様子で口を噤むと、その沈黙があっという間に広間中へ伝播した。
金属が触れ合う音と共にハーマンが身を起こす。まだ意識が朦朧としているのか、彼は鋼の籠手で額を覆った。階の上で片膝をついたままのコラードが、そんな上官の顔を気遣わしげに覗き込む。
「将軍、お目覚めですか? ご気分は……」
そう尋ねるコラードの声色に、殺意はもうない。彼を支配していた憎しみの衝動は、メイベルが命懸けで伝えた想いによって完全に浄化されたようだった。
他方、ハーマンは苦しげに額を押さえたまま動かない。堕魂がもたらす肉体的苦痛が、彼をまだ苛んでいるのだろうか。
口を閉ざして見守るジェロディの隣ではメイベルもまた、向かい合ったハーマンとコラードの様子を息を飲んで見つめていた。体の横で握られた彼女の拳が、今すぐにでもコラードに駆け寄りたいのを必死にこらえているのだと伝えてくる。
「……長い……長い、夢を見ていた。そんな気分だ。この世のあらゆる苦痛と汚濁を濃縮した、悪夢の中にいたような……」
「はい。とても長い悪夢でした。ですが、もう……終わったことです」
凪の日の湖のように静かなコラードの声が広間に響いた。ハーマンはそれきり口を閉ざし、何も言わない──果たして解呪は成功したのだろうか?
今の口振りからは、ハーマンがいくばくかの正気を取り戻したようにも思えた。しかしまだ確定ではない。ジェロディは杖を失ったメイベルに危険が及ばぬよう警戒しながら、物音を立てずに腰の剣へ手をかけた。
もしも手遅れだったなら、自分は彼を、斬らねばならない。
「……記憶が断片的で……曖昧だ。戦は……反乱軍との戦闘はどうなった?」
「我が軍はムゲット平野で救世軍と対峙しましたが、神術砲による砲撃の前に敗走しました。その後、城の東門を破られ、城内への侵入を許したものの、魔族の介入により戦闘は一時中断。現在当城は大量発生した屍霊により、屍人の群に囲まれております」
「屍人の群、だと?」
「はい。此度の戦で犠牲になった敵味方の兵士が、屍人となって押し寄せている状況です。我々はこれから救世軍と協力し、魔物の包囲を突破します」
「待て、コラード。反乱軍と協力、とは」
「既に我が軍の士官の大半は、ここまでの戦闘で失われております。彼らと共闘しなければ、この窮地を脱する方法はありません──我々は負けたのです、将軍」
コラードの口調は依然凪のようで、されどあまりにもまっすぐだった。味方の敗北を告げる異例の宣言。それを聞いたハーマンはついに顔を上げ、目の前に跪くコラードを見つめている。
「……そうか。我々は、負けたのか」
「はい。負けました」
「そうか。……そうだな。フフ……ハハハハハハハ……!」
何が可笑しいのか、ハーマンは天を仰ぐや呵々と大笑し始めた。その様子がいささか狂気じみていて、ジェロディは身構えてしまう。
やはり解呪は間に合わなかったのか? ハーマンは今も狂人のまま……?
いや、でも、そうではないと信じたい。
相反する二つの感情の狭間で惑っていると、突如ハーマンが傍らの戦斧に手をかけた。彼が愛斧をしっかと握ったのを見て、一同に緊張が走る。
斧刃の先端から伸びる刺先が、星砂岩の床に突き立った。四十果(二十キログラム)を超える鉄鋼で全身を鎧った男が、やおら階の上で立ち上がる。
かと思えば彼はおもむろに高みから広間を見渡した。炯々と光る眼と視線が搗ち合う。ジェロディは剣を掴む手に力を込めた。もしも彼の魂が今もまだ、闇に囚われたままならば──
「ジェロディ・ヴィンツェンツィオ」
低く、聞く者の体の芯を震わせるような声でハーマンがジェロディを呼んだ。
かと思えば彼は一歩、また一歩と踏み締めるように階を下り始める。
傍にいるメイベルの長い髪が生き物のごとくうねった。恐らくは彼女も計りかねている。ハーマンは正気を取り戻したのか、否か。
「メイベル、下がって」
いざとなれば自分が。彼女がそう決心しているのを感じ取って、ジェロディは素早く腕を引いた。そうしてメイベルを背に庇い、歩み寄ってくるハーマンと対峙する。これ以上メイベルに危険は冒させない。
同時にバタバタと足音がして、ジェロディの背後に数人の救世軍兵がついたのが分かった。彼らもまた、ハーマンが未だ狂人のままならば、手段を選ばじと殺気をみなぎらせている。誰もが固唾を飲んで接近する二人の軍主を見守った。
かくして互いの得物が届く間合いまできたところで、ハーマンが足を止める。
「立派になったな、ジェロディ。いや──救世軍総帥代理、ジェロディ・ヴィンツェンツィオ殿」
ジェロディの目線から六葉(三十センチ)ほども高いところからそう言って、次の瞬間、ハーマンは得物を横様に構えた。
それをゆっくりと床へ下ろしながら、自身もまたジェロディの前に跪く。誰も声を発していないのに、広間がざわめきに包まれた。上官の正体を見極めかねていた官兵たちが、瞳を揺らしながらハーマンを見つめている。
「ここに、我が軍の降伏を宣言致します。どうか私の首と引き替えに、貴軍も矛をお収め下さい。此度の争乱の責任はすべて自分にあります。不甲斐なき上官に命じられ、理不尽な戦いを強いられた将兵には慈悲を。ハイムの神子たるあなた様の、寛大なご決断に期待します」
「将軍……!」
ざわめきはついに本物になった。
一部始終を見ていた官兵たちの間から、口々にハーマンを呼ぶ声が上がる。
──ハーマン・ロッソジリオ。
間違いない。今、目の前で恭しく頭を垂れたこの人は、自分の知るハーマンだ。そう確信が持てたとき、ジェロディは色々なものが喉元まで込み上げてくるのを感じた。じわりと視界が熱を帯びて、唇を噛み締める。
戻ってきた。生き続けていた。彼もまた、魂の奥底で。
確信を得たジェロディはついに腰の剣から手を離し、自ら進んで首を差し出さんとする一人の敗将に目を落とす。
「……顔を上げて下さい、将軍。今回の争乱の真相は、僕たちも把握しているつもりです。あなたの副官であるコラードさんが命懸けで事実を調べ上げ、教えてくれました。あなたは魔女ルシーンの罠にかかり、あの女と魔族の呪術に操られていた。そうですね?」
「まったくお恥ずかしい話だが、おっしゃるとおりです。私はルシーン・アシュタラクの正体を看破することができず、対処が遅れたがゆえに、己が魂をまんまと魔族へ明け渡してしまいました。結果はこの有り様です。私は獣人居住区で暮らす罪なき獣人たちを虐殺し、無用の戦を仕掛け、数多の将兵を犠牲にしました。それらすべての罪過を、私の首一つで償えるとは思っておりません。なれどどうかコラード・アルチェット以下、第五軍将士の命だけはお助け願いたく……」
「いいじゃねェか。ソイツの言ってるこたァ至極まっとうだ。ソイツが魔族ごときの言いなりになってくれやがったおかげで、人間も獣人もごまんと死んだ。ビースティアとの不可侵条約だけじゃねェ、ソイツはテメエの仲間も裏切ったんだよ。その責任を全部引っ被って死んでくれるっつーんなら、喜んでそうしてもらおうじゃねェか」
「何だと、貴様……!」
離れたところから大声で口を挟んだのは猿人族のウーだった。彼の乱暴な言い分に反応した官兵たちがたちどころに殺気立っていく。だが猿人たちも唇を剥いて牙を見せ、わざわざ彼らを挑発する態度を取った。同族意識の強い彼らにとって、一族の仲間を殺戮したハーマンは許し難い存在なのだ。
ウーたちは恐らく、ハーマンが今回の責任を取って処断されなければ納得しないだろう。だがハーマンに心服している彼の部下たちが、それを許すはずもない。
「ふざけるなよ、サルども。ハーマン将軍は嵌められたんだ、あのお方に非があるはずがない! 責められるべきは卑劣な魔女と魔族であって、将軍は被害者だ! そんなことも分からないのか!」
「そういうテメエらこそ、目ェかっぴらいて現実をしっかと見やがれ。その飾りみてェに小せェ頭じゃ理解できねェかもしれんがな、ソイツがもっと早くに魔女とやらの存在に気づいてりゃ、そもそもこんなことにゃァならなかったんだよ! ソイツだってソレを認めてンだろうが、なァ!?」
「おいウー、やめろ。お前らも落ち着け! 今は言い争ってる場合じゃ──」
「ルシーン様の正体に気づけなかったことが悪いってんなら、一番に責められるべきは魔女なんかを愛人にしている黄帝陛下だろう! 陛下に忠誠を誓う立場のハーマン将軍が、奥向きのことにまで口を挟めるわけがない! 何でも力で解決すればいいと思ってる野蛮な種族には、到底理解できない問題だろうがな!」
「そうだそうだ! まったくこれだからサル頭は……図体はデカいくせに、頭の中にあるのは盗みと暴力のことだけかよ。言ってることもやってることも、脳ミソの足りないシャムシール人といい勝負だな!」
「あンだと!? そう言うテメエらの上官だってシャムシール人だろうが!」
「コラード殿をあんな連中と一緒にするな! あの方はお生まれこそ砂王国だが、今じゃ立派なトラモント人だ! 下等な環境で育ったシャムシール人やお前らとは違うんだよ!」
──まずいことになった。ウォルドたちの制止も聞かず、激昂した猿人族と官兵は今にも殴り合いの喧嘩を始めそうだ。
ここにきて互いが互いに抱いている偏見や差別意識が唐突に頭をもたげてきた。認めたくはないが、これが人間と獣人とを隔てる現実だ。
長いあいだ相手の存在から目を背け、理解しようとしてこなかった代償。それによって生まれた溝が、こんなわずかな時間で完全に埋まるわけもなかった。
猿人たちは救世軍には心を許したものの、人間そのものに対する蔑視を捨てたわけではないのだ。そしてここにいるトラモント人もまた、猿人族は野蛮で手癖の悪い種族だと信じ込んでいる。どちらもそうあってくれた方が都合がいいから。相手が悪者であればあるほど自分の正当性が認められ、種としての優位を声高に主張できるから──
「──あーもー、いい加減にしてっ!!」
瞬間、至近距離から響き渡った甲高い声に、ジェロディは不意を衝かれた。鼓膜が貫かれたようにキーンと音を立て、視界にも小さく星が散る。
空間を劈くような怒声は、言い争っていた者たちの肝をも潰した。喫驚した様子の彼らを見回し、常にない剣幕で声を張り上げたのはメイベルだ。
「まったく黙って聞いてれば、いつまでもくだらないことをゴチャゴチャと……! あんたたちねえ、いい大人が揃いも揃ってバっカじゃないの!? 種族がどうとか人種がどうとか、今はそんなことで言い争ってる場合じゃないでしょ!? こうしてる間にも、外じゃ人が死んでるの! だったら喧嘩なんかより先にやることがあるんじゃなくて!? こんな簡単な優先順位もつけられないあんたたちなんかねえ、人間も猿人族も関係ない、等しくバカよ! 大バカよ! だいたいすぐそこにハイムの神子さまがいるってのに、人類として恥ずかしくないわけ!? ハイムさまの前ではいかなる命も差別されないって、学校で習わなかった!? ああ、もしくはトラモント黄皇国って遅れてるから、そもそも学校なんかないのかなあ!? 残念ねえ、お国のせいで満足に教育も受けられないなんて! 正直連合国出身のあたしから見たら、あんたたちなんか五十歩百歩! どっちも未開の野蛮人! 分かったら低次元な言い争いしかできない口を閉じて、さっさとやるべきことをやる! それくらい言われなくても分かりなさいっての!!」
怒りで顔を真っ赤にしたメイベルは言いたいことを一気に捲し立てるや、ぜえぜえと肩で息をした。
想定外の彼女の剣幕に、ジェロディは呆気に取られるしかない。いや、ジェロディだけでなく居合わせた全員が面食らっている。直前まであれほど騒がしかったはずの広間は束の間、時間が止まったかのような静寂に包まれた。直後、
「クッ……」
と、誰かが短く声を漏らしたのが聞こえる。一同の視線が声のした方へ動いた。そこではトリエステが口元を押さえながら横を向いている。遠くて見えにくいが、心なしか肩も震えているようだ。その様子を間近で見たウーが、胡乱なものを見る目で彼女の横顔を覗き込む。
「……おい、トリエステ。オメエ、今、笑ったろ?」
「……いえ、笑っていません」
「いや、笑ったよな? 笑っただろ? 笑ってねェならコッチ見てみろよ、ホラ」
「笑っていません。ただ、たった十六歳の少女に、いい歳をした大人がまとめて説教されている図が……少し、滑稽だっただけです」
「それを〝笑った〟っつーんだよ、世間ではなァ!」
依然ウーの方を見ようとしないトリエステの声は明らかに震えていた。ジェロディのいる位置からは、横を向いた彼女の顔は見えない。しかしトリエステがあんな風に人前で笑い出すなんて、意外だ。普段は何があっても顔色を変えず、感情を表に出さない彼女が人並みに笑う姿など、ジェロディは想像もつかなかった。
が、異国から来た少女に正論を説かれ、さらに容姿端麗、才色兼備のトリエステに失笑されたことで、皆の羞恥は頂点に達したようだ。先刻まで怒声を張り上げていた者たちは恥じ入るようにうなだれ、猿人までもが口を閉ざし、ばつが悪そうに視線を泳がせた。彼らの反応を見たジェロディは一つ息をつくと、階の上にいるコラードを仰ぎ見る。
「コラードさん」
「……はい?」
「この場を収めるために、僕から提案があります。メイベルの言うとおり、ハーマン将軍の処遇について議論している時間はありません。かと言って問題を先送りにすれば今のように不満が噴出して、両軍の共同戦線に綻びが出る可能性がある。だったら将軍の進退は、あなたに決めていただけないでしょうか」
「私が……ですか?」
「はい。あなたはハーマン将軍の忠実な部下であると同時に、今回の騒動で故郷と家族を失った身の上です。立場としては第五軍の将士とビースティアの獣人たち、どちらの意見も代弁できる。だからあなたに選んでもらいたいんです。僕たちは処断を望む将軍の希望を聞き届けるべきか、生きて罪を償ってもらうべきか──その答えを」
ジェロディの提言を聞いたコラードは、しばし驚いたように立ち尽くしていた。されどほどなく、彼の視線は跪いたハーマンへと注がれる。
彼の翠色の瞳の奥に、様々な感情が去来するのが見えた。幸いジェロディの提案に反対する声はない。第五軍の兵士たちはコラードがハーマンに捧げてきた忠愛の深さを知っているし、猿人族は無惨に焼かれた彼の故郷も、憎しみに駆られたコラードの姿も目に焼きつけている。
そして静かに処断を待つハーマンもまた、特に異を唱えることをしなかった。どんな内容であれ、救世軍総帥であるジェロディの決定ならば大人しく従うといった構えだ。彼の潔さは当代のトラモント五黄将の中でも随一かもしれない。魔族が見せていた悪夢から目覚め、ようやく肉体と魂の自由を得たというのに、自軍の敗北を悟るや騒ぎもせずに己が命を差し出すなんて。
「コラード」
「……はい、将軍」
「お前はお前がこうすべきだと思う道を選べ。何も迷うことはない。己が何者であるかを決めるのは、お前自身だ」
命乞いをするでもなく、媚びるでもなく。
ハーマンはただ突き放すように──それでいて包み込むようにそう言った。
途端にコラードの表情が歪む。彼はきつく眉を寄せ、唇を噛み締めた。
その表情が意味するところを、ジェロディは想像することしかできない。
ただ、彼はやがて背負っていた弓を手にすると、不意に足元へ手を伸ばした。
そこにはジェロディたちがこの広間へやってきたとき、コラードがハーマンへ向けて放った第一矢が転がっている。
玉座の背凭れに突き立ったのをハーマンが引き抜き、無造作に放ったものだ。彼はそれを拾い上げるや、静かに弓へ番えながら、言う。
「……将軍。あなたは私の目標であり、夢であり、理想であり……人生でした。あなたは砂王国の奴隷の子である私を、一人の人間として育てて下さった。その大恩を、生涯を懸けてお返ししたい気持ちは今もあります。ですが……」
「ああ、分かっている。私はお前の両親を殺した。グロッタ村を焼き、罪のない村人たちをも殺戮した。オディオ地方を治める統帥として……何より一個の人間として、許されることではないと思っている」
「すべては魔族に仕向けられたこと……そう言う者もいるでしょう。ですが私はあなたが憎い。老いた父母を殺し、故郷を滅ぼし──そして誰よりも早く、この国を諦めてしまわれたあなたが」
ギリリ、と矢筈を噛んだ弦が引かれ、軋むような音を立てた。階を見上げたハーマンの黒眼が細められる。
「……ああ、そうだ。お前の言うとおりだ、コラード。私は諦めた。どんなお諫めの言葉も陛下にはもはや届かぬと悟ったとき、私は黄皇国を諦めたのだ。そうして生まれた心の隙を魔族に見抜かれ、付け入られた。お前が恨むのも無理はないだろう。私という人間はもう祖国にも陛下にも必要とされていない──そう思ってしまった瞬間から、私はお前を裏切っていたのだからな」
ジェロディははっとした。ハーマンの告白に喉が軋んで、胸が熱いような痛いような形容し難い感覚に襲われる。
──ハーマンも、諦めてしまっていたのだ。もはやトラモント黄皇国に未来はないと、ずっと張り詰めていた糸がぷつりと切れ落ちてしまうみたいに。
「ええ、そうです。あなたは私を裏切った。黄皇国の未来を託すと言って私を育てておきながら、あなたは国に背を向けて、その結果父母を……」
「……」
「ですがそれを言うのなら、私も同罪です」
「何?」
「私はあなたを諦めた。何があっても必ずお救いすると言いながら、父母を失い、故郷を焼かれて……私は確かに諦めたのです。手を打つには遅すぎたのだと」
「コラード」
「しかしそこにいるメイベルが……私の聖女が教えてくれました。この世には何があっても、決して手放してはいけないものがあると。そして気づいたのです。私にとってそれはハーマン将軍、あなたであり、私を救ってくれた救世軍とメイベルであり──己が信じたもののために、戦い続けることなのだと」
見開かれたハーマンの瞳の中でコラードが微笑んだ。かと思えば彼は軽快な足取りで階を下り、ジェロディの傍らに立つ。が、先程拾い上げた矢は未だ番えられたままだ。コラードの考えが読めず、ジェロディは小首を傾げながら彼を見た。するとどこまでも毅然とした口振りで、コラードは言う。
「ジェロディ殿。あなたのご提案とお心遣いに感謝します。ですが大恩ある将軍の処遇は、やはり私一人では決められません。ですのでここは、天に裁定を委ねたいと思うのですがいかがでしょう?」
「天に委ねる?」
「はい。神々が将軍を断ぜよと仰せならば、私も運命に従います。将軍の暴走を止められなかった責を負い、あなた方にこの首を捧げましょう」
「こ、コラード、それって……!」
「しかし神々が将軍の生を望まれるのであれば、私も生きて罪を償います。我らの愛したトラモント黄皇国を取り戻すため、あなた方救世軍の旗の下で」
「コラードさん……!」
「我々は敗軍の将です。これ以上の選択の余地はありません。将軍──あなたの命運を、私に預けて下さいますか?」
そう尋ねたコラードの言葉つきは自信に満ち満ちていた。そこまで聞いてもジェロディにはどういうことなのかさっぱりだったが、ハーマンはコラードと視線が交わった瞬間にすべてを理解したらしい。
彼は束の間顔を伏せるや、フフ、と低く笑いを漏らした。そうして再びハルバードを手に取り、杖代わりにして立ち上がるや鷹揚に頷いてみせる。
「いいだろう。やれ、コラード。天がどのような裁定を下そうとも、私はお前を恨みはしない」
「ありがとうございます」
弓矢を手にしたまま、コラードは折り目正しく頭を下げた。かと思えば不安げな顔をしているメイベルに一瞬微笑みかけて、どよめく群衆へ向き直る。
「猿人族のウー殿。私から貴殿に腕試しを申し入れる」
「……腕試しだァ?」
「ええ、そうです。より正確には〝運試し〟とでも言いましょうか。貴殿の武芸と私の弓術、双方を戦わせて、我々の進退を決めさせていただきたい」
突然腕試しなるものを持ちかけられたウーは人間で言うところの片眉を上げ、露骨に怪訝そうな顔をした。しかしコラードの提案はこうだ。
まず、コラードとウーは各々の得物を携えて十枝(五十メートル)の距離で対峙する。ウーの得物である狼牙棒は長柄の先に赤い房がついていて、武器を振る度にその房飾りが右へ左へ乱舞する。
コラードはそれを十枝の距離から弓で射て、柄の先から切り落としてみせると言うのだ。使える矢はコラードが玉座の傍らから拾い上げてきた一本だけ。
ウーは定められた位置から動くことはできないが、得物だけならどのように動かしても構わない。間断なく得物を動かし続ければ当然、コラードが的を絞るのは格段に難しくなるだろう。
だから〝腕試し〟であり〝運試し〟だ。コラードはこの技に成功すれば、ハーマンと共に救世軍の軍門へ降り、ジェロディに臣従すると誓った。逆に失敗すれば、天がハーマン討つべしと告げたものとみなし、自分も彼と運命を共にする、と。
「へえ、そいつは面白そうじゃねェか。だが矢を放つ拍子に手元が狂って、ワシの右目をグサリ──なんてことにゃァならねェだろうな?」
「そこまでひどい腕前ではない、という自負はあるが……万一そのような事態になった場合は、我が部下たちも魔界への道連れにすると約束しよう。今ここにいる全員が証人だ」
きっぱりと放たれたコラードの宣言を聞いて、黄皇国兵の間に緊張が走った。だが不思議とみな不安そうではない。取り乱してもいない。上官であるコラードの弓の腕を、彼らも知悉し信頼しているということだ。場の空気からそれを感じ取ったのだろう、ウーは牙を見せて不敵に笑うと、狼牙棒を軽々と肩に担いでみせた。
「いいだろう。そこまで言うならノッてやる。だがどんな結果になろうと、あとから文句をつけるンじゃねェぞ」
かくしてウーとコラード、二人による武芸比べが始まった。両者は広間の真ん中できっかり十枝の距離を取り、向かい合う。
正直、ジェロディはこの果たし合いの結末が読めず不安だった。だがこうしている間にも刻一刻とときは進み、仲間が命を落としている。
ならば今更異議を唱えて、これ以上戦いを引き延ばすわけにはいかない。武器を携えて向かい合った二人以外、誰もが緊迫した面持ちで腕試しの様子を見守った。
先に動いたのはウーの方だ。彼は両足を広く開いてどっしりと構えると、狼牙棒を正面に突き出し、柄の真ん中を持ってくるくると回し始めた。
初めはゆっくりと揺れていた房飾りが次第に遠心力に引っ張られ、肉眼では正確な形を捉えられないほどになる。あの動きはさながら大風車だ。狼牙棒の回転する速度が速すぎて、あれを矢で射落とすなんてできるわけがないと懸念が募る──だがコラードは、動じなかった。
細く深く息を吐き、数瞬瞑目していたコラードが顔を上げる。それがジェロディには、目に見えるものに惑わされまいとする儀式に見えた。そうしてコラードは、たった一本の矢を番えた弓弦を引き絞る。だがジェロディはそこで異変に気がついた。コラードが矢を番えた位置が、弦の中心よりやや下方へずれているのだ。
(え?)
いや、奇妙な点は他にもある。まず、コラードは本来床と垂直に構えるべき弓をほとんど水平に握っていた。しかもよくよく目を凝らせばあの矢──ほんのわずかだが矢柄が撓んでいないだろうか? 恐らくは最初にハーマンへ向けて放たれた時点で、玉座への命中の衝撃か、はたまたハーマンの握力で力いっぱい握られたせいか、とにかく何らかの理由でわずかに曲がってしまったのだろう。
あんな矢では、どれほどの強弓で引こうともまっすぐ飛ぶはずがない。コラードはそのことを承知で勝負に挑もうとしているのか?
だが彼がもし、ウーが相手なら勝てると侮っているのなら……。
「コラードさ──」
──猿人族を信用してはならない。ジェロディは土壇場でそう忠告しようとして、しかし間に合わなかった。
ジェロディが口を開きかけたのと同時に、コラードの褐色の指が弦を離れる。矢が風を穿つ音がして、彼が鏃の先端に濃縮させた殺気が空間を引き裂いた。
ところが刹那、ジェロディは見る。
コラードの全身から充溢した殺気が一ヶ所に集まり、今にもはち切れんばかりに膨らんだ途端、ニヤリと笑ったウーがにわかに得物を手放したのを。
おかげで狼牙棒は宙高く舞い上がった。一同が「あっ」と声を上げて息を飲む。
ウーは大車輪でコラードを攪乱すると見せかけて、最初からああするつもりだったのだ。彼の頭上高く舞い上がった狼牙棒は、なおも慣性に従って回転を続けている。いや、そもそもコラードは、ウーが得物を構えた状態での房に狙いを定めたはずだ。あれでは到底矢が届くはずもない──
「えっ……」
ところが次の瞬間、誰もが呼吸を忘れた。
コラードの手を離れ、ウーへ向かってまっしぐらに飛んだはずの一本の矢。
それが突然グンと引っ張られたように上を向き、重力に背いて上昇する。
「何ィッ……!?」
これにはウーも目を剥いた。驚愕し、立ち尽くした彼の鼻先を掠めて、矢は宙に浮いた狼牙棒を目指して飛ぶ。
直後、二つの影が交差した。狼牙棒の先端を掠めたかに見えた矢は、そこより先へ上昇することはなく、力尽きたように舞い落ちる。
再び狼牙棒を手にしたウーの頭に、一拍遅れてコツンと矢が落ちてきた。
そして鏃が床を叩く音を合図に──刹那、狼牙棒の石突から房が落ちる。
「……」
足元に転がった真っ赤な房飾りを見下ろして、ウーはしばし沈黙していた。いや、ウーだけでなく居合わせた誰もが言葉を忘れ、唖然と立ち尽くしている。
ようやく弓の構えを解いたコラードが、何でもないように微笑んだ。
「では、万事そういうことで」




