204.そして死ね
高さ一枝(五メートル)ほどの低い丘を越えたら、懐かしい景色が目に飛び込んできた。刹那、ぎゅうと胸を掴んだのは強大な敵を前にした緊張か。はたまた幼き日を過ごした城への郷愁か。
トラモント黄皇国南部随一の堅城──オヴェスト城。
八年ぶりに見上げる城の威容は、あの頃よりもひと回り大きく感じた。最後にこの城を見上げたときに比べれば、自分もずいぶん成長したはずなのに、これほど圧倒されるのは何故だろう。まるで城そのものが生きていて、全身から覇気を垂れ流しているかのような。それが黄皇国第五軍──『鉄』のハーマン・ロッソジリオが治めるオヴェスト城という城だ。
「いよいよ、か……」
事前に打ち合わせていたとおりに救世軍の布陣が始まる。見渡す限り何もない草原に、前進した味方が次々と柵を打ち、逆茂木を並べた。
城の東、およそ四幹(二キロ)の距離である。弓兵たちが身を屈めて待機する最前列の柵まで近づくと、城壁の上にずらりと並ぶ敵兵の姿が見て取れた。
「砲撃部隊、前へ」
布陣が完成するのを見届けて、トリエステが素早く指示を出す。人が動き回る音以外鳥の声もしない平原に、ガラガラと車輪の回る音が響き始めた。
カルロッタが貸し与えてくれたという五基の神術砲が、二枝(十メートル)ほどの間隔を開けて横一列に並ぶ。砲身に独特の文様がないところを見ると、あれはアビエス連合国産の神術砲だ。大監獄から戻り、初めて砲を見たアーサーも、「おお、我が国の兵器をこのようなところで見られるとは……」と驚いていた。
「城兵が動揺していますね」
と、同じく最前線に馬を寄せて敵城を見やったトリエステが呟く。高さ三枝(十五メートル)の石積み兼城壁の上では、敵兵が神術砲の砲口を向けられ、怯えているのが見て取れた。恐らくアシュタ川の戦いで敗走したジョサイア軍が帰投し、今また城の防衛に立っているのだろう。彼らは先の戦闘で神術砲の威力を嫌というほど見せつけられているから、早くも腰が引けている。
「この距離から神術砲の砲撃は届く?」
「はい。角人族による改良のおかげで、元は三幹(一・五キロ)程度だった射程が六幹(三キロ)程度まで伸びました。射角を上げれば、最上階にある本丸も狙えるかもしれません」
「正黄戦争中、僕らが過ごした城だ。できれば破壊したくはないけれど……それも敵の出方次第だね」
十年前の記憶がまざまざと甦るのを感じながら、ジェロディは石積みの上に鎮座する美しい尖塔を仰ぎ見た。ソルレカランテ城と同じ尖塔様式の本丸は、白亜の壁に青磁の瓦屋根を戴いている。武骨でありながらも洗練された外観。あれはかつて小さな王国の王城だったのだと言われても納得できる風貌だった。実際、正黄戦争が終息するまでの二年間、オルランドはあの城で起居していたわけだし。
ただ今は時折鳴り響く遠雷と、西から流れてくる雨雲のおかげで、オヴェスト城はどこかおどろおどろしい様相をも呈していた。何故かよく当たる獣人たちの天気予報によれば、三刻後には雨が降り出すはずだという。
「向こうも我々の陣立てを邪魔してこなかったところを見ると、しばし様子を見るつもりのようです。ジョサイア軍がもたらした神術砲の情報が、思った以上に効いているようですね」
「あるいはヨドの森の戦況が分かるまで動かないつもりなのかも。カミラたちは上手くやるかな」
「早ければ既に戦闘が始まっている頃でしょう。ギディオン殿とヴィルヘルム殿なら乗り切って下さると思いますが」
「でも、ヴィルヘルムさんは珍しく怒ってたみたいだよ。あの人がいつもカミラのことを気にかけてるのは君だって知ってるだろ? だったら軍議でもう少し穏便な言い方をすれば良かったのに」
「どんな言い方に変えようと、私がカミラを盾に使う決断をしたことは変わりませんから。そうやって敵にも味方にも嫌われるのが、軍師という仕事です」
ジェロディが横顔を盗み見れば、トリエステは鞍上で背筋を伸ばし、まっすぐにオヴェスト城を見据えていた。コルノ島を出る前、二人で話し合ったときにも感じたが、トリエステは軍師という役割についてあまりにも達観しすぎている。救世軍を勝利へ導くことができるなら、それ以外何も要らないと悟りきっているような。そんな彼女を放っておけなくて、ジェロディも遠いオヴェスト城を顧みる。
「なら、軍師を守るのは軍主の仕事だ」
隣から驚きの気配が伝わってきた。けれどトリエステが口を開くよりも早く、背後から呼び声がかかる。
振り向くと、真後ろにコラードがいた。数日ぶりに見る彼の姿に、ジェロディはいささか面食らった。何故なら歩み寄ってきたコラードの双眸は凄みを帯びて、監獄暮らしの間に痩けた頬が、その表情に凶暴さを添えていたから。
「ジェロディ殿。私に馬を一頭と、弓矢を一式お貸し下さい。強弓であればあるほど助かります。戦いを始める前に、一度だけ……ハーマン将軍とお話させていただきたいのです」
「まさか、城へ行くつもりですか?」
「はい。と言っても、城壁の下から呼びかけるだけです。作戦の内容はメイベルから聞きました。開戦の前に、時間稼ぎが必要でしょう?」
コラードの口調はあくまで淡々としていたが、少ない抑揚の裏にジェロディは彼の狂気を感じた。出会った当初より落ち窪んだ翠眼には鋭い眼光が炯々と宿り、軍人というよりは殺人者めいた顔になっている──彼の中に眠るシャムシール人の血が、そうさせるのだろうか。
「ちょ、ちょっと待ってってば、コラード……!」
と、そこへさらなる呼び声が聞こえて、息せき切らせたメイベルが駆けてくるのが見えた。どうやら彼女はコラードを呼び止めようとして、置いていかれてしまったらしい。
「ね、ねえ! やっぱりたった一人で行くなんて無茶だよ……! 矢とか神術とか、もし飛んできたらどうするわけ!? 危ないったら!」
「一人? コラードさん、一人で行くつもりなんですか?」
「ええ。何か問題が?」
「問題というか……」
「私の我が儘に他人を巻き込みたくないだけです。無駄死にするつもりはありませんので、ご安心を」
コラードは吐き捨てるようにそう言った。が、馬上のジェロディと目を合わせようとしないところを見ると、捨て鉢になっているのではないかと不安になる。
トリエステと同じだ。目的のためなら自分はどうなっても構わないという態度。そんな彼を為す術もなく見つめて、メイベルが涙を溜めている。
(……確かにコラードさんに〝死影〟はついてない。つまり彼が死ぬ心配はないってことだ。でも……)
今のコラードは、グロッタ村に立ち寄る以前の彼とは別人だ。白刃の上を歩いているような危うさをまとい、放っておけば何をしでかすか分からない。
だのにこのまま手を拱いて見送るわけにはいかないだろう。ジェロディは腹を決めて嘆息すると、すぐ傍に控えるマリステアを顧みた。
「マリー。ついてきてくれるかい」
「は、はい……!? ええと、どちらに……?」
「コラードさんと一緒に城へ向かう。誰かが負傷したときのために、君も一緒に来てほしい。それからメイベル、君も」
「あ、あたしも……!?」
「距離を取れば矢は避けられるけど、神術の方はそうもいかない。いざというときのために君がいてくれれば心強いよ。《命神刻》の力は物理的な側面が強すぎて、神術の相殺には向かないから」
「ジェロディ殿、私は」
「どうしても一人で行きたいというのがあなたの我が儘なら、これは僕の我が儘です、コラードさん。優秀な馬と弓を貸す対価として、ここは僕に譲って下さい」
ジェロディがそう言い含めれば、コラードは反論の余地を失ってうつむいた。数日前まで監獄にいた彼は現在身一つだ。
腰に帯びている剣はアシュタ川の戦いで救世軍が鹵獲したものだし、紺地に深紅の切り替えが鮮やかな軍装も同じ。さらに馬や弓も恵んで欲しいと言いながら、聞き分けなく我執を重ねるほどには彼もまだ落ちぶれてはいないということだろう。
「ジェロディ殿」
「大丈夫だよ、トリエ。ちょっと一緒に城壁の下まで行って、話をしてくるだけさ。僕も今のハーマン将軍がどんな状態なのか、自分の目で確かめておきたいし」
「でしたら他にも数名、護衛をお連れ下さい。それから、黄皇国軍の鎧兜を一式お渡しします。ジェロディ殿、マリステア殿、そしてメイベルはそちらを着用して、コラード殿の後ろに続くように」
「つまり、官兵のふりをしてついていけってこと?」
「はい。神子と退魔師が懐へ飛び込んできたと知ったなら、魔物がどんな行動を取るか読めません。加えてマリステア殿がジェロディ殿の付き人であることは、先方にも知られている可能性がありますし」
「分かったよ。じゃあ、護衛の人選は君に任せる。コラードさんに貸す馬と弓も用意しておいて」
もっと強硬に止められるかと思ったが、今日のトリエステは物分かりが良かった。恐らくコラードが言っていたとおり、開戦までにいくばくかの時間を稼ぐ必要があるためだろう。ジェロディたちが黄皇国軍の鎧をまとい、兜で顔を隠して戻ってくると、コラードは既に馬上の人となっていた。肩には通常の弓より一回り大きい長弓と矢筒を背負い、傍には数名の救世軍兵と彼らを率いるオーウェンもいる。
「オーウェン、君も一緒に来てくれるのかい?」
「ええ、今のコラードを一人で行かせるのは俺も反対ですから。……しかし、後ろの二人はどっちがマリーでどっちがメイベルだ? 同じ格好してると見分けがつかないんだが」
「ど、どっちでもいいから、早くして……この鎧、重いし臭いしさっさと脱ぎたいの……!」
生まれて初めて身にまとう鋼鉄の鎧の下で、メイベルは早くもぜえぜえと息を切らしていた。マリステアもまったく同じ状況で、鎧を着込んでから急に口数が減ったところを見ると、鎧の重さや饐えた汗の臭いに必死で耐えているらしい。
そんな二人の様子に苦笑しつつ、一同は早速オヴェスト城を目指して出発した。全員が馬に跨がり、密集隊形を取って陣を駆け出していく。
目につくものと言ったら、なだらかな丘とぽつぽつ生える喬木しかないムゲット平野だ。陣を出た時点で、敵も数人の集団が向かってくることには気づいているだろう。その証拠に一幹(五〇〇メートル)の距離まで近づけば、緊迫した表情の城兵たちが石積みの上で弓を構えているのが見えた。
「──コラード! 賊軍に魂を売った裏切り者め! 一体どの面を下げて我が前に立とうというのか!?」
そこからさらに四十枝(二〇〇メートル)ほどの距離まで近づいたところで、突如頭上から罵声が降ってきた。顔を上げれば、縦長の覗き穴が刻まれた眉庇の向こうに、乱れた金髪の優男がいる。
最低限の鎧のみを身につけ、胸元にいくつもの勲章を提げているところを見るに──もしやあれが噂のジョサイア・グレンだろうか?
ジェロディたちは馬を止め、城壁を仰ぎ見た。矢狭間の後ろに居並ぶ弓兵の数にはさすがに眩暈を覚えたが、この距離ならばギリギリ矢を射たれても届かない。
「ご無沙汰しております、ジョサイア将軍。先の会戦では直接お会いすること叶わず、残念に思っておりました。戦場で懸命にお姿を探したのですが」
対するコラードは戛々と馬を数歩進ませるや、ジェロディでさえ「うわあ」と思うほどの皮肉を飛ばした。救世軍がアシュタ川の戦いでジョサイアの首を取り損ねたのは、逃げ足が異常に速かったからだ。彼は味方が敗勢と見るや采配を投げ出し、部下が戦っている間に手近な者だけ集めてさっさと逃げた。
コラードはその事実を堂々と揶揄してみせたわけだ。つられてオーウェンが失笑したのが気に食わなかったのか、ジョサイアは壁上で顔を真っ赤にしている。
「それはそうと、開戦の前に一度ハーマン将軍に会わせていただきたい。どうしても今、あの方にお話しておきたいことがあるのです」
「ハ! 将軍が貴様のような不忠者とお会いになるわけがなかろう。そもそもシャムシール人の子など救ったのが過ちだったと、今頃深く嘆かれていることだろうさ。貴様がこれまで忠犬のふりをしていたのも、将軍に取り入って金と地位を手に入れるためだったのだろう? 売女の股から生まれた卑しい奴隷め!」
……大人げない。ジョサイアは出会い頭に痛罵されたのがよほど癪だったのか、自分の振る舞いは棚に上げ、さらにコラードを罵った。
こいつは本当に貴族なのかと疑いたくなるほど、直接的で婉曲表現を欠いた罵詈雑言だ。この時点で彼の方がよっぽど卑しい環境で育ったのだろうと窺い知れる。今までのコラードの忠勤を金と出世のためなどと安易に断じてしまうのも、自分がそういう思考で凝り固まった人間であることを宣言しているようなものだし。
「ああ、そうだ、そう言えばここへ来る前に里帰りは済ませてきたか? 二度と帰れ得ぬ故郷だ、当然済ませてきただろうな? どうだった、久方ぶりの帰郷は? 両親には会えたか? とは言っても、貴様とは一滴も血のつながらない赤の他人だがな!」
何が可笑しいのか、勝手にそう捲し立ててジョサイアは抱腹し出した。あの男を眺めていると、大根役者の演技を見せられているような白々しさを覚えるのは何故だろう。アレはたぶんマクラウドと同じ、話の通じない人種だな……とジェロディが諦念を覚えると、同じくコラードも嘆息した。かと思えば彼は背負ってきた弓矢に手をかける──まさか射る気か? この距離から?
「ジョサイア将軍。私は貴殿ではなく、ハーマン将軍と話がしたいのです。もう一度だけ申し上げます。あの方を、ここへ呼んできてはいただけませんか?」
「なんだ、俺を脅すつもりか? やれるものならやってみろ! そうだな、たとえばそこから俺の眉間を射抜けたなら、そのときは望みを聞いてやってもいいぞ。何発射ようと、貴様のような賤民に神々が慈悲を垂れて下さるとは思えんがな! ハハハハハ──ハ?」
刹那、一体何が起きたのか、ジェロディは理解することができなかった。
ただ突然、ジョサイアが不快な笑い声を引っ込めたと思ったら、ゆっくりと背後へ傾いでいく。目を凝らせば、倒れゆく彼の眉間には一本の矢。
ジェロディたちは驚愕と共にコラードの背中を見やった。すると彼は涼しい顔で構えていた弓を下ろし、弦を弾いて「……いい弓だ」とひとりごちている。
「あーあ。あの無能将軍、コラードの渾名を知らないとは可哀想に……」
と、ときにぼやいたのはオーウェンだった。同行した供の中でただ一人、彼だけがコラードの偉業にまったく動じていない。どういうことかと視線を投げかければ、オーウェンも気がついたのか、意味深に笑って口を開いた。
「実はコラードの弓は、昔から百発百中で有名でしてね。あいつ、軍じゃこう呼ばれてたんですよ──『神弓』と」
神弓。それは神界戦争の時代、弓の神シェラハが引いたという百発百中の神の弓。そもそもシェラハ自身が神弓の化身と言われ、弓の腕に関しては並ぶ者がいなかったとされる神だ。コラードはその生まれ変わりか?
ジェロディもそう思いたくなるほどの、信じ難い神業だった。
いきなり指揮官を殺された城兵たちはどよめき、慌てふためいて射返してきたが、飛んでくる矢はいずれもジェロディたちまで届かない。途中で失速し、雨のごとくぱらぱらと降り注いでくるだけだ。
「第一部隊長! 今の話は聞いていただろう。今すぐハーマン将軍を呼んでこい。さもないと次は、貴君の額に風が吹くことになるぞ」
しかも元々城側の人間だったコラードは強い。城壁の上に顔見知りの将校がいるのを認めるや、即座に名指しして命令した。
直前まで射て、射て、と躍起になって命じていたのに、途端に言葉を詰まらせたあの男が第一部隊長か。彼は悔しげに顔を歪ませながらも、コラードの弓の腕前を知っているためか、軍帽の鍔を下げて身を翻した。
「お前たちも、矢種を無駄にする暇があるなら聞け。この中には、此度の戦に疑問や不満を抱いている者が少なからずいるだろう。私もかつてそうだった。理に適わぬハーマン将軍の命令に惑い、悩み、最後は副官としてお諫めする道を選んだ。だが結果は皆が知るとおりだ。私は将軍の意に沿わぬ反逆者として城を追われ、ひと月あまりの間フォルテッツァ大監獄に収容された。故郷は跡形もなく焼かれ、孤児だった私を慈しんでくれた父母も殺された。果たしてこれが誇り高き黄皇国中央軍のあるべき姿か?」
さらに続くコラードの演説は舌鋒鋭く、壁上の兵士たちに突き刺さった。彼が言葉を紡げば紡ぐほど降り注ぐ矢の数は減り、城兵の間に戸惑いが広がっていく。
「少なくとも、私はそうは思わない。私が信じ、忠誠を捧げてきた国はここにはない。ゆえに私は戦い、取り戻す。軍人としての誇りと、愛すべき祖国を」
それは獅子吼にも似た、彼の魂の叫びだった。コラードは決断した。一時の同盟相手ではなく、救世軍の一員として黄皇国にはびこる巨悪と戦うことを。
重い兜の下で、マリステアやメイベルが息を飲んでいる。オーウェンはどこか満足そうだ。反対にオヴェスト城の城兵たちは、みるみる戦意を失っているのが分かった。彼らも皆、心のどこかでは分かっているのだ──自分たちの上官が、いつからかまったくの別人にすり替わっていることに。
「なかなか素晴らしい演説じゃないか、コラード。まったく恐れ入ったよ。まさかあの地獄から這い上がり、再び私へ矛を向けに現れるとはな。予想を遥かに上回る、天晴れな執念だ」
ところがそのとき、低く太い男の声が響き渡り、城兵たちが顔色を変えた。彼らがサッと青ざめながら道を開ければ、仰々しく鎧を鳴らし、城壁の上に一人の巨漢が現れる。
──ハーマン・ロッソジリオ。
ジェロディは思わずぞっとした。鋼の鎧で隙間なく全身を覆い、冷然とこちらを見下ろす彼の気配の、なんと禍々しいことか。
神子たるジェロディの目には、曇天の下で鈍く光る銀色の鎧から黒い瘴気が立ち上っているように見えた。それほどまでに濃厚で、恐怖と悪寒を呼び覚ます邪気。
これはもはや間違いない。ハーマンは魔物に取り憑かれている。
だが憑魔の気配というのはこんなにも強大で、粟が立つほどのものだっただろうか? あるいはハイムの《神蝕》が進んだおかげで、魔物の存在を知覚する能力が前より鋭敏になっているとか……?
「ハーマン将軍……」
徐々に近づきつつある遠雷の音を背に、コラードが呻いた。弓を持つ彼の手が、限界まで握り締められているのが分かる。
『鉄』の名の象徴とも言えるクローズヘルムを脇に抱え、丸刈りの頭を晒したハーマンは小首を傾げてこちらを見ていた。距離があるためはっきりとは視認できないものの、壁下を睥睨する彼の双眸は不気味に赤い……ような気がする。
「まあ、ジョサイアを殺してくれたことには感謝しよう。ルシーン様の推挙ゆえ無下にもできず取り立てたが、覚悟していた以上の無能だった。仕方がないから近々戦死に見せかけて殺そうと思っていたところだったのだ。手間が省けて助かるよ」
「……お答え下さい、将軍。あなたは以前、私が憑魔の存在についてお尋ねした際、妄言だとお笑いになりました。しかしならば何故、私を拷問にかけてまで退魔師の居場所を吐かせようとしたのです? まるで彼女の存在を恐れ、抹殺しようとしているかのように」
「愚問だな。コラード、お前がこの数ヶ月、私に対する反意を募らせていたことは知っている。あちこちの町や村で私にまつわる悪評を流し、自らに同調する者を募っていたこともな。ならばあの退魔師もまた、お前が組織する反政府集団の一員──そう考えて行方を追っていたのだ。残りの仲間の居場所について、お前は決して口を割るまいと思っていたからな」
「では、グロッタ村を焼き払ったのは何故です。あなたが真にハーマン・ロッソジリオであるならば、無辜の民に手を上げ、平穏を奪うような真似を許すはずがない。私を捕らえるための工作ならば、力づくで父母のみを連れ去れば済んだ話です。それを何故……!」
「言ったであろう、コラード。反乱軍に与しようなどと企む愚か者には、見せしめが必要だと。アレは〝二度と私に刃向かうな〟という意思表示のつもりだったのだがな。伝わらなかったようで残念だ」
両親を失い、故郷を失い、果ては敬愛する上官まで奪われたコラードには、あまりにも残酷すぎる宣告。後ろに控え、二人の会話を聞いていたジェロディは、冷たい怒りで腸が燃えるのを感じた。
──憑魔。あの魔物がオーウェンに取り憑いたときと同じように、人と人との絆を粉々にしようとしている。異様に強い魔力は気になるものの、ハーマンが元の人格を失っていることは今のやりとりで明らかだ。だったら、
「では、最後の質問です」
これ以上の問答は無用だ。そう思い、合図しようとしたジェロディの思考を遮って、雷鳴と共にコラードが言った。
「将軍は、今日が何の日か覚えていらっしゃいますか」
「……くだらんことを。そんなことを確かめて何になる?」
「お答え下さい」
「分かった。そこまで言うなら答えてやろう。今日は識神の月、豊神の日──コラード。私とお前が、初めて戦場で出会った日だ」
コラードの瞳が見開かれた。次の瞬間、ズンと突き上げるような揺れを感じる。
馬が嘶き惑い、何だ、とジェロディも怯んだ。
直後、メイベルがはっとした様子で声を上げる。
「コラード、下がって! 神術が来る……!」
ジェロディは見た。超然と壁上に佇むハーマンの右手。そこに嵌められた手甲の継ぎ目から、黄土色の光が漏れている。
あの光。見覚えがあった。同時に神気の流れを感じる。間違いない。あれは、
「地刻……!」
ジェロディたちは慌てて馬を下げた。悲鳴を上げ、身を翻した軍馬たちの蹄を追うように大地が割れる。激しい地震と共に、次々と岩石の牙が突き出してきた。一同がそれに追い立てられ、退却するうちに、ハーマンの放笑が聞こえてくる。
「さあ来い、コラード。私が憎くてたまらないのだろう? さっさと殺し合いを始めようではないか。そして死ね、私のために」




