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【side:A】エマニュエル・サーガ―黄昏の国と救世軍―  作者: 長谷川
第6章 世界はやさしくなんかないけれど
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209.のけものたち

 全身を鎧で覆った重装歩兵が、ずらりと広間に整列していた。

 その数、ざっと二百あまり。

 頭の天辺から爪先まで、隙間なく鉄甲で固めた彼らはハーマンの親衛隊だ。

 『(くろがね)』の異名を取り、守りの戦に関しては比肩し得る者がいないと謳われた男。彼の強さの真髄が、一時は時代遅れと(わら)われたあの親衛隊だ。

 決して退()がらじの鉄鋼兵。身の丈ほどもある鉄の盾を構え、矛を天へ向けた彼らが隊伍を組んでいる様は、それだけで見る者を圧倒した。

 実際、彼らは騎馬隊に突っ込まれたところで微動だにしない。動きこそ鈍重だが、盾を構え腰を据えた場合の防御力は鉄の壁に匹敵する。


「来たか、ジェロディ。会えるのを楽しみにしていたぞ」


 銀色に身を包んだ兵士たちが居並ぶ広間の最奥。そこに設けられたかりそめの玉座に、ハーマンは堂々と腰を下ろしていた。

 十九段の(きざはし)からこちらを見下ろす瞳は赤く冷たい。半年前、ジェロディの仕官を祝ってくれたハーマンとは明らかに別人だ。


「ハーマン将軍……まさかこんな形で、あなたと再会することになるとは思いませんでした。どうして、あなたが……」

「フッ……その台詞、そっくりそのままお返ししよう。よもや国一番の忠臣と名高いガルテリオ殿の(せがれ)が、陛下を裏切り反乱軍に(はし)るとはな。失望したぞ、ジェロディ」

「今のあなたを見れば、父もきっと同じことを言うでしょう。あなたは変わってしまった。私利私欲のために非武装の獣人たちを虐殺し、無辜(むこ)の民が暮らす村をも焼くような卑劣漢に。けれど僕は、あなたが変わってしまった理由を知っています。だからこそ原因を取り除くためにここへ来ました」

「ほう。原因とは?」

「この状況でいつまでもしらを切り通せるとは、あなたも思っていないでしょう。従順な部下たちの目は欺けても、神子である僕の目は欺けませんよ」


 言いながら、ジェロディはすぐ傍に佇むトリエステを一瞥した。当初の打ち合わせどおりの展開に、彼女も頷きを返してくる。

 だからジェロディは迷わず、右手の手套を取り払った。

 居並ぶ親衛隊に見せつけるように《命神刻(ハイム・エンブレム)》を掲げれば、たちまち閃光がほとばしり、救世軍の頭上に巨大な《星樹(ラハツォート)》を描き出す。


「ハイムの神子の名に懸けて断言します。ハーマン将軍、あなたは現在魔族の支配下にある。僕の目にはあなたの肉体から立ち上るおぞましい邪気が見えています。その邪気を祓い、本物のハーマン・ロッソジリオを取り戻す。それが僕たちの目的です」


 鋼の鎧がひしめき合う広間の隅々まで届くように、ジェロディは宣言した。数日前、アシュタ川の畔でそうしたように己が神子であることを明かし、第五軍の将兵たちを動揺させるためだ。

 神子の言葉は神の言葉。これを偽りと断ずる者は、エマニュエルにはまずいない。いかなハーマンの親衛隊と言えど、この告発に無頓着ではいられないはず──というトリエステとの合意に則り打ち出した策だった。けれど、


「……え?」


 一分の空気の震えもなく、シン……と静まり返った広間にマリステアの困惑が落ちる。ジェロディが見渡した先に佇む鉄鋼兵たちは、真実の告発を受けた今、示し合わせたように無反応だった。

 現在のハーマンの正体に薄々気がついていたのだとしても、囁き合う声ひとつない。皆が皆、魂を持たない彫像のごとく佇立し、静寂に身を浸している。

 ……一体どういうことだ?

 重い沈黙がもたらす不気味さに、ジェロディは思わず後込みした。するとロクサーナに教えられた表璽の術(シンボライズ)が揺らぎ、解ける。光によってかたどられていた《星樹》が消滅し、広間にはハーマンの不気味な笑い声が響いた。


「そうか。魔族の支配か。それはそれは恐ろしいことだ。ならば今すぐ私を救ってくれ、ジェロディ。お前の持つその神子の力とやらで」

「──将軍がお望みならば、ただちにお救い致します。ジェロディ殿のお手を煩わせるまでもなく、この私が」


 ハーマンが魔族に乗っ取られていることはもはや明確なのに、誰一人動かない。そんな異様な空間で、唯一進み出たのはコラードだった。

 玉座の上のハーマンを見据える彼の翠眼はやはり暗く、刃を呑んだように鋭い。広間の上部に設けられた巨大な彩色硝子(ステンドグラス)を透かし、轟音と共に瞬いた稲光が、コラードの横顔に凄惨な陰翳(かげ)を刻んだ。


「ああ、お前も来たか、コラード。待ちかねたぞ。部下の中でも特に目をかけてやったお前の面倒は、最後まで私が見てやらねばな。まったく手のかかる男だ」

「ご期待に添えず申し訳ございません、将軍。私は今日まで、あなたの良き副官であろうと身を粉にして働いて参りました。しかしどうやら私には──やはり()()()の方がふさわしかったようです」


 言った瞬間、コラードはすっと弓矢を構えた。いや、構えたと思ったときには既に、彼の指は弓弦を離れている。

 ヒュンッと鼓膜を裂くような音を立てて放たれた矢は、寸分も進路をあやまたずハーマンへ肉薄した。左の眼窩(がんか)を狙って飛んできたそれをハーマンはすんでのところで軽く(かわ)し、玉座の背凭れに突き立ったのを無表情に引き抜いてみせる。


「なるほど。所詮はお前も略奪者、ということか」

「はい。将軍……あなたはかつて私におっしゃいました。〝人種などというものは本来どこにも存在しない。何者であるかを決めるのは常に己自身だ〟と。ですがやはり私のこの体には、殺戮を好むシャムシール人の血が流れております。結局のところ、人は己の内に流れる血脈という名の運命からは逃れられないのです。私は、今すぐにでも──あなたの息の根を止めて差し上げたい」

「コラード、お前……!」


 動揺した様子のオーウェンが、絶望と憎しみに燃えるコラードの眼差しを遮るように動こうとした。だが彼がコラードの肩に手をかけた刹那、広間には再びハーマンの哄笑が響き渡る。


「いい顔つきになったではないか、コラード。それでこそ私が見込んだ男だ。だが今のお前を見れば、ミカエラが悲しむな」

「……お嬢様にはお気の毒ですが。やはりあのお方と私とでは、身分も年齢も違いすぎます。お嬢様は由緒正しきロッソジリオ家のご長女。片や私は、出自も定かならぬ奴隷の子ですから」

「では娘にはそのように伝えよう。お前の愛した男はお前の父の死を望む、野蛮で残忍なシャムシール人であったと」

「わざわざ将軍の口からお伝えいただかずとも、事実がすべてを物語るでしょう。私は今この瞬間から、自らの血に従います」

「そうか。では早速始めるとしよう。お前の望む命のやりとりをな──かかれ!」


 玉座に立てかけられていた戦斧(ハルバード)を手に取り、立ち上がってハーマンが叫んだ。彼の号令一下、一毫(いちごう)も隊伍を乱さず佇んでいた親衛隊が、解き放たれた野獣のごとく吼え猛る。あまりの絶叫に肝を潰されたマリステアが「ひっ……」と耳を塞いであとずさった。広間を覆い尽くす異様な熱狂にジェロディも戦慄し、ただちに腰から剣を抜く。


「マリーとトリエは下がって……! 来るぞ、全軍臨戦態勢!」

「応!!」

「しかし神子さんよォ、相手はあの重装備だぜィ!? あんな連中、どうやって薙ぎ倒してくってんだィ!?」

「確かに今のままじゃ分が悪い。だけど、これなら……!」


 地鳴りのような足音が迫っていた。全身で四十(ペリー)(二十キログラム)を超える鎧に加え、鉄の盾と矛を手にした兵士たちが、一斉に足を踏み鳴らし迫り来る音だ。

 彼らの動きは極めて鈍重。機動力ならこちらの方が遥かに上回っている。されどウーの言うとおり、あそこまで厳重に全身を守られていては付け入る隙がない──だったら。


「ハイムよ、救世軍に活路を……!」


 ジェロディが(かざ)した右手から、再び神の光がほとばしった。炸裂した閃光は広間全体を覆い尽くし、ほんの一刹那の奇跡を起こす。

 魂なきものに魂を与えるハイムの力。その力が広間にひしめく鉄鋼兵から兜を奪った。彼らの頭部を覆っていたクローズヘルムに束の間の魂を与え、一斉に宙へ浮き上がらせたのだ。

 おかげでハーマンの親衛隊は全員急所(あたま)が丸見えになった。これならば戦える、と、全身の力を吸い取られるような虚脱感と共にそう思ったのだが。


「な……!?」


 にわかに膨大な力を使ったことで、ふらついている場合ではなかった。兜の下から覗いた兵士たちの顔を見て、ジェロディは絶句する。

 何故なら皆一様に、赤、赤、赤──どの兵士も真っ赤に光る眼を血走らせ、怒号を上げて迫ってくる。あれはどう見ても正常な人間のそれではない。

 さながら魔族の呪いに支配されたハーマンと同じ、狂人の瞳。


「ま、まさか……ここにいる全員……!?」


 堕魂(ザグリ)。呪いによって魂を汚染し、人間を魔物に変えてしまう脅威の呪術。

 あれがまさかここまで広がっていたというのか。だとすればジェロディが神子の名乗りを上げて、ハーマンを糾弾しても事態が動かなかったことには頷ける。けれどたった一人を呪い、支配するだけでも困難だと言われていた高位魔術を、こんな広範囲に振り撒ける魔族がいるというのか──?


「くそっ、ここは地獄かよ……! 応戦しろ! 玉座までの道を開け……!」


 立ち竦むジェロディを守るように、大剣を振り回したオーウェンが兵を引き連れ突撃した。ほぼ同時にウーも猿人(ショウジョウ)族の勇士と共に吶喊(とっかん)し、広間はたちまち戦場と化す。見渡す限りの乱戦だった。ジェロディの眼前では瞬く間に敵味方が入り乱れ、立ち込める死影の狭間に剣戈(けんか)の音が(こだま)する。


 数の上では双方互角。敵の兜を剥ぎ取ったことで、味方も何とか戦えているようだった。だが敵もただでは倒れない。呪術による狂気がそうさせるのか、多少斬られても痛みなど感じていないかのように雄叫びを上げ、あちらからもこちらからも血まみれのまま攻めてくる。


「チィッ……! こいつら、とんでもなく凶暴な上にしぶてえぞ……!」


 斬っても斬っても倒れず向かってくる敵を相手に、救世軍は苦戦を強いられた。文字どおり魔物と化し、もはや言語すら忘れた敵兵は、確実に脳を潰すか首を刎ねない限り戦うことをやめようとしない。死をも恐れぬ敵兵の猛攻は脅威だ。救世軍側の士気は見る間に下がりつつあった。ジェロディも自ら剣を取り、前線へ飛び込んだが、このままでは敵の攻勢を支え切れない。


(これじゃ玉座になんて、とても……!)


 鋼と狂気の壁に阻まれ、ジェロディは先へ進めなかった。巨大な盾を押し出した突進を(かわ)したと思ったら、今度は横から矛が突き出される。

 ギリギリのところで串刺しを回避し、矛の柄を掴んだ。それを思い切り引っ張ることで生まれた反動を上手く使い、跳躍して相手の脳天に白刃を叩き込む。


「ジェロディ様、後ろです……!」


 ところが爪先が地に着く前に、オーウェンの呼び声が聞こえた。──後ろ。上体を拈って見やった先に、矛を振りかぶった別の敵兵がいる。

 滞空中を狙われた。避けられない。

 振り下ろされた敵の刃が、着地と同時に自分の右腕を奪う情景が脳裏をよぎった。ならばととっさに右手を翳したところで、真白い光が視界を奪う。


浄化の聖光(ルサニア・オール)……!」


 放射状に生まれた光が広間を洗った。刃のごとく空間を薙いだその白光に触れた途端、びくりと体を震わせた敵兵が何人も動きを止めて崩れ落ちる。

 今まさにジェロディを斬り裂かんとしていた敵兵も同様だった。ジェロディが着地し体勢を立て直す頃には、広間の入り口付近の敵兵が軒並み倒れ込んでいる。


聖刃(カドシュ・ヘレヴ)……!」


 さらに間を置かず、第二の閃光がジェロディの視界を(つんざ)いた。今度はひと振りの槍の形を模した光が、矢のような速さで広間の真ん中を貫いていく。

 光の槍は鋼鉄の鎧をも貫通し、総重量二百果(百キログラム)を超える重装歩兵の巨体を易々と吹き飛ばした。最初に直撃を受けた兵が後続の敵兵を巻き込んで、玉座の麓まですっ飛んでいく。(きざはし)(たもと)に折り重なった敵兵はもう動かなかった。おかげで敵味方がひしめく空間に、入り口から玉座までの一本の道ができる。


「今です、進路の確保を……!」


 すかさずトリエステの号令が飛んだ。いち早くそれを聞きつけたオーウェンが吼声を上げながら間隙へ突っ込み、今にも閉じようとしていた道を抉じ開ける。

 彼が率いる二百の兵も続けて突入し、左右から攻め来る敵を押し戻さんとする形になった。今なら行ける。玉座脇に佇むハーマンのところまで、一直線に。


「メイベル……!」


 彼女がもたらした聖刻(ホーリー・エンブレム)の力だ。すべてを悟ったジェロディはとっさに入り口を顧みた。そこではマリステアに肩を支えられながら、メイベルが荒い息をついている。呪紋(ウゾール)に抑えられた力を無理矢理解放したのだろう、今や彼女は立っているのもやっとといった様子だ。


「あ……たし、が……やらなきゃ……あたしが……!」

「メイベルさん、ダメです! これ以上は……!」


 マリステアの支えがなければ今にも倒れてしまいそうなのに、メイベルはまだやるつもりだった。聖術に邪気を祓われ、昏倒した敵兵を踏み越えて、広間へ進入しようとしている。彼女のもとへ行くべきか、ハーマンのいる玉座を目指すべきか。

 ジェロディは束の間逡巡した。先刻カミラにそうしたように、ハイムの力があれば枯渇寸前のメイベルの神力を回復できる。

 しかしこの機を逃せば、玉座までの道が再び閉ざされてしまう──


「待て、コラード……!」


 だが直後、耳朶(じだ)を打ったオーウェンの叫びに、ジェロディははっと振り向いた。見れば彼らが死に物狂いで維持する細い道を、全速で駆けていく人影がある──コラードだ。


「将軍、お覚悟を……!」

「いいだろう。来い、コラード……!」


 愉悦の笑みを湛えたハーマンが、ついにクローズヘルムを被った。そうして自らも一人の重装歩兵となった彼は得物を構え、迫り来るコラードを迎え撃つ。

 階の十八段目を蹴ったコラードが、獣を彷彿とさせるしなやかな跳躍でハーマンへと肉薄した。彼の手には細身の剣があり、その刃がハルバードの柄を叩く。


 上方から振り下ろされた白刃を巧みに防いだハーマンは、烈声と共にブンッと得物を振り抜いた。剣ごと振り払うかのような豪快な一撃を、コラードもとっさに背後へ跳んで回避する。しかしあの長柄の武器と、ほんの少し刃渡りが長いだけの長剣では明らかに後者が不利だ。いくら何でも射程に差がありすぎる──とジェロディが息を呑んで見入ったところで、コラードは予想外の行動に出た。


 なんと彼はハーマンの一撃を躱して着地した体勢から、素早く弓を構えたのだ。同時に神速で放たれた矢は、恐ろしいほど正確にハーマンの鎧の継ぎ目を射抜こうとした。だがハーマンもただではやられない。彼は狙われた関節の角度をちょっと変えることで矢を弾き、瞬時にコラードとの間合いを詰めにかかった。コラードも呼応するように、立ち上がりざま後退する。


 弓は正眼に構えたまま。左肩に背負った矢筒から目にも留まらぬ速さで第二矢を引き抜くと、間髪を入れずに(つが)え、下がりながら放った。凶暴な風切り音を立てて飛んだ矢は、今度は兜に開いたほんのわずかな眉庇(バイザー)の覗き穴を狙っている。あれほど正確無比な軌道を描いて飛んでいく矢を、ジェロディは見たことがない。


 実際、ハーマンがすんでのところで姿勢を低くしていなければ、恐らくあの矢は彼の右目を射抜いていた。まさに極限の命のやりとりだ。コラードが一切の容赦なく矢を放ったのと同じように、ハーマンもまた、まったく迷いを感じさせない勢いでハルバードを振るった。長身をぎりぎりまで屈め、床に這いつくばるようにして攻撃を躱したコラードは、右手の弓と左手の剣をただちに持ち替え応戦する。


(なんて戦い方をするんだ、あの二人は……!)


 見ているだけで身の毛がよだつような死闘。ほんの半瞬判断を誤れば、ただちに死へ直結するであろう攻防に、ジェロディは凍りつくことしかできなかった。

 だが問題は、そう、〝死〟だ。

 彼らはお互いがお互いを確実に仕留めようとしている。魔物に乗っ取られているハーマンはともかく、コラードもハーマンを殺そうとしているのだ。

 このままでは彼は本当に上官を手にかけてしまうかもしれない。ハーマンを魔族の支配から解放することを、完全に諦めて──


「──ジェロくん、お願い! コラードを止めて……!」


 瞬間、鼓膜を貫いたメイベルの叫びで、ジェロディははっと我に返った。


「コラードはきっとハーマンを殺して自分も死ぬつもりなの! だからお願い、コラードを止めて……!」


 振り向いた先で、メイベルは泣いていた。泣き叫んでいた。

 本当は彼女が自分自身の手でコラードを止めたいと願っていたはずだ。けれどメイベルの声はもうコラードには届かない。いや、あるいはもう誰の声も彼には届かないのかもしれない。けれど自分は。自分は──


『おめでとう、ジェロディ』


 半年前。

 軍への仕官を祝い、破顔して肩を叩いてくれたハーマンの姿が脳裏に甦った。

 自分は彼を救いたい。ほんのわずかでも救える可能性が残されているのなら。

 幸いハーマンにもコラードにも、今はまだ死の影が見えていない。

 だったら……!


「オーウェン、援護を……!」


 覚悟を決めて、ジェロディは走り出した。オーウェン隊と猿人族が死ぬ気で押し留めてくれている敵兵の間へ突っ込んでいく。

 そんなジェロディの意図を察したらしいオーウェンが、気合を上げて大剣を振り回した。二撃、三撃と繰り出される大振りな攻撃に、怯んだ敵兵が後退する。

 その間隙を縫って、ジェロディは乱戦の只中を走り抜けた。敵兵が突き出してきた矛を屈んで躱し、一瞬も止まらずに階の一段目へ足をかける。

 小柄な自分の体格に感謝したのは生まれて初めてだった。ジェロディは十九段の階の上に今にも得物を振り抜かんとするハーマンと、そこへ突撃するコラードの姿を認め、二人の間へ飛び込んでいく。


「コラードさん……!」


 ハルバードの刃が、コラードの高い鼻を(こそ)ぎ落とすかに見えた寸前。ジェロディは白い床を蹴り、全力でコラードを突き飛ばした。おかげで二人仲良く転倒し、玉座の傍まで転がってどうにかこうにか静止する。派手に打ちつけた全身ににぶい痛みを感じたが、幸い自分もコラードも重傷を負うことは避けられた。


()……ジェロディ殿、一体何を……!」

「早まらないで下さい、コラードさん! ハーマン将軍はまだ間に合うかもしれない……!」

「将軍はもう戻れません。ならばせめて、私がこの手で引導を……!」

「馬鹿なことを言わないで下さい! 救えるか救えないかは、やってみなくちゃ分からない!」

「──どうした、こんなところで仲間割れか? ずいぶんと余裕だな……!」


 嘲笑うハーマンの声がして、ジェロディは我に返ると同時に跳びずさった。直前まで自分がいた空間をハルバードが切り裂き、耳元で咆吼に似た音を立てる。

 体勢を立て直す前に、柄を返す一撃がきた。棘状の石突(いしづき)が額を掠め、皮膚を(えぐ)り、青い血が滲み出す。

 ジェロディは玉座の背後を経由する形でハーマンと距離を取った。床に手をつき、体についた勢いを殺しながら、左目へ流れ込もうとする血を拭う。


「フフ……碧血(へきけつ)か。本当に神子になったのだな、ジェロディ。だが遠大な神の意思を汲むには、お前はまだ若すぎる。神の代理人という肩書きがもたらす重圧は耐え難かろう?」

「……っ!」

「私と共に来い、ジェロディ。大人しく従えば、その苦しみから解放してやる。すべてをルシーン様に委ね、楽になるといい。今ならまだ引き返せるぞ?」


 ──すべてをルシーンに委ねろ、だって?


 冗談じゃない。

 確かに神子の宿命は想像していたより遥かに重い。潰れそうだ。

 許されるのなら逃げ出したい。

 自ら神子になりたいと望む者がいるならば、大神刻(こんなもの)など喜んでくれてやる。


 だがルシーンだけは駄目だ。

 あの女の思惑どおりに事を運んでなんかやらない。

 自分たちを黄都から追い出し、父を苦しめ、黄皇国を混沌の渦へ突き落とす魔界の手先に尻尾を振る義理はない。ハーマンだって真実を知れば必ずそう唾棄したはずだ。彼はまだ助かる。助けられる。

 メイベル。彼女が唯一の希望であり、鍵だ。淡い菫色の髪と紅藤色の外套を翻し、彼女は前に進もうとしている。オーウェンたちに守られ、果敢にも敵の海の真ん中へ飛び込む姿が、ジェロディの視界の端に見えた──あと少し。


「ハーマン将軍……僕はあなたを尊敬していました。いいえ、今でも尊敬しています。あなたは大義も矜持も捨てて、易々と魔女の狗に成り下がるような人じゃない。そうでしょう?」

「ほう。ずいぶんと知った風な口をきくではないか、ジェロディ。ならば問おう。お前が私の何を知っているというのだ?」

「確かに僕は副官としてずっと傍にいたコラードさんや、正黄戦争を共に戦った父ほどあなたをよく知りません。ですがこの城を見れば分かります。ここは僕たちが暮らした十年前のあの頃と、何一つ変わっていない。ただそれだけで、あなたが祖国と陛下をどれほど愛し守ろうとしていたか、分かるんです。父が陛下の(つるぎ)なら、あなたは陛下の盾だった。そうして鉄壁の盾であり続けることが、あなたの何よりの誇りだった。違いますか?」


 波濤(はとう)のごとく轟く喊声の中で、掻き消されぬようにジェロディは叫んだ。すると眉庇の細い覗き穴の向こうで、ハーマンが赤眼を細めた──ような気がする。頭部を鋼で完全に覆ってしまった彼の表情は、外からはまったく窺い知ることができない。けれど。


「フッ……陛下の盾、か。確かに自らそう思い定めていた頃もあった。命に代えても陛下をお守りすることが我が天命であり、誇りであると自負していたこともな。だがもう違う。国も陛下も、既に私を必要としていない。今、陛下に最も必要なのは……」


 ハーマンがそう言いかけたときだった。

 ぞっと背筋を削がれるような、研ぎ澄まされた殺気があたりに充溢する。

 ジェロディは最初、ハーマンがその殺気の発生源かと思った。けれど違う。

 必ずお前を殺す、と耳元で囁く声がする。そんな錯覚さえ伴うほどの殺意の根源は、ハーマンの背後で片膝をつき、(まなじり)を決して弓を構えた──コラードだ。


「駄目だ、コラードさん……!!」


 彼の姿をようやく認め、止めようとしたが既に遅かった。ジェロディの叫びを合図としたかのように矢は放たれ、射手の憎悪を糧にハーマンの鎧を食い破ろうとする。しかしあと半瞬で(やじり)が突き立つというところで、ハーマンが振り向きざま、ハルバードの柄を大きく振り抜いた。

 その一撃がコラードの渾身の矢を弾き、あらぬ方向へ吹き飛ばす。鋼の鏃が瞬きながら宙を舞った。それを視界の端に留めてほっとしたのも束の間、ジェロディが安堵の息をついた頃には、コラードがハーマンの懐にいる。

 彼の手には、錐状(きりじょう)の刃を閃かせた鎧通し(スティレット)

 いつの間にあんなものを用意していたというのだろう。得物を振り抜いた直後で隙だらけのハーマンはもう、コラードの俊足に追いつけない。


「終わりにしましょう、将軍──さようなら」


 コラードは最初からこれを狙っていたのか、と思った。ジェロディの理解はすべてにおいて一拍遅く、手を伸ばしたときには届かない。

 柄頭に手を添えて構えられた短剣は、鎧の上から正確にハーマンの心臓を狙っていた。強弓を軽々と引いてしまうコラードの膂力(りょりょく)とあの角度があれば、間違いなく短剣は鎧ごとハーマンの胸を貫く。

 けれど彼らは長年連れ添った上官と部下だ。だから、


「コラード。お前は本当に──手のかかる男だ」


 ハーマンもコラードも、深い信頼によって結ばれた日々のおかげで、互いが互いの手の内を熟知していた。

 眉庇の向こう側でハーマンの眼が憫笑(びんしょう)に歪む。次の瞬間、彼の右手の手甲(ガントレット)からほとばしったのは、大地神アダマーの力を宿した土色の光。


「あ……」


 油断していた。ここは屋内で、しかも地上から数(アナフ)も離れた四階だからと。

 しかし足元を見ればそこには、母なる大地から切り出された星砂岩(せいさがん)の白い床が、どこまでも広がっている。


「コラードさ──」


 足元が揺らぐ音がした。

 星砂岩の表面が引き()れたように集まり、隆起し、一条の白い馬上槍(ランス)と化す。

 突如床から突き出した大地の牙は、()()の腹を貫いた。


 そう。


 階の頂上に駆けつけ、とっさにコラードを突き飛ばした、メイベルを。


「な……」


 その瞬間、神の聴力を持つはずのジェロディの耳から音が消えた。

 あんなに渦巻いていた喚声も怒声も聞こえない。

 唯一鼓膜が拾った音は、ビチャビチャと盛大な音を立てて床を染め上げる赤の音と、尻餅をつき、愕然としたコラードの呻きだけ。


「メイ……ベル……?」


 天に向かってまっすぐ伸びる槍の上で、メイベルが四肢を投げ出しながらうなだれていた。


 そんな彼女の髪に。耳に。胴に。手足に。


 刹那、真っ黒な死影(かげ)が絡みついた。


 床に叩きつけられた彼女の青希石が、割れる。



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