206.血路を開け
体中が痛くて、階段を一段登るのにも渾身の力が要った。
石の床に貼りつく右足をどうにかこうにか引き剥がし、上階を目指す。激しく息を吸う度に、肺が燃えているみたいだ、と思った。焼け爛れた気道が痛い。軽鎧の下の衣服は絶え間なく汗を吸い、まるで水に飛び込んだみたいになっている。
──戦場で剣を振るうことにも、もうすっかり慣れたつもりでいた。
けれど今回の戦は、これまで経験してきたどの戦とも比較にならない。敵兵に追われながら何刻も駆けずり回った大監獄潜入作戦もキツかったが、まさかあれより苦しい戦いがあるなんて思わなかった。
今になって、大監獄ではどれだけウォルドやヴィルヘルムに助けられていたのか身に沁みる。本当の戦場に放り出されてみたら、自分はまだまだひよっこだった。
現にもう、体力が底を尽きかけている。カミラの傍を決して離れず、向かってくる敵を撫で斬りにしているヴィルヘルムはまだ、余裕すら窺える横顔で剣の血を拭っているというのに。
「──代わるぜ、ヴィルヘルム。あんたとギディオンは一旦隊を休ませろ。損耗が洒落になってねえ」
「ああ。一度トリエステと合流し、体勢を立て直す。表層まであと半分だ。東階段を押さえないことには、本丸まで辿り着けない」
「分かってる。猿人と牛人が獅子奮迅の勢いでな。やつらについていけば何とかなるだろ」
「それは頼もしいが、あまり無茶をさせるな。この城、におうぞ。ハーマンが何か仕掛けてくるかもしれん」
「へえ、そりゃ楽しみだ。先に行って様子見してくるぜ」
本当にうっすら楽しそうにそう言って、隊を引き連れたウォルドが目の前を駆け上がっていった。彼らを見送ったカミラはへなへなと座り込み、壁に背を預けて大息をつく。戦闘開始から早六刻(六時間)。ヨドの森からここまで休まず戦い続けたヴィルヘルム隊の面々は、既に満身創痍だった。
城内へ突入後、何とか敵の海を掻き分け、仲間と合流できたから良かったものの。これがあと半刻(三十分)遅れていたら、隊は全滅していたかもしれない。
それくらい過酷な道のりだった。その証拠に、周りの兵士たちも次々倒れたり座り込んだりしている。ずっと戦い通しでピンピンしているのは、隊長のヴィルヘルムとギディオンくらいだ。
「て……ていうかさ……逆に、なんで……二人は、あんな、元気なわけ……? あれって、もはや……化け物の域だと、思うんですけど……」
「こ……今回ばかりは、さすがに同感……人間じゃないわ、あの二人……」
ぜえぜえと荒い息をつきながら、カミラは隣のカイルと肩を貸し合った。否、カミラの方が一段高いところにいるせいで、肩というよりは頭を借りる格好になったが、そうでもしないと倒れて階段を転げ落ちる自信が、カミラにはある。
オヴェスト城の第二層。現在カミラたちは、全四層からなる石積み部分の折り返し地点にいた。あと二階層上がれば本丸のある表層に出るというところだが、そこまでの道のりが思いのほか長い。何しろこの城の石積み部分は、城壁を兼ねた巨大な兵舎だ。外郭部分は常時二万の将兵を収容できる造りになっていて、カミラたちはいわば敵兵の住居の真ん中を強引に突っ切っている形だった。
当然ながら、階段をただ上り下りするだけでも相当の妨害が入る。
事前に味方が神術砲をぶっ放し、東側の兵舎を破壊してくれたとは言え、城内にはまだ千単位の敵兵がいた。
ヨドの森での戦闘は、埋伏していたギディオン隊の奇襲返しが決まったおかげで思ったより楽勝だったが、そこで「これならイケるかも」などとナメてかかったが運の尽き。黄皇国中央軍の底力は、カミラの想像を遥かに超えていた。
一兵卒の力量だけ比べてみても、地方軍とは練度が違う。ハーマンの領地は竜人が暮らす死の谷と隣接しているから、実戦の経験はさほどなくとも、身を守るために屈強な兵が育つのだろう。
「まあ、それを言ったらさ……オレらも、よく生き残ったよね、ぶっちゃけ……いや、なんかもう……目の前にきれーな川と、雪山が見えてるんだけどさ……」
「その川、渡らないでよ……霊鳥が迎えに来ちゃうから」
「トスネネ? カミラの郷では、神鳥のこと、そう呼ぶの?」
「トスネネは、ネスとはまた別よ。うちの郷で信仰されてる……聖なる鳥。あの世に渡るときは、トスネネが迎えに来て、太陽まで導いてくれるって言われてるの」
「太陽? 天界への通り道、《白き剣峰》、じゃなくて?」
「うん……死者の魂は、一度太陽で焼かれて、浄化される。そしたら暁の女神の歌に運ばれて、天樹に召されるんだって」
「へー。それはそれで、結構ロマンチックかも。オレ、カミラとなら、太陽に焼かれてもいーなー」
「私はまだ焼かれる気はないから、お一人でどーぞ」
軽口を叩き合いながら、どうにかこうにか呼吸を整える。くだらない話をしていると無性に生きている実感が湧いてきて、笑いながら視界が滲んだ。
だって幅一枝(五メートル)はあろうかという階段を挟んだ反対側には、折り重なるようにして倒れた兵士たち。彼らの装備は不揃いで、黄金竜の紋章が打たれた鎧を身につけている者もいれば、カミラと同じ軽装に近い格好で倒れている者もいる。唯一共通しているのは皆、もう呼吸をしていないということ。
果たしてここまで何人の味方が死に、何人の敵を殺したのだろう。この惨状を見ているとカイルの言うとおり、自分が生きていることが不思議でならなかった。
常に死が隣にある恐怖。生きている喜び。色んな感情がごちゃ混ぜになって、決潰しそうだ。戦いはまだ終わったわけじゃないというのに。
「──カミラ。怪我は?」
ほどなくギディオンと話し合っていたヴィルヘルムが戻ってきて、安否を尋ねられた。相変わらず疲労の〝ひ〟の字も感じさせない表情だが、何か違う……とぼんやり見つめれば、答えがないのを案じたのか、黒い片眉がひそめられる。
「どこか痛むのか?」
「……へ? あ、いや……私は平気。体中痛いけど、傷は全部浅手だから……」
「ならいいが。ジェロディたちが追いついてくるまで、俺たちはここで小休止する。隊を立て直したら出発だ。休めるうちに休んでおけ」
淡々と言いながら、ヴィルヘルムは煩わしそうに長い前髪を掻き上げた。いつもは左眼の眼帯を隠すように流れている黒髪が、今は完全に撫でつけられている。
そこでカミラはようやく違和感の正体に気がついた。何か違うと感じたのはヴィルヘルムの髪型だ。黒くて傍目には分かりにくいが、恐らく敵の血を浴びすぎて、毛髪が固まりつつあるのだろう。
「……さっき隊の損耗がどうとか、ウォルドが言ってた気がするけど。どれくらいひどいの?」
「正確な数字は今、調べさせているところだ。だが俺の隊で生き残ったのは、半分にも満たないだろうな」
「半分──」
「ギディオン殿の方は、ほとんど全滅に近い。元々兵数が少なかったから、数の上ではこちらとさほど変わらんが」
腰に吊られた水筒を手に取りながら、どこまでも淡々とヴィルヘルムは言った。けれどギディオン隊がほぼ全滅、ヴィルヘルム隊も半分以上の戦死者を出した──ということは、大雑把に見積もっても四百人は死んだということだ。
その想像を絶する数字を前に、カミラは慄然と肩を抱いた。四百人と言ったら、ルミジャフタで暮らす民の数とほとんど変わらないじゃないか。
つまり故郷の一族が皆殺しにされたのと同じ……。
そう考えると唇がわなないて、涙が溢れそうになった。けれど隊長格の人間がこれではいけない、と、すぐに誤魔化して目元を拭う。
「いや、けど、まあ、ほら……おかげでこうして形勢逆転したわけだし? 全部無駄じゃなかったっていうか、良くやったよね、オレたち」
「自分で言うな──と言いたいところだが、今回ばかりは褒めてやろう。正直、お前はいつ死んでもおかしくないと思っていたんだがな。戦闘経験がほとんどないと言うわりに、しぶとく生き残ったじゃないか」
「だってヴィルヘルムさんがオレのことは守ってくれないって言うからさー。だったら自分の身は自分で守らなきゃと思ってー」
「守らないとは言ってない。優先順位が低いだけだ」
「それが低すぎるって言ってんの! マジでオレが死んでたらどうするつもりだったわけ!?」
「別にどうもしないさ。死地へ飛び込むことになると分かっていて、のこのこついてきたのはお前の意思だ。ならば俺はその意思を尊重する」
「つまり死んでも自業自得ってこと?」
「お前が自分で選んだことだろう。俺は一度も強制した覚えはない」
半眼になって睨むカイルの視線を受け流し、ヴィルヘルムは水筒を呷った。
……確かに彼の言うとおりだ。カイルだけじゃない。今、この城で戦っている全員が自分で選んだ。己の命を投げ捨ててでも、黄皇国に革命の火をともすことを。
だから、たとえ戦場で命を落としても自己責任。自分で選んだ道の責任は、自分にしか背負えない。本当に命が惜しければ、誰も好んでこんなところへは来ないはずだ。ヴィルヘルムは長い傭兵生活で、そう割り切る術を身につけたのだろう。兵士の死にいちいち心を痛めていては、戦えないから。
(……私も、見習わなきゃ)
肩を抱いて座り込んだまま、カミラはそう言い聞かせる。自分もいつかは隊長となって一隊を任される身だ。だったら今のうちから慣れておかなければ。
戦場で心が惑い、正しい状況判断ができなくなれば、大勢の味方を危険に晒す。たかが仲間が死んだくらいで、動揺してはいけないのだ。まだ息をしている仲間を一人でも多く守るためには。
「……だけど、ヴィル。他にも何か気になること言ってなかった?」
「気になること?」
「うん。城がにおうとか何とか……」
「ああ……」
と曖昧に頷いて、ヴィルヘルムは階下へ目をやった。バタバタと騒がしい足音が聞こえたと思ったら、先に行ったウォルド隊に続いてケリー隊がやってくる。
カミラたちの姿を認めると、ケリーは足を止めて無事を喜んでくれた。そのケリーにも、ヴィルヘルムはまったく同じ忠告を投げかける──今回の戦は、ただでは終わらないかもしれない、と。
「これはあくまで俺の勘だが」
と、事情を知らないカイルが隣にいる手前、ヴィルヘルムはそう前置きした。
「この城、恐らく呪われている」
「の……呪われてる?」
「ああ。地下通路を出た瞬間から、ずっと嫌なにおいがしていてな。十中八九、呪紋が絡んでいると見て間違いないだろう」
「呪紋?」
「呪術における触媒のひとつだ。効力は込められた呪念によって変化するが、大抵は魔物を呼び寄せたり、周辺地域に疫病をばら撒いたり、間接的に作用する。早い話が呪術による罠だな。それがかなりの数、城内に仕掛けられている」
「と、トラップって……じゃあ私たち、敵が仕掛けた罠の中にまんまと飛び込んできたっていうの?」
「場合によってはそういうことになるな。すべての呪紋を見つけて破壊することができれば、効力はなくなるが──」
「──ヴィルヘルムさん!」
刹那、ヴィルヘルムの説明を遮って、再び階下から声がした。見下ろした階段の角から現れたのは、ジェロディだ。
こちらを振り仰ぐ彼の瞳と目が合って、カミラは思わずドキリとした。
……こんなときだというのに、どうして胸が高鳴るのだろう。
ジェロディと生きてまた会えたから?
たぶん、そうだ。それがただ仲間として嬉しいだけだ。同時に募る、リーダーが来てくれた、という安心感。たった半日別行動をしていただけなのに、カミラはもうずいぶん長い間、仲間のもとを離れていたような気がした。
「ギディオン殿、カミラ、カイルも……良かった、無事で。報告は全部聞いてます。想定以上に敵の抵抗が激しかったみたいで……」
「うむ。ヨドの森に三千、城内に二千……ハーマンめ、かなりの数の兵を城の守りに残しておった。いかにもやつらしい、手堅い戦と言えば聞こえは良いが」
「憑魔が指揮する戦にしては、手堅すぎる。これはどう見てもハーマンの戦術だ。ヨドの森の伏兵部隊に、やつの親衛隊が紛れていたのも気にかかる──お前の見立てはどうだ、トリエステ?」
そう尋ねたヴィルヘルムの視線の先には、ジェロディたちから一歩遅れて現れたトリエステがいた。その表情に色はない。いつものように無表情で、硬質で、されど彼女の瞳の奥には、見たこともないほど深刻な眼光が炯々と宿っている。
「申し訳ありません、ギディオン殿、ヴィルヘルム殿。どうやら私の見通しが甘かったようです。ハーマン将軍を乗っ取っているのは、恐らく憑魔ではない。事態は当初の想定より悪いかもしれません」
「敵が憑魔じゃない?」
「じゃあ、なんでこんなことになってんの?」
ここまで敵は憑魔だと思い込んでいただけに、カミラたちが受けた衝撃は大きかった。が、ヴィルヘルムやギディオンはさほど驚いた様子がない。さっき二人で話し合っていたのが、たぶんその件だったのだろう。
トリエステの話によれば、ムゲット平野での開戦前、コラードがハーマン本人と接触を試みた。そこでハーマンが魔物に取り憑かれていることを暴露しようとしたらしいのだが、ハーマンは彼とコラードしか知らないはずの情報を、確かに記憶していたという。
しかし憑魔は本来、取り憑いた相手の記憶や人格を知り得ない。ゆえにハーマンの暴走は憑魔の仕業ではない可能性が浮上した──ということらしかった。
ならばハーマンが豹変した原因は何なのだと尋ねれば、〝呪い〟という答えが返ってくる。それがさっきのヴィルヘルムの話と符合して、カミラたちは思わず顔を見合わせた。
「これはメイベルから聞き出した情報ですが。何でも魔族や魔人が操る呪術の中には、人間の魂を邪気で汚染し、魔物へ変えてしまうものがあるそうです。この術で呪われた者はゆっくりと正気を失い、やがては破壊と殺戮を好む狂人に堕ちるとか……そういった呪術について、ヴィルヘルム殿は何かご存知ですか?」
「ああ……恐らく『堕魂』のことだろう。確かにそういう呪いが存在するという話は聞いたことがある。だがハーマンが本当に堕魂にかかっているとしたら、状況はかなり厄介だぞ」
「と言いますと?」
「堕魂というのは数ある魔術の中でも、上位魔術と呼ばれるものでな。かなり強い魔力を持つ者でなければ、まともに使うことはできない。特にハーマンのような、肉体的にも精神的にも頑強な人間を支配するのは相当難しいはずだ。しかしコラードの話によれば、ハーマンは半年足らずで今の状態まで変異している」
「ってことは……」
「ああ。もしも変異の理由が堕魂なら、それだけ強い魔力を持つ者がハーマンの傍にいるということだ。俺たちがピヌイスで戦ったクルデールと同じか──あるいはあれ以上の力を持った魔族がな」
カミラはぞっと背筋が寒くなった。
クルデールよりもさらに強い魔物? そんなものが存在するというのか?
ピヌイスでクルデールと戦ったときでさえ、カミラは手も足も出なかった。剣術も神術も魔族の前では役に立たず、ただ翻弄されてヴィルヘルムに迷惑をかけただけだ。彼が傍にいてくれなかったら、自分はさっさと取り殺されていたに違いない。もしくは魔界に引きずり込まれ、人ならざるものに変えられていただろう。
あの晩のことを思い返すと、今も恐怖で震えが走った。憑魔が相手ならカミラもある程度戦える自信があったが、クルデール以上の魔族となれば話は別だ。
六刻も戦い続けてなおけろりとしているヴィルヘルムでさえ、ボロボロになるまで戦ってやっとクルデールを討ち取った。あれもたまたまクルデールが隙を見せてくれたからで、今度もあんな風に上手くいくとは限らない。
まともに戦えば、ここにいる誰かが命を落とす可能性だって……。考えれば考えるほど恐ろしくなり、カミラはぎゅうと自分の腕を握り締めた。魔眼を赤く光らせて嗤っていたクルデールの顔が脳裏に浮かび、自然と呼吸が浅くなる。
「い、いや、けどさ、いくら強い魔族がいるって言っても、こっちにはメイベルちゃんがいるわけだし? 聖刻の力の前じゃ、どんな魔族も形なしでしょ。そいつさえ倒しちゃえば、ハーマン将軍の呪いだって解けるかも……」
「呪いが解けるかどうかはハーマンの状態次第だ。いくら術者を倒しても、肝心のハーマンに自我が残っていなければ解呪は不可能。つまり最悪の場合、殺す以外にやつを止める方法はない」
「こ、殺すって──」
「問題は他にもある。城のあちこちに仕掛けられている呪紋だ。アレが強烈な邪気を放って魔術の結界を作っている。これではメイベルも聖術が使えない」
「へっ? そ、そうなの?」
「仮に使えたとしても威力は格段に落ちるだろう。城全体にそれだけ念入りな呪いがかけてある。敵もメイベルの力を恐れて対策を打ってきたということだろうな」
「……ご明察です、ヴィルヘルム殿。実は──」
トリエステがそう言って道を開ければ、瓦礫を被った階段を、ちょうどメイベルが登ってくるのが見えた。彼女の隣にはマリステアがぴったりと寄り添って、気遣わしげに肩を支えている。どうしたのかと目を凝らせば、うつむいたメイベルは顔面蒼白。まるで真冬の雪山に放り出されたみたいに、腕を抱いて震えていた。
唇まで紫色に変色して、今にも倒れてしまいそうだ。明らかに様子がおかしい。カミラはふらつきながらも立ち上がり、急いで二人の傍まで階段を駆け下りた。
「ちょ、ちょっとメイベル、大丈夫……!? 顔色が……」
「ご、ごめん、カミラ……あんまり、大丈夫じゃないかも……門を開けてもらえたところまでは、良かったんだけど……」
「お、お城の中に入られてから、メイベルさん、ずっと具合が悪そうなんです。わたしたちは何ともないのですが、退魔師であるメイベルさんには、真っ黒な邪気が見えておられるみたいで……」
言われてあたりを見回してみるも、あるのは半壊した城内の景色だけ。マリステアが言うような〝邪気〟は見えないし、感じない。
けれど聖刻を身に刻んで生まれたメイベルには見えるし、感じられるのだろう。もしかしたら彼女と同じものが、ヴィルヘルムにも見えているのかもしれない。
思わず振り向けば、ヴィルヘルムは頷く代わりにちらと死体の山へ目をやった。今はあのあたりから邪気が立ち上っているのだろうか。
「においはひどいし、変な声は聞こえるし……この城、マジでやばいよ……前に来たときは、こんな風じゃなかったのに……」
「それって全部、ヴィルが言ってた呪紋ってやつのせいなのよね。だったら──」
「ああ。呪紋を破壊し、呪いの効力を削ぐことができれば状況はいくらかマシになる。だがオヴェスト城は広大だ。探索にはかなりの時間を要するだろう」
「呪紋の場所って割り出せないの? たとえば邪気を辿っていくとか」
「邪気を辿るのは不可能だが……まあ、ある程度接近すれば、だいたいの方向くらいは分かるかもな。俺かメイベルなら」
「だけど先に行った味方も心配だよ。そんなに強い魔族がいるなら、僕たちも急いで追いつかないと」
「どうする、軍師殿?」
ジェロディと共に兵を率いてやってきたオーウェンが、トリエステに指示を仰いだ。広い階段の真ん中で、問われたトリエステはしばし黙考する。
皆の間に沈黙が流れた。上階からは敵味方の上げる喊声や神術の炸裂する音が聞こえてくる。ズシンと軽い衝撃があって、壁から砂埃が零れ落ちた。カミラたちがこうしている間にも、戦いは続いている。
「……分かりました。ヴィルヘルム殿、ギディオン殿。あなた方はこのまま、呪紋の探索と破壊に動いて下さい。お二方の隊は、ここまでの戦闘でかなり消耗しています。再び前線に復帰するのは厳しいでしょう」
「確かにな。ならば我らは裏方へ回るとしよう」
「お願いします。ジェロディ殿、我々は引き続き本丸を目指して前進し、先行した味方の援護を。ヴィルヘルム隊とギディオン隊が呪紋を無効化するまでの、時間稼ぎが必要です。メイベルを守りつつ敵の目を引きつけましょう」
「分かった。だけどもし呪紋を解除する前に魔族と遭遇したら……?」
「そうなった場合は撤退を優先します。無策のまま未知の敵と戦うわけにはいきませんから。それにもし魔族が我々を深追いしてくれば、城外へ誘い出すことができるかもしれません。結界の外なら、メイベルの力もいくらか回復するでしょう」
「なるほど。確かにそうだな」
トリエステの素早い判断のおかげで、方針は決まった。ジェロディたちは上階へ。カミラはヴィルヘルムやギディオンと共に呪紋を探し出す。
仲間とはまた別行動。心細くないと言えば嘘だった。
しかし状況を打開するためには、誰かがやらなければならない任務だ。カミラは一抹の未練を断ち切って、「あとでね」とメイベルに声をかけた。必ず呪紋を見つけ出し、血路を開く、と決意しながら。
「時間がないわ。行きましょう」
踵を返したカミラの催促に、ヴィルヘルムたちが頷いた。二人の隊長の号令で、休息していた兵士があちこちから集まってくる。
「カミラ」
ところが自分も合流しようとしたところで、追い抜きざま、ジェロディに声をかけられた。
「手を貸して」
「え?」
どうして、と尋ねる暇もなかった。きょとんとして振り向いた途端に、ジェロディの右手がカミラの右手を掴まえる。これにはさすがにぎょっとした。面食らって固まっていると、ジェロディの手套の隙間から仄青い光が漏れる。
《命神刻》。
それに気づいた直後、結ばれた手を伝ってカミラの中に炎が流れ込んできた。
そうとしか形容できないこの力は──まさか、神気?
カミラの右手に宿る火刻が熱を帯び、疲弊しきった体に生命力を送り込む。全身を駆け巡った炎はカミラの心臓にも火をつけて、みるみる体が軽くなった。ここまでの戦闘でほとんど使い果たした神力が戻ってくる。奇跡と呼ぶべきその現象に驚き、目を見張っていると、笑ったジェロディの手が離れた。
「気をつけて」
カミラの心臓は、まだ燃えている。ジェロディに握られていた右手が熱い。
「ティノくんも」
彼のためなら、命だって惜しくない。
さっきまでの恐怖が嘘みたいに、そう思った。
それはジェロディが神子だからじゃない。総帥だからじゃない。ヴィンツェンツィオ家の跡継ぎだからじゃない。ただ、彼のことが──
「行くぞ、カミラ」
ヴィルヘルムの呼び声で我に返った。はっとして振り向けばいつの間にか、隊の集結が完了している。だからカミラも慌てて階段を登り、出発した。
胸の中で開き駆けた小箱に、蓋をして。




