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【side:A】エマニュエル・サーガ―黄昏の国と救世軍―  作者: 長谷川
第6章 世界はやさしくなんかないけれど
204/350

202.笑う闇

 グロッタ村は〝森の村〟という形容がぴったりの閑村だった。

 広大な森の木々の間に、ぽつぽつと草葺きの家が並び建ち、申し訳程度の畑がある。ほんの少し開けた場所には囲いがあって、村の共有財産である家畜が放されていたようだ。ここは古くから林業に支えられた村で、豊かな森林資源を背景に、村人たちは材木や組木細工を(ひさ)いで生計を立てていた。人口も少なく、決して裕福とは言えないものの、その分のどかで森の恵みに満ちた村だったらしい。


「とは言えこれだけ燃えてしまっては、村の再興は不可能でしょうね」


 と、トリエステが小さく零した一言に、胸が潰れそうだった。

 かつては緑に包まれ、穏やかな木漏れ日の中に佇んでいたのであろうグロッタ村。コラードの故郷でもあるかの村は今、真っ黒な焼け野原と化していた。

 見渡す限り、あるのは森と村の焼け跡だけ。あたりには文字どおり消し炭となった木々の成れの果てと、焼け崩れた民家の痕跡しかなかった。


 村を潤していたはずの森は見晴らしの良い焦土へと姿を変え、焦げた臭いと拭いようのない死臭が鼻をつく。後者は辛うじて燃え残った木々の陰に積まれている、魔物の死骸が発する臭いだ。

 あれらの魔物は村が焼き討ちに遭ったあと、死臭を嗅ぎつけてどこからともなく集まってきたらしかった。それをコラードに頼まれて村の様子を見に来た猿人(ショウジョウ)たちが撃退し、生き残った数人の村人を守って留まっていたのだ。


 コラードが彼らに村への使いを頼んだのは、フォルテッツァ大監獄からの帰り道──すなわちウーがトリエステに脅されて、ジェロディたちを迎えに現れたときのことだった。彼は村に住む義理の両親が人質に取られることを恐れ、猿人たちに両親の保護を依頼したのだ。両親にはハーマン豹変の原因が分かった時点で知らせを出したと彼は言った。場合によっては軍が父母を捕らえに現れるかもしれないから、どこか安全な場所に身を隠していてほしいと伝えた、と。


 ところが話を聞いた猿人たちが村へやってきてみれば、既にあたりは焼け野原。生き残ったわずかな村人たちは行く宛もなく、燃え残った家屋に身を寄せ合って震えていたとかで、猿人たちは彼らを保護した。生存者の話によれば、村を焼いたのは黄皇国軍だ。彼らはコラードの予想どおり、この村に彼の両親を捕らえに来ていた。それもコラードが監獄に収容される以前のことらしい。軍は父母を人質に、逃亡を続けるコラードを誘き出そうとしたのだろう。


 だが居場所を探り当てられたコラードの両親は、人質となることを拒否。結果、激昂した官軍は見せしめに村へ火を放った。

 当然ながら、コラードの両親は殺されたそうだ。

 今、彼が力なく膝をついた先には、二つの粗末な墓がある。煤を被った木の枝で、不格好な《星樹(ラハツォート)》が組まれただけの、粗末な墓が。


「──だからワシらは言ったんだ! いくらハーマン将軍のお達しとは言え、シャムシール人なぞ引き取れば村に災いが降りかかると……! だのにウォレスもノーラも、跡継ぎ欲しさに野蛮人の子を引き取って! その結果がこれだ! お前が災いを連れてきた! お前が……!」


 厄災から生き残った村人たちが、膝をついたまま動かないコラードへ罵声を浴びせている。猿人たちが止めようとしているが、一人として聞く者はない。

 オヴェスト城へ向かう行軍の途中。村に留まっていた猿人たちからの知らせを受け、グロッタ村に駆けつけたジェロディたちは、為す術もなく村の惨状を眺めることしかできなかった。黄皇国軍は既に去ったあとだし、森がこの有り様では、トリエステの言うとおり再建も難しい。村人たちもそれを承知しているのだろう。彼らは故郷を失った悲しみを、目の前のコラードにただぶつけていた。

 煤と絶望と、憎しみにまみれた村人たちの顔は醜く歪んでいる。これが人間という生き物か、と、思わざるを得ないほどに。


「ま、待ってよ……! コラードは……コラードは村を守るために、自分から軍に捕まったんだよ!? そのまま監獄に連れていかれて、拷問まで受けた! なのにコラードが災いを呼んだとか、シャムシール人だから悪いとか、そんな言い方あんまりだよ!」

「うるさい、余所者は黙ってろ! そもそもこいつはな、ウォレスの跡取りとしてもらわれたことを知りながら、周りの反対を蹴って軍人になったろくでなしだ! こいつが大人しく村に留まっていれば、おれたちが巻き込まれることもなかった! 何が〝ハーマン将軍への恩返し〟だ、育ててやったおれたちへの恩は仇で返しやがって!」

「大方、シャムシール人の血が争いを求めてやまなかったんだろうさ。〝蛙の子は蛙〟と言うからね。どんなに外面を取り繕ったって、やっぱり本質は砂漠の野蛮人どもと変わらない……!」

「ああ。そしてそれをウォレスたちが甘やかしたからこうなったんだ。こんな疫病神、さっさと竜人(ドラゴニアン)に食われていれば良かったものを!」


 刹那、コラードを庇って村人たちと対峙していたメイベルが(まなじり)を決した。彼女の菖蒲色の瞳はみるみる怒りに彩られ、憎悪の炎が涙へと姿を変える。

 彼女が握り締めた杖の先で、青希石が閃いた──ような気がした。直後、ぞくりと背筋を刺すような神力の逆巻きを感じる。立ち尽くすメイベルの足元から、目には見えない力が湧き上がって、彼女の髪や外套を浮き上がらせる。


「メイベル──」


 さすがにこれ以上はまずいと判断したのだろうか。トリエステが進み出ようとしたのを、ジェロディは黙って押し留めた。驚いたような彼女の視線が降り注ぐ。けれどジェロディは目配せだけを返して、歩き出した。今にも爆発しようとしているメイベルの神力(いかり)を抑えるように、そっと彼女の杖へ手を当てる。


「不幸の責任を誰かになすりつけたい気持ちは分かりますが」


 努めて冷静な口調を心がけ、ジェロディは言った。


「生命神ハイムはかつて、この世のすべての生命は平等であると説きました。ハイムの前ではトラモント人もマグナーモ人も、もちろんシャムシール人も差別されない。生まれや身分の差によって他者を迫害することは、人類が犯す罪の中で最も愚かしいものであるとハイムはそう断じています。そして死者に鞭打ち、冒涜することもまたそれに次ぐ大罪であると」

「だから何だ? そんなのは所詮綺麗事だ! ワシらのささやかな暮らしも守って下さらぬ神の教えを、何故にワシらが守らねばならん!? 千年も眠ったまま、いっかな姿を現さぬ神の戯言(たわごと)など──」

「──ハイムの御霊はここにあります。あなた方の行いはすべて神がご照覧です。来世も人として生を受けたければ、今すぐ己の行いを悔い改めて下さい。……僕もハイムの神子として、あなた方を魔界へ送りたくはありませんから」


 そう言ってジェロディが右手の手套を外せば、サーッと村人たちの顔から血の気が引いた。青銀色に輝く本物の《星樹》を前にして、ふっと魂が抜けたかのように腰を抜かした者もいる。彼らは泣きながらジェロディの前にひれ伏し、赦しを乞うた。彼らを見下ろしながら、思う。


 ──ああ、嫌だな。


 こうしていると本当に、自分が人からかけ離れていくようだ。

 けれど同時に、人々は。

 こんなにも切実に、神の赦しと再臨を求めるものなのだと思い知る。


「ウォルド」


 やがて村人たちの狂態が治まった頃、ジェロディはカミラの声を聞いた気がして振り向いた。するとカミラが踵を返し、背を向けて歩き出したウォルドを追うのが目に入る。

 それを知ったヴィルヘルムが、半ば本能のように二人へ続こうとした。が、気づいたカミラが手だけで制す。彼女はちょっと困ったような、泣き出しそうな顔をして、無言のままウォルドを追いかけた。……あの二人、何かあったのかな。


「コラードさん」


 ジェロディが立ち尽くしたままぼんやりそんなことを考えていると、今度はすぐ足元で声がした。見れば涙を浮かべたマリステアが、死んだように動かないコラードの傍らへしゃがみ込んでいる。

 彼女はコラードの肩へ手をかけて、ただそっと寄り添った。そうしながらまるで彼の代わりだとでも言うように、ぽろぽろ涙を零している。


(ああ、そうか。マリーの故郷は──)


 同じように、マリステアもかつて故郷を焼かれた。国境を越えて攻め寄せたシャムシール人に両親を殺され、攫われかけてここにいる。

 ゆえに今のコラードに、自分を重ねずにはいられなかったのだろう。彼女が彼の背を摩り、しゃくり上げるのを聞きながら、ときにコラードが口を開く。


「……連れ出せば良かったんだ」

「え?」

「多少無理を言ってでも……やはり二人を、町へ移すべきだった。体を悪くしていた母は、どうしても住み慣れた村を離れたくないと言い張って……だから私も、無理強いすることをためらった。たとえ魔物の支配下にあろうとも、ハーマン将軍に率いられる我が軍が、誇りまで失うはずがないと信じて……けれど、こんなことになるのなら──」


 譫言(うわごと)のようにそこまで言って、コラードは泣いた。

 あまりに粗末な両親の墓を前に、長躯を折って嗚咽を零す。

 彼は、謝っていた。泣きながら謝り続けた。血のつながらない両親に。

 いや、たぶん、血がつながっていないからこそ。

 彼と父母の間には、血の絆以上の愛情と結びつきがあったのだろう。


「……あたしのせいだ」


 と、泣き崩れるコラードの背中を見やって、メイベルが言う。


「また、あたしのせい。あたしがあのとき、ちゃんと憑魔を討ってれば……コラードにこんな想い、させなくて済んだのに──」


 立ち尽くした彼女の瞳から、涙が零れて頬を伝った。細い眉をぎゅっと寄せて、メイベルはコラードに歩み寄ることなく、ただ掠れた声で「ごめん……」と呟く。


「……誰のせいでもないよ」


 だからジェロディも、言った。


「こうなったのは、誰のせいでもない。けれど僕たちがこの国を変えない限り、こうやって誰かが悲しみ続けるんだ」


 涙に濡れたメイベルの瞳が、ジェロディを見た。彼女を慰めるように寄り添っていたアーサーも、決意したように見上げてくる。ジェロディは右手を握り締めた。


 ──恐れている場合じゃない。


 やるしかないのだ。たとえ我が身を神に捧げることになろうとも。



              ◯   ●   ◯



 ハーマン・ロッソジリオは苦しみに喘いでいた。

 頭が割れるように痛んで、耳鳴りがする。

 その耳鳴りの狭間に聞こえる、得体の知れない囁き声。


 ──捧げよ。


 ──捧げよ。


 ──(なんじ)の心を闇に捧げよ。


 囁きはずっと頭の中で聞こえていた。意識の外へ追い出そうと試みたことも一再ではない。されどハーマンが抗えば抗うほど苦痛は強まり、囁きも嘲笑へ変わるのだ。──脆弱なる人間よ。汝に抗う術はない。大人しく運命を受け入れよ、と。


(いつまでも、こうしてはいられぬ……ジョサイアは負け、五千以上の兵力を失った。このままでは、我が軍は……)


 反乱軍との全面戦争に突入する。朋輩であるガルテリオの息子が率いる軍と。

 非があるのは明らかにこちら側だ。黄祖フラヴィオが結んだ不可侵条約を破っての獣人区侵攻。そんな暴虐が許されるわけがない。許されるわけがない、のに。


(これ以上、魔女の言いなりになるわけには──)


 己を支配しようとする強大な闇に、抗おうとする。しかし頭痛は激しさを増し、頭蓋を割らんばかりの強さで脳が揺さぶられる感覚がした。

 途端に胃の腑から迫り上がってくる、猛烈な吐き気。ハーマンはオヴェスト城の自室で膝をつき、腹を押さえながら嘔吐した。

 が、吐くものなど既に何もない。魔物の支配に抗う度に襲い来る苦痛のあまり、胃の中のものは吐き切った。今はただビシャビシャと音を立て、喉を焼くような胃液を吐き出すだけだ。視界が揺れて、焦点が合わなくなってくる。

 けれど意識を失えば、自分は、また。


「──おやおや、反乱軍ごときに負けてしまったのね、ハーマン。大将軍ともあろう者が、なんてザマなのかしら。今度こそジェロディの首が手に入ると思っていたのに、まったくとんだ期待はずれね」


 そのとき甘ったるい女の声が耳に飛び込んできて、ハーマンは全身の血が煮え立つのを感じた。この声を、聞き(たが)えるはずもない。


「ルシーン……!」


 今にも火を噴きそうなほど血走った()で、ハーマンは魔女を睨み上げた。一体どこから現れたのか、うなじを見せつけるように金髪を結い上げ、派手なドレスで着飾ったルシーンが、脚を組んで寝台に腰かけている。

 華奢な煙管を手に、真っ赤な唇から甘い煙を吐いた彼女は、呻くハーマンを愉快そうに見下ろしていた。自分は何故、この女が危険だともっと早くに気がつかなかったのか。陛下が選んだお人ならばと、事を荒立てずに静観する道を選んでしまった過去の自分を、叶うのならば(くび)り殺してやりたい。


「ふふ……けれどあれだけの呪術をかけられておいて、未だに自我を残しているのは驚きね。常人ならとっくに魂が擦り切れて、狂人に堕ちているはず。どうりで憑魔では操れないはずだわ。アレも所詮は下級魔族──あなたみたいなタフな男を跪かせるなら、こちらも全力でかからないとね」


 紫幻石(しげんせき)の瞳を妖しく歪めて、ルシーンはほくそ笑んだ。この女は魔界と通じているだけではない、骨の髄まで真の魔女だ。

 永遠に老いることなく、呪術を操り、人間が苦しむ姿を見ては愉悦に浸る。だが正体を知るのが遅すぎたがゆえに、自分はコラードを……。


「き……さま、は、同じ力で、陛下をも、(たぶら)かしているのか……黄妃陛下を失った、オルランド陛下のお心につけこんで……!」

「だったらどうだと言うのかしら? あなたたちが陛下、陛下と呼び慕っていた男は、この程度の魔術に屈するつまらない人間だったということよ。恨むのなら、そんな男を主君と仰いだ自分を恨みなさいな。まあ、私は感謝しているけれどね? 何せ耄碌した老いぼれほど籠絡しやすいものはないもの」


 体中を駆け巡る血が、いよいよ怒りで沸騰した。

 ハーマンは震える手を伸ばし、腰の鞘から剣を抜く。荒い息を吐きながら、床に剣をつき立ち上がった。丸刈りにした額に青筋を走らせ、吼える。


「ルシーン……!!」


 もう、この女がどこの誰だろうと構わなかった。

 ただ、自分は止めなければならない。愛すべき祖国が魔女の食い物にされ、敬愛する主君と共に滅びの道を辿るのを。

 振りかぶった長剣を、目の前で煙管を吹かす女へ叩き込もうとした。ところがルシーンは少しも動じた様子なく、誘惑するような目でハーマンを見上げてくる。

 かと思えば彼女の口元に、妖艶な笑みが浮かんだ。

 しまった、と思ったときにはもう遅い。


「……!!」


 背後からの衝撃。鋼鉄の鎧を着込んだハーマンはしかし、石塊のように軽々と吹き飛ばされた。接ぎ合わされた板金が床に叩きつけられて騒音を立て、握り締めていたはずの剣もあらぬ方向へ飛んでいく。


「──傲るなよ、人間。汝に選ぶ権利はない。ただ大人しく我に従っていれば良いのだ」


 起き上がろうとした体は、再び床に押しつけられた。真っ黒な爪を生やした大きな手が、ハーマンの頭を力任せに押さえつけている。

 抗いながら見やった先には、蝙蝠(コウモリ)の翼を持つ人型の化け物。

 赤黒い肌に竜の後肢を持つ化け物は、とんでもない力でハーマンの動きを封じていた。いかな筋骨隆々とは言え、左腕一本でこの膂力とは、一体どんな体のつくりをしているのか。頭には雄牛のそれを彷彿とさせる角つきの兜が被されていて、素顔は見えない。ただ眉庇(バイザー)の下から覗く口には牙が生え、化け物が人間の肉を喰らう魔界の住人であることを物語っている。


「その、声……貴様か……! 闇の中から、ずっと……私を支配しようとしているのは……!」

「フン、遅いわ。今更気づいたところで、汝にはどうすることもできぬ。楽になりたくば、黙って魂を明け渡すが良い。エマニュエル奪還のため──汝の肉体は有意義に()()してやろう」


 地の底から響くような声でそう言って、化け物はニタリと笑った。かと思えば掲げられたかの者の右手に、小さな闇の渦が生まれる。渦はやがて球体となり、禍々しい気配を放ちながらケタケタと()()()。よくよく見れば表面には真っ赤な口が裂け、あちこちからにょろにょろと長い腕が生え始める。


「やめろ──」


 と、抵抗することすら許されなかった。魔物は笑う闇をハーマンの背中へ押しつけると、そのままズッと体内へ侵入させる。

 鎧を擦り抜け、取り憑いた闇は笑いながらハーマンの魂をズタズタに引き裂いた。全身を(いかずち)のごとく駆け巡る激痛に絶叫し、やがてハーマンは力尽きる。

 意識を失い、ぐったりと横たわったハーマンを見下ろして、ルシーンはふぅっとひとつ紫煙を吐いた。果物に似た瑞々しい香りがあたりに漂い、匂い立つようなルシーンの色香を引き立てる。


「まったく、どいつもこいつも手間をかけさせてくれるわ。まさかあなたの呪術にここまで抗う人間がいるとはね、ジャヴォール。それとも単に、あなたの詰めが甘かっただけかしら?」

「言うではないか、ルシーン。だがそういう文句は、未だ他の将軍たちを乗っ取れていないスメルトやマザーハに言うのだな。そもそも我らは、この国を滅ぼすことなく手に入れたいという汝の我が儘に付き合ってやっているのだ。感謝されこそすれ、苦言を呈される筋合いはない」

「よく言うわ。あなたたちだって利があるから私に協力してるんでしょうに。まあ、ともあれ、これでハーマンは完全に掌握したわね。今度こそハイムの神子を生け捕りにできると良いのだけれど」


 言いながら、ルシーンは赤い爪紅を塗った右手を退屈そうに眺めた。美しい卵型の爪は先端が金粉で縁取られ、その金と深紅のコントラストがどこか黄皇国の国旗を彷彿とさせる。


『きっと陛下もお喜びになりますわ』


 と、父の出世のために笑顔を貼りつけ、精一杯の媚びを売っていた侍女のお世辞を思い出し、ルシーンは小さく(わら)った。まったく人間というものは、本当に度し難い。彼らは長年仕えてきた主君の死にも気づかないのだろうか。あの男がルシーンに向かって吐く言葉はすべて、彼の肉体を借りた憑魔の悪ふざけだというのに。


「生け捕りと言えば、例の娘の件だが」


 と、ときにジャヴォールの声がして、ルシーンは心を流れる氷河から顔を上げた。


「赤髪の、カミラという娘だ。アレも生け捕りにして連れていくが、構わんな?」


 ジャヴォールの身の丈は四〇(アレー)(二メートル)を軽く超えている。おかげで座った状態から見上げると、さらに威圧感が増大した。

 おまけに角のついた醜悪な仮面が、見る側をさらに不快にさせる。ルシーンでさえ見たことのない彼の素顔は、果たしてあの仮面より醜いのだろうか。


「待ってちょうだい。あの娘には人質の価値があると言ったはずよ。生け捕りにするのはいいけれど、捕まえたのなら私に譲ってくれないかしら。()()を上手く使えばシグムンドを追い詰められるし、あわよくばガルテリオも──」

「ならぬ。カミラは捕らえ次第、ただちに魔界へ連れてゆく。我らはテヒナの計画を狂わせねばならぬのだ。人間どものままごとに、いつまでも付き合っているわけにはゆかぬ」

「まあ、ままごととはひどい言い草ね。私がこの国を支配することだって、充分神の計画を狂わせる要因になるでしょう?」

「だとしても、だ。あの娘はテヒナの定めし運命を()()()()()ための鍵……放っておけばいずれテヒナに奪われる。そうなる前に、我らの手中に収めなければ」

「ふうん……まあ、いいわ。そこまで言うのなら攫ってもいいけれど、穴埋めはしてちょうだいね」


 そう告げるとなまめかしく腰を上げ、ルシーンは足元に倒れるハーマンを一瞥した。ジャヴォールは魔界にいる『魔王の忠僕(ギニラルイ)』の一柱だ。

 彼に魂の尻尾を掴まれたら最後、人間の力では到底抗えない。手配書でしか見たことのないカミラという娘も、きっとこの男と同じ道を辿るのだろうと思うと、艶めく唇に憫笑が浮かんだ。

 ただ問題があるとすれば、同じく『魔王の忠僕』に数えられていたクルデールを倒した者が、反乱軍の中にいるということ……。


(ジャヴォールは必要ないと言うでしょうけれど……念のため、手は打っておいた方が良さそうね)


 これ以上、無駄な時間はかけられない。

 トラモント黄皇国は長年の悲願を叶えるための、最後の望みなのだ。

 そして次こそはきっと《命神刻(ハイム・エンブレム)》を手に入れてみせる……。


「それじゃ、あとのことは任せたわよ、ジャヴォール」


 最後にそう言い残して、ルシーンはどろりと姿を消した。足元から立ち上った黒い靄が、あっという間に豪奢なドレスを掻き消してしまう。

 闇の中で目を閉ざしながら、ルシーンは思いを馳せた。

 今も瞼に焼きついて離れない、四百年前のあの日の情景に。



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