212.綱渡り
そのとき、世界が総毛立った。
一際強い風が吹き、大地を覆う緑の産毛が一斉にざわめき立つ。
追い立てられるように雲が流れた。海鳴りに似た声を上げ、湖が騒ぎ出す。
「……嘘だ」
風が唸る空を見上げて、ターシャは愕然と呟いた。
けれども波立つターシャの心とは裏腹に、彼らは快哉を叫び出す。
『始まった』
『動き出した』
『我らの遺志が』
『願いが』
『届いたのだ』
『すべてはここから』
『ああ』
『運命が、狂い始めた』
◯ ● ◯
光の中で、ジェロディは信じられないものを見た。
大広間に散乱していた無数の瓦礫が、秒針の音と共に浮き上がる。
奏でているのは、足元に広がった希法陣。五芒星を中心とした複雑怪奇な紋様と、読みきれないほど膨大な古代文字で描かれた円陣が反時計回りに回る度、カチ、コチ、カチ、コチ、と、時を刻む音がする。
(これは──)
果たして幻聴なのだろうか。されど針の音色だけが脳裏に響く光の中で、空中に吸い上げられた瓦礫が天井の穴を塞ぎ、やがて元の姿に戻った。
あれらと一緒に降ってきた寝台や書架の残骸もない。すべて元どおりに復元されて、あるべき場所へ戻ったのだろうか。
すべては二回瞬きしたら終わる程度の、ほんの一瞬の出来事だった。しかしジェロディの目には時間を引き伸ばしたかのようにすべてが見えた。
とても信じられないが、信じるしかない。
今、ジェロディの目の前で、時が巻き戻っている。
(これが時神マハルの──星刻の、力)
時間という概念を超えて、持ち主に過去や未来を垣間見せる神刻。
ジェロディは星刻をそういうものだと解釈していたが、違った。あの神刻にはそれ以上の秘めたる力が眠っていたのだ。
かつてハノーク大帝国の始祖ロマハが刻んでいたとされる《時神刻》。かの神刻は自在に時を操れた。時神に選ばれし神子は時間の流れを止めたり戻したり早めたり、果ては過去や未来に干渉することさえできたという。
その《時神刻》とよく似た力を星刻も持っている。時を操り、干渉する力。ペレスエラはあれを〝大神刻には劣る〟と評していたがとんでもない。本来神にしか触れられぬはずの時間を操るなんて──そんなのはもはや、禁忌の領域だ。
「カミラ、君は……」
呻きにも似たジェロディの声は、逆流する光の滝に呑み込まれた。広間を包んでいた白光が収束を始め、青く輝く希法陣も発生点に吸い込まれていく。
すなわち、術者であるカミラのもとへ。鉄鋼兵たちの妨害を撥ね除け、星刻の力を解放したカミラは、天を仰ぐように膝をついていた。されどすべての光が収まるとたちまちその背がぐらりと揺らぎ、彼女は床へ倒れ込む。
「あっ……!」
マリステアが息を飲むのが聞こえた。
神力を使い果たしたのだろう、カミラは横ざまに倒れたきり動かない。コルノ城の屋上に現れた刺客からジェロディを守ったときと同じだ──助けなければ。
ようやく思考が事態に追いついて、ジェロディは駆け出そうとした。ところが刹那、地を這うような低い笑いに両足を絡め取られる。慄然として目をやれば、同じく一部始終を見守っていた竜尾の魔族が、空中で哄笑し始めた。
「フフフ……フハハハハハハハ! 素晴らしい! 素晴らしいぞ、守護者の娘よ! これぞ神々への反逆! さすがは真の反逆者の血を引く娘だ……! 我々が見込んだとおり、やはり汝は運命を逆転させる鍵を持っている! その力、もらい受けるぞ! ──捕らえろ、胎樹よ……!」
魔族が愉悦にまみれた声で叫ぶや否や、突然城が震動に包まれた。初めは微弱だった震動はたちまち地鳴りのような揺れに変わり、直後、何かが床を突き破って階下から飛び出してくる。
それはぞっとするほど黒く不気味な樹の根だった。根は意思を持った生き物のごとくうねり、ギチギチと不快な音を立てながら気絶したカミラを掬い上げる。
瘴気の塊と思われる邪根は素早くカミラの体を巻き取り、階下へ続く穴へ引きずり込もうとした。が、次の瞬間、にわかに飛んできた三日月状の刃が、樹の根を容赦なく分断する。
「ギシェエエエェェェ……!」
怖気が走るような奇声を上げて、斬り飛ばされた邪根は爆散した。ジェロディが三日月状の刃だと思ったものは、風だ。淡い緑色をまとった可視の風が、今にも攫われようとしていたカミラを救った。
──ヴィルヘルム。風の刃を生み出したのは彼だ。ヴィルヘルムの剣は時折、刃が何倍にも巨大化したような、とんでもない斬撃の風を放つことがある。
おかげでカミラは助かった。しかし、
「余所見をしている暇があるのか? 同胞よ」
ヴィルヘルムがカミラの救出を優先させた、一瞬の隙。
その隙に魔族は彼の背後へ降り立ち、にやりと口角を吊り上げた。
あっと思ったときには、魔族が瘴気によって生み出した漆黒の刃が振り下ろされている。いかなヴィルヘルムと言えど、とても反応が間に合わない速度で。
「ヴィルヘルムさん……!」
自分が走ったところで間に合わない。間に合うはずがないと分かっているのに、それでもジェロディは駆け出した。駆け出さずにはいられなかった。
だがほんの数歩床を蹴ったところで、ジェロディの足は急制動する。
何故なら今にもヴィルヘルムを斬り裂かんとしていた瘴気の剣が、魔族の腕ごとあらぬ方向へ吹き飛んだからだ。
「加勢するぞ、ヴィルヘルム」
真っ黒な血が噴き出す腕を一瞥した魔族の死角で、剣光が躍った。さすがに身の危険を感じたのか魔族はすぐさま飛び上がり、斬撃を回避しようとする。
しかし反応が一瞬遅れた。おかげで長い尻尾がぶつりと切れて、巨大な蛇の死骸のごとく床に叩きつけられる。
魔物の絶叫が谺した。ほんの一刹那のうちに片腕と尾を失った魔族が見下ろす先には、怯みもせずにかの者を見上げたもう一人の剣士がいる。
淡黄色の外套を翻し、毅然と背筋を伸ばしたその剣士は、先刻凶刃にたおれたはずの元近衛軍団長──ギディオン・ゼンツィアーノだった。
「ギディオンさま……!?」
驚嘆の声が響く中、刃にまとわりついた魔族の血を払うは彼の右手。
気づけばギディオンは、失われたはずの命と右腕を取り戻してそこにいた。カミラが行使した時戻しの力が、ギディオンの肉体の時間をも巻き戻したのだ。
これを奇跡と呼ばずしてなんと呼べばいいのだろう。
ジェロディは呆気に取られて立ち竦んだ。
が、同じくギディオンを顧みたヴィルヘルムには、さして驚いた様子がない。
「恩に着る、ギディオン殿」
まさか彼にはこうなることが分かっていたのか。ヴィルヘルムはまったく取り乱すことなく攻勢に転じ、空中へ逃れた魔族へ向けてさらなる斬撃の風を放った。
黒い血を流した魔族は舌打ちしながらそれを躱す。だが躱した先にはギディオンがいる。かつて『剣鬼』と呼ばれた老剣士は魔族の動きを数手先まで読み切り、容赦なく刃を振るった。魔族の腹が深く抉れ、またも黒い雨が降る。
「ぐっ……貴様ら……!!」
まさかヴィルヘルム以外にも魔族と渡り合う者がいるとは、魔族自身予想だにしていなかったことだろう。あの魔族の動きは完全にヴィルヘルムとギディオンが封じている──ならば自分はカミラを。
そう思って身を翻したところで、またも驚愕する羽目になった。何故ならジェロディよりもひと足早く、カミラを抱き起こしている人影があったからだ。
「──あー、くそ! こんなときじゃなかったら、お姫様を眠りから解き放つ目覚めのキスを試みるのにさあ! というわけでジェロ、ちょっと手貸してくんない!? お前に頼むのは不本意だけど、今はカミラを安全なとこまで運ばないと……!」
「カイル……!」
巨大な岩塊に潰され、血だらけで倒れていたはずのカイルはまったくの無傷。それどころか血痕すらも消え去って、五体満足でそこにいた。走り寄ったジェロディは思わずまじまじと彼を観察したが、本当に生きている。城の第二層で会ったときには連戦に次ぐ連戦で全身ボロボロだったのに、その形跡すらも既にない。
「君、本当に生き返って……いや、もしかするとあの時点ではまだ息があったのか……?」
「は!? 何ぶつぶつ言ってんの!? そもそもオレ、野郎にじろじろ見られたい趣味はないんだけど!? オレに見惚れていいのは女の子だけですぅ!」
「……とりあえず正真正銘のカイルみたいだね。安心したよ」
言葉とは裏腹に蔑みの眼差しを投げかけてしまったが、ジェロディも一応カイルの無事を喜んだ。何しろカミラはカイルの死をも受け入れられていない様子だったから。これでカミラもきっと安心する。そう思うと少しだけほっとした。ここでカイルやギディオンを失ったら、彼女は今頃どうなっていたことか……。
フィロメーナが帰らぬ人となった日、自力で立ち上がれぬほどに打ちのめされていたカミラの姿を思い起こすと、今でも胸が締めつけられた。
一兵卒の死にすら心を痛め、涙を流す彼女のことだ。心を許し合った近しい仲間を失えば、再びああなってしまっていた可能性も否めない。
(だけど、そんなカミラだからこそ──運命を覆せた)
ジェロディがどれほど足掻いても覆すことができなかった、死の運命。カミラはそこから仲間を救い出した。にわかには信じ難いことだが、つい先程まで死影にまとわりつかれていたカイルが生きて目の前にいる以上、それは動かし難い事実だ。
誰よりも深く仲間を想い、救世軍を愛する彼女だからこそできた芸当か。ジェロディは浅く唇を噛んだ。つまるところ、自分が死影に憑かれた仲間を一人として救えなかったのは意思の力が弱かったせいだ。救おうと足掻いてみせながらも、どこかで諦めていたせいだ。
けれど、カミラは諦めなかった。
彼女のひたむきさを少しでも見習っていれば、救えた命かもしれないのに。
(ごめん、カミラ……)
彼女の大切な仲間を守れなかった。後悔に胸を焼かれながら、ジェロディはカイルと二人で左右からカミラを抱え起こした。
ところが彼女の腕を首の後ろへ回した瞬間、その肌のあまりの冷たさにぞっとする。「え?」と思わず声を漏らしながら見やったカミラの顔面は蒼白だ。
いや、青白いのを通り越してもはや白い。まるで体中の色素が抜け落ちてしまったかのよう。辛うじて呼吸しているのは確認できたが息は浅く、握った手首から感じる脈もかなり弱くなっている。
──神力の使いすぎだ。恐らく先程の時戻しの力が、カミラの神力……いや、生命力をも極限まで吸い尽くした。それほど膨大な神力を必要とする術だったということだ。彼女は自分の命と引き替えに、カイルやギディオンを救おうとした。
このまま放っておけば本当に死んでしまうかもしれない。ジェロディは急いでカミラを広間の外へ連れ出し、己の生命力を分け与えようとした。
しかしマリステアたちのいる扉へ向けて一歩踏み出した、そのときだ。
「うわっ……!?」
と、突然カイルが悲鳴を上げた。
何事かと振り向けば、彼の右足が何かに嵌まっている。
白い床の上に突如として現れた、真っ黒な水溜まり……否、穴だ。
先刻瘴気の樹に破られてできた物理的な穴じゃない。絵の具で描いたように真っ黒で、眺めているとぞっと背筋が凍るほど嫌な気配の──
「カイル、下がれ!」
悪い予感がした。だからとっさにそう叫んで、ジェロディは体を引いた。つられるようにカイルもあとずされば、ズボッとにぶい音がして彼の足が穴から抜ける。
途端に穴が広がった。今にもジェロディたちを呑み込まんばかりの勢いに、思わずさらに後退する。というかよくよく見ればあちらにもこちらにも、同じ穴が無数に開いているではないか。何だこれは。
真っ黒な円の群に囲まれて二人が立ち竦んだ直後。平面的に見えるほど真っ黒だった穴の中から、やにわに獣が飛び出してきた。
体毛のない灰色の肌に、無数の魔眼が貼りついた気味の悪い獣だ。体中のあっちにもこっちにも眼があって、見た目は犬に近いがどう見てもただの犬じゃない。
黒い牙の間からは瘴気のにおいを帯びた唾液を垂れ流し、尻尾は二又になっている。複数の眼を同時にぎょろつかせながら、姿勢を低くして唸っているアレはまさか、魔物?
「デリヤ・プラウダ!」
ところが穴から飛び出してきたのは複眼の獣だけではなかった。一頭、二頭、三頭……どんどん増え続ける獣に続いて、突如人型の何かが飛び出してくる。
その魔物の姿を目にしたとき、あまりの不気味さに寒気がした。最初に飛び出してきた獣と同じ灰色の肌に、犬の頭。されど二本足で立ち上がり、手には人間の血で汚れた片刃の剣を携えている。だが何よりも目を引くのは、頭部についた巨大な一つ目。複眼の魔物のそれと同じく、黒い結膜に赤い虹彩が際立つ魔物の眼──
「処刑獣だと……!?」
刹那、ヴィルヘルムたちと交戦中の魔族がおめくのが聞こえた。てっきり彼が呼び寄せた援軍かと思ったが、どうやらこれは魔族にとっても想定外の事態らしい。
「ボツェム・ティズ・ディエス……!?」
「エトゥ・ルシーン・プリカヅ。ム・ヴォモ・ゲイェム・ヴァム!」
竜尾の魔族が魔族語で語りかければ、処刑獣と呼ばれた魔物どもは同じく魔族語で答えた。言語を解しているということは、まさかこいつらも魔族の一員か。しかもジェロディの聞き違いでなければ、やつらはいま口々に〝ルシーン〟と叫ばなかったか?
「チッ。ルシーンめ、余計な真似を……まあいい、ならば即刻そこにいる神子と赤髪の娘を捕らえよ! 他は殺して構わん、かかれ!」
「ダー、サー!!」
魔族の命令を受けた処刑獣たちが、剣を掲げて猛々しく吼えた。かと思えば彼らはただちにジェロディへ向き直り、群をなす獣型の魔物を怒鳴りつける。
まるで猟犬に狩りを命じる狩人だ。命令を受けた魔獣どもは威嚇の唸り声を上げ、たちまち飛びかかってきた。「ひぃっ!!」と完全に肝を潰しているカイルにカミラを預け、応戦する。鞘にしまった剣を引き抜きざま、真っ先に跳躍した一頭を斬り捨てた。しかしとても一人で捌ける数じゃない。
「カイル、君も神術が使えるだろ! 応戦してくれ!」
「へっ!? あっ、ああ、そうだ、そうでした! オレってば神術使いだったよねー、そう言えば! なら、ここはいっちょド派手に──」
「──よせ、そいつらに神術は使うな!」
にわかに飛んできた怒号はヴィルヘルムのものだったのだろうか。だがジェロディが驚いて振り向くよりも早く、カイルが左胸に刻んでいる雷刻の力が炸裂した。あたりに閃光がほとばしり、一拍遅れて轟音がはたたく。
黄金色に発光した雷の矢が、一頭の魔獣めがけて虚空を走った。ところが一刹那ののち、ジェロディは信じられない光景を目の当たりにすることになる。なんと魔獣の主らしい人型の魔物の方が、飛翔する神術の前に飛び出してきたのだ。かと思えば処刑獣は素早く剣を振り上げた。刃に命中したカイルの神術が弾かれる。
「のわーっ!?」
屈折した雷撃が反転し、術者であるカイルめがけてすっ飛んできた。カイルはすんでのところで身を躱したが、ほんの少し頭を掠めたのか、側頭部から細い煙が上がっている。
「は……はあ!? こ、こいつ今、オレの神術を返しやがったんですけど……!?」
「魔工刃だ、そいつらの得物は神術を打ち返す! むやみに神術で攻撃するな!」
「何それ!? そんなのフツーに反則でしょ──わーっ!?」
ヴィルヘルムの警告にまったく無益な抗議をしていたカイルが、複眼の獣の体当たりをまともに喰らった。ひっくり返った彼の体に魔獣がのしかかり、すぐさま喉元を食い破ろうとする。
ジェロディは斬りかかってきた処刑獣の攻撃を去なしながら、舌打ちして《命神刻》に念じた。処刑獣の手から魔工刃と呼ばれた武器を奪い取り、カイルを襲う魔獣へ投擲する──という算段だったのだが、いくら念じても魔工刃はびくともしない。この武器は神術を弾くだけでなく、受けつけさえしないのか!
「くそっ、カイル……!!」
未だ玉座の傍らでハーマンと死闘を演じ、戦斧の攻撃を防いだオーウェンがおめいた。が、直後、彼の背後で銀光が閃き、空間を引き裂いて豪速の矢が飛んでくる。コラードだ。
「ギャンッ」
と甲高い悲鳴を上げ、頭部の眼を射抜かれた魔獣が吹き飛んだ。九死に一生を得たカイルはその場に飛び起き、荒い息をつきながら剣を抜き放つ。
「ああ、くそ、今度こそマジで死ぬかと思った……! 野郎にこんなこと言いたくなかったけどさ! コラードさん、愛してる……!」
「いや、生憎だが間に合っている……! ジェロディ殿、援護します! 急いで退避して下さい……!」
カイルの戯れ言を鄭重に一蹴して、片膝をついたコラードが叫んだ。彼がいる場所は高台だ。あそこからなら弓での効果的な援護が期待できる。ジェロディは神々が彼に与えた『神弓』の異名に感謝して、目の前の処刑獣と斬り結んだ。死角から挟撃しようとしてくる敵はコラードがすべて射抜いてくれる。
それにしたところでとんでもない乱戦だ。ヴィルヘルムとギディオンは未だ魔族と鎬を削り、オーウェンは全力でハーマンを食い止め、名もなき兵士たちは狂気に没したハーマンの親衛隊と戦っている。
どれか一つでも破られれば間違いなく総崩れとなるギリギリの綱渡り。このままではジリ貧だ。早く、早くカミラを連れてここから脱出しないと──
「ジェロ、後ろ……!」
瞬間、魔獣に囲まれて身動きの取れなくなったカイルが叫んだ。背後なら大丈夫だ、コラードの援護射撃が守ってくれる、と過信していたら、いきなり衝撃がきて膝を折る。背中を斜めに熱が走った。あまりの熱さに息が止まる。
斬られたのか。処刑獣。すぐそこにいる。コラードは? ああ、しまった。矢種が尽きたのか。コラードが舌打ちし、空になった矢筒を投げ捨てたのが見える。
だが自分を責めないでほしい。これはコラードの矢が無限にあると思い込んでいたジェロディの落ち度だ。彼は何も悪くない。
獣の唸り声。さっきカイルがされたようにジェロディも吹き飛ばされ、石の床に押し倒された。斬られた背中に激痛が走る。焼けるようだ。あまりの痛みに息が吸えないでいるうちに、黄色い唾液を滴らせた魔獣の牙が開かれて、
「ティノさま……!!」
神の聴力が、戦場の狂騒の狭間にマリステアの悲鳴を拾った。次の瞬間、鼓膜を引き裂くような風切り音がして、ジェロディを襲った魔獣が弾け飛んでいく。
一体何が起きたのか、一瞬理解が追いつかなかった。だがあらぬ方角に飛んで倒れた魔獣は奇声を上げて、激しくもがき苦しんでいる。
何だと思って目をやれば、足掻く魔物の腹部には──矢。ということはコラードが? いいや、違う、だって彼の矢種は尽きたはず……。
「エィ、ボージェ・モイ……グギャアッ!!」
次いでジェロディの間近にいた処刑獣二匹が、慌てた様子で何事か騒いだ直後、この世のものとは思えぬ悲鳴を上げた。見ればやつらの肩や背中にも銘々矢が突き立っている。それもただの矢ではない。目を凝らしてようやく気づいた。
ジェロディを救った矢はいずれも銀製だ。しかも恐らくは純銀製。
矢羽以外、鏃も矢柄もすべてが銀で作られた──
「こ、これは……破魔矢……!?」
ジェロディは目を疑った。エマニュエルにおいて銀とは魔を祓う神聖な金属とされている。実際、純銀製の武器は魔物に対して効果絶大で、使えばほぼ一撃必殺と謳われているほどだ。
やわらかい金属であるがゆえ対人戦には向かないが、魔物討伐には最大の恩恵をもたらす銀の武器。中でも矢の形をしたものは『破魔矢』と呼ばれ、武器としての使用以外にも魔を遠ざけるお守りとして重宝されているものだった。
──そんなものが何故ここに?
内心驚愕しつつも、自分を救ってくれた恩人の姿を探して視線を走らせる。矢はコラードがいるのとはまったく違う方向から飛んできた。
その軌道を遡れば、視線はやがて広間の中二階へと吸い寄せられる。中二階と言っても、玉座を挟む左右の壁上にのみ設けられた狭い足場のような場所だ。
ジェロディはそこに確かに人影を見た。が、救世主と思しい人影は目が合う寸前にサッと身を屈め、荘厳な彫刻が施された欄干の向こうに隠れてしまう。
おかげで顔は見えなかった。欄干の柱の間を、屈んだ人影が走り抜けていく。
まさか逃げようとしている、のか? どうして?
自分を助けてくれたのは、間違いなくあの影の主であるはずなのに──
「──おいティノ、ボサッとしてんな!」
刹那、怒号に頬を打たれて我に返った。途端に一匹の魔獣が胃液を撒き散らしながら宙を舞い、ジェロディの視界を横切っていく。
さらに横から来ていた魔獣も、槍の一閃で突き殺された。腰を抜かしたまま唖然として振り向けば、視線の先に頼もしい援軍の姿がある。
「ウォルド、ケリー……!」
本館の入り口に残してきた二人の隊長が、いつの間にかすぐ傍にいた。さらに一際大きな喊声が上がり、広間の入り口から彼らの隊が雪崩れ込んでくる。
魔物に囲まれていたカイルも駆けつけた味方に救出された。ジェロディはケリーに腕を引かれてどうにかこうにか立ち上がり、床に倒れていたカミラもウォルドに担ぎ上げられる。
「ジェロディ様、お怪我の具合は……!?」
「大丈夫だよ、ケリー。まだ痛むけど、すぐに治る……だけど二人とも、よく無事で……!」
「いや、今の状況を無事って言っていいのかどうか、俺には判断しかねるがな。何があったか知らねえが、こっちはこっちで相当やべえことになってやがるじゃねえか。ったく笑えねえぞ」
「こっちはこっちで……?」
これにて戦況は形勢逆転、何とか敵勢を押しきれる。そう確信しかけていたジェロディは、ウォルドが紡いだ不穏な言葉に眉をひそめた。
見たところケリーとウォルドは浅手と返り血まみれだが、そこまで深刻な怪我は負っていない。駆けつけてくれた兵士たちにもまだ気力が充溢しているように見える。なのに笑えないとは──?
「とりあえず、お前とカミラを守れって話はトリエステから聞いた。逃げるぞ、俺たちだけでも脱出しねえとまずいことになる」
「ま、待ってくれ、ウォルド! この状況で僕らだけ逃げるって……!? みんながまだ戦ってるのに、そんなことできるわけ……!」
「できなくてもやるんだよ、でないとここで全滅だ。なあティノ、よく聞け。俺たち完全に──囲まれてるぜ?」
 




