203.明日を掴むために
オヴェスト城の南、二十幹(十キロ)ほど離れた森の中を、カミラは早足で進んでいた。トリエステが言っていた〝古びた塔〟は、まだ見えない。方角は間違っていないと思うのだが、生い茂る木々が邪魔で見えないだけだろうか。
真夏の熱気に蒸された草熱れにまぎれて、微かな雨の匂いがする。とすると遠くで聞こえるあれは雷か。たぶんもうじき、雨が降る。
「ねえ、ヴィル。まだ?」
「恐らくあと四幹(二キロ)といったところだろう。方角は合っているから、このまままっすぐ進めばいい」
「四幹……ってことは、あと四半刻(十五分)もすれば見えてくるかしら?」
「俺の歩測が合っていればな。問題はギディオン殿の方だが」
「ギディオンならやるわよ、絶対。だからあっちは大丈夫」
周囲を警戒しながらも、口調は自信たっぷりにそう言えば、ヴィルヘルムも「まあ、だろうな」と頷いた。ギディオンが老いたとは言えまだまだ現役であることは、ヴィルヘルムも再会した瞬間に感じ取ったようだ。
実際アシュタ川の戦いでたった百騎の騎馬隊を率い、一万の軍勢を蹴散らしたギディオンの武勇伝は、早くも味方の間で語り草になっていた。あれだけの戦果を残してもらえたのだから、カミラも懸命に軍馬を育てた甲斐があったというものだ。
「……にしても、たったこれだけの人数で敵本陣に潜入とかさ。ほんとに大丈夫なわけ? 相手はまだ一万以上の兵隊を抱えてて、しかも魔物サンまでついてるわけだろ? 正直言って大監獄のときより遥かに無謀だと思うんだよねー、オレは」
「ここまで来といて何言ってんの。まさか今更逃げ帰りたいとか言わないわよね?」
「オレはともかく、カミラはそうした方がいいんじゃない? だってトリエさんの話がほんとなら、カミラ、魔物に狙われてるんだろ? 魔物っていうか、魔族……だっけ? ピヌイス郷庁で見た、あの黒いモヤモヤみたいなさ」
「まあ、そうらしいけど。でもおかげで私は殺される心配がないわけだし? むしろあんたは自分の心配をしなさいよ。私のことはヴィルが守ってくれるから」
「え!? じゃあなんでオレのこと誘ったわけ!? ていうかヴィルヘルムさん、オレの身も守ってくれるよね!?」
「ああ、もちろん。ただし優先順位は六百番目だが」
「最下位だよね!? 六百人いる味方の六百番目ってことだよね!? それって実質守らないって言ってるようなもんだよね!?」
カイルから必死に食い下がられてもヴィルヘルムは眉一つ動かさず、しれっとまるっと華麗に無視した。というより彼は今、気が立っているのだ。カイルの言うとおり、カミラを狙う魔物がいつどこから現れてもおかしくないと思っているようで、見るからにピリピリと殺気立っている。
もちろんカミラだって、魔族との遭遇がまったく不安でないと言えば嘘だった。ピヌイスで戦ったクルデールの強さは今も骨身に沁みているし、またヴィルヘルムを危険に晒してしまうのではないかという心配もある。けれどトリエステの言うとおり、敵がカミラを殺せないという事実はこちらの有利に働くから。今はその利点を最大限に活かして、与えられた任務を遂行するだけだ。
「──ではこれより、オヴェスト城攻略作戦の概要を説明します」
救世軍の主立ったメンバーが集められ、野営地にて軍議が開かれたのは今から二日前のこと。グロッタ村潰滅の報に接し、当初の予定より半日ほど遅れて街道を進んでいた救世軍はその晩、いよいよ攻城に向けて本格的に動き出した。
ジェロディやトリエステを始め、今回の作戦に加わる隊長たちが集められた大天幕には、組み立て式の大きな机が置かれている。机の真ん中に広げられているのは、オヴェスト城周辺の地理が克明に記された地図だ。
大判の亜麻紙に描かれた地図の上にはさらに、赤と青に塗り分けられた凸型の駒があった。専門用語で言うと、この駒は〝軍隊符号〟と呼ばれるものらしい。
赤は敵軍、青は味方を意味する色だ。トリエステはそれを使って戦場を再現しつつ、作戦の説明を始めるつもりでいるようだった。
「我が軍には正黄戦争中、オヴェスト城で生活されていた方も多いので、詳細な説明は必要ないと思いますが。ハーマン将軍が治めるオヴェスト城は、見てのとおりあたりを平原に囲まれた陸の孤島です。形状は真四角に近く、高さ三枝(十五メートル)にも及ぶ石積みの土台の上に、本丸である尖塔様式の城塞が建っています。土台部分の外郭は兵舎となっており、本丸のある上階へ向かうためにはそこを突破して、内部の階段を駆け上がらなければなりません」
「うむ。そして問題は他にもある。城の四方が起伏の少ない平原であるということは、城からの見晴らしは良好で、身を隠す場所がないということだ。つまりオヴェスト城攻略に誤魔化しは効かぬ。本来は兵法の定石どおり、城兵の三倍の兵力で包囲せねば落とせぬ城だが──さて、トリエステ殿はいかが攻めるおつもりか」
どっしり構えながらそう尋ねたのは、ギディオンやヴィルヘルムと共に上座に腰かけたリチャードだった。カミラは一応ウォルド隊の副隊長という扱いだから、席次で言えばだいぶ末端の方になる。
まあ、救世軍での地位なんて気にしたこともないからそれはいいのだが、今回ばかりは末端で良かったと安堵した。何故ってグロッタ村に立ち寄って以来塞ぎ込んでいるメイベルの隣に座って、軍議の間ずっと彼女の手を握っていられたから。
「そうですね。リチャード殿のおっしゃるとおり、オヴェスト城を正攻法で落とそうとすればかなり厳しい戦いになります。そもそも城兵の三分の一の兵力しか持たない時点で、我が軍が正攻法を取ることは不可能でしょう。この堅城に籠城されたら、我々には為す術がありません。コルノ島からの兵站は延び、輜重にも余裕がない現状、攻城にかけられる時間はそう長くはありませんから」
「具体的に、滞陣の猶予はどれほどあるのですかな?」
「最長で一ヶ月。ただしこれはコルノ島からの物資輸送が確実に行われた場合の計算で、さらに申し上げれば、我が軍の兵糧の備蓄をすべて食い潰す計算でもあります。戦いに勝利して官軍の物資を押さえられればさほど問題はありませんが、万が一撤退を余儀なくされた場合、救世軍は当面、深刻な物資不足に悩まされることになるでしょう」
「なるほど……とすると、可及的速やかに城を落とす必要がありそうですね。しかしオヴェスト城の堅牢さは、正黄戦争で嫌というほど証明されています。あの城を短期決戦で落とすのは、率直に言って相当難しいと思うのですが」
「おっしゃるとおりです、ケリー殿。しかし今回の戦には一つ、非常に特殊な条件があります。すなわち、敵大将であるハーマン将軍が目下、魔物の支配下にあるということです」
タン、と短い音を立て、トリエステの手にする指示棒が地図上のオヴェスト城を指し示した。当然ながら皆の視線はそこへ吸い寄せられていく。
盤上では、敵を示す赤の軍隊符号はすべてオヴェスト城内に収容されていた。対する青の軍隊符号は城の東側に展開し、そのすぐ傍に流麗な文字で〝ムゲット平野〟と綴られているのが目に入る。
「メイベル。退魔師として将軍と対面したあなたにお尋ねします。ハーマン将軍が現在魔物に取り憑かれ、本来の人格を失っていることは間違いないのですね?」
「う、うん……それは、間違いない、です。あたしは、退魔師としては三流だけど……でも、生まれつき聖刻を刻んでるおかげで、覚魔の能力だけは人一倍優れてるから。だからどんなに微弱な気配でも、魔物がいるなら、絶対分かる」
「では、続いてオーウェン殿にお尋ねします。あなたは以前『憑魔』と呼ばれる魔物に憑依され、自我を喪失していた時期がありますね。当時の記憶は残っていますか?」
「そうだな……正直、朧気に覚えてるだけって感じだな。憑魔に取り憑かれてる間は、なんていうかこう……ずっと眠ってる状態に近くて意識はなかったし、体の自由も利かなかった。ただ、時々ぼんやり目が覚めるような瞬間があって……そのとき見聞きしたことだけは、何となく記憶に残ってる。とは言ってもほとんど寝惚けてる状態だから、自分の意思で憑魔をどうこうするってのは不可能だったがな」
「なるほど。ではハーマン将軍が現在、同じ状況に置かれていると仮定して──メイベル。あなたは憑魔という魔物について、どの程度ご存知ですか? 憑魔は宿主への憑依に際し、記憶や人格をも盗み取るものなのでしょうか?」
「あ、あたしが文献で読んだ限りでは……憑魔っていうのは魔族の中でも結構格下で、そんなに強い力を持ってるわけじゃないの。実体がないから物理攻撃は効かないけど、神術にはかなり弱いし、宿主を乗っ取る以外に大した魔術も使えない。だから宿主の体は操れても、記憶や人格を完璧に真似るほどの力はないって言われてる。記憶っていうのは人の魂に蓄積されるものだから、魂を無理矢理封じ込めて体を乗っ取る憑魔には、宿主の記憶を読み取る術がないって」
「俺も似たような話を聞いたことがある。憑魔は取り憑く前に学習した宿主の性格や挙動を真似るが、記憶は共有しないから、細かいところまでは再現しきれない。宿主しか知らないはずの事実を問い質したり、ハノーク語以外の言語で話しかけたりすると、答えられずに正体を暴かれることが多いそうだ。つまり憑魔が肉体に入っている間は、宿主はまったく別の人格に成り変わっている、ということだな」
と、メイベルの説明を補足したのはヴィルヘルムだった。彼はあくまで伝聞の体を装い、淡々と話しているが、カミラはついドキリとしてしまう。
だってヴィルヘルムはかつて、愛する人を憑魔に奪われた。それどころか彼自身、今も左眼に憑魔を飼い続けている。
そう言えばジャラ=サンガで初めてメイベルと出会ったときから、ヴィルヘルムはどこか彼女を遠巻きにしている気配があった。口や態度には出さないがたぶん、メイベルの体から溢れる聖なる神気が、半人半魔の彼にはこたえるのだろう。
「そうですか。ならば今回はその状況が、我々の有利に働くかもしれません。将軍を操っているのが件の憑魔だとすれば、現在のハーマン将軍には、ハーマン・ロッソジリオとしての記憶がない。すなわち『鉄』の異名を取るほど優れた指揮能力を持ち合わせていないということです。さらに言えば魔物の特性によって、本来の性格よりも好戦的になっている可能性すらあります」
「……! そうか……相手が正真正銘の魔物なら、軍を指揮するのに戦略なんてない。やつらの目的はただ人間を虐殺すること……だったら籠城なんかせず、数を恃みに打って出てくるかもしれない」
トリエステの解説を聞き、真っ先に反応したのはジェロディだった。全員が各々の席に着座する中、一人だけ彼の傍らに佇むトリエステは、指示棒を手に小さく頷く。
「特にこちらには、魔物にとって最大の標的である神子殿がいらっしゃいます。この事実を上手く使って挑発や陽動をしかければ、敵軍の出撃を促せるはず。たとえばオヴェスト城の城門は西と東にしか存在しませんから、まず東門に砲撃を浴びせることで、敵軍に神術砲の脅威を認識させます。さすれば敵軍は神術砲を止めるため、西門の跳ね橋を下ろして出撃してくるでしょう。我々はそこを狙って、西門から城内へ侵入するかのような動きを見せる。すると敵の意識は西門へ集中しますから、その隙に東の跳ね橋を下ろすことができれば……」
地図上でオヴェスト城に籠もる敵軍が、一斉に西側を向いた。城の北から回り込み、西を目指す素振りを見せた救世軍はしかし、急旋回して東門へ殺到する。
東門の跳ね橋が下りれば、あとは一気に城内へ攻め込むのみ。最終目標はハーマンに憑依している憑魔の討伐。
ゆえに城へ入ったら、敵大将が待ち受けているであろう本丸を目指せばいいわけだが、そこでふと一つの疑問を抱き、カミラはぱっと顔を上げた。
「あ、あの、作戦の内容はだいたい分かったんですけど。跳ね橋って、城の周りにある濠? を渡るためのものですよね? それって城の外側から簡単に下ろせるものなんですか……?」
「いい質問です、カミラ」
トン、と指示棒で自らの手を叩き、まるで学舎の先生みたいにトリエステは姿勢を正した。かと思えば彼女はどこからともなく青の軍隊符号を取り出して、オヴェスト城の南に生い茂る森の中へコトリと置く。
森の傍には〝ヨドの森〟の走り書きがあった。オディオ地方の南部を走る、死の谷に程近い森だ。近いというか、地図で見る限りは完全に寄り添っている。
死の谷は天高く聳える岩の大地で、ヨドの森はその谷にぶつかったところで終わっていた。森の東に見える砦のマークは、たぶんフォルテッツァ大監獄だろう。ということはあの監獄から逃げ延びたあと、カミラたちが身を隠した森もヨドの森だった、ということになる。
「コラード殿から伺ったところによると」
とトリエステがその森を見下ろして続ければ、カミラの手の中でメイベルの指がぴくりと跳ねた。
「この森に、オヴェスト城と通じる地下通路の入り口があるそうです。オヴェスト城は今から七六〇年前──すなわちフェニーチェ炎王国が建国される以前に栄えた小王国の王城跡地に建てられた城。よって当時造られた通路が今も生きており、そこを通ればオヴェスト城の内部に出られる。実際、ハーマン将軍への反逆が疑われたあなた方は、ここを通って城の外へ逃げおおせた……そうですね、メイベル?」
「……」
尋ねられたメイベルは、うつむいたまま答えなかった。いや、答えられなかった、と言う方が正確かもしれない。何しろ皆が集まった軍議の席に、コラードの姿はなかった。彼は長年忠誠を奉じてきた黄皇国軍に故郷を焼かれ、両親を殺された絶望によって、ひどく憔悴してしまっていたから。
そのコラードの名前を出されて、メイベルは完全に萎縮していた。大きな瞳には、答えの代わりに涙が浮かぶばかり。たぶんコラードに手を引かれて地下通路を駆け抜けたときの記憶が、脳裏にまざまざと甦っていたのだろう。
「なるほど。ではトリエステどのはそこから城内へ侵入し、東門の跳ね橋を下ろそうというのだな。しかし敵は既に、コラードどのが我々に寝返ったことを承知している。ならば隠し通路の情報が漏洩していることも視野に入れ、防備を固めているのではないか?」
「ええ、おっしゃるとおりです、アーサー殿。されどどのみち、この通路は我が軍が奪取しなければ確実に後顧の憂いとなります。我々が城攻めをしている間に、敵軍が隠し通路を通って出撃し、背後へと回られたなら……」
「僕たちは挟撃を受けることになる……か。確かにそう考えると隠し通路の存在は厄介だね……」
深刻な表情をしたジェロディが机上へ手を伸ばし、赤い駒を森からぐるりと迂回させた。敵の別働隊はオヴェスト城を向いた救世軍の背後を取り、一気に肉薄してくる。今の救世軍の兵力では、これに対応するのは不可能だろう。とすればやはりトリエステの発案どおり、隠し通路にも味方を送り込むのが最善の策となる。
「以上を踏まえて、ヨドの森には別働隊を派遣すべきかと存じます。仮に伏兵が潜んでいたとしても、それを事前に予測し対策を立てることは可能です。別働隊は敵の奇襲を回避したのち、地下通路へ進入してオヴェスト城へ。コラード殿の話によると、通路は途中で道が分かれるそうですから、分岐点の手前で崩落させることができれば……」
「ヌウ……ソウカ。道、潰レレバ、二度ト使エナイ。敵ニ、背中ヲ狙ワレル心配モ、ナクナル」
「だがいくら待ち伏せされることが分かってるっつっても、コイツァ危険な仕事だぜ。なんせ伏兵を蹴散らしたあとは城ン中に突撃して、並み居る敵兵を掻き分けつつ門を開けなきゃならねえンだからなァ。なァ、軍師サンよ。まさかその役回り、ワシらに任せようってのかィ?」
「いいえ。あなた方には城攻めの最前線で露払いをしていただきます、ウー殿。こちらも地下通路の占拠と同等の危険を伴う役割ですが、猿人族の汚名を濯ぐには絶好の機会です。誓いも立てていただきましたし、今更異存はありませんね?」
「ケッ、そうかよ。じゃあ誰がワシらと一緒に命を張りやがんでィ?」
「──ウォルド。あなたの隊からカミラを貸して下さい」
刹那、トリエステが寸分の迷いもなく告げたひと言が、軍議の場をざわめかせた。ジェロディたちは面食らい、ヴィルヘルムが眉をひそめ、それまで黙って議論を静聴していたウォルドも怪訝そうに片眉を上げている。
「カミラを貸せだと? つまり、こいつに別働隊を指揮させるってことか?」
「いえ。別働隊の指揮はヴィルヘルム殿とギディオン殿に。そこに補佐としてカミラをつけます。敵軍の足枷として」
「どういう意味だ?」
「カミラ。あなたは以前、ピヌイス郷庁で魔族の襲撃を受けたと話していましたね。報告によれば、彼らは何故かあなたを生きたまま欲しがったと」
「そ、そうなの、カミラ……!?」
トリエステの発言を聞いたメイベルが、驚いた様子で隣から身を乗り出してきた。が、カミラは頭が事態についてゆかず、疑問符を浮かべることしかできない。
──別働隊の指揮はギディオンとヴィルヘルム?
それはまあ、いい。何せ身贔屓を差し引いても、彼らは現状、救世軍最強の剣士二人だ。かつて将軍の地位に就いていただけあって、指揮能力もずば抜けている。トリエステの人選は間違っていない。別働隊は彼らに預ければ安泰だ。でも。
「え、えっと……つまり私が行けば、敵が二の足を踏んでくれるかもしれないってことですか? ハーマン将軍の後ろに魔族がいるなら、私のことは生かして捕らえろって命令が出てるかもしれないから?」
「ご明察です。目下、我が軍から別働隊に割ける兵力はさほど多くありません。具体的には、最大で六百。これ以上は譲歩できません。ゆえに我が軍で最も指揮能力の高いお二人に指揮をお任せしますが、戦いを有利に運ぶ材料は一つでも多い方がいい。ですので、あなたをお二人の盾に──」
「──俺は反対だ。地下通路を占拠するだけなら、俺とギディオン殿さえいれば充分だろう。兵力も六百で構わない。敵もこちらの兵力に余裕がないことは見抜いているからな。ならば通路の守りに、それほど多くの兵を割くとは思えん」
案の定、異論を唱えたのはヴィルヘルムだった。彼はカミラの名前が出た途端頓に険しい顔をして、殺気すらまとっている。トリエステがいきなりカミラを盾にすると言い出したのが理解できないといった様子だ。が、そんなヴィルヘルムに睨まれたところで微塵も引かず、トリエステは淡々と話を続けた。
「確かに地下通路の占拠のみが目的ならば、お二人の力だけで難なくこなせるかもしれません。しかしそのまま城内へ侵入し、門を開けるとなると話は別です。オヴェスト城には一万の敵兵がひしめいているのですよ。そこをたった六百の兵で掻い潜り、跳ね橋を下ろす──一歩間違えれば全滅を招く、決死の作戦です。ならば可能な限りの手は打っておくべきではありませんか?」
「味方の中にカミラがいるということが、かえって危険を招く可能性もあるだろう。魔族はカミラが自ら懐へ飛び込んできたと知れば、こちらにすべての注意を向けるかもしれん。そうなればどのみち作戦は失敗だ。東門へ辿り着く前に、カミラ以外の全員が死傷する羽目になる」
「好都合です。あなた方が城内で敵の注意を引いて下されば、我々は攻撃の手が緩んだ隙に前進し、橋を架けることができる。跳ね橋を下ろすことは無理でも、神術を用いて濠を渡ることはできます。城内にさえ進入できれば、あなた方を救援することもできますし」
「どうあってもカミラを囮にするつもりか」
「彼女では心許ないとおっしゃるのでしたら、同じく魔族に狙われているジェロディ殿に代わっていただいても構いませんが?」
「──それはダメ!」
瞬間、カミラは反射的に立ち上がり、机を叩いて叫んでいた。
ジェロディを危険に晒すくらいなら、自分が行く。本能がそう答えを弾き出すまで、一拍もかからなかったと思う。が、勢い込んで「私が行きます」と答えれば、ヴィルヘルムが露骨に苦い顔をして、トリエステは微笑んだ。
要するにカミラは、彼女の策にハマったわけだ。
トリエステはジェロディを引き合いに出せば、カミラが自ら任務を受けると知っていて、わざと彼の名前を口にした。
「まったく、ああもまんまとトリエステの口車に乗せられるとは……今頃フィロメーナが草葉の陰で泣いているぞ。これではお前に兵学を学ばせた甲斐がないとな」
薄暗いヨドの森を進みながら、ヴィルヘルムに苦言を呈されたカミラは返す言葉もない。いや、結果的には自分が来ることになって良かったと思っているし、後悔はしていないが、おかげでヴィルヘルムから散々小言を言われる羽目になった。
地下通路への入り口があるという〝古びた塔〟。そこを目指して、一同は草木の間を馳せていく。黙々と後ろに続くのは四百の兵。残りの二百はギディオンが率いて、別の場所に埋伏させている。
「いや、けどさ、その流れからなんでオレを誘う運びになったわけ? トリエさんのご指名はカミラとヴィルヘルムさんと、あのギディオンとかいうじーさんだけだったんだろ? オレ、軍議に出してもらえなかったからよく知らないけどさ」
「理由なら最初に言ったでしょ。私はあんたのこと信用してるからだって」
「……あれって本気だったの? てっきりオレをおだてて木に登らせるための方便かと……」
「あんたを木に登らせて何の得があるのよ。いつもほっといたって勝手に登って大騒ぎしてるくせに」
「いや……だって……だって……カミラ、それって……ついにオレと付き合う気になってくれたってこと──オフゥッ……!?」
刹那、カミラの眼前をにわかに黒い斬光が走って、カイルの体が吹き飛ばされた。いや、斬光だと思ったものはヴィルヘルムが鞘ごと振り抜いた剣で、代々ゲヴァルト族に伝わる秘宝はカイルの鳩尾に華麗にめり込み、彼を叢の向こうへ消し去った。
想定を遥かに上回るヴィルヘルムの早業に、カミラは思わず足を止めて硬直する。……意外だ。ヴィルヘルムがカイルごときの戯言にここまで本気で怒るなんて。よもや今までオッサンだの何だのとぞんざいに扱われてきた鬱憤がついに爆発したのだろうか? だとしたら変に茶化さずにちゃんと話すべきだったかもしれない。カイルを連れてきたのはグロッタ村の一件以来ウォルドが殺気立っていて、彼と折り合いの悪いカイルを置いてくるのが不安だったからだと──
「カミラ、伏せろ!」
「えっ……」
──なんて見当違いのことを考えていたら、自分もヴィルヘルムに押し倒された。背中から地面に転がり、「いたっ……!?」と悲鳴を上げたところで突然、真横の樹木にタンッ!と何かが突き立つ音がする。
ぎょっとして目をやれば、視界に飛び込んできたのは矢羽の赤い一本の矢。
間違いない。黄皇国軍の使う矢だ。
「敵襲……!」
一斉に武器を抜いた味方からわっと喊声が上がった。ほとんど同時にヴィルヘルムが立ち上がり、木々の向こうから殺到してくる敵兵に剣を抜いて向かっていく。
──やはりいた。伏兵。カミラも急いで起き上がり、腰の剣を抜き放った。茂みの向こうでカイルがのたうち回っている気配がするが、構うまい。むしろ姿が隠れているおかげで、そうしている間は敵の標的から外れるはずだ。
「さてと、それじゃ始めますか……!」
見渡す限りの敵、敵、敵。これまで経験したことがないほどの敵兵の数に身震いがした。果たして自分たちはここから生きて帰れるのだろうか?
いや、帰ってみせる。絶対に、愛すべき仲間たちのもとへ。
そう覚悟を決めて地を蹴った。
救世軍の命運を決める戦いが今、始まる。




