201.神の試練
獣人居住区からオヴェスト城まで、およそ六〇〇幹(三〇〇キロ)の旅だった。
兵力四千まで膨れ上がった救世軍は現在、敗走するジョサイア軍を追いかけて、オディオ地方を西進している。うち二千は救世軍の兵力だが、もう半分はコラードの説得により第五軍から寝返った将兵だ。
本当はもう千人ほど降伏を望んだ官兵がいたのだが、さすがに救世軍の兵力を投降兵が上回るのはリスクを伴うため、トリエステが逃亡を促した。降伏ではなく逃亡なら、と受け入れた兵士の数は二千近くまで上ったらしく、目下、逃げるジョサイアに付き従っている兵は三千もいない。やはり神子の権威というのは絶大だ。
ジョサイア軍の敗走が確定したのは八日前。再びアシュタ川を挟んで対峙した両軍は、双方川を渡ろうとしないまま膠着状態に陥った。
どちらの軍も徒渡が伴う危険を知悉していたから、川へ踏み込むことを拒んだのだ。むしろジョサイアは睨み合いを続けることで戦いを長期化させ、物量で救世軍を圧倒することを望んでいた。直接ぶつかり合って勝敗を決するのではなく、兵糧の尽きた救世軍が自ずから退散するのを待つ魂胆だったようだ。
が、それこそがこちらの狙いだと気づいたときには既に遅し。トリエステは敵軍が対岸から動かないのをいいことに、やりたい放題し始めた。
すなわち、コラードを陣頭へやって対岸の敵兵たちを説得させ、さらにジェロディがハイムの神子であることや、オールの神子たるロクサーナが長らくフォルテッツァ大監獄に監禁されていたことを喧伝し続けたのだ。
この作戦が思った以上に効いた。敵軍はハーマンの右腕であったコラードの裏切りに動揺し、さらにジェロディやロクサーナが神子としての威光を振りかざしたおかげで、彼の発言を信じざるを得なくなった。
つまりハーマンが魔物に乗っ取られていることや、魔物がルシーンの差し金であることを知り、その上でなお官兵として戦うかどうかの決断を迫られたのだ。
コラードはハーマンを救うために手を貸してくれるのなら、すべての責任は自分が負うと断言した。今回第五軍が獣人区に対して無用の戦を仕掛け、多大な犠牲を払うことになったのはルシーンの策略によるもの──ひいてはそれを知りながら、事前に阻止できなかった自分こそが最大の戦犯である。ゆえにハーマンを救ったあとならば、いかなる断罪も甘んじて受ける、と。
要するに彼は官兵たちの憎しみを、救世軍ではなく自分に向けようとしたのだ。その意図を察した多くの者が、コラードの覚悟に胸を打たれた。そしてついには武器を捨てた。敵陣からは夜が訪れる度に脱走者が出て、ジョサイア軍はみるみるうちに痩せ細り、すぐに勝機は訪れた。
救世軍は地鼠人たちが掘った地下道を進んで対岸へ渡り、背後から黄皇国軍を奇襲。これを撃破して今に至る。
まったく驚くほど順調に事は進んだ。まさか非戦闘種族であるポレたちまで戦場に駆り出してくるとは思っていなかったから、ジェロディはトリエステの智略にただただ舌を巻くばかりだ。
彼女は水中戦が得意な蛙人族には川から奇襲を仕掛けさせ、白兵戦を得意とする牛人族や猿人族にはここぞというところで特攻させ、さらに地鼠人族にまで戦場での役割を与えた。それぞれの種族が持つ長所や特性を存分に活かして、獣人は人間に恭順するだけの存在ではないと内外に示したのだ。
さらにカルロッタが特別に貸し与えてくれたという神術砲の調整は、嫌々ながらもテレルら角人族が請け負ってくれた。彼らが神術砲に細工をすると、発射される炎弾の飛距離は驚異的に伸び、着弾したときの威力も数倍になった。
これで借りは返したろ、とテレルは言い、それきりジェロディは彼らの姿を見ていない。恐らくはジャラ=サンガに残った長老グルが再び彼らを匿ったのだろう。
「このまま行けば、あと四日でオヴェスト城に到達します」
と、トリエステが馬に揺られながら告げたのは早朝。ひと晩野営した救世軍が、行軍を再開して間もない頃のことだった。
敗走中のジョサイア軍は夜も休まず、死に物狂いでオヴェスト城を目指しているらしい。トリエステが彼らの進路に向かって放っている斥候の報告を聞く限り、両軍の距離は一夜のうちにかなり開いたようだ。が、トリエステに焦っている様子はまったくなかった。目的はあくまでハーマンに取り憑いた魔物を討つことであり、深追いはむしろ危険だと考えているのだろう。
ジェロディは現在、行軍を続ける味方の陣列の、ちょうど真ん中あたりにいた。先鋒はウーを始めとする猿人たちが務めていて、そのすぐ後ろにケリー隊とオーウェン隊が続き、真ん中にウォルド隊とヴィルヘルム隊、コラード率いる降兵隊、そして後詰めにリチャード隊とギディオン隊が控えているという陣形だ。
一応、道中で奇襲を受けた際の安全策として、総帥であるジェロディは常に将兵の間にまぎれることになっている。自分の居場所を正確に知っているのはたぶん、常に傍にいるマリステア、トリエステの両名と、各隊の隊長だけだろう。
実際、ジェロディは乗馬したマリステアとトリエステに挟まれた位置にいて、前方にはヴィルヘルム、後方にはウォルドとカミラがついている。非戦闘員の二人を左右に従えているとは言え、前後にこの三人がいてくれるのなら安心だった。少し離れたところには、タワン=クワン率いる牛人たちも待機してくれているし。
「あと四日……思ったより早いペースで進軍してるね。一応僕らは遠征軍なわけだし、兵たちの疲労も気にしたいところだけど……」
「ええ。ですが北にはガルテリオ殿率いる第三軍、そして南にはファーガス殿率いる第四軍が控えている以上、あまり長居をするわけにもいきません。第三軍は現在、国境を挟んでシャムシール砂王国と交戦中とのことですので、ただちに南下してくることはないとは思われますが」
「こ、交戦中……ということはガルテリオさまは今、戦場にいらっしゃるのですね……」
「ええ。此度の砂王国軍はファリド王子が率いているとのことですので、さしものガルテリオ殿も南の情勢に気を配る余裕はないかと」
「ファリド王子?」
「砂王ヴァリスの嫡子ですよ。武力のみでのし上がった父王とは違い、王子の方はなかなかの切れ者だと聞いています。四年前の国境戦では一度、第三軍を圧倒しかけました。あれ以来王子が直々に軍を率いてくるのは初めてですので、ガルテリオ殿も警戒しておられることでしょう」
マリステアとトリエステのそんな会話が、右から左へ流れていく。二人が何か重要な話をしていることは分かるのに、ジェロディの視線は前方を整然と進むケリー隊、オーウェン隊の兵士に釘づけだ。
隊伍を組んだ兵たちの中に、一人、二人……何人もの死影をまとった者がいる。先程右の方でまた増えた。明るい夏の陽射しの下、何もないところからどろりと生まれる死影は嫌でも目を引く。何度見ても身の毛がよだつようなおぞましさだ。
「ジェロディ。それは代償でおじゃる」
と、監獄からの帰り道、ロクサーナは言っていた。
「神の力には必ず代償がつきまとう。依り代となった人間が傲らぬように、道を過たぬように、神々は神子に試練を課す。話を聞くに、そもじの代償は〝死への憎悪〟であろう。代償は神の力が増せば増すほど、その重さを増してゆく」
どろり、と、視界の端でまた一人。
救世軍の勝利を信じ、胸を張って行軍する青年に、死神の接吻が絡みつく。
「同じようにわーも闇が怖い。光の神子でありながら、光なき闇では生きられぬ。完全な闇の中ではオールの力が使えぬほどにの。恐らくさらに《神蝕》が進めば、多少の光があったとしても、闇に耐えられぬ体になってゆくのじゃろう。そしてゆくゆくは……」
と言ったきり、ロクサーナは遠い目をして口を閉ざした。
彼女は、覚悟しているのだろうか。いつか自分が自分でなくなる日のことを。
この身を神の器として捧げ、自分という人間は世界から退場する。人々が渇望し続ける《神々の目覚め》を実現するためには、その運命を受け入れなければならない。
ロクサーナはそれを六百年前から知っていたそうだ。そしてだからこそ彼女の故郷では、王族間での《光神刻》の譲刻が行われていた。
彼女の祖先は、恐れたのだ。《光神刻》の力が一人の内に留まり続けることで《神蝕》が進み、代償である闇への恐怖が肥大化して、宿主が暴走を来すことを。
実際、今から五百年以上前に滅びたペダング剣王国は、《義神刻》を刻んだ剣王マンダウが乱心した末に滅んだ。マンダウは晩年、悪を憎むあまり些細な罪も看過できず、狂気の沙汰としか思えぬ法を乱立させて臣民を虐殺したという。あの暴走の原因もまた大神刻が課す代償だったのだと、ロクサーナはそう語った。その代償に耐えられた者だけが、神の再臨という至高の祝福に立ち会えるのだとも。
「ロクサーナは、それでいいの?」
と、ジェロディは思わず尋ねた。返ってきた答えはひと言だけ。
「わーが神になることを拒めば、血を分けたトビーも死ぬ。わーはあやつに血を与えてしまった罪を、贖わねばならぬ」
──神の血は人への祝福であると同時に、呪いだ。
ロクサーナは最後にそう言った。そしてそこから先は何も語ろうとしなかった。
彼女が何故、トビアスに血を与えたことを〝罪〟と呼んだのかは分からない。
ただロクサーナは、トビアスを守るために神になるつもりでいる。ジェロディは嫌でも考えた。たとえば、もしも。
もしもマリステアが、いつか自分にも神の血を分けてほしいと言い出したら?
そのとき自分は、彼女を血飲み子にするのだろうか。
ロクサーナとトビアスのように血の絆で結ばれ、文字どおり生死を共にする。老いぬ体で二人、永遠とも思える時を過ごす。ずっと彼女の傍にいられるのなら、そういう余生も悪くないかもしれない、なんて思う。
けれど自分はいずれこの身を神に譲り、マリステアをひとり遺して消滅する。
つまり自分の死後も、マリステアは永遠に生き続けるということだ。彼女にとってそれは幸福なことだろうか。たったひとり、世界に取り残されたマリステアは、どんな想いで人外の生を紡いでいくのだろうか。
(僕には、無理だ)
たとえば自分とマリステアが、逆の立場だったなら。
彼女の血を呷り、彼女と共に生き、そして最後はひとり遺されるなんて。
(そんな未来は、耐えられない……)
ぎゅう、と、知らず手綱を握る手に力が籠もった。監獄で《神蝕》が進んでからというもの、考えたくないことばかり考える。今は目の前の戦いに集中しなければならないと、頭では分かっているのだ。けれど会敵の心配が薄い行軍中や、夜、一人で過ごす天幕の中ではどうしても、あの黒い影のことが脳裏をよぎって──
「──ま……ティノさま!」
刹那、思考を引き裂く呼び声に、ジェロディははっと我に返った。
何事かと振り向けば、いつの間にか馬が止まっている。マリステアがとっさに横から手を伸ばし、ジェロディの馬の轡を掴んだようだ。
いや、止まっているのは馬だけじゃない。全軍が街道上で静止している。一体どうしたというのか。頭がようやく事態に追いつき、あたりを見回したところで、隣のマリステアと視線が合う。
「ティ、ティノさま、大丈夫ですか……!? 先程から何度もお呼びしましたのに、全然聞こえていないご様子で……!」
「あ……ああ、ごめん、ちょっと考え事をしてて……何かあったの?」
「グロッタ村が潰滅しました」
「──え?」
ジェロディの問いに答えたのは顔を見合わせたマリステアではなく、逆隣にいるトリエステだった。彼女が鼻を向けた先には、街道脇の丘を馬で駆け上がっていくコラードの姿がある。彼を呼び止めようとして、メイベルを鞍の後ろに乗せたカミラも列を飛び出すのが見えた。引きずられるようにウォルドやヴィルヘルム、カイルも続き、どよめきが広がっていく。
「ぐ、グロッタ村って……確かコラードさんの故郷、だよね? 潰滅したって、一体どういう……」
「分かりません。が、グロッタ村はここから馬で半刻ほどの距離です。兵たちの休憩も兼ねて、行軍を一時中断しましょう──ご両親の安否が気がかりです」
誰の両親、とは、トリエステは敢えて言わなかった。
言われなくても分かる。以前メイベルが話していたのだ。グロッタ村にはコラードの養父母がいて、軍は彼らを人質にコラードを従わせたのだと。
そのグロッタ村が、潰滅した。ジェロディの背中を冷たい汗が流れた。
蹄の音が遠ざかっていく。ジェロディもすぐさま馬腹を蹴った。
駆け上がった丘の向こうに、黒く焼け落ちた森が見える。




