198.誇りあれ
目の前の毛むくじゃらな生き物を、トリエステは至極冷徹な眼差しで見下ろしていた。
あたりには緊張が走っている。先程まで蛙人を見て青い顔をしていたケリーも、事態を静観していたリチャードも、さすがにこれはまずいと思ったようだ。
されどトリエステは、構わない。まったく微塵も動ぜずに、烈火のごとく睨み上げてくる猿人の眼光を受け止めた。
名前は確かウー=シェンとか言ったか。この種族は図体ばかり大きくて立ち上がると威圧感があるものの、こうして跪かせてしまえばどうということはない。
さしもの猿人族も、膂力の面では牛人に劣る。タワン=クワンに金色の斧を向けられ、さらにケムディーによって押さえつけられたウー=シェンは、拘束さえなければ今にも飛びかかってトリエステを食い殺しそうな眼をしていた。
「だから、何度も言ってンだろ! ワシらはアンタらのお仲間の帰りを待ったが、いつまで経ってもヤツらは監獄から出てこなかった! だから粘るのも限界で、こうして撤退してきたンだよ! こっちだって命懸けだったンだ、同族の命を守ることを最優先に考えるのは当然ってモンだろ!?」
「あなた方の友愛精神は賞賛に値しますが、それも時と場合によります。我が軍の軍主たるジェロディ殿は、この獣人居住区に住まうすべての種族を救うため、危険を冒して監獄への潜入を試みたのです。そのジェロディ殿を置いておめおめと逃げ帰ってくるとは何事ですか。あなた方の背信行為は、我々救世軍とビースティアの同盟を根底から揺るがすものです。よって相応の責任は取っていただきます」
「じゃあ何か? テメェはワシらに、無事戻ってくるかどうかも分からねェ人間のガキを待って、あそこで全滅するべきだったって言うのか? こっちはガキどもを監獄へ入れるために六人も犠牲を出したんだ、充分な働きはしたろうが!」
「では逆にお尋ねしましょう。それほどの乱戦の中からあなた方が逃げおおせることができたのは何故ですか? 監獄守備隊があなた方の首には興味を示さなかったからでしょう。彼らは逃げるあなた方を追撃することよりも、救世軍の首魁であるジェロディ殿の捕縛を優先した。ゆえにあなた方はこうして今も生きている。その事実を省みず、己の保身を優先するあなた方の発言を信用しろという方が無理な話です。猿人族の行き過ぎた同族主義については、私も小耳に挟んでいますしね」
ウーはなおもトリエステを睨み、牙を剥くように切歯していた。
彼の後ろではフォルテッツァ大監獄まで同行した彼の同胞もまた、険しい顔をして敵愾心を剥き出しにしている。
しかし、だからどうしたというのだろう。トリエステはこれしきの脅しには屈さない。何しろかつて属した偽帝軍では、大切な家族の命を握られ、ことあるごとに恫喝された。フラヴィオ六世に逆らうことは、家族の死を意味していた。
されど今、ここで彼らの怒りを買って犠牲になるのは己の身ひとつだ。
ならば何を恐れることがあるだろう? トリエステ・オーロリーという人間は八年前にもう死んでいる。ゆえに腕をもがれようが足を捩じ切られようが、気にならないし痛くも痒くもない。人間の女が脅せば怯むと思っているなら大間違いだ。
それを今、彼らに思い知らせてやらねばならない。トリエステは殊更露骨なため息をつき、改めてウー=シェンを見下ろした。
「とにかく──あなた方の社会ではどうだか存じませんが、我々人間の社会には〝信賞必罰〟という言葉があります。功ある者には必ず報い、罪ある者は必ず罰せよという教えです。秩序を維持するためにはこれが肝要。あなた方にはビースティアと救世軍の結束を強めるための、礎となっていただきましょう」
「ケッ、〝礎〟じゃなくて〝見せしめ〟の間違いだろうが。やはり救世軍と言えども所詮は人間だな。テメェらの思い通りにならない手駒は切って捨てて、従順なモンだけ恐怖で支配する。まったくご立派な救世主サマがいたモンだぜ!」
「私は信用ならない相手を味方として抱えていく危険を排除し、合理的かつ円滑に勝算のある戦をしたいだけです。あなた方の日和見主義のために、救世軍から死者が出るようなことは許されません──剣を」
事態を見守っていた味方からどよめきが上がった。まさか獣人区へ上陸して早々同盟に亀裂が走るとは思ってもみなかったらしく、皆が困惑をあらわにしている。
しかしトリエステは眉一つ動かさず、居並ぶ兵士たちへ向けて淡々と得物を催促した。すると目の合った若い兵士が、困惑顔をしながらもおずおずと己の剣を差し出してくる。
黄皇国軍の紋章を潰しただけの、使い古された数打ちの剣だった。二ヶ月前、新兵たちに実戦の経験を積ませるべく襲ったとある郷庁から鹵獲したものだ。
トリエステは何の飾り気もない、擦り切れた鞘を束の間見つめて、すぐにすらりと刀身を抜いた。正直片手で構えるには重すぎるので、切っ先を地面へ向けてだらりと下げる。
──私にこんな重い剣は振れない。
胸裏でそう悟りつつも、表情は変えずにじっとウーを見下ろした。
鞘を捨て、すかさず柄に両手を添える。
そうして何とか剣を持ち上げようと、腕に力を込めたところで──事態が動いた。突然トリエステの背後から、制止する声が上がったのだ。
「お待ち下され、トリエステ殿」
嗄れながらも長者の貫禄を湛えたその声の主は、蛙人たちの長老グルのものだった。蛙なのに何故か長い髭を蓄えたかの老蛙人は、体に巻きつけた白い帯状の布を翻し、トリエステの横を通りすぎてゆく。かと思えばウーの前でくるりとこちらへ向き直り、迷わず地面に腰を下ろした。目玉の下から迫り上がる奇妙な瞼は半分閉じられ、彼は泰然と胡座をかいてトリエステを見上げている。
「何のおつもりですか、グル殿」
「此度の同胞の不始末につきましては、ビースティアに住まう種族の代表として、拙僧からも深くお詫び申し上げます。仲間を死地に捨て置かれたあなた方の怒りは、我々もまた理解しているつもりです。しかしながらこの場で猿人たちを斬り捨てるのは、どうか思い留まっていただけませぬか」
「不穏分子である彼らの排除を思い留まることに、一体何の利があると? 今回、彼らに信用を裏切られたのはあなたとて同じでしょう、グル殿」
「まことに左様でございます。なれど彼らが同族の利を優先するあまり、救世軍の皆様を裏切る可能性があると知っていて同行させたのは他ならぬ拙僧です。とすれば此度の一件、責を問われるべきは拙僧かと存じます。ゆえに罪を罰するというならば、どうぞ猿人ではなく拙僧をお斬り下され。神子様のお命をみすみす危険に晒した罪を、拙僧も償いとうございます」
どよめきがさらに大きくなった。トリエステたちを囲む人垣の中には蛙人族の僧兵たちも多くいて、「そんな!」とか「馬鹿な……!」とか、思い思いに悲鳴を上げている。しかしグルの申し出を受けて、誰よりも驚いているのはウーだった。彼は直前まで殺意をみなぎらせていた眼を見開くや、愕然とした様子でグルの背中を凝視している。
「……本気でおっしゃっているのですか、グル殿。ご自身の身を犠牲にして、あなたの信用に背いた猿人たちを救われると?」
「不遜な申し出であることは重々承知しております。この老いぼれと神子たるジェロディ殿のお命では、まったく釣り合いが取れぬことも……されど来る黄皇国軍との戦において、猿人族の武勇は必ずや役立つときが参りまする。ゆえにどうか、ここは拙僧の首一つでお納めを」
一毫の迷いもなくそう言って、グルはじっとトリエステを見据えてきた。彼の悟りきった表情を見て、なるほど、とトリエステも目を細める。
まったく不思議なものだった。相手は本来、顔を見分けるのも困難な異種族であるのに、今だけはグルの考えていることが手に取るように理解できる。そしてグルもまた、トリエステの意図を寸分違わず汲み取ったのだろう。
さすがは〝水の賢者〟と謳われる種族の長だ。トリエステは内心彼に賛辞を送りながら、しかし表情には敢えて落胆の色を乗せた。
「なるほど、分かりました。グル殿がどうしてもとおっしゃるのでしたら、あなたのご意志を尊重しましょう。その尊い自己犠牲の精神を、無駄にはしません」
「お、おい、軍師殿──」
「ですが、ウー殿。あなた方はそれで構わないのですか?」
「何?」
「いえ、これまで幾度となく対立してきた蛙人族の長に庇われ、生き恥を晒してなお生き長らえる滑稽さを、誇り高き猿人族が容認できるのかと思いまして。あなた方は人間を〝愚か者〟と嘲りますが、このままグル殿の影に隠れて難を逃れるおつもりならば、種としての矜持を持たぬ〝愚か者〟は果たしてどちらなのでしょうね」
猿人たちの全身の毛が逆立った。トリエステの加減を知らない挑発に、止めに入ろうとしていたケリーまで血の気の引いた顔をしている。
ハノーク語で「ナバル」と言ったら、それは救いようのない愚か者を指す言葉だ。同じ人間であってもこんな言葉を使われれば激昂する。
トリエステがかつて身を置いていた貴族社会では、禁句中の禁句とされていた言葉。とは言え種族の違う猿人族が、この言葉の意味を正確に理解できるのかという懸念はあったが──どうやらトリエステの心配は杞憂で済んだらしい。
「テメェ……!!」
ギラつく両目を見開いたウーが、刹那、ケムディーの拘束を弾き飛ばした。ただでさえ隆々たる腕の筋肉は爆発寸前まで膨れ上がり、ウーの巨躯を何倍も大きく見せる。かと思えば彼は瞬時に己の得物──見慣れぬ長柄の武器で〝狼牙棒〟というらしい──を掴み取るやクワンの金斧を弾き飛ばし、トリエステ目がけて突き出した。すぐ傍にいたケリーが止める間もない早業に、皆がひゅっと息を飲む。
「……」
誰もが顔面蒼白だった。ただ喉元に狼牙棒を突きつけられたトリエステと、こうなることを予測していたのであろうグルだけが涼しい顔でウーを眺めている。
あと半葉(二・五センチ)ほど狼牙棒が突き出されていたら、間違いなくトリエステの白い喉は潰れていた。だがトリエステは知っている。猿人はここで救世軍とビースティアの同盟を潰すほど馬鹿じゃない。
「……魔女かよ、テメェは」
数瞬の沈黙のあと、ウーが呻くように漏らした呟きに、トリエステは微笑んだ。
そのまま狼牙棒の柄に手を伸ばし、目の前の鉄塊を視界から除ける。もちろんあくまで穏便に、そっと触れるようなやり方で。
「ウー殿。真にあなたの一族を守りたいと願うのならば、人間ごときに愚弄されるような汚点を重ねるのはおやめなさい。あなたが一族を想うのと同じように、ここにいる我々もまた己の伴侶や、肉親や、友のために血を流すことを選んだのです。そうして同じ旗を掲げているのに、あなた方ばかりが臆病風に吹かれて逃げ出したとあっては、嘲笑を買って当然でしょう」
ウーの表情がまた歪んだ。何か反駁したいようだが、牙を剥くだけで答えない。かと言って再び暴力に訴える気もないようだ。
正論を説かれて返す言葉がないからと、逆上し手を上げる──そんな愚かしい行為がますます一族の名を貶めることを、猿人はちゃんと知っている。
「チッ……分かったよ、今すぐ監獄に置いてきたガキどもを迎えに行きゃあいいンだろうが。ついでに、次に黄皇国軍と戦り合うときゃあ、テメェらが二度とナメた口をきけなくなるくらいの戦功を挙げてやンよ」
「そうですか。ではグル殿のご厚意に免じて、猿人族の勇士を官軍攻めの先鋒と殿に任命することで、此度の背信には目を瞑りましょう。この二つは戦において最も死亡率の高い役回りですが、同時に最も戦功を挙げやすい役回りでもあります。あなた方の汚名返上に期待しますよ、ウー殿」
なおも微笑みながらトリエステがそう言えば、ウーは忌々しげに小さく唸った。が、これ以上は争うだけ無駄だと悟ったのか、後ろに控えた仲間を振り向き、猿人語で何やら指示を飛ばしている。
猿人たちはすぐに姿を消した。監獄に置き去りにしたジェロディたちの無事を確かめるため、あちこちに散ったようだ。去り際にウーはトリエステを睨んだが、グルには低い声で「この借りは返す」と告げていた。一応彼は彼なりに、猿人族を救おうと命を懸けたグルの恩情に感じ入ったのだろう。今まで散々謀ってきた分ばつが悪いのか、決して目を合わせようとはしなかったけれど。
「ぐ、軍師殿、お怪我は……!?」
「大丈夫ですよ、ケリー殿。見てのとおり、私は五体満足です」
「まったく、あなたはなんという無茶を……おかげで見ているこっちの寿命が縮まりましたよ」
「ご心配をおかけして申し訳ありません。ですが猿人族を信用に足る味方とするには、少々荒療治が必要かと思いましたので」
「いやはや、見事な腹芸でござった、トリエステ殿。さすがはあのジェロディ殿が信を置く利け者──お見それ致しました」
と、不意にすぐ傍から拍手が上がって、トリエステはふと振り向いた。そこでは瞼を弓形に閉じ、嬉しそうに佇んでいるグルがいる。途端にケリーがサッと後ろへ隠れるのが分かったが、トリエステは敢えて触れず、グルにもまた微笑みかけた。
「そのお言葉、そっくりお返ししますよ、グル殿。まさかあなたに助太刀いただけるとは思ってもみませんでした。おかげで予定よりも円滑に猿人たちを説得できたこと、衷心より感謝申し上げます」
「なんの。こちらこそ、長らく手を焼いていた猿人たちの自儘に灸を据えていただき感謝しております。拙僧がいくら諭しても耳を貸さなかったウーをああもたやすく説き伏せてしまわれるとは、さすがオーロリーの名は伊達ではございませぬな」
「〝兄弟牆に鬩げども、外その務りを禦ぐ〟と申します。近しい者の言葉ほど煩わしく感じてしまうのは我々人間も同じですが、だからこそ部外者の言葉の方がかえって効くこともあるでしょう。実際、私も似たような経験がありますから」
「はて、あなた様のような分別のあるお方でも、人の言葉が耳に逆らうことがあるのですかな? それは意外や意外、〝神は人を人たらしめるために欠点を与える〟──とはよく言ったものです」
笑いながらさらりとそんなことを言ってのけるグルに、トリエステはおや、と内心驚いた。人間とはまったく違う文化に守られて暮らす蛙人族の長が、有名なトラモント人の作曲家アンジェロ・ベレ・ルシェロの格言を知っているとは興味深い。
彼とは話が合いそうだと思いながら、トリエステは預かっていた剣を持ち主の兵士へと返却した。剣を返された兵士はホッとしたように眉尻を下げるや、トリエステに一礼し、自分の持ち場へと駆け戻っていく。
「しかし問題はコラード殿の救出へ向かったジェロディ殿が、果たしてご無事でいらっしゃるかどうか……ですな。ヴィルヘルム殿やオーウェンが同行しているとは言え、あそこは脱出不可能と謳われる大監獄。それも頼みの綱であった猿人たちに捨て置かれたとあっては、今頃どうしておられるか……」
と、ときに兵たちの動きを見守りながら、そう漏らしたのはリチャードだった。彼は自慢の顎髭を扱きつつ、眉間を皺めて考え込んでいる。
彼が口にした不安は、ここにいる全員の不安でもあった。最初にジェロディから〝フォルテッツァ大監獄へ潜入する〟と知らせを受けたときは、さしものトリエステも眩暈を覚えたほどだ。
あの大監獄にたった数人で乗り込むなんて、百人に訊けば百人とも〝自殺行為だ〟と口を揃えるだろう。少し前までハーマンの副官をしていたコラード・アルチェットなら、戦を有利に運ぶための情報を持っているかもしれないという彼の言い分は、確かに理に適ってはいるのだが。
(あれほど御身の大切さを説いたというのに……)
その先には危険しかないと分かっていながら、己が正しいと思ったもののためなら踏み込むことを辞さない。そうして自ら重荷を背負い込もうとする。
ジェロディ・ヴィンツェンツィオという少年が常にそう在ろうとするのは、神子としての責務を果たすためなのか。はたまた──ヴィンツェンツィオの血が、そうさせるのか。
(……本当に、どこまでガルテリオ殿に似ていらっしゃるのだか)
トリエステはそんな想いを抱えながら、束の間空を仰いだ。
そこには神の青がどこまでも広がっていて、抜け落ちた神鳥の羽根だと言われる真っ白な雲塊が、地上の喧騒などないもののように流れてゆく。
『無事に戻るよ、必ず』
ひと月前に聞いた彼の言葉が脳裏をよぎった。
同時に恩人を彷彿とさせる、優しげな眼差しも。
「ジェロディ殿は無事に戻ります。必ず」
と、あの日の記憶を辿りながら、気づけばトリエステはそう零していた。
それを聞いたケリーやリチャードが、ちょっと驚いたように振り向いてくる。
自分の言葉はそんなに確信めいていたのだろうか。
あるいはこんな状況だというのに、自然と笑みが浮かんだせいだろうか。
「ご出立の前に、そう約束して下さいました。何よりジェロディ殿には、生命神ハイムの加護がある。ならば今は信じましょう、彼らが無事に戻ることを」
「……そうですな。今の我々にできることは、ジェロディ殿のご帰還を信じて全力を尽くすことだけ──では始めましょうか、トリエステ殿。新生救世軍初の大戦を」
鋼鉄の胸当てで覆われた胸を張り、勇ましくリチャードが言った。彼の隣ではケリーも頷き、土色の瞳に炯々と闘志を燃やしている。
時は来た。実質、これが新生救世軍の初陣と言っても過言ではない。
だが不思議と恐れはなかった。
──必ず勝つ。
先に逝った妹弟と、贖罪の道を示してくれた主のために。




