213.神と魔と反逆者
思えばもっと早い段階で、おかしいと気づくべきだったのだ。
ジェロディたちはムゲット平野での会戦が始まる前に、ハーマンの豹変の原因が憑魔ではないことを知った。実際、ハーマンが取った戦術は手堅く、とても憑魔の策とは思えぬ用兵の前に、救世軍は少なくない犠牲を強いられた。
しかし冷静になって考えてみれば、そもそもあのハーマンが敵を城に入れるという戦法を取った時点でおかしくはなかったか?
ハーマン・ロッソジリオは自他共に認める防衛戦の達人だ。何者も通さじの『鉄』の異名はそこからきているし、その名に恥じない実力も確かに持ち合わせている。正黄戦争の史料を繙けば、彼が味方の城への敵兵の侵入をただの一度も許さなかったという事実が、輝かしい戦功として綴られていることに気づくだろう。
しかし今回、ハーマンは恐らく自身の戦歴で初めて己の城に敵兵の侵入を許した。それを可能にしたのが太古の兵器『神術砲』だ。あれの脅威的な破壊力を前にしては、ハーマンも他の策を取りようがなかった。だから救世軍は彼の鉄壁を打ち破れた──と、少なくともジェロディはここまでそう信じて疑わなかった。
だが果たして本当にそうだろうか? 救世軍が神術砲という隠し球を持っていたように、ハーマンだって同等の脅威となり得る切り札を持っていたではないか。
すなわち〝魔族〟という名の、生ける兵器とも呼ぶべき切り札を。
(魔族の力を借りれば、僕たちを城へ入れることなく撃退することも可能だった。たとえ麾下の将兵に魔族との結託を知られ、離反者が相次いだとしても、代わりの戦力はいくらでも魔界から補填できた──なのに、将軍がそうしなかったのは)
このためだったのか、と呻くような心境で理解し歯噛みする。まんまと敵の策に嵌められた。自分たちは最初から誘われていたのだ。オヴェスト城という名の巨大な罠の中に。
「う、うわああああっ! 助けてくれぇっ……!」
広間の出入り口である大扉へ引き返そうとした矢先。恐慌はそこから始まった。
ケリーやウォルドに率いられてきた救世軍兵に続いて、大勢の将兵が広間へ逃げ込んでくる。誰もが何かに怯えたように、恐怖に顔を歪ませながら。
逃げ惑っているのは救世軍の兵士だけじゃない。官軍の鎧を着た兵士までもが顔面蒼白の様相で、我先にと逃げてくる。広間の外で待機し、負傷兵を随時収容していたマリステアたちも押し流されるように合流した。救護が間に合わなかった重傷の兵士だけが、扉の外にぽつねんと残される。
「ま、待ってくれ、おれたちも助け──ぎゃあああっ!」
逃げ遅れた兵士の一人が、いきなり何者かに組みつかれた。それは人の形をしているが、人間ではない。その証拠に負傷兵へ飛びつくや、迷わず彼らの肉に食らいついている。
それに群がられた兵士たちの、断末魔の叫びが谺した。彼らは生きたまま肉を毟られ、内臓を引きずり出され、聞く者の心臓に爪を立てるような絶叫を上げている。ジェロディは慄然と立ち尽くした。今、視界をいっぱいに埋め尽くしているのは生気を失った顔と血まみれの口。欠損した肉体に濁った眼、そして地の底から響くような呻き声……。
俗に『屍霊』と呼ばれる魔物の群だった。屍霊は本来、実体を持たない霊体の魔物だが、生き物の死骸に取り憑くことで肉体を得る。彼らが現在取り憑いているのは、今回の戦いで死した兵士たちの亡骸だ。
官軍と救世軍。双方の装備が入り混じった屍人の集団が、次から次へ押し寄せてくる。ここが魔界かと錯覚するほどの、地獄じみて凄惨な光景……。
屍霊が生み出した死者の行列は、官兵だろうが救世軍兵だろうが関係なく、手当たり次第に襲っては食らっていた。屍霊は魔族と違って知性を持たぬ魔物ゆえ、敵と味方の区別がつかないのだ。ただ生きている者の肉を食らう。彼らを突き動かしているのは、そんな魔物としての本能のみ。とんでもないことになった。退路は完全に塞がれ、今や城内には屍人の大群が跋扈している……!
「あの屍霊ども、俺たちが城の外で生き埋めにした官兵の死体を一つ残らず乗っ取りやがった。官兵だけじゃねえ、ここまでの戦いで死んだ味方の死体もだ。おかげでとんでもねえ数になってやがる。全部で二千か三千か……とにかく城はやつらに囲まれた。どうやらハーマンの野郎の狙いは、最初からこれだったらしい」
脱出を図るには遅きに失したと嫌でも理解したのだろう。惨状を前にしたウォルドが無理矢理口角を上げながら、戦況がいかに絶望的かを教えてくれた。
おかげでジェロディは気が遠くなりそうだ。ここまでの戦闘で気力と体力のほとんどを使い果たし、やっとの思いであとひと押しだと思えるところまできたというのに、泣きっ面に蜂とはこういうことを言うのだろうか。広間に押し込められる形で、ジェロディたちは完全に逃げ場を失った。右を見ても左を見ても屍霊、屍霊、屍霊。周りは逃げる味方と敵兵でごった返し、混乱の極地に達している。
「チクショウ、だから御免だって言ったんだよォ! 人間と関わるのはな……!」
視界の端でそう喚いているのは猿人族のウーだった。指揮系統などもはやあってないものと化している人間たちと違って、少数精鋭の彼らは同族の仲間同士で集まり、辛うじて秩序を保っている。
そうして混乱の真っ只中、互いに背を向け合って円陣を組み、押し寄せる屍霊を狼牙棒で薙ぎ払っていた。ウーたちが守っているのはマリステアとトリエステ、そして彼女らが庇う数名の負傷兵だ。
ジェロディもそちらに合流したいが、逃げ惑う群衆と屍人の行列に阻まれ、思うように身動きが取れない。洪水のごとく押し寄せる人の波で溺れそうだ。
瞬間、頭上から声がした。
「ようやく来たか、我が下僕たちよ。そのまま人間どもを蹂躙せよ。この際、神子も殺して構わん──魔界の力を知らしめるのだ」
背筋が凍るような低音と共に、黒い影が降ってくる。
影はジェロディたちの頭上ギリギリを掠めると、逃げ惑う兵士たちの中から無作為に黄皇国兵を一人掴み上げた。
巨大な手に頭部を鷲掴みされた兵士がもがいている。悲痛な叫びを上げる彼を目の前にして、魔族はしかし顔色一つ変えなかった。ただ、生き物というよりは解体済みの肉でも眺めるように首を傾げ、喉元に食らいつく。ブチブチと皮膚や筋肉の組織が引き千切られる音がして、血と肉片が降ってきた。
マリステアたちの悲鳴が聞こえる。魔族は空中で黄皇国兵の鎧を引き剥がすと、服ごと彼を貪り食った。するとたちまち、肩や尾の断面から滴っていた黒血が意思を得てうねり出す。魔族の血は人間の血肉を取り込んで歓喜し、螺旋を描いて渦巻き、瞬く間に新しい腕と尾を形作った。
「な……に、人間の肉を食べて、肉体が再生した……!?」
「あれが魔族の特性です。上位の魔族や魔人は人間の生き血を啜ることで、いかなる傷もたちどころに癒えてしまう。これだけの人間が集まれば、魔族は無敵も同然です。メイベルの聖術がなければ……!」
屍人の群からジェロディを庇うように身構えたケリーが、蒼白な顔で魔族を睨み上げながら言った。やつを食い止めていたはずのヴィルヘルムやギディオンも人波に阻まれてしまったのだろうか、二人の姿を確認できない。
だが、そうだ──メイベル。
カミラの時戻しの力で、カイルやギディオンは死の淵から甦った。ならばメイベルも息を吹き返した可能性はないだろうか? 彼女は今どうしている?
確かめたいが、あたりがこの有り様ではそれすらもままならない。
「ヴォート、ヴォイ・マイ・イフ!」
刹那、視界の外から耳障りな魔族語が聞こえて、ジェロディははっと我に返った。振り向けばそこには処刑獣と、彼らが従える複眼の魔獣が迫っている。
「おいおい、多眼獣と処刑獣まで来てやがるのかよ。こいつは本格的にやばいぜ──うおっ……!?」
ところが魔獣の群に向き直ったそのとき、今度はウォルドの悲鳴が聞こえた。見れば背後から忍び寄った屍人たちが、ウォルドに担がれたカミラへと我勝ちに手を伸ばしている。
「ちょ、ちょっと……!? こいつらって知能がないんじゃないのか、よっ……!」
カミラが羽織った臙脂色のケープを掴み、ウォルドの肩から引きずり下ろそうとしている屍人の腕を、傍にいたカイルが斬り落とした。しかし腕を斬られようが足を斬られようが、屍人たちの行進は止まらない。既に一度死んでいる彼らには痛覚も恐怖も存在していないのだ。
かと言って完全なる無知性でもない。屍霊たちは敵味方の区別こそつかないが、魔族の指示に従うくらいの知能は持ち合わせているらしい。
彼らは口々に呻き声を上げながら、気を失ったままのカミラへ無数の腕を伸ばしてきた。ジェロディもそれを阻もうと、とっさに屍人たちの前へ出る。
だが後ろから魔獣──多眼獣というらしい──に飛びかかられ、危うく体勢を崩しかけた。噛みつかれる寸前にケリーが払い除けてくれたが、四方八方から魔物の大群が押し寄せて、とても対処しきれない。
「ウォルド、処刑獣が来るよ……!」
屍人の頭を刺し貫きながらケリーが叫んだ。獣に命じるだけでは埒が明かないと判断したのだろう、ついに処刑獣たちが魔工刃を振り回し、急速に間合いを詰めてくる。斬りかかられたウォルドが右腕一本で応戦した。しかし左腕にはカミラを抱えたままで、いくら彼が歴戦の戦士だろうと、まともに戦える状況じゃない。
「ぐっ……!」
処刑獣が吼え猛りながら振るった刃が、ウォルドの右肩を斬り裂いた。次いで完全に懐に入られたことで、体がとっさに距離を取ろうとしたのだと思う。
大股であとずさったウォルドの背後には、屍人がいた。彼らはここぞとばかりに手を伸ばし、力づくでカミラを引きずり下ろす。ウォルドがそちらに気を取られたところで、再び処刑獣が踏み込んだ。あのままではウォルドがやられる──!
「くそっ……!」
自分に残された神力も残りわずか。できればこれはカミラとメイベルのために残しておきたかった。けれど迷っている場合じゃない。ジェロディはハイムに祈り、そこらじゅうに落ちている敵味方の武器へ魂を送り込んだ。
光と共に命を帯びた剣や矛が、一斉に浮かび上がって乱舞する。鋼の風と化した武器たちは、今にもウォルドへ斬りかからんとしていた処刑獣を切り刻んだ。
銀色に閃く風はさらに、カミラを連れ去ろうとする屍人たちへと肉薄する。ところが風が彼らを八つ裂きにするかに見えた瞬間、漆黒の魔剣が神の奇跡を薙ぎ払った。武具の群を叩き落としたのは、上空から現れた竜尾の魔族だ。人間の血肉を食らい、完全復活を果たした魔族はこちらを見てニタリと笑むや、瘴気の刃を一閃させる。
「ジェロディ様……!」
とっさに床を蹴ったケリーが、間一髪のところでジェロディを押し倒した。魔族が放った黒い斬撃は倒れたジェロディたちの頭上を掠め、背後にいた屍人やら多眼獣やらを真っ二つに切り裂いていく。あんなものが直撃したら今頃どうなっていたことか。ジェロディはぞっとしながら身を起こした。ケリーに感謝を述べようとして、しかし眼前の異様な光景に声を呑む。
「カミラ……!」
同じく身を起こしたケリーが叫んだ。いつの間にやら屍人たちの間を運ばれたカミラが、まるで神への供物のように、幾本もの手によって魔族へと捧げられる。
魔族はそんなカミラを無造作に抱え上げた。無数の水疱に包まれた右腕がカミラの細い腰を掴み、遥か高みへ連れ去っていく。ジェロディは再び《命神刻》に念じ、鋼の風を起こそうとした。されどくらりと視界が歪み、酩酊したように意識が揺れる。神力の限界だ。どんなに強く念じても、ハイムはもう応えない。
「ようやく手に入れたぞ、我らの切り札を」
下界の騒乱から遠く離れ、文字どおり高みの見物を決め込んだ魔族が、たっぷりの愉悦を込めて口角を吊り上げた。彼の手に囚われたカミラはぐったりと四肢を投げ出し、一つに結われた髪を垂らして動かない。
「ククク……愚かなるテヒナよ。今頃この兄妹を最後の駒に選んだことを後悔しているだろう。貴様らは兄にばかりかまけすぎた。妹もまたこれほどの力を秘めているとは知らずにな」
──黙れ、ジャヴォール。
頭の中で声がする。ジャヴォール。それがあの魔族の名前なのか。
ぐらぐら揺れる意識の底から湧き上がってくるこの感情は……憎悪?
ハイムの怒りが、ジェロディの胃の腑を煮立てていた。
胸の中をぐるぐると掻き回されて気持ち悪い。吐きそうだ。
やめてくれ、と念じてみるも、ハイムの激情は収まらない。
「時は満ちた。いよいよ我らが復讐を果たし、父祖の地へ還るときが来たのだ。娘はもらっていくぞ、テヒナよ。エリクを殺し、貴様らの世界に終止符を打つ魔女として、な」
──黙れ。黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ。
すべての思考が神の言葉で塗り潰されていく。
──黙れ。許すものか。誰にも邪魔はさせない。魔族にも、反逆者にも。
我らは必ず成し遂げるのだ。そう誓ったのだ。
貴様らに奪われたあの方の復活を──
「いい加減にして」
刹那、神の憎悪と魔の愉悦をぴしゃりと遮る声がした。
「私が、お兄ちゃんを、殺すわけ、ないでしょ──死ぬのはあんたよ、クソ魔族」
次いでキュポン、と、何かの栓が小気味良く抜ける音がする。
かと思えば彼女の手の中で、美しい青色が閃いた。
ジェロディにはそれが、青い水晶を刳り抜いて作られた小瓶に見える。
彼女はその手に握った小瓶の中身を、躊躇なく魔族の顔面へぶちまけた。澄んだ透明の液体が水晶の中から飛び出して、魔族の皮膚を、口を、眼を濡らす。
「ぐ……ゴ……グオオォオォォオォォオオオォオオォォォオオ!!!!!!!!」
直後、城が揺らぐほどの絶叫が谺した。水晶の小瓶から飛び出した液体をまともに浴びたジャヴォールが、喚きながら仰け反り顔を押さえる。
尋常ではない苦しみ方だった。
敵も味方もすさまじい叫びに肝を潰され、唖然と頭上を仰ぎ見る。
瞬間、苦しみ悶えた魔族の手から、カミラの体が放り出された。
◯ ● ◯
ああ、またこれか、とカミラは思った。
耳元で唸る風。地へ向かって落ちながらも、全身を包む浮遊感。
今度は何葉の高さだろう。そんなことをぼんやり考えながら、落ちる。
頭の後ろ、すなわち落下点からは人ならざるものの呻き声。落ちてくるカミラに向かって、屍人たちが神への救いを求めるように青白い手を伸ばしている。
されど次の瞬間、彼らは吹き荒れた旋風に吹き飛ばされた。星砂岩の床と水平に生まれた竜巻が、屍人の群を四方八方へ弾き飛ばす。その風がほんの一瞬カミラを浮き上がらせた。空中でわずか跳ねた体を、逞しい両腕が抱き留める。
「……ヴィル……」
全身に軽い衝撃を感じた直後、カミラはまた彼に救われたのだと理解した。
ヴィルヘルム。彼の隻眼がいたわるような眼差しを湛えて見下ろしてくる。けれどあの竜尾の魔族と、どれほどの死闘を演じたのだろう。
彼の額からは血が流れ、衣服もところどころ裂けているのが見て取れた。傷だらけだ。服も黒いから分からないだけで、きっと相当血を流している。今回もまた自分のために、かなりの無茶をさせてしまった。
「ヴィル、ごめん……もらった、聖水……使っちゃった……」
「いや。その手があったな──よくやった」
そう言って、ヴィルヘルムはカミラを抱く腕に力を込めた。かと思えば赤い房の垂れた腰の物入れを素早く開けて、中から新たな小瓶を抜き取る。
それを大きく振りかぶり、投げた。緑色の水晶の小瓶が放物線を描いて飛んでいく先には、階の上でハーマンと対峙したオーウェンがいる。
「オーウェン、使え!」
肩で息をしたオーウェンが、はっとしたように小瓶を振り仰いだ。長時間、たった一人でハーマンの猛攻を凌いでいた彼ももう限界だ。
オーウェンは歯を食い縛り、最後の力を振り絞って大剣を持ち上げた。気合と共に刃が一閃する。剣が空中で小瓶を叩き割り──そして、今まさにオーウェンの懐へ飛び込もうとしていたハーマンに、聖水が降りかかった。
「ぐっ……!? ぐあああああああっ……!?」
水が蒸発するのに似た音を立て、聖水がハーマンの狂気を浸蝕する。どうやらあの水が帯びた聖なる力は、鎧兜の上からでも効力を発揮するようだ。
魔族と同じく顔面を押さえたハーマンが膝をつき、間一髪のところでオーウェンも事無きを得た。そんな彼の無事を確認すると同時に、カミラは見る。同じく玉座の傍らに陣取ったコラードの手の中で、一本の矢が聖なる光を帯びているのを。
(メイベル)
ああ、よかった。無事だった。
カイルも、ギディオンも、メイベルも。
彼女はコラードと肩を寄せ合うようにして、共に弓を構えている。銀の矢に手を添えて、まっすぐ魔族を見据えたメイベルの横顔の、何と神々しいことか。
(ほんとに……よかった……)
心の底から安堵したら、途端に意識の暗幕が降りてきた。
神力を使いすぎたのだろう、ひどく眠い。これ以上瞼を開けていられない。
「いくぞ、メイベル」
「うん」
二人の声と弓弦の音。それを最後にカミラの意識は事切れた。再び瞼が落ちる寸前、辛うじて視界に映ったのは、銀の矢に射抜かれた魔族と炸裂する光の雨。
確かめられたのはそこまでだった。
聖光の中に掻き消える魔族の叫びを聞きながら、カミラは、静かに目を閉じた。




