205.オヴェスト城攻略戦
ムゲット平野のあちこちで、爆音が上がっていた。放たれる度にヒュルルルルルル……と音を立てる炎弾が、次々と城へ撃ち込まれている。着弾すれば石積みは粉々に砕け散り、付近の守兵を巻き込んだ。接近する火の玉に気づいて逃げ出そうとしていた者たちが、次の瞬間には瓦礫と共に飛沫となって吹き飛んでいく。
「──覚えておられた……」
砲音と爆音と阿鼻叫喚が織り成す狂騒曲。そこに雷鳴が入り混じり、混沌極まる戦場の片隅で、馬を下りたコラードが力なく座り込んでいた。
オヴェスト城の麓から自陣へ戻ったジェロディは、深刻な顔をして兜を外す。動揺しているのは共に城へ向かったマリステアやメイベルも同じだ。二人はあんなに嫌がっていた鎧を脱ぐのも忘れて、同じく地べたにへたり込んでいる。
「……つまりハーマン将軍は、あなたと将軍以外誰も知り得ないはずの情報を記憶していたということですか。これは厄介ですね」
と、辛うじて砲撃の音に掻き消されぬ程度の声量で零したのは、報告を聞いたトリエステだった。彼女は青灰色の瞳を疑念と逡巡で曇らせながら、神術砲の砲弾を浴びるオヴェスト城を見据えている。
──今日が何の日か覚えていらっしゃいますか。
あの壁の袂で、コラードはハーマンにそう尋ねた。恐らくメイベルから憑魔の憑依を見抜く術を教わり、衆目の面前でその正体を暴き立てようとしたのだろう。
ところが結果として返ってきたのは、ハーマンとコラード以外に知る者などいないはずの正答だった。アレが憑魔であるのなら、二人が出会った十年前の日付など覚えているわけがない。
ということはハーマンには最初から、魔物なんて憑いていなかったとでもいうのだろうか? 彼は彼のまま正気を失い、今回の暴走に至ったとでも?
「いや、だがよ、将軍に魔物が憑いてるのは確かだろ? ジェロディ様だって瘴気を感じたって言うんだ、間違いない。だったらあいつがコラードの質問に答えられたのは、ほら……要するにアレだ、たまたま誰かから話を聞いたとか、将軍が日記をつけてたとか。とにかく何かタネがあるんだよ。五黄将の中でも特に几帳面なハーマン将軍なら、日記くらいつけててもおかしくないしな」
「……確かに、オーウェン殿のおっしゃることにも一理あります。ですが先程ハーマン将軍は、神術を行使していたように見えました。己の身を灼く劇毒同然の神の力を、魔物が使役できるとは思えない──メイベル、この状況について考えられる可能性は?」
駆け出しとは言え、若くして退魔師を志したメイベルは人よりずっと魔物に詳しい。ゆえにトリエステがそう諮問すれば、メイベルはじっと考え込んだのち、大地に目を落として口ごもった。
「あ……あんまり考えたくない可能性なら、一つあるけど……」
「構いません。教えて下さい」
「……マドレーン先生が見せてくれた、識神図書館の禁書の中に……呪いの本、があった。魔界と契った魔人や魔女が使う、呪術の教科書。色んな呪いの効果とか、儀式に必要な生贄とかが書かれてる危ない本で……」
「そっ……そんな恐ろしい本が存在するのですか……!?」
「うん……何百年も前から厳しく取り締まられてるのに、何故かなくならない『呪術教本』。そこに書かれた呪術の中に……人を魔物にする呪い、があった。憑魔みたいに宿主の魂を閉じ込めて体を乗っ取るんじゃなくて……魂そのものを汚染させて、支配する呪い。この呪いにかかった人は、魂を穢れに侵蝕されて……最終的には人としての理性を失う。そうなったら最後、あとは破壊と殺戮に快楽を覚える、魔物同然の狂人になる、って……」
メイベルは体を竦めてひと言ひと言、捩じ切るようにそう告げた。そうして泣き出しそうに見やった先には、座り込んだまま放心したコラードがいる。生ぬるく湿っぽい風が、うなじで結われた彼の黒髪をざわりと撫でた。曇天に稲光が走る。
「人を、魔物にする呪い……? ならば、ハーマン将軍は──」
激しい雷鳴と共に、戦慄が走った。ハーマン・ロッソジリオはもう人ではない。人の姿をした魔物だ……ということか?
いや、もちろんまだそうと決まったわけではない。本当に偶然、憑魔が正確な情報を手に入れていただけという可能性もある。しかしそう考えた場合、オーウェンが憑魔に憑かれたときには感じなかった、あのおぞましいまでの魔の気配は……。
「……メイベル。その呪術にかかった人も、最後は魔物と同じ気配をまとうようになるのかい? 呪術による魂の汚染と、憑魔の憑依を見分ける方法は?」
「呪いに魂を支配されるってことは、魂が邪気の塊になるってことだから……当然、呪われた人の気配は魔物にかなり近くなる。でも、厳密にはにおいが違うって……マルキエル・カークみたいな熟練の退魔師なら、それを嗅ぎ分けられるみたい。けど、あたしはまだなりたてだから……」
退魔師としての経験が浅い自分では、魔物と呪物の気配の差は分からない。メイベルはそう言いたいのだろう。この段になって、ヴィルヘルムを別働隊に割いたのが仇となった。『百魔殺し』の異名を持つ彼は、その名に違わず魔物や魔族に関する知識を豊富に持っている。彼が今ここにいたならば、メイベルが知っている以上の情報を聞き出せたかもしれないのに。
「で、ですが、たとえ魂が支配されてしまったとしても、呪いを解く方法はありますよね……? 以前ヴィルヘルムさまが使われていた聖水や、聖刻の力を使えば……!」
「う……うん……呪いを解くには、被術者にある程度自我が残ってないと無理だけど……一応、できないことはない。聖水があれば穢れを浄化できるかもしれないし……聖刻にも、解呪の術はあるから。でも……」
と、そこまで言って、メイベルは急にうなだれた。
黙り込んだ彼女は青希石の杖をぎゅうと抱き締め、唇を固く結んでいる。まるで世界の悪意に怯え、自分を守ろうとするかのように。
一体どうしたというのだろう。彼女の異変を察したジェロディは改めて声をかけようとした。が、直後、
「──伝令! ヴィルヘルム隊、ギディオン隊、ヨドの森にて敵伏兵部隊を撃破! 現在地下通路へ侵入し、オヴェスト城へ向けて進軍中!」
はっとした。鼓膜に突き刺さる捷報に顔を上げれば、陣の後方から駆け込んできた騎馬の上で、若い兵士が戦況を叫んでいる。ヴィルヘルム隊とギディオン隊が進軍中。つまり敵を押し切ったということか。やってくれた。たった六百の手勢で。話し込むあまり忘れていたが、戦況は確実に動き出している。
「伝令、大儀です。ヴィルヘルム隊とギディオン隊、それぞれの部隊の損耗は?」
「はっ。ヴィルヘルム隊は死亡五十一、重傷四十。ギディオン隊は死亡三十八、重傷四十三であります。軽傷の者は隊長三名と共に作戦を続行中です」
「死傷者百七十二……想定よりやや多いですね。敵軍の規模は?」
「森での戦闘でしたので視界が悪く、正確な数は分かりませんが、少なくとも三千はいたと思われます。後方に重装歩兵が控えていて、防御を破るのに時間を取られました」
「重装歩兵……ということは、ハーマン将軍の親衛隊が? 将軍を城に残して、親衛隊が隠し通路の防衛に出るとは……あの重装備部隊をよく突破できましたね」
「ええ。それが、どうも敵軍の動きがおかしく……カミラ副隊長が前線に出たところ、敵方の攻勢が緩み、何とか隙を衝くことができました。どうも敵軍は副隊長を殺すのではなく、捕縛したがっているようです」
事情を知らない伝令が怪訝そうに首を傾げて言い、ジェロディは思わず皆と顔を見合わせた。カミラを生きたまま捕縛すること。敵の狙いはやはりそこにある。
嫌な予感がした。ハーマンの件と言い、カミラの件と言い、この戦場で今、何か良からぬことが起ころうとしている。
事態は一見作戦どおり進んでいるのに、違和感が拭いきれない。何か大切な釦を掛け違えたまま、無理矢理前へ進んでしまっているような……。
「軍師殿! 城の西門が開いた! 敵が来るぞ!」
しかし戦況は疑慮を許さなかった。さらに詳しく別働隊の状況を聞く前に、前線へ出ていたケリーが馬を駆って戻ってくる。
振り向けばオヴェスト城の向こう側に、人馬が立てる砂塵が見えた。ここまでは救世軍が一方的に、神術砲で城の東側を崩していただけだ。いよいよ本格的に野戦が始まる。余計なことに思考を割いてはいられない。
「トリエ」
「ええ。砲撃部隊、一班、二班は南方へ、四班、五班は北方へ砲門を旋回。三班はそのまま敵城東門を牽制。水術兵はただちに砲身の冷却を。ケリー隊は南、オーウェン隊は北から来る敵部隊を迎撃する構えを取って下さい。ウォルド隊は本陣後方へ回って遊撃の素振りを。ジェロディ殿、すぐに衣服を整えてリチャード殿と行動を共にして下さい。コラード殿には後詰めの役割をお願いしたいのですが」
「ああ……引き受けた」
ふらふらと立ち上がりながらそう言って、コラードは馬に跨がり、速歩で立ち去っていった。メイベルも慌てて追いかけようとしたようだが、鎧が重くてべしゃっと転び、マリステアに手伝われながら鉄甲を脱いで走り去っていく。
……果たしてコラードは大丈夫だろうか。叶うことなら、今は彼から目を離したくなかった。トリエステの要請にちゃんと答えたように見えたのは、あくまで軍人としての本能だろう。
長年の士官生活で染みついた動作を勝手に体がこなしただけで、本人の心はここにはない。その証拠に去りゆく馬の背で彼は、終始茫然と遠くを見たままだった。
「トリエ。コラードさん一人に降兵隊を任せて大丈夫かい? 今の彼には軍隊の指揮なんて……」
「ご安心を。彼の目付け役はウォルドに頼んであります。いざとなれば遊撃隊を率いて、降兵隊の援護に回ってもらう予定です。──リチャード殿」
「うむ。ジェロディ殿の御身は必ずや私がお守り致す。ご案じなさいますな、トリエステ殿」
分厚い胸筋を鉄製の胸当てで覆ったリチャードは、ドン、と拳で鉄甲を叩いてみせた。心強い言葉をかけられたトリエステは微笑んで、前線へ移動していく。
オヴェスト城の西からは、北と南に分かれて攻めてくる第五軍。救世軍は南北どちらの敵勢にも対処できるよう前衛が左右を向き、すぐ後ろにジェロディのいる本陣、後方右翼に遊撃隊、そして後陣に元官兵からなる降兵隊という陣容に変形していた。とは言えこちらは四千、あちらは一万。いくら陣立ては立派でも、やはり兵力に差がありすぎる。まともに戦えばあっという間に右翼と左翼が飲み込まれ、中衛の位置にいるジェロディは挟み撃ちを受けるだろう──だったら。
「まともに戦うのは、城内へ踏み込んでからに致しましょう。それまでは味方の体力を温存し、城内戦に備えます」
と、軍議の席でトリエステは言った。寡兵で大敵を破る手は他にない。可能な限り体力を温存し、敵兵だけを消耗させ、ここぞというときに溜め込んだ力を爆発させる……。
「ティノさま」
どんどん近づいてくる敵の鯨波に怯えて、マリステアが馬を寄せてきた。確かに雲霞のごとく大地を埋め尽くし攻め寄せる敵軍の迫力はすごい。ジェロディでさえこんな大きな戦は生まれて初めてで、戦場の光景に圧倒される思いがする。
味方の先鋒と敵軍が衝突するまで、あと二幹(一キロ)。救世軍は巌のごとく動かずに敵兵を待ち受ける。
刹那、ジェロディは作戦の成功を祈り、マリステアの手を取った。
「大丈夫」
果たしてその祈りを天が聞き届けたのか、どうか。
「今です」
大地が割れるような音がした。ジェロディが今まで生きてきて、聞いたこともないような轟音だった。近づきつつある雷鳴とも、神術砲の砲音とも違う。それは何百、何千という敵兵が行く手に掘られた陥穽へ、真っ逆さまに落ちる音だ。
「うわあっ……!?」
敵軍の悲鳴が弾けた。陣列を組み、先頭を駆けていた敵兵が一斉に地面へ吸い込まれていく。落下の瞬間、きっと彼らは唐突に大地が消え失せたような浮遊感を覚えたことだろう。前を走る味方がいきなり地面に喰われ、仰天した後ろの兵が急制動した。しかし前方の様子が見えない後続は急には止まれず、前の味方にぶつかって見事なまでの牌倒し状態になる。
「かかった」
ジェロディが身を乗り出して呟くと同時に、神術砲が火を噴いた。真っ赤な火炎が大渋滞を起こした敵軍の頭上を照らし、音を立てて降り注ぐ。青々とした草原にくるまれていたはずの大地は、あっという間に死体と肉片の海と化した。砲撃が着弾した場所には大穴が開き、周囲の敵も跡形もなく消し飛んでいく。
「よ、良かった! 間に合った……!」
そのときジェロディが跨がる馬の足元から声がして、地面がボコッと盛り上がった。かと思えばそこから地鼠人のポレが顔を出し、悲鳴と怒声に包まれる戦場を見やってほっとしている。
「ありがとう、ポレ。君たちのおかげで形勢逆転だ」
「ピュイッ! た、大変だったよー、あんな大きな穴掘るの! い、いや、穴っていうか、ただのでっかい溝だけど……かなり距離があったから、土の中にいる間、間に合うかな、間に合うかなってずっと心配だった……! うまくいって良かったぁ……っ!」
そう言ってポレが真っ黒な瞳を潤ませる間にも、あちこちの土がボコッ、ボコッと盛り上がった。かと思えば次々と地鼠人が飛び出してきて、作戦が成功したのを確かめるなり、跳び上がったり抱き合ったりしている。
実を言うと現在、救世軍の陣の前方には、巨大な半円状の塹壕があった。
塹壕と言っても地面の下に掘られたもので、早い話が溝状の落とし穴だ。
救世軍はムゲット平野に布陣する前、あらかじめ陣を布く場所を正確に定め、その前方に地鼠人たちの目印となる神刻石を埋めておいた。夜間に斥候のふりをして兵を放ち、事前に工作をしておいたのだ。そして今日、救世軍が布陣を始めると同時にポレたちは地中へ潜り、神刻石のにおいを頼りに美しい半円状の穴を掘った。現在大勢の敵兵が嵌まってもがいているアレがそうだ。
が、文字どおり陥穽に嵌まった敵兵は混乱のあまり、何が起きたのかまったく理解していない様子。ついには穴に落ちた味方の救出よりも前進を優先し──というより、前進か後退を即座に選ばない限り、彼らは神術砲の的にされ続ける──足元でもがく味方を踏み台にして向かってきた。このとき仲間に踏まれて圧死した敵兵の数は千を下らない。
怒り狂った敵兵が武器を振り上げ、喊声と共に突撃してきた。神術砲の弱点は、一度定めた照準を瞬時に変えるのが難しいことだ。特に手前に向かって攻めてくる敵に対しては、射角を下げて狙いを定めなければならない。
照準の再設定に必要な時間はほんの数瞬。されど戦場では数瞬の隙が命取りだ。作業中はどうしても砲撃が止まってしまうし、ある程度連射したあとは砲身を冷却しなければならない。そうしないと神術砲は熱で自壊してしまう、とはカルロッタの忠告だ。だから神術砲は入れ替わり立ち替わり、複数の砲を交互に撃つのが基本らしいのだが、たった五基の砲門ではその戦法にも限界があった。ならば、
「放て」
トリエステが次なる号令を下すのと、殺到してきた敵軍が第二の陥穽に落ちるのが同時だった。彼我の距離はおよそ二十枝(百メートル)。この距離ならば、さすがに弓矢の射程内だ。
本物の雨に先駆けて、ムゲット平野に矢の雨が降った。閃く鏃が穴に落ちた敵兵の眼窩を穿ち、足に突き立ち、首筋を裂いていく。瑞々しい夏の草花があっという間に赤に染まった。第二の罠のおかげで敵軍の気勢は完全に削がれている。
「ホワワワワワワワワワ……!!」
オーウェンのいる右翼から、腹に響く戦鼓の音がした。いや、あれは猿人たちが己の胸を叩き、味方を奮い立たせる音だ。
さらにケリー隊が待機する左翼からは、牛人たちの勇ましい雄叫び。二つの種族が揃って走り出し、落とし穴の前で後込みする敵兵を薙ぎ倒していく。
「続け! 獣人たちに後れを取るな……!」
満を辞して、ケリー隊とオーウェン隊がそれに続いた。こちらの術中に嵌まり、混乱する敵兵を鬨の声が呑み込んでいく。
戦線は押し戻され、救世軍が前進を始めた。右翼と左翼が突き進むのに合わせてジェロディたちも駒を進める。ケリーとオーウェンが討ち漏らした残党を丁寧に刈り取り、未だ敵兵がひしめく陥穽には地術兵の力で土を被せて。
「い、嫌だ、死にたくない! 助けてくれ……!」
と泣き喚いた敵兵の顔が、土に押し潰されるのをジェロディは見た。戦意阻喪し、降伏を願う兵まで殺すのは本意ではない。しかし今、彼らを一人一人穴から引き上げ、赦しを与えている時間はない……。
(ああ、これが)
分かっていた。分かっていたけれど。
(これが、戦場か)
鳴り響く雷鳴。入り乱れる敵味方の喊声と、閃く剣光。
そして地上を覆い尽くさんばかりの死影、死影、死影。
ジェロディの視界は今、真っ黒だった。誰にも見えないはずの死神の吐息が、ジェロディにはよく見える。あっちにもこっちにも、あるのは死。
死、死、死、死、死、死、死。
(……終わらせなくちゃいけない。僕たちが)
この革命を、トラモント黄皇国最後の悲劇にするのだ。
ジェロディは真っ黒な死の霧へ向かう恐怖をこらえながら馬を進めた。
死影のすぐ傍を通りすぎるとき、ジェロディの肌には粟が立つ。耐え難いまでの怖気と嫌悪、そして憎しみに似た感情に目の前を覆ってしまいたくなる。
(それでも、僕らは)
今更逃げ出すわけにはいかないのだ。
どんな犠牲を払うおと、前へ前へ進み続けなければならない。
救いを求める人々のため、自らの良心に懸けて。
◯ ● ◯
開戦からおよそ三刻後。
鉛のように重く垂れ込めた暗雲から、ぽつぽつと雨が降り出した。
死屍累々の原野を、雨の神タリアの涙が濡らす。血で汚れた大地はゆっくりと洗われ始めたが、人間たちの争いは続き、天はなおも怒り狂っていた。
次第に雨脚が強まる中、ついに東門の跳ね橋が下ろされる。重厚な音を立てて濠に横たわった橋の上を、血に酔った兵士たちが狂喜を引き連れて馳せてゆき、戦場はオヴェスト城内へ移った。
(……嫌な予感がする)
と、最後まで跳ね橋の手前に留まり続けたトリエステは、死体が散乱するムゲット平野を顧みる。胸に閊えて下りようとしない、この焦燥感は何だろう。
見えない何かに追い立てられているようで……重要な何かをすっぽりと見落としているようで。形のない不安に胸がざわつき、落ち着かない。
本当に橋を渡ってしまって構わないのだろうか。戦いを終わらせるためにはそうするしかないと分かっていながら、本能という名の見えざる手が後ろ髪を引いていた。かと言っていつまでも躊躇している暇はない。仲間の大半は既に城濠を跨ぎ、砲撃を受けてひどい有り様となっているオヴェスト城内へ突入しているのだから。
半壊した石積みの向こうでは、結った赤髪を翻したカミラが激しく敵と斬り結んでいる。目の前でトリエステを待つ橋は、彼女らが多大な犠牲を払いながら命懸けで下ろしてくれた橋だ。
ならば渡らないわけにはいかないだろう。
考えすぎだ。何もかも上手くいきすぎている、なんて。
呼び止める本能の声を振り切り、ついに一歩踏み出した。瓦礫が折り重なった門の前ではジェロディが待っていて、まっすぐに手を差し伸べてくる。
彼の手を取り、跳ね橋を渡り切った。
自分を導くジェロディの腕は思いのほか力強くて、ほんの少し不安がまぎれる。
「行こう、トリエ」
促す声に頷き、歩き出した。
リチャード隊に城門の見張りと防衛を任せ、崩れた建物を登っていく。
そうしてトリエステの姿が消えた、刹那。
置き去りにされた平原で、陥穽が被った土の下から──突然ぬっと、人間の手が生えた。




