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【side:A】エマニュエル・サーガ―黄昏の国と救世軍―  作者: 長谷川
第6章 世界はやさしくなんかないけれど
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207.まやかしの希望


 自分はどうして生きているのだろう。


 夏の陽射しに手を(かざ)して、そんなことを考えた。

 五百年。五百年だ。もう充分に生きたし、生きすぎた。

 そのくせ、自らの意思で生きたいと願ったことは一度もない。

 ただの惰性で、今日も呼吸を止めずにいるだけ。今の自分が本当に〝生きている〟と言えるのかどうか、ターシャには分からない。


「……こんな世界、さっさと壊れちゃえ」


 口ではそう毒づいてみるけれど。だったら何故、自分は今も生きている?

 五百年前、あの赤い魔女に拾われるまで、ターシャは世界を憎んでいた。世界はいつだって醜くて、臭くて、汚くて……真っ黒な嘘にまみれている。心が洗われるような美しい景色など、ターシャは一度も見たことがない。


 ──この世界に価値なんかない。


 ずっとそう思ってきた。でも、最果ての塔で暮らすようになって……自分とペレスエラ以外誰もいない孤島で暮らすようになって、絶望は薄らいだ。あそこにいれば世界の醜さにも、人間の浅はかさにも煩わされずに済んだから、憎しみはいつしか無関心へと変化(へんげ)した。


 人間なんて、滅びたければ滅べばいい。

 わたしには関係ない。世界も自分も人類も、どうなったって構わない。


 そうやってもうずいぶん長く、目を背け続けてきたというのに。


『ペレスエラ……あの子たちを、お願いね……』


 ある日、ターシャの目の前で海の国の魔女が死んだ。

 人が息を引き取るところを見るのは、五百年ぶりだった。

 もちろんターシャは人の生き死になんて興味がない。どこの誰だろうが勝手に生きて死ねばいいと思っている。だから誰が死んだところで、心はまったく動かない。そもそも自分にはもう心と呼べるモノはない──はずだった。


「……」


 太陽に翳していた掌を、自らの左胸に当ててみる。トクトクと脈打つ鼓動を微かに感じながら……ここにまだ〝感情〟と呼ばれるものが残っていたことを嫌悪した。これじゃまるで人間じゃないか。

 けれどあの日、ターシャは確かに心が激しく殴り倒されるのを感じた。世界という名の冷たい岩に叩きつけられた痛みで初めて、自分にも心があることを思い出した。それくらいマナ・ピリニヒという魔女の死はターシャに衝撃をもたらしたのだ。だって彼女は微笑(わら)っていたから。


『やっと見つけたのよ。このはした金みたいな命の使い方を』


 彼女は死を恐れていなかった。当然だ。マナ・ピリニヒは呪われた体で、何十年も死を渇望し続けていた。彼女もまた世界を憎悪し、絶望し、運命と名づけられた檻から死をもって逃げ出したがっていた。

 彼女はいつだってからっぽで、あるのは失意と諦めだけで。

 ターシャはそんな彼女に、どこかで自分を重ねていた。彼女の存在はターシャが長年抱え続けた虚無や嫌悪を肯定してくれたから。


 なのに彼女は微笑(わら)っていた。


 死の間際、とても満たされた顔で幸せそうに。


 マナ・ピリニヒは見つけたのだ。

 最後の最後で、自分が生まれてきた意味を見つけた。神々から一方的に与えられたものじゃない、自分だけの意味を、価値を、自らの手で掴み取った。

 それを知ったときの煮え立つような胸のざわめきを、なんと呼べば良かったのだろうか。長らく心を閉じ込めてきたターシャには分からなかった。


 ただ一度だけ、ペレスエラに言われたことがある。


「彼女が羨ましいのですか、ターシャ?」


 ──羨ましい? ならばこれは〝羨望〟と呼ばれる感情?


 そんなはずはない、とターシャは反発した。自分は何も羨んでなんかない。羨むほど価値のあるものなんて、この世にありはしないのだ。

 あるのは嘘と幻想、そしてまやかしの希望だけ。だからターシャは見届けてやろうと思った。マナが最期に掴んだ希望もまた、所詮は儚く溶けゆく淡雪のようなものだということを、自らの目でしかと確かめようと。


「……くだらない」


 結果なんて試す前から分かりきっているのに。

 だのにマナもペレスエラも、どこまで諦めが悪いのだろう。

 人類は一体いつまで、まがいものの舞台の上で無様に踊り続けるのだろう。


『私が望む未来は、そこにはないの』


 マナの最期の笑顔が記憶の中でチラついた。


『あの子たちを救えるのは、あなただけよ。だから、お願い』


「……救えないよ、マナ」


 もう一度天を仰いで、ぽつりとそう呟いた。


「カミラは死んで、エリクは世界を滅びに導く。その未来は揺るがない」


 真白い手を再び太陽に翳してみる。

 湖面を渡る風が、コルノ城の屋上に佇むターシャの髪を激しく煽った。

 ああ。今日は島が静かでいい。乱暴で野蛮な湖賊も、小うるさい海賊も今は留守。聞こえるのは水鳥が羽ばたいたり、水を蹴立てたりする音だけ。

 やっぱり人間と共に暮らすのは、煩わしくて仕方ない。どんなに退屈でも、誰もいなければ何もない、あの塔に閉じこもっていた方が数段マシだ。

 毎日がこんな風に静かに過ぎていけばいいのに。指の間から零れる光を眺めながらぼんやりそう思っていたら、不意に耳元で声がした。


『──渡り星が危ない』


 右手の中指、そこに嵌められた指輪の上で、深い青の希石が瞬く。

 されどターシャは取り合わず、瞳を細めてほくそ笑んだ。


「知らないよ。〝運命とは人が自分の意志で切り拓くもの〟でしょ?」


 だったらあの渡り星も、自分の運命くらい自分でどうにかすればいい。

 それが本当に人の手でどうにかできるものならば。


「わたしに見せてみてよ、マナ」


 証明できるというのなら、ぜひとも見せてもらいたい。


 彼女が命を投げ出すほどの価値が、果たしてこの世界にあるのかどうか──その答えを。



              ◯   ●   ◯



 オヴェスト城の本丸は、作戦行動中だと言うのに思わず足が止まってしまうほど荘厳で美しかった。

 青い屋根を戴くいくつもの尖塔と、白亜の建物をつなぐ橋梁。建物は全部で四つの区画に分かれていて、正黄戦争時代、ヴィルヘルムたちはそれを東館、西館、本館、別館と呼び分けていたらしい。

 本館と呼ばれる建物の南側は、庭園だ。巨大な石の箱の上なのに草木が茂っていたり、野生動物がいたりして、カミラはかなり驚いた。

 何でもこの城が築城されたとき、物好きな城主がわざわざ石積みの上まで土を運んで、自然に近い庭を作ったのだとか。昔はジェロディやマシューもあそこでよく遊んでいた、と聞かされて、カミラは俄然興味が湧いた。


 が、今は城内に邪気を蔓延させている呪紋(ウゾール)の破壊が先決だ。兵舎の第二層でジェロディたちと別れてから、早くも二刻(二時間)が経とうとしていた。

 兵舎内の探索を粗方終えて、表層へ出れば雨が降っている。叩きつけるようなひどい雨だ。騒がしい雷鳴と雨音にまぎれて、遠くで喊声が上がっていた。東階段付近では、未だ苛烈な戦闘が続いているのだろう。もうすぐ日が沈み、夜が来る。


「まずいな。日が暮れれば魔族が力を増す。そうなる前に、せめて呪紋だけでも破壊したいところだが──」


 その戦場を迂回するために兵舎内を突っ切り、反対側の西階段から本丸へ突入したカミラたちは、ずぶ濡れになりながら西館の扉を破った。ヴィルヘルムとギディオンが城の構造を把握しているおかげで道に迷わなくていいのは助かるのだが、肝心の呪紋がやはりなかなか見つからない。

 兵舎内では三つの呪紋を見つけ、破壊に成功したものの、依然として城は邪気に覆われているらしかった。ヴィルヘルム曰く、上階の方が邪気が濃いというのでここまで来たが、兵舎内も隅々まで探索できたわけじゃない。


 ゆえに二百人ほど残ったヴィルヘルム隊を班に分け、いくつかの班には引き続き兵舎内を捜索するよう命じてきた。

 呪紋と呼ばれる魔術の触媒は、いかにも〝ここで呪いの儀式をしました〟と言わんばかりの血の紋様で、ひと目見れば「これだ」と分かる。

 加えてメイベルのような聖術が使えずとも、破壊してしまえばそれだけで効力を奪えるらしかった。不浄のものだからできれば浄化するのが望ましいそうだが、今はとにかく城の呪いさえ解ければいい。細かいことは全部あと回しだ。カミラは残った百名ほどの仲間と共に西館へ突入した。


「ここも敵兵はあんまりいなさそうね。問題は呪紋の在り処だけど……」

「……少なくとも西館に一つある。他はまだ分からんが、城全体に呪いをかけようと思ったら、本館や東館にも仕掛けている可能性が高いだろう」

「兵舎内の呪紋はすべて、人目につかぬ場所に設置されていた。ならばここでも、そういった場所を中心に調べていくのが良かろう」

「ま、その辺はじーさんたちに任せるけどさ。にしても便利だよねー、ヴィルヘルムさんの探知能力。どうやったらそんな風に魔物の気配とか場所とか分かるの?」

「長年の経験と知識と勘だ。魔物ばかり相手にしていれば、自然とこうなる」


 カイルの詮索を適当に受け流し、ヴィルヘルムはまた先頭に立って走り出した。彼の左眼に魔物が宿っていることは、今もまだカミラとラファレイと本人だけの秘密だ。とは言えここまで大っぴらに魔物の力を頼るとなると、他の仲間にもそろそろ勘づかれそうでヒヤヒヤする。カイルなどは「へー、そういうもんなのかー」と能天気に感心して、すっかり騙されているけれど。


「あ、あのさ、ヴィル……」

「何だ?」

「えっと……大丈夫、なのよね。呪紋を探知するのに力を使ったら、また呪いが進行するとか……そういうの、ないの? もしあるなら──」


 そうしてまず捜索に入った一階の美術室。広さで言えばコルノ城の食堂ほどもあるその部屋で、仲間が壁の絵画を外す作業に追われるさなか、カミラはこっそりヴィルヘルムに尋ねてみた。

 ここはかつて訪ねたヒュー家の屋敷の画廊に似ている。深紅の壁紙が回された四方の壁には無数の絵画が飾られており、呪紋を隠すにはうってつけだ。

 たとえば壁に呪紋が描かれていたとしても、上から絵画をかけてしまえば傍目には分からない。だから皆で絵画を外す作戦に出たわけだが、隣で天使と悪魔が対峙する絵を抱えたヴィルヘルムは、カミラの問いにほんのわずか隻眼を細めた。


「ああ。覚魔(かくま)の能力を借りるだけなら問題はない。半分は俺の勘というのも事実だしな。この眼帯さえあれば、大した影響は受けんから安心しろ」

「そ、そうなの。なら、いいんだけど……」

「というか、お前は俺の心配より自分の心配をすべきだろう。ハーマンを呪っているのがもし『魔王の忠僕(ギニラルイ)』なら、間違いなくお前を狙ってくる。やつらの前ではわずかな油断が命取りだぞ」

「な、何、そのギニラルイって?」

「魔界に七十二柱いると言われている高位の魔族たちだ。分かりやすく言えば、魔王に仕える貴族みたいなものだな。ピヌイスで戦ったクルデールも恐らく『魔王の忠僕』の一柱だろう。……アレにはまず、人間では歯が立たない」


 ──『魔王の忠僕(ギニラルイ)』。


 初めて耳にする禍々しい響きに、カミラもまた絵画を抱えたまま立ち竦んだ。

 魔物なんて、所詮は知性のない生き物。人を喰らうしか能がなく、戦い方さえ心得ていればおぞましいだけで脅威ではない。十六年間ずっとそう思って生きてきたカミラにとって、魔族と呼ばれるものたちはこれまでの常識を覆す存在だ。

 魔界にも王がいて、貴族がいる。彼らは人間と同等かそれ以上の知性を持ち、無知性の魔物たちを統治している。地底にそんな世界が広がっているなどと、誰が想像しただろうか。ましてやそこに住まう貴族たちが、ちょっと珍しい髪色をしているだけの、ド田舎出身の小娘を捕えようとしているなんて。


「本音を言えば、お前には今すぐここを離れてもらいたいんだがな。戦場が城内に移った以上、一人だけ味方からはぐれるのはかえって危険だ。地下通路の封鎖を思い留まっていれば、脱出も考えられたが……」

「で、でも、あそこで私たちが通路を崩さなきゃ、敵に利用されてたかもしれないし……必死で戦ってるみんなを置いて、私だけ逃げるなんて嫌よ。魔族に狙われてるのはティノくんやメイベルだって同じなんだから」

「ジェロディやメイベルが命を狙われるのと、お前が攫われるのでは事の重大さがまったく違う。言っただろう、お前は常人とは比べものにならないほどの運命を背負っていると」

「確かに聞いたけど、それだけじゃ全然分かんない。神子より重い運命って何? フォルテッツァ大監獄で遺跡が私に応えたのと何か関係があるの?」

「……カミラ。お前は──」

「──ヴィルヘルム隊長、ありました! 呪紋です!」


 部屋の奥から声が上がった。振り向けば神々の彫像が飾られた暖炉の上に、血で描かれた不気味な紋様が浮かび上がっている。

 あそこには先刻まで一際大きい肖像画がかかっていたはずだ。描かれていたのは黄金竜に跨がった初代黄帝フラヴィオ・レ・バルダッサーレ。金色の額縁に飾られた彼の勇姿は今や、足元の床へ無造作に投げ捨てられている。かなり高い位置に掲げられていたその絵画を、兵たちは肩車をして外したらしかった。ヴィルヘルムは彼らをねぎらいながら踵を返す。カミラが望む答えはまたお預けだ。


「……壁紙に直接描かれているな。神術で爆破してもいいが、火事になると面倒だ。ギディオン殿、頼めるか?」

「ふむ。やれと言われればやるまでだが、わざわざ儂に頼らずともこの程度のこと、おぬしなら造作もなかろう、ヴィルヘルム」

「他にかかっている歴代黄帝の肖像画ごと斬ってもいいなら、できないことはない。だがそうすると剣鬼殿に睨まれそうでな」

「なるほど、殊勝な判断だ。しばらく会わぬ間に、おぬしも幾分丸くなったか」

「あんたほどじゃないがね」


 肩を竦めながらそう言って、ヴィルヘルムは暖炉の傍にいる兵を全員下がらせた。ギディオンもそんなヴィルヘルムを見て不敵な笑みを浮かべると、すっと背筋を伸ばしたまま呪紋の正面に立つ。

 赤い壁紙の上に生贄の血で描かれた呪紋は、同じ赤色で見えにくいかと思いきや、黒っぽく変色しているおかげでよく見えた。

 ここまで破壊してきた三つの呪紋と同じで、赤黒い血は大きな円と、それを切るように交差した二本の線を描いている。

 切られた円の中には、爪で引っ掻いたのに似たおどろおどろしい文字が並び、見つめていると体中の血の気が引くような感覚に襲われた。何と書かれているのかは分からないが、あそこに記されているのはたぶん、天界への怨嗟と呪いの言葉だ。


「やってくれ」


 ヴィルヘルムがそう声をかけた刹那、ギディオンは頷き、サッと払うように腰の剣を抜いた。少なくともカミラにはそうとしか見えなかったのだが、彼はひと太刀薙いだだけですぐに剣を鞘へ戻してしまう。斬ったのは何もない宙空。一部始終を見届けた兵士たちはぽかんとしていた。次いで顔を見合わせ、「今のは何の儀式だ?」と眉をひそめたところで、暖炉の上の壁がバラバラと崩れ落ちる。


「え!?」


 美術室は驚愕に包まれた。崩れたのは呪紋が描かれていた一部分だけで、周囲の壁や床はまったくの無傷だ。そもそもギディオンはたった一回剣を振っただけなのに、何がどうしてそうなったのか。唖然とするカミラたちの前で、彼はつかつかと歩き出すと、床に倒れたフラヴィオ一世の肖像画をそっと暖炉へ立てかけた。


「では、次へ参ろう」

「いやいやいやいや、ないないないない」


 と、窓際に佇んだカイルが懸命に現実を否定しているが、ギディオンはまったく取り合わない。わずかだけ残った自分の兵を呼び集め、悠然と美術室を出ていく彼を、カミラたちは茫然と見送ることしかできなかった。


「何を呆けている。俺たちも行くぞ」

「いや、えっと……私も一応、ギディオンがめちゃめちゃすごい人っていうのは知ってたけどね? なんか少し会わない間に、さらに人間離れしてない……?」

「ギディオン殿は昔からああだろう。正黄戦争の頃から既に、あの人に逆らえるのは奥方だけと言われていたからな」

「黄帝も逆らえないとか怖すぎでしょ……」


 カイルまで顔面蒼白と化す中、一同はとりあえず任務に復帰した。あまりモタモタしているとギディオンを怒らせるかもしれない。そんな恐怖が皆の中に芽生えつつあるのが見て取れる。

 オヴェスト城の西館は四階建てで、隣の本館とつながる橋梁は二階にあった。一階同士をつなぐ渡り廊下もあるようだが、西館に仕掛けられた呪紋が美術室のアレ一つとは限らない。カミラたちは一、二階を全員で隈なく捜索すると、三、四階の調査は四つの班に任せ、二階から本館へ移動した。敵兵は依然東階段の防衛に駆り出されているようで、西館はほぼ無人だ。


 おかげで探索が捗った。本館もそうであればいい──と思いながらアーチ型の橋を渡り切ると、一気に戦場の気配が近づいた。

 どうやらカミラたちが探索に明け暮れている間に、味方が東階段の敵防衛線を突破したらしい。二階の窓から身を乗り出して見てみると、本館正面の扉が神術砲(ヴェルスト)で破られ、猿人(ショウジョウ)たちが突入していくところだった。


「ねえ! 味方がもう本館に入ってる! 一旦みんなと合流した方が良くない!?」

「ハーマンがいるとすれば、四階の大広間だ。トリエステたちは恐らくそこを目指すだろう。だとすれば俺たちは五階を調べた方がいい。あそこにはハーマンの居室もある」

「だけど、一階から四階までは……!?」

「大広間までの道に呪紋があれば、恐らくメイベルが気づくだろう。俺たちは先に五階を見て、見つからなければ東館へ移動する」

「味方がハーマン率いる本隊と衝突するのも時間の問題だ。急がねばなるまいな」


 ここまでカミラたちが破壊に成功した呪紋は四つ。兵舎や西館に残してきた仲間が他にも見つけ出してくれていればいいが、状況は分からない。

 メイベルの力を押さえつけていた邪気は、少しくらいやわらいだだろうか。それともまだ強力な呪いに覆われたままなのか。

 城に仕掛けられた呪紋の総数が分からない以上、現状では何とも言えない。カミラは今すぐにでも仲間の安否を確かめたい衝動をこらえて窓を離れた。


 味方の鯨波(げいは)が迫ってくるのを感じながら、カミラたちも階段を駆け上る。西館の内装が赤を基調としていたのに対し、本館は青だ。廊下に敷かれた絨毯は海のように青く、あちこちに飾られている絵画や美術品の類まで色調が統一されている。

 かつて黄帝が仮宮にしたというのも頷ける、壮麗な内装だった。きっとソルレカランテ城もこんな場所なのだろうなと夢想しながら、五階まで一気に移動する。本丸に四つある建物の中でも、五階建てなのはこの本館だけのようだった。東館は西館と左右対称に造られていて、本館の北にある別館は、他の建物に比べるとだいぶ小さい。城の一部というよりは下級貴族の屋敷みたいだ。


「ハーマンの居室だ。──カミラ」


 城主の居住区画として、最低限の部屋数しかない最上階。カミラはそこで、廊下に設けられた丸窓の色彩硝子(ステンドグラス)を背に神術を炸裂させた。

 一対の竜が描かれた両開きの扉が、炎弾の直撃を受けて弾け飛ぶ。濛々と立ち込めた煙が晴れると、まず上品な執務机が見えた。

 左右の壁は書架で埋め尽くされていて、机の向こうには暖炉があるのみ。どうやらここはハーマンの執務室らしい。そして以前は、黄帝の執務室だったのだろう。


「お前たちはあの書架をすべて引き倒せ。後ろの壁に呪紋が仕掛けられているかもしれない。執務机の下──絨毯の裏も見ておくように。それから暖炉の中も。寝室はこの奥だ」


 言われてみれば暖炉の左には、奥へ続くと思しい扉がある。カミラはヴィルヘルムにくっついて、その扉の先へ進んだ。

 執務室から壁一枚隔てた向こう側は、確かに寝室だ。先程の美術室に比べればひと回りほど小さいものの、室内には天蓋つきの寝台や天鵞絨(ビロード)の腰掛け、玻璃(はり)の円卓等々、高級そうな調度品がいくつも並んでいる。


「うわー、これが大将軍の暮らす部屋ってわけ? 寝台も机も、嫌味なくらい高そうだなあ……」

「以前は陛下がお使いになっていた部屋だ、当然であろう。……しかし、懐かしいな。ここへ来るのも八年ぶりか」

「俺の記憶違いでなければ、正黄戦争の頃から何一つ変わっていないな、ここは。オルランド殿のために集められた品々が、すべてそのままになっている」

「ハーマンのことだ。またいつ何が起ころうと、ただちに陛下をお迎えできるよう当時の品を鄭重に扱ってきたのだろう。……まったく変わらんな、あの男は」


 無人の寝室を見渡して、ギディオンは物言いたげに目を細めた。ジェロディの父──ガルテリオがかつてギディオンの部下だったように、ハーマンもまたギディオンが育てた若い将軍の一人だったのだ。

 どこまでも愚直で、忠義に厚かったトラモント五黄将の一人。それが今や呪いに冒され、狂人に堕ちてしまったことをギディオンはどう感じているのだろう。

 彼はジェロディたちが初めてロカンダへやってきたときも、部下だったガルテリオを庇い、評価していた。きっとギディオンにとって、自分が育てた若い将軍たちは我が子も同然だったのだろうと思う。


「……探しましょう、呪紋を。今ならまだ間に合うかも」


 そう思ったら胸が苦しくていたたまれず、カミラは後ろからギディオンの外套(マント)を引っ張った。すると振り向いたギディオンも、微かに口元を綻ばせる。


「ええ、そうですな。かつての教え子の不始末は、上官が責任を取ってやらねば」


 そう言ってギディオンは、皺だらけの武骨な手をぽんとカミラの頭に置いてくれた。本当につらいのは彼の方だろうに、そんな中でも自分を気遣ってくれる優しさに、きゅっと唇を噛み締める。


 ──ギディオンが生きててくれて、良かった。


 改めてそう伝えたかった。この戦いが終わったら、また彼の淹れる香茶が飲みたい。フィロメーナがまだ生きていた頃、カミラのロカンダでの一番の楽しみは、ギディオンが淹れてくれた香茶を味わうことだった。

 チッタ・エテルナの槍兵屋敷で、フィロメーナやイークやウォルドも一緒に卓を囲んで……そうして笑い合っていた日々が今、こんなにも遠い。

 だけどもう一度、取り戻してみせる。

 絶対に生き延びて皆で帰るのだ。救世軍の新しい(ホーム)、コルノ城に──


「あったぞ。呪紋だ」


 寝室の探索を初めてほどなく、ヴィルヘルムが新たな呪紋を見つけた。呪紋は部屋の隅に置かれた寝台の下、細かく煌めく星砂岩(せいさがん)の床に描かれていて、洗練された内装にそぐわぬ邪悪な気配を放っている。


「やった、五つめ……! 五個も壊せば、呪いも結構弱まるんじゃない?」

「だね。けどこれ、どうやって破壊する? オレかカミラの神術でパパーッとやっちゃってもいいけどさ、それこそ火事になるかもよ?」

「──ならば我が手を貸してやろう。(なんじ)らのここまでの健闘を讃えてな」

「……え?」


 そのとき突然、カイルの疑問に答えるように、知らない声が響き渡った。地を這うように低く、汚泥のごとく濁り切った──この世のものとは思えぬ濁声。

 瞬間、カミラは凍りついた。否、カミラだけじゃない、居合わせた全員の間に戦慄が走っている。だがあまりにも突然すぎて、身動きが取れなかった。誰もが硬直して顔を見合わせる中、唯一鋭敏に反応したのは、ヴィルヘルムだ。


「全員、退避しろ……!」


 ヴィルヘルムが叫ぶのと、カミラが彼に担ぎ上げられるのと、室内に旋風が巻き起こるのが同時だった。カミラを連れて逃げようとしたヴィルヘルムの行く手を阻むように、突如として生まれた闇が風の鎌となり、暴れ狂う。

 黒い風は室内にあるありとあらゆるものを斬り裂いた。玻璃の卓が割れ、寝台も真っ二つになり、果ては足元に広がる星砂岩の床さえも──


「ちょっ……!?」


 崩落の音色と共に、突如、浮遊感に包まれた。

 巨大な引力の手に全身を掴まれ、引きずり落とされるような感覚……。

 バラバラになった寝室がカミラたちを巻き込み、真下の階へ降り注いだ。


 その高さ、およそ一四〇(アレー)(七メートル)。



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