211.星に願いを
「カーミラっ」
と呼ばれて振り返ったら、満面の笑みを浮かべたカイルがいた。
「あら、カイル。おはよう、何か用……」
「ハイッ、ここで質問でーす! 今日は一体何の日でしょーか!?」
毎日男どもの世話で忙しそうにしているマリステアを手伝おうと、洗濯桶の前に屈んでいたらいきなりそんな話を振られた。周りではコルノ城の女中たちが忙しそうに走り回っているというのに、こいつには場をわきまえるとか空気を読むとか己を省みるとかいうスキルがないのだろうか。……あるわけないか。
「何の日って……真実の日も終わったし、別になんてことない普通の日でしょ。それより暇ならあんたも手伝ってくれない? 馬の調教の時間までまだちょっとあるんだから──」
「ノン、ノン、ノン! 時間切れです! というわけで正解はァッ!?」
「知らないって言ってるでしょ。手伝う気がないならあっち行ってて、こっちは忙しいんだから」
「もーっ! カミラってばつれないなあ! 正解は君とオレが出会って五ヶ月目の記念日だよ! 黄都でのあの運命的な出会いを、まさかもう忘れちゃったわけ!?」
「あー……そっか。エリジオと別れて、もう五ヶ月も経ったのね……エリジオ、いい子だったのに……」
「ちょっとォ!? なんでそこで違う男のことを思い浮かべちゃうかな!? 今だけでいいからオレを見て! オレだけを見て! ねッ!?」
「マリーさん、こいつ鬱陶しいんでしばらく氷づけにしといてくれませんか?」
「だ、ダメですよ、カミラさん。カイルさんがまとわりついてくる小バエみたいに煩わしいのはいつものことじゃありませんか。ここはわたしたちが大人になって差し上げないと……」
「あれ!? マリーさん、ちょっと話さない間に毒舌になったね!? ひょっとしてオレがカミラばっかり構うから妬いちゃったかな!?」
「いえ、そうではなくて、先日ティノさまから、カイルさんにだけは気を遣う必要も畏まる必要もまったくないと仰せつかったものですから」
「ジェロ! お前覚えとけよ!」
鮮やかな初夏の空に翻る救世軍旗。コルノ城の屋上に佇むそれを見上げて、カイルはひとり地団駄を踏んでいた。カミラとマリステアはそんなカイルを後目に呆れながら、ザブザブと洗濯物を洗う。
本当に何の変哲もない、笑えるほどのどかな日のことだった。思えばあの頃には既にオヴェスト城では獣人居住区を巡る暗雲が立ち込めていたのだろうけど、カミラたちはそうとは知らず、束の間の平穏を謳歌していたのだ。
「で、いきなり現れて結局何なの。たったそれだけのことを言うために、朝からウザさ全開で私たちの仕事を邪魔しにきたわけ?」
「いやいや、そーじゃなくてさ! 今ならウォルドもヴィルヘルムさんもいないし、千載一遇の好機だと思ってさ! なけなしの勇気を振り絞ってきたわけだよねー、オレは! できれば今日の調教が始まる前に渡したかったし……!?」
「渡すって何を」
と、平たくて大きい洗濯桶に手を突っ込んだまま尋ねたら、いきなり鼻先に何か突き出された。ぎょっとして視線をやれば、カイルの手に乗っているのはほんの少し黄色っぽい生成りの手巾……ではなくて、目に留めるべきはたぶん、その上に乗った華奢な耳飾りだ。
「……何これ?」
と思わず口にしてしまったが、それはやはりどう見ても耳飾り以外の何ものでもなかった。細長い三角形を描く金色のプレートに大、中、小の丸い宝石が嵌め込まれたシンプルなつくりのものだ。宝石の色は鮮やかな茜色。ひょっとして赤暉石だろうか、とカミラは一瞬驚いた。
だけど赤暉石にしては色味が薄いし、あの石は小粒でもかなりの額で取引される。そんなものをカイルが当たり前の顔をして持ってくるとは思えない。というか思いたくない。とすると恐らくは宝石ではなくて模造品だろう。色彩硝子に使われているのと同じ色つき硝子を、あたかも宝石のように加工しただけの。
「何って、耳飾りだよ」
「いや、それは見れば分かるけど」
「じゃ、オレたちの出会いを祝したプレゼントって言えばいい? カミラに似合いそうだなーと思って買ってきたんだ」
「買ってきたって、どこで?」
「ほら、オレ、昨日、ライリー親分のお供でサラーレに行ったから。そしたら運よく行商人を見つけてさ。黄都に売りに行く品だって言われたんだけど、親分に脅し……じゃなくて交渉してもらって、特別に譲ってもらったわけ」
何やら一瞬聞き捨てならない不穏な単語が飛び出したような気がしたが、カイルは失言を誤魔化すように、さらにずずいっと耳飾りを近づけてきた。
しかしいきなりプレゼントと言われても、誰かから贈り物をされるなんて久しぶりで、カミラは反応に困ってしまう。ロカンダにいた頃は何故だか若い兵たちに花だの菓子だの装飾品だのを一方的に押しつけられていたけれど。
「い、いや、けど……ほんとにもらってもいいの? あんただってこういう耳飾り、つけるでしょ? せっかく買ったんなら使ったら?」
「チッ、チッ、チッ。甘いね、カミラ。オレは首飾りならたくさん集めてるけど、耳飾りはいつもつけてるコレだけでいーの。第一、今回はオレじゃなくてカミラに似合うと思って買ってきたんだからさ。受け取ってよ。──はい」
そう言って再度差し出されては、いよいよカミラも受け取らないわけにはいかなくなった。向かいにいるマリステアに見られていると思うと何だか気恥ずかしかったけれど、いくら相手がカイルだからと言って他人の真心を無下にするほどカミラも冷酷なわけではない。これでまたカイルが妙な勘違いを起こさないことを祈りつつ、濡れた手を拭って耳飾りを受け取った。掌に乗った金色の小さな飾りがチリ、と儚げな音を立てる。
「えっと……じゃあ、お言葉に甘えて。あ、ありがとう……?」
「なんでお礼が疑問形なのか気になるけど、まあいーや! これでカミラもオレとお揃いね! ぐへへへ……」
と、何やら腹の立つ笑い方をされたので突き返そうかとも思ったが、つけてみせろとうるさくせがまれ、仕方なくその場で左右の耳にぶら下げた。鬢の髪を耳にかけ、「はい、満足?」と見せつけてやる。すると調子に乗って抱きつかれたので、即刻蹴倒してギタギタにした。
しかしそう言われてみればカイルは、出会ったときからいつも同じ耳飾りをつけている。右の耳にはライトグリーンの宝石と鳥の羽根が吊られた耳飾り。そして左の耳には、耳朶に穴を開けて留め具を通すタイプの赤い宝石の耳飾り。恐らくカイルは後者の赤い宝石を指して「カミラもお揃い」と言ったのだろう。お揃いなのは宝石の色だけで、耳飾りの形自体はまったく違うものだったけど。
けど、それなら右の耳飾りは一体誰とお揃いだったのだろう。
そんな疑問が不意に頭をもたげる。
別に右の耳飾りも誰かとお揃いだなんて、カイルは一言も言わなかったのに。
「ねえ、カイル……」
と、カミラは掠れた声で呼びかける。フォルテッツァ大監獄で二人、最下層の罠に落ちたとき、彼が真っ先に確かめていた右耳の耳飾りは今、彼の血で汚れてしまった。
「カイル、ごめん……あんたからもらった耳飾り、まだ一度しかつけてないの」
ほんのり茶色がかっていたものの、いつもふわふわとやわらかそうだった羽根飾りが、血に濡れて固まっていく。これだけ血を吸ってしまったら、もう洗っても元の姿に戻りそうにない。
「あれをつけて歩くと、あんたがまた騒ぎ出しそうで……ばつが悪かったのよ。だけど、こんなことになるなら……つけてるところ、もっとたくさん、見せてあげればよかった──」
縋るように掴んだカイルの手は冷たい。泣きたくなるほど冷たいのに、声を振り絞るカミラの喉は熱い。熱い。声帯が焼き切れそうだ。
──私が殺した。
心のどこかで、そう思った。
──私が殺したんだ。
とても危険な任務になると分かっていたのに。それでも放っておけなくて、カイルを作戦に誘ってしまった。コラードの故郷が焼かれたのを見て静かに怒り狂っていたウォルドの傍に、カイルを残していくのが怖かったのだ。
だってウォルドはカイルを疑っている。自分の目が届かないところで、二人に仲違いしてほしくなかった。
自分はウォルドもカイルも、今は大切な仲間だと思っているから。
『好きだよ、カミラ。そういうお人好しなとこも、ちょっと乱暴なとこも、後先考えないとこも』
大監獄で聞いたカイルの言葉が甦る。あのときのカイルの眼差しを、真剣な声の調子を、指先の微かな震えを、カミラは嘘だなんて思いたくなかった。自分にとって都合のいい幻想を見ていたかったのだろうと言われたら、そうかもしれない。
だけど、カイルは。カイルは──
「──カミラ、逃げろ!」
誰かの叫ぶ声がする。カミラはひどく緩慢な動きで、ゆるゆると顔を上げた。
視界が霞んで、周りの景色がよく見えない。ただ鉄と鉄とがぶつかり合う暴力的な音色だけが、鼓膜を引き裂かんばかりに響いている。
「早く行け! このままだと、お前は──」
ヴィルヘルムの声だ、と思った。先程からしきりに何か怒鳴っているようだが、途中途中が剣撃の音に邪魔されて聞こえない。赤黒い竜尾の魔族。ヴィルヘルムは未だアレと渡り合っていた。矢継ぎ早に繰り出される魔剣を弾きながら、なおも何か叫んでいる。後ろ、という言葉が聞こえた気がした。
「……後ろ……?」
床に膝をついたまま、ぼんやりと背後を顧みる。
そこに全身を鎧で覆った見たこともない男がいた。いや、正確には頭部だけ兜が取れて、血管の浮き出た禿頭が露出している。ついでに言うと眼が赤い。充血しているわけではなくて、虹彩が不気味に赤く光っているのだ。
その男がまったくの無表情に、カミラへ腕を伸ばしてきた。男の背後には同じく頭部だけを晒した鎧の兵士たちが、赤い眼を光らせて居並んでいる。
──ああ、まずい。逃げなきゃ。
他人事のように思ったときには、もう遅かった。
ジェロディの声が聞こえた気がする。彼は駆けつけようとしてくれている。
されどジェロディの到着を待たず、男がカミラの腕を掴んだ。人ならざるものの力で引きずり起こされ、中途半端に立ち上がったところで拳が飛んでくる。
殴られる、と思った。抵抗する間もなく鳩尾に一発。
カミラはそれで戦闘不能になるはずだった。でも、そうはならなかった。
カミラを連れ去ろうとした男の両腕が、鋼の肩当てや手甲ごとどこかへ飛んでいったからだ。直後に男は蹴倒され、仰向けに倒れたところを斬首された。
「ジェロディ、カミラ殿を連れて離脱せよ!」
鬼の怒号が轟き渡る。
背筋がぞわりと粟立つほどに、広間の空気がビリビリと震えた。
「ギディオン」
自分を庇うように現れた彼の名を呼ぶ。そこでようやく意識が覚醒してきた。
ギディオン。生きていた。無事だった。助けてくれた。
だけど、右腕がない。
脇腹からも血を流し、それでも彼は剣を握って立っていた。
ロカンダにいた頃からそうだったように、どこまでもしゃんと背を伸ばしながら、何ものにも怯まぬ背中を晒して。
「行かれよ、カミラ殿。ここは儂が食い止めましょう。フィロメーナ様には儂のような老いぼれよりも、貴女方の若い力と支えが必要です」
「ま……待って、ギディオン……!」
一度も振り向かず、迷いも見せず、ギディオンは猛然と狂人たちの群へ襲いかかった。相手がまとう鋼の鎧もものともせずに、斬って斬って斬りまくる。
だがあの傷ではとてもじゃないが長くは持たない。腕をもがれた右肩と、深く抉れた脇腹からは大量の血が流れている。彼を止めなくては。そう思ってようよう立ち上がったところで、ガクンと腕を引っ張られた。ジェロディ。ギディオンの背後を走り抜けざまカミラの手を取り、広間の出口へと向かっていく。
「ま、待って……待って、ティノくん……! あのままじゃギディオンが……ギディオンが死んじゃう!」
「もう手遅れだ!」
「な──」
「もう手遅れなんだよ、カミラ。ギディオン殿は、助からない……!」
分からない。
ジェロディが何を言っているのか、分からない。
変だな。彼の言葉を疑ったことなんて、今まで一度もなかったのに。
でも、ギディオンがもう助からない、なんて。
分からない。分からない。そんなの──分かりたくない。
「痛っ……!?」
その瞬間、カミラは渾身の力でジェロディの手を振り払った。振り払った拍子に爪が掠めたのか、ジェロディがわずか怯んだのが分かる。
申し訳ないことをした。でも謝るのは後回しだ。カミラは身を翻す。再び混沌の戦場と化しつつある大広間へ、飛び込んでいく。
「カミラ……!」
切迫したジェロディの声が追いかけてきた。
だけど今は、たとえリーダーの命令であっても聞けない。聞きたくない。
ギディオン。やっと会えた。せっかく生きて再会できたのに。
こんなところに置いていけない。
ギディオンだけじゃない。カイルも、メイベルも、みんな、みんな──
(お願い、こたえて)
ガシャガシャとやかましく鎧を鳴らして殺到してくる敵兵の間を抜けようとした。狂気に囚われた黄皇国兵たちは、カミラを魔界への貢ぎ物にしようと方々から腕を伸ばしてくる。斬り払い、蹴倒し、未だ奮戦しているギディオンのもとを目指した。けれど途中で髪を引っ張られ、よろけた拍子に組みつかれる。
(こたえて)
あらわになった敵兵の顔を引っ掻いて、腕の中から抜け出ようとした。けれども敵は一人じゃない。あとからあとから魔界のしもべたちがやってきて、ついには数人がかりで組み敷かれる。重い。内臓が飛び出しそうだ。でも、ギディオン。助けないと。まだ間に合う。まだ間に合うはずだ。そうじゃないとおかしい。だって自分は渡り星だ。救世軍の仲間を守るために選ばれた。託された。だったら、
「ギディオンさま……!!」
帛を裂いたような、マリステアの悲鳴が聞こえた。視界いっぱいに折り重なった鎧の向こうで、ギディオンの首から血が飛沫くのが見える。
ああ。違う。こんなのじゃない。
私がほしいのは、求めたのは、望んだのは、
「──お願い、こたえて、星刻……!!」
時の神子は言った。自分にはジェロディを守る使命があると。そしてその使命を果たすために星刻を授けた。あれはそういうことだろう、とカミラは思っている。
だけど、無理だ。これじゃジェロディを守るなんてとても無理だ。
彼を、救世軍を守るには仲間が要る。
メイベルが、カイルが、ギディオンが、オーウェンが、コラードが、ヴィルヘルムが──ここで失われるわけにはいかない仲間が。だから、
『栄えあれ』
瞬間、カミラの視界が真っ白に染まった。ほんの一刹那、世界から音が消し飛び、かと思えばカミラを中心に閃光の旋風が巻き起こる。
轟音に似た風音と共に、カミラにのしかかっていた黄皇国兵が引き剥がされた。見えざる巨人の手が狂人どもを薙ぎ払う。一体何が起きたのか、わけも分からぬままカミラは身を起こした。左手の手套の下で、星刻が皓々と瞬いている。
『あなたならできるわ、カミラ』
耳元で声がした。
『大丈夫。私がついてる』
ああ、この細波が寄せては返すような声色は、
『唱えて』
カミラの左手に誰かの手が重なった、ような気がした。
「 星よ、巻き戻せ……!! 」
その言葉は、一体からだのどこから湧き出てきたのだろう。
気づいたときには思い出していた。
こう唱えればいいのだと、自分は初めから知っていたのかもしれない。
不可視の腕が後ろからカミラを抱き締めてくれた。
途端にカミラを起点として、波紋のごとく広がった光がある。
ただの光じゃない。星砂岩の床を滑るように展開する光の円。
中心には五芒星が瞬き、無数の文字と幾何学模様が大広間を包み込む。
魔法陣──否、〝希法陣〟だ。
巨大な円陣の端が広間の最奥まで到達する。
刹那、時計の針が、過去へと戻る音がした。
◯ ● ◯
すべてが光に呑まれる寸前、ヴィルヘルムは確かに見た。
カミラ。信じられないほど複雑で極大の希法陣を生み出した少女の後ろに、彼女を守るかのごとく包み込んだ、海の国の魔女がいる。
「マナ」
思わず隻眼を見開き、名前を呼んだ。
静かに顔を上げた彼女が、微笑んだ気がした。




