194.声が聞きたい
目の前に立ち塞がる壁を見やって、カミラは小さく舌打ちした。
また道が変わっている。黄皇国軍め。地上から第五層へ至る正規の道は手つかずだったのに、それ以外の迷路には大幅な改造が加えられていた。
おかげで道が分からない。方角はこっちで合っていると思うのに。
「カミラ、またか?」
「うん……この壁の向こうに行きたいのに、道がなくなってる。さっきの道に戻って、大回りしないといけないかも」
「右にも道が続いているが?」
「そっちは違う……ような気がする。私の記憶が確かなら、その先は行き止まりで……軍が改造してなければの話だけど」
「どうだい、アーサー?」
「フンフン……うむ、カミラどのの意見が正しいと思う。こっちには人が通った痕跡がない。たぶん行き止まりのままだろう。やはり来た道を引き返した方が早そうだ」
四つ足になって床の匂いを嗅いでいたアーサーが暗闇の中、金色の瞳を爛々とさせながら答えた。人のような二足歩行から四足歩行に変わるあれは、かつてケムディーが使っていたのと同じ『獣化』の能力だ。牛人と違って見た目がほとんど猫のアーサーも、一応人としての姿と獣としての姿、双方を使い分けることができるらしい。
カミラたちは現在、独房が並ぶ第五層から第四層へと戻り、〝特別房〟を探していた。と言ってもフォルテッツァ大監獄の特別房は、ピヌイス郷庁にあったような神刻封じのアレではない。
ここでは元々神術が使えないから、わざわざ神聖文字を刻んで大仰な牢屋をこしらえる必要などないのだ。ゆえにこの監獄で〝特別房〟と呼ばれるそれはオーウェン曰く、咎人に落ちた貴人を収容するための特別な独房らしかった。
「俺も詳しく知ってるわけじゃないんだがな。フォルテッツァ大監獄には、殺せば世間的に大騒ぎになるような貴族や、ときには皇族に名を連ねる者が収容されてた過去があるらしい。そういうお偉いさんを最下層の劣悪な環境で監禁するわけにもいかないってんで、ここよか幾分マシな設備が揃った特別房が用意されてるって聞いたことがある。神子殿が収容されてる可能性があるとすれば、そこだろう。ただ、遺跡内のどこにあるのかは俺にも分からない」
と話してくれたオーウェンは現在、ウォルドやカイルと共に第五層に留まっている。長らく最低限の食事しか与えられず、狭い独房の中に閉じ込められていたスミッツたちを、脱出のあてもなく連れ回すわけにはいかなかったからだ。
オーウェン、ウォルド、カイルの三名は、いわばそんなスミッツたちの警固役。彼らが収監されていた仲間を守ってくれている間に、カミラたちは特別房を見つけ出し、五ヶ月前、トビアスと共に捕らえられたというロクサーナを救出する必要があった──ウォルドたちと一緒にカイルが留守番すると言い出したのは、少々意外だったけど。
そのトビアスは現在、ボロボロの囚人服をまとったままカミラたちに同行している。垢にまみれた顔は不安と焦燥に彩られ、ひどく思い詰めた様子だ。
カミラが去年の今頃、イークと再会した白亜の町ジェッソ。トビアスとロクサーナはビヴィオで救世軍と別れたのち、知人を探してあの町を訪れ、そこで突如黄皇国軍に拘束されたのだという。
「収監の理由は〝黄帝陛下のご命令〟──何度尋ねてもそう返されるばかりで、私もロクサーナもまったく話が見えませんでした。以来五ヶ月間、私はロクサーナの姿を見ておりません。この監獄へ連れてこられた際、すぐに引き離されてしまったのです。私の心身が平常を保っているところを見ると、彼女だけどこか違う場所へ連れていかれたということはないと思うのですが……」
第五層で偶然再会した直後、トビアスはここに囚われていた事情をそのように話してくれた。いきなり捕まり監獄送りにされた理由が不明とはあまりに理不尽な話だが、もしかしたら彼らは、ビヴィオで救世軍に協力したがために目をつけられたのかもしれない。
そう思うとカミラは申し訳なくて、一緒にロクサーナを探してほしいというトビアスの願いを拒絶することができなかった。
いや、たとえ収監の理由が何であれ、神子たるロクサーナがこんなところに閉じ込められていると知った以上、助けないわけにはいかない。
何しろ神の代弁者が罪人の収容所に監禁されているなんて、一四〇〇年に渡るエマニュエル史を顧みても前代未聞の大事件だ。そんな暴虐を許す黄帝はやっぱり頭がどうかしている。あるいはここへ突入する前、ウォルドが言っていたように、今や黄帝すらも魔女の傀儡となっているのかもしれない。
むしろそう考えた方が、現在黄皇国で起こっているあらゆる変事に納得がいくような気がした。ならばルシーンは一体、この国をどうしようと企んでいるのか。
カミラは元来た道を引き返しながら追考した。黄帝を始め、国の重鎮を魔術で操り、都合のいいように使っているところを見ると、あの女は単に国を滅ぼそうとしているわけではないように思える。目的がただの破壊ならば、魔界から大量の魔物を呼び寄せて国を押し潰せばいいだけの話だからだ。
しかしそうしないのは以前ウォルドが話していたように、真の目的が大神刻にあるからなのか? 魔物と人間を戦わせるなんてまどろっこしいやり方ではなく、神の魂を破壊することでエマニュエルを崩壊させようとしている……?
だけどもしそうならば、五ヶ月もの間ロクサーナをこんなところに閉じ込めているのは何故だろう? 大神刻を手に入れることが目的なら、さっさと彼女を殺して《光神刻》を剥ぎ取ればいい。
なのに敢えてロクサーナを監禁するに留めているのは……いや、そもそもロクサーナは本当に、この監獄のどこかにいるのだろうか──?
「ねえ、トビアスさん。さっきの話が本当なら、トビアスさんってロクサーナの血飲み子なのよね? 血飲み子って神子の血を飲んだ瞬間に、髪も目も真っ青になるって聞いてたけど……」
「え、ええ。私はあまり目立ちたくないので、髪も眉も染めていますが確かに血飲み子です。今から二十年ほど前、ロクサーナから神の血を分け与えられ、彼女の使徒となりました。それが何か……?」
「その血飲み子って、血を授けてくれた神子と寿命や五感を共有するようになるんでしょ? 竜と竜騎士の契約みたいに、神子が生きている限り血飲み子も生き続けるけど、神子が死ねば一緒に命を落とすって……」
「はい。ですので私が生きているということは、ロクサーナもまだ生きているということですし、心身が異常をきたしていないということは、ロクサーナもまだ近くにいるということです。血飲み子は神子と離れすぎると、体や心を病んでいきます。そうした症状が表れていない以上、ロクサーナも監獄のどこかにいる……と、思いたいのですが……」
「神刻の力を封じる遺跡の仕掛けのせいで、神子と血飲み子の間で交わされる心話が使えない。だからロクサーナがここにいるという確証が得られない……ということですよね?」
「ええ……互いの心の声が届けば、ロクサーナが今どこにいるのかすぐに聞き出すことができるのですが……二十年も連れ添ってきて、彼女の声がまったく聞こえないなんて、これが初めてのことなんです……」
ジェロディの問いかけにそう答え、足を止めたトビアスは、うなだれながら固く両手を握り締めていた。この五ヶ月間、彼はたった一人、狭くて不潔な独房の中でどれほど不安な時間を過ごしてきたことだろう。
つい昨日まで当たり前のように傍にいた相手の声が、不意に聞こえなくなる不安や心細さは、カミラも嫌というほど経験してきた。
まして神子と血飲み子の間に通う絆の強さを思ったら、きっと心細いなんて言葉では、今のトビアスの心中は形容しきれないはずだ。
(血飲み子──神子の血を飲み、神子と共に生き、神子と共に死ぬ神子の愛し子、か……〝神子と血飲み子の絆は前世から結ばれた夫婦よりも、また親子よりも遥かに強い〟……だっけ。神子も血飲み子もお伽噺の中の存在だと思ってたけど、むかし聞いた話が全部本当なら……)
一応トビアスの言うとおり、ロクサーナは大監獄のどこかにいると信じていいのだろうか。そうするとますますルシーンのもくろみが読めなくなるが、今は魔女の野望を突き止めるより特別房を見つけ出す方が先だ、とカミラは首を振って考え直した。何せ特別房の場所さえ分かれば、そこにコラードやルエラだって閉じ込められているかもしれないのだ。そしてカミラはその在り処に、だいたいの見当がついている。
〝揺り籠〟の第一層から第四層までを貫く柱──『石製室』。
遥かな昔、そう呼ばれていた場所がここにはあった。今も遺跡のあちこちで稼働しているからくりの動力源、いわゆる希石が製造されていた部屋だ。
〝揺り籠〟はあの石を生み出すための、いわば希石製造所だった。四層に渡る迷宮は古代の神秘である希石の製造技術を盗まれないようにするためで、石製室へ至る道はごく一部の者しか知らない。第五層まで続く一本道のように、隠し標が用意されている……なんてこともないわけだ。
だから黄皇国軍の改造によって、迷宮内の道がいくつも潰れてしまっているのはかなりの誤算だった。おかげでただでさえ辿り着くのが大変な石製室までの道が分からない。けれどあそこならそこそこの広さがあるし、第五層の牢獄に入れられるよりさらに脱出が困難だから、特別房として使うには最適なはず……とカミラが考え込んでいると、突然背後からドタバタと騒がしい足音がした。
「いたぞ、反乱軍だ……!」
また黄皇国兵。まったくしつこい、とカミラは改めて舌打ちした。
迷宮内の改造は主に、大監獄を守る守備隊の駐在施設を設けるためのものだ。つまりあっちもこっちも、道が塞がっているのは壁の向こうに兵舎が造られたからで、そんな中を駆け回っていれば敵に囲まれるのは当然とも言える。
とは言えここまで会敵が続くと、さすがに邪魔だ。煩わしいし、めんどくさい。今いる面子で戦えるのはカミラとジェロディ、ヴィルヘルム、そしてアーサーだけで、出ずっぱりのジェロディやアーサーには疲れが見え始めている。
かく言うカミラも、矢を受けた左肩が痛くてしょうがなかった。ある程度はヴィルヘルムがカバーしてくれるから何とかなっているものの、今のままではジリ貧だ。こういうとき神術が使えれば、楽に敵を吹き飛ばしてしまえるのに──
《カミラ。あの中から一人生かせ》
「……え?」
仕方なく剣を抜き、右手で正眼に構えたところで、テレルから思わぬ指示を受けた。どういうことかと振り向けば、彼は黒くて大きな瞳でカミラを見上げている。
《そこのヴィルヘルムとかいうのに頼めばできるだろ? 可能なら動ける状態で、気絶させるだけがいい》
「い、いいけど、何するつもり?」
《あんまり希石の予備がないから温存したかったけど、このままじゃ埒が明かない。一人捕まえて希術にかける。特別房まで案内させるんだよ。その方が早い》
「希術ってそんなこともできるわけ? それじゃまるで──」
ルシーンが使っているのと同じ魔術じゃないか。そう言いかけてカミラは言葉を呑み込んだ。とは言え心で会話するテレルには、カミラの考えはダダ漏れだったようだ。彼は細くて短い眉をきゅっと上げると、呆れたようにカミラを睨んだ。
《できることは同じでも、希術と魔術じゃ原理が違う。おまえまで人間みたいなことを言うなよ》
「い、いや、私もこう見えて一応人間なんですけど?」
《賢者の子孫で、しかも星刻まで持ってるくせに何言ってるんだ。とにかく誰でもいいから一人生かせ、しくじるなよ》
「えっ。ぐ、星刻……!?」
と、神子の血のおかげでテレルの声が聞こえるらしいトビアスが何か驚いている様子だったが、どうしたのかと尋ねている暇はなかった。前方からは二十人近い官兵が押し寄せてきて、あっという間に乱戦になる。悠長に話をしている場合じゃない。
「ヴィル……!」
カミラはどうにか右手で敵の剣を去なしながら、ヴィルヘルムにテレルの指示を伝えた。するとヴィルヘルムは「分かった」と疑問も差し挟まずに了解し、カミラに気を取られた敵兵の後ろ首へすかさずシュトゥルムの柄頭を叩き込む。
「うっ……」と呻いた敵兵は白目を剥いて、力なくその場に頽れた。……さすがはヴィルヘルム、迷いがないし仕事が早い。どうやらテレルの見立てに間違いはなかったようだ。
《汝、我を主とし我に仕えよ。現の記憶は、今は夢幻……》
ほどなく戦闘が果て、カミラたちが銘々座り込んだり壁に凭れたりして息を整えているうちに、テレルが生存者へ近寄ってそっと紫色の希石を翳した。
すると気絶していたはずの敵兵がむくりと起き上がり、直立する。見れば兜の下の双眸に自我の光がない。完全にテレルに操られているようだ。
彼が〝回れ〟と命じると、敵兵はきちんと曲がれ右を二回繰り返し、再び元の姿勢に戻って直立した。これは見事だ。ただ憑魔が中に入って操っているのとは違って、希術による支配は術者──この場合はテレル──が指示をしない限り、対象者は何もしない。できない。指示がないと作り物の人形みたいに棒立ちしているだけで、正直なところちょっと不気味だ。
「わ~、すごい、傀儡術だ……あたしもマドレーン先生がネズミを踊らせるのは見たことあるけど、人を操るのを見るのは初めて。動物を操るのと違って、人間を操るのって難しいんでしょ? みんなそれぞれ自我があるから、抵抗が激しいとすぐに催眠が解けちゃうとか」
《フン。術の効力が弱いのは、希石の質の問題だな。口寄せの民が創る希石はあくまで贋作だ。力が純正の希石に劣るのは当然だろ》
「へえ……同じ希石でも純正とか贋作とかあるんだ」
などとカミラが感心している間に、テレルは操り人形と化した官兵へ、希石を通じて語りかけた。人間と直接意志疎通することができない角人族も、術をかけている間なら、希石の力を使って被術者と対話することができるらしい。
それにしたところで、希石とは一体何なのだろう。カミラはテレルに命じられた兵士が踵を返し、歩き出すのを見守りながら考えた。
〝揺り籠〟がカミラに与えた記憶は、あくまで遺跡の構造にまつわるものだけだ。ここが希石の製造所だったと理解したのは石製室の存在を知ったからで、古代人があの部屋を使い、どんな方法で希石を創り出していたのかは知る由もない。
けれど希石は人の傷を癒やしたり、千里眼のような力を授けたり、誰かを傀儡のように操ったりと、とにかく万能の石だった。あんなものを自在に創り出す技術を持ちながら、ハノーク大帝国は何故滅びてしまったのだろう?
エマニュエルで唯一かの国の支配を受けなかった郷、ルミジャフタ。
あの郷で生まれ育ったカミラはハノーク文明とは縁遠く、今まで世界の歴史に興味を持ったことなどなかった。されどこれだけ不可思議なことが並ぶと、さすがに関心をそそられる。テレルの口振りから推測するに、どうやら自分はそのハノーク文明となにがしかの関わりを持っているようだし。
《ここだ》
操り人形を手に入れた地点からおよそ半刻(三十分)。迷宮をさまよったカミラたちは、ついに石製室の入り口へと到達した。
間違いない。石の扉に刻まれた、三つの輪とそれを囲む三角形。〝真実の眼〟と呼ばれるレリーフ──石製室の目印だ。
カミラはテレルに乞われ、扉の前で再び短い古代語を唱えた。すると遺跡が微かに震え出し、天井から砂埃が落ちてくる。
こちらを見つめる大きな一つ目が、ゆっくりと持ち上がり始めた。が、扉の向こうから現れたのは五、六人が入るのがやっとの狭い空間だ。
中は床が円形に切られているだけで常灯燭もなく、かなり暗い。扉が閉まれば間違いなく真っ暗闇になるだろう。
「こ、ここが特別房……? 何だかとても狭いですし、誰もいないみたいですけれど……」
「違いますよ、マリーさん。これは上の階に行くための昇降機。奥にもう一つ部屋があって、そっちが特別房になってるんじゃないかと思うんです」
「しょ、しょうこうき、ですか……? でも、他に扉なんて……」
「百聞は一見にしかず、ですよ。見てて下さい。──我が名の下に」
再び遺跡が鳴動した。古代人たちが『昇降機』と呼んでいた装置、その奥に佇む壁が今度は左右に割れていく。仲間はみな呆気に取られていた。どう見ても行き止まりとしか思えぬ小部屋に、隠し扉があるとは思ってもみなかったようだ。
「あ──」
扉の向こうは、第四層の石製室。
遺跡から与えられた記憶によると、部屋の中心には丸く切られた大穴があり、そこに巨大な希石を嵌め込んだ水晶の床があるはずだった。
されど姿を現した石製室に、あの美しい水晶貼りの床はない。監獄として改造する際にトラモント人が砕いて持ち出してしまったのだろうか。希石が嵌め込まれていた場所は、今はただの石床になっている。
他に目につくものと言えば、室内を照らすわずかな常灯燭。様々な道具が雑多に詰め込まれた棚。壁や天井からぶら下がった鎖。赤黒い染みが広がった作業台のようなものに、何に使うのかよく分からない──いや、考えたくない鉤状の大きな金具や手枷、鞭、万力のようなものに棘だらけの椅子……。
「ちょ……こ、ここって……」
「特別房というよりは、拷問部屋だな。まあ、監獄にはつきものだが」
「さ、サラッと恐ろしいことをおっしゃいますね、ヴィルヘルムさん……」
「……部屋を間違えたかも。石製室は上にも何個かあるの。さっきの昇降機を使えば上がれるはず。次はそっちに──」
と、不気味で血生臭い室内に顔を引き攣らせながら、カミラが皆を促そうとしたときだった。突然はっと息を飲んだメイベルが目を見開き、身を乗り出したと思ったら、まるで何かに打たれたように床を蹴って走り出す。
「あっ、ちょ、ちょっと、メイベル……!?」
とっさに呼び止めようとしたところで気がついた。
彼女が全速力で駆け寄った先、そこに一人分の人影がある。
拷問器具の死角になっていて気づかなかったが、その人物は壁から下がった鎖につながれ、座り込んでいるようだった。メイベルは彼の目の前まで行くと絶望に肩を震わせて、力なく膝を折る。
「コラード……!!」
直後、メイベルの口から零れた悲鳴に、カミラたちは凍りついた。
コラード・アルチェットは、暗い暗い地の底の拷問部屋に、いた。