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【side:A】エマニュエル・サーガ―黄昏の国と救世軍―  作者: 長谷川
第6章 世界はやさしくなんかないけれど
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191.もしもばなし

 激しい水飛沫の音と同時に、ほんの数瞬、意識が飛んだ。

 耳元で唸っていた風音が消え、代わりに無音の世界がやってくる。

 ゆっくりと液状の闇に沈み込み、ぐら、と体が傾いたところで、いくつもの気泡が立ち上っていった。その音ではっと覚醒する。水の中。仄青(ほのあお)い。

 慌てて水を掻き、見下ろした先で、床一面を覆う夜光石が輝いていた。いや、夜光石よりもっと鮮やかで明るい──青希石だ。


(〝揺り籠〟の心臓だわ)


 遺跡に特殊な結界を張り巡らせ、神術を使えなくしている原因(モノ)。それがあの青希石だ。あれを破壊してしまえば心置きなく神刻(エンブレム)を使うことができるが、神術を使えないこの場所で、水底にある希石を破壊する術はないに等しい。ここには水を抜く栓などありはしないから。


(ていうか、カイルは──)


 古代人の叡智が生んだ美しい光景に、目を奪われている場合ではなかった。見ればカミラから少し離れたところで、カイルがゆっくりと青に沈んでいっている。ぴくりとも動かないところを見るに、どうやら気を失っているようだ。


(あの馬鹿……!)


 カミラは歯噛みしながら水を蹴った。泳げもしないくせに無茶をして、と舌打ちをかましてやりたい。まあ、穴の底が水場になっているなんて普通は知る由もないから、助けようとしてくれた心意気には感謝を表すべきなのだろうけど。


(らしくないのよ……!)


 いつもふざけてばかりの彼に助けられるだなんて、カミラは想像もしていなかった。落ちゆく自分の手を握ってくれた彼の眼差しを思い返すと調子が狂う。カイルにもあんな真剣な顔ができたなんて、世期の大発見だ。

 しかも、これまで散々彼をぞんざいに扱ってきた、自分なんかのために。


『ごめん、カミラ』


 あれは何に対する謝罪だったのだろう。そんなことを考えながらカイルの腕を掴む。そうして引き上げ、片腕に抱き、もう一方の手で水を掻いて上を目指した。

 ──謝らなきゃいけないのは私の方じゃない。

 水の中にいるのに、涙が滲みそうになる。

 カイルは命懸けでカミラを救おうとしてくれた。

 彼がそこまで自分を想ってくれているなんて、知らなかったのだ。きっとからかわれているだけなのだと──遊びに過ぎないのだろうと、勝手にそう思っていた。


「ぷはっ……!」


 ようやく水面まで辿り着き、思いきり息を吸う。罠の底だと言うのに、水の外にも明かりはあった。向こうに見える岸辺には、いくつもの常灯燭(スカンス)が用意されている。カミラは光を目指して泳いだ。巨大な空洞の中に、カミラの立てる水音だけが響いている。


「カイル」


 やがて岸に到着すると、カミラはすぐさまカイルを水中から引っ張り上げた。水の中と違って、女の力で人ひとり引きずるのは結構きつい。

 呻きながらどうにか彼を岸に上げると、息を整え、カイルの口元へ耳を寄せた。そこで呼吸を確かめようとして──ぞっとする。


「……カイル?」


 よくよく目を凝らしたら、カイルの胸はまったく上下していなかった。力なく開いた唇から漏れる呼気の音も聞こえない。

 つまり、息をしていないということだ。脳がその答えを弾き出すまで、いくらか不要な時間を要した。認めることを、本能が拒絶したのだろうと思う。


「う、うそでしょ」


 これにはさしものカミラも慌てふためいた。濡れた頬を叩いて再度呼びかけてみるも、カイルは眠ったように目を閉じて動かない。

 どうしよう。カミラは激しく動揺した。たぶん気を失っている間に水を飲みすぎたのだ。おかげで肺にも水が入り、呼吸が止まった。昔、郷の仲間と水遊びをしていた際に、同じような事例を目にしたことがある。


 あのとき騒ぎを聞いて駆けつけた大人たちはどうしていたか。カミラは焦りながら記憶を掘り起こした。呼吸が止まってる、と誰かが叫んで……そう、呼吸だ。本人が自分で呼吸できないなら、誰かが口移しで息を吹き込んでやればいい。

 溺れた子供はそれで息を吹き返していた。正しいやり方は分からないが、見よう見真似でやってみようと屈み込む。


(……私、初めてなんだけど)


 口移しが、ではない。誰かと唇を重ねるのが、だ。


(ええい、今はそんなこと言ってる場合じゃない……!)


 ことは一刻を争う。カミラは腹を括ってカイルの顎を持ち上げた。こんなときなのに心臓がバクバクとうるさい。でも、やらなくちゃ。

 まさか自分の初めてを、カイルに奪われるとは思っていなかったけど。そう思いながら濡れた髪を耳にかけ、思い切って頭を下げた。

 ところが、今にも互いの唇が触れるというところでふと──静止する。


「……」


 カミラは待った。横たわるカイルの顔を、至近距離からじっと見つめる。

 やがて彼の、男のくせに長い睫毛が、ぴくぴくと痙攣し始めた。しかしまだ目は閉じたまま、カイルは最後の悪あがきと言わんばかりに唇を突き出してくる。


 ……心配した自分が馬鹿だった。


「まあ、大変。呼吸が止まってるわ。水を吐かせてあげなくちゃ」

「ごふぅッ!?」


 次の瞬間、上体をもたげたカミラは、一片の情けもなくカイルの鳩尾に拳を突き入れた。途端にカイルは跳ね起きて、床の上でのたうち始める。

 そんな彼を冷ややかな眼差しで見下ろしながら、カミラは「なんだ、元気じゃない」と首筋に張りつく髪を払った。どうやら水に突っ込んだ拍子に髪紐がゆるんでしまったらしい。絞って結び直さなければ。


「ぐっ……か……カミラ……なんで途中でやめちゃうんだよ……!? 唇を奪うまであとちょっとだったのに……!」

「だってあんた、無理して息止めてるのバレバレだったもの。このカミラ様を騙そうなんて百年早いのよ」

「くそうっ……くそうっ……! もう二度と巡り会えないかもしれない千載一遇のチャンスだったのに、オレのバカッ……!」


 まったくこいつは、と呆れ果てながら、カミラは長い髪を絞った。まあ、見たところ特に怪我もしていないようだし、もう安心していいだろう。

 ようやく人心地ついて、深々と息をつく。とりあえず、お互い命があって良かった。下が水なら大丈夫だろうと高を括ってはいたものの、着水の仕方がまずかったら、こんな風に無事では済まなかったかもしれない。


「ほら」


 ほどなく立ち上がり、衣服の水気も絞ったカミラは、床に倒れたまま打ちひしがれているカイルへと手を伸ばした。カイルは床にできた大きな水溜まりから、目だけでカミラを見上げてくる。

 どこか猫っぽいライトグリーンの瞳が拗ねながらこちらを見ていた。あまりにもまじまじと見られるので「何よ」と声をかければ、カイルがおもむろに口を開く。


「あのさ、カミラ……こないだカミラが、川に落ちたオーウェンさんを助けたときも思ったんだけどさ」

「ん?」

「やっぱ、女の子って濡れるとエロいよね。髪はもちろん、服もぴったり肌にくっついて、こう、体の線が──オウフッ!?」


 礼を言う気も失せた。カミラは脛を蹴られて再びのたうち回っているカイルを放置し、ぐるりとあたりへ目を配る。そこは本来存在しないはずの第六層。罠に落ちた者だけが辿り着ける本当の最下層だ。

 もっとも()()()()()()が確かなら、ここには〝揺り籠〟の核以外何もない。本当にただ、罠に嵌まった愚か者をゆっくり殺すためだけの場所なのだ。


 現にカミラたちのいる申し訳程度の岸辺には、人骨がいくつも転がっている。彼らはここが監獄となる前に遺跡へ挑んだ冒険者か、はたまた監獄になってから脱獄を試みた囚人か……どちらにせよ、あまり気分のいい場所ではない。

 他に目につくものと言えば、天井が見えないほど高く(そび)える岩壁だけ。四方を囲む灰色の岩肌には、人がよじ登ろうとした痕跡が無数に残されている。


 爪で引っ掻いた痕や、真っ黒に変色した血痕。それらを目で追っていると夏だというのに寒気がしてきて、思わず自らの腕を抱いた。カミラは幽霊とか怪奇現象とかいうものを、怖いと感じたことがない。でも、ここには夢を目前にして死んでいった者たちの怨念が渦巻いていそうで、震えが走る。


「いやー、しかしさ、見事に落ちてきたよねー、オレたち。思ったより高くて、さすがのオレもちょっとビビッちゃったな」


 と、ときに背後から声がして、カミラは半眼のまま振り向いた。そこではようやく立ち上がったカイルが、何事もなかったかのように衣服の水気を絞っている。

 本当に立ち直りの早い少年(おとこ)だ。その上、めげない、懲りない、反省しないという三拍子が揃っているのだから手に負えない。

 こんな状況だというのに、左右の耳でそれぞれ違う耳飾りやら首飾りやらを気にして「あれ!? 首飾りが何個かなくなってる!? ショック!?」とか騒いでいるし。


「私は〝いいから行け〟って言ったのに……なんでついてきちゃったのよ、あんた」

「あはは、さあ、なんでだろーね? 気づいたら手が伸びちゃっててさー、あ、やべ、って思ったときには落っこちてたって感じ? ま、おかげでカミラと二人きりになれたから、オレとしては結果オーライってやつだけど?」

「……途中で謝ったのは、なんで?」

「へ? 〝謝った〟って?」

「謝ってたでしょ。落ちてる最中、私に〝ごめん〟って」

「あー……うん。ひょっとしたらそんなこと言ったかもなー」


 濡れた金髪を掻きながら、カイルもあたりに目を向けた。白骨死体を見つけたところで一瞬動きが止まったようだけど、すぐに視線を逸らしたところを見ると、見なかったことにしたらしい。


「まあ、ほら、今回ばかりはオレも死ぬかもなって思ったしね? だったら死ぬ前に、カミラには謝っときたいなーとかいう心理が働いたというか何というか?」

「私に何か謝るようなことしたの?」

「してるじゃん、いつも」

「……自覚があるなら少しは懲りなさいよね」

「うん。ごめん」


 そう言って、こちらへ向き直ったカイルはへらっと笑ってみせた。真面目に怒るのがほとほと馬鹿らしくなってくる、そんな笑顔だ。

 だからカミラは嘆息して、「まあ、いいわ」と次の問題へ思考を移した。何しろ自分たちは今、囚人救出作戦の真っ最中なのだ。いつまでもこんなところに閉じ込められているわけにはいかない。


「だけどまさか第六層まで落とされるなんて……さすがに想定外だったけど、私たちの目的を考えれば、ある意味僥倖だったかもね。ここからなら迷路を抜けなくとも第五層へ上がれるし」

「え? ここ、出られるの?」

「出られるわよ。合言葉を知ってれば」

「……カミラ、この遺跡に来てからなんか頼もしくなったよね。いや、頼もしいのは元からだけどさ」

「お褒めにあずかりどうも。こうなるとティノくんたちの方が心配だけど、向こうにもテレルがいるから何とかなるはず。上手くいけば、第五層で合流できるかもしれないし」

「テレルも道を知ってるの?」

「道順まで知ってるかどうかは分からないけど、私たちを追いかけてきた黄皇国兵、みんな変わった松明を持ってたでしょ。あの青い松明はホーゼの実から抽出した油を使ってて、あれで壁を照らすと光の線が浮き上がってくるの。そうして目印を追っていけば、迷わず出口まで辿り着ける。テレルならそれを知ってるはずよ」

「ほへー。ホーゼの実って、食べると酔っ払ったみたいになって幻覚が見えるっていう木の実だよね? まさかそんな使い方があったとはなー」


 感心するカイルの声を後ろに聞きながら、カミラは歩き出した。仲間たちには一応〝揺り籠〟の入り口を開けたときに、謎の仕組みで遺跡の知識を手に入れたと打ち明けてあるので、カイルも不思議がらずについてくる。

 元々古代人の遺跡というのは、現代の技術からは考えられない仕掛けやからくりが多いことで有名だった。皆もそのことは知っているから、カミラの異変についても〝まあ、そういうこともあるか〟程度に受け止めたようだ。


栄えあれ(フォルセ・トワード)


 やがて歩み寄った岩壁の前で、カミラは道を開くための合言葉を唱える。すると微かな揺れが足元を伝い、目の前の岩の一部が持ち上がった。

 後ろに立ったカイルはぽかんと口を開けて稼働する岩を見ている。実はここの岩にも特殊な塗料が塗ってあって、ホーゼ油の火で照らすと〝出口(リニアン)〟の文字が浮かび上がってくるのだが、カミラは手順を省略してしまったから、何も知らない彼が驚くのも無理はないだろう。


「うわっ、狭っ」


 と、ほどなく扉の先に現れた通路を覗き込んでカイルが言った。実際、岩を荒々しく穿っただけの通路はかなり狭い。一度中に入ってしまえば、両腕を広げるのも難しそうだ。高さの方はカミラやカイルならぎりぎり立って歩けるけれど、これがウォルドやヴィルヘルムなら、通り抜けるのに難儀したに違いない。


「しっかしさー、古代人もよくこんな手の込んだ建物を造るよねー。黄都のソルレカランテ城だって建築に五十年かかったって言われてるのに、こんだけあちこちに仕掛けのある遺跡を造ろうと思ったら、百年くらいかかるんじゃない? 丘の中を丸々建物にしちゃってるわけだしさ」

「……さすがにそこまでは私も分からないけど。でも、古代人はテレルと同じ希術が使えたらしいから。だとしたら案外、建築に時間はかかってないのかもしれないわよ?」

「希術って、さっきテレルが使ってたやつ? 確かにアレもすごかったよなー、まさか城壁の外から中のことを見透かしちゃうなんてさ。千里眼っていうの? さすがに神術ではああはいかないよね。何の神刻を刻んでるかによって、使える力が限定されちゃうし」

「ええ、まあ……」


 と曖昧な返事をしながら、カミラは壁にかかった常灯燭を見るともなしに眺めて歩き続けた。この通路はそんなに長くない。もう少し歩けば、すぐに上階へ続く梯子が見えてくるはずだ。

 だが逃げ場のない狭い通路に入ってしまうと、嫌でも背後のカイルを意識する。こんなところで異性と二人きり……というシチュエーションに対してではない。

 実はカミラは以前一度だけ、ウォルドに言われたことがあるのだ。

 カイルには気をつけろ、と。


 当時のことが、今になってまざまざと脳裏に甦ってくる。あれは確か、カミラとカイルが軍馬の調教役に選ばれたときのことだ。

 役職決めの会議のあと、ウォルドはカミラを呼び出して、カイルとは極力二人きりになるなと言ってきた。どうして、と理由を問い質してもウォルドは答えてくれなかったが、ただ一言、「あいつは信用できねえ」とそう言われた。


 ウォルドが何故そういう結論に至ったのかは分からない。けれどカミラは、あの筋肉ダヌキの直感と洞察力だけは信頼しているから、一応カイルの言動を注意して見るようになった。

 もっとも当初は、ウォルドの考えすぎだと思ったことも事実だ。だってカイルの動向には怪しいところなんて何もなかったし、どんなに観察を続けたところで〝ただのおちゃらけたやつ〟という印象が覆ることはなかったから。


 だからいつしかウォルドの忠告を忘れ、カイルに対する警戒もすっかり怠ってしまっていたのだが、ここに来て急に背後が気になり出す。何しろ今いるこの場所は、深い深い地の底だ。出口は分かっているとは言え、仲間とは別行動で、何かあっても助けに来てくれる者はいない。

 そもそもの原因はカイルだ。彼はさっき、どうして自分を助けようとしたのかというカミラの問いに「なんでだろーね?」と笑って答えた。

 カミラはそこに違和感を覚えたのだ。いつものカイルなら「カミラが好きだからに決まってるじゃん?」みたいな調子のいいことを言い出して、カミラをうんざりさせるはずなのに、今回はそうじゃなかった。


 いや、無意識のうちに体が動いたという理屈は納得できるし、助けようとしてくれたことは事実だと思いたい。だってカイルは自分のために命を投げ出してくれたのだ。罠に落ちる直前に見た、彼の眼差しは本物だった。

 でも、もしもすべてに裏があったら? あのウォルドの警告にも、実はカミラの知らない深い意味があったのだとしたら……?


(いやいや、考えすぎ考えすぎ)


 と、そこまで思い至ったところで、カミラはぶんぶん首を振った。元々カイルを好いてはいないが、これでも一応仲間だと思っている。

 彼とはもう何ヶ月もコルノ島で共に過ごした。助けられたのだって今回が初めてじゃない。確かにカイルはおちゃらけたやつだけど、馬の面倒をよく見たり、ライリー一味とカミラたちの間を取り持ったりと、ちゃんと救世軍に貢献してくれている。そんな相手を疑うのは、どうしても性に合わない。


「──あのさ、カミラ」


 ところが刹那、いきなり後ろから名前を呼ばれて、カミラは不覚にも肩を震わせた。


「全然、話は変わるんだけどさ。もしも話をしてもいい?」

「え……ええ、いいけど、何?」

「もしもさ。もしも……なんだけど。たとえば今の救世軍に、黄皇国のスパイなんかがまぎれ込んでてさ。それがカミラもよく知る相手だったりしたら……どうする?」


 額に嫌な汗が滲んだ。どうにか足は止めずに済んだが、カイルを振り返れない。

 ……どうしてこの状況で、そんな話題を振ってくるわけ?

 狭い通路に響いたカイルの声は、いつもよりワントーン低かった、ような気がした。さりとて特に緊張している様子でも、殺気立っている様子でもない。

 ただ、いつものようにふざけていないというだけだ。つまりカイルにとっては至極真面目な質問ということか。何故彼がスパイの話なんて思いついたのかは今は考えないことにして、カミラは足元に視線を落とした。


「……そうね。相手が誰かにもよるけど……自分が気を許してる相手なら、すぐには信じられないかな。本人を捕まえて、話を聞こうとするかも。何か事情があるんでしょ? って」

「だけどそいつの密告のせいで、救世軍がひどい目に遭ったりしたら? たとえば戦に負けたりとか──ジェロが、殺されたりとか」


 不意にジェロディの名前を出されて、息が詰まる。握った手の中にもうっすら汗が滲むのが分かった。

 ……ジェロディが殺される未来なんて、たとえ仮の話でも考えたくない。救世軍はジャンカルロ、フィロメーナと、既に二人も総帥を失っているのだ。

 それでなくともジェロディは、いつかハイムに体を乗っ取られ、存在が消えてしまうさだめにある。その事実を知ったとき、カミラは強く思った。


 彼を失いたくない、と。


「……それは、実際にそうなってみないと、分からない。でも、仮に私の目の前で、ティノくんにもしものことがあったら……」

「あったら?」

「……私、また自分を保てなくなるかも。フィロのときもそうだったの。あとちょっとで手が届くってところで、彼女を殺されて……私、狂った。憎しみに任せて、目につく黄皇国兵を全員惨殺したのよ。ウォルドに止められて我に返ってみたら、足元には原型を留めてない死体があった。……あんな殺し方は、もうしたくない」


 喋っていたらあのときの記憶が甦って、カミラは浅く唇を噛んだ。フィロメーナを失った悲しみと、自らの手で人を肉塊にした感触。双方を鮮明に思い出し、ぎゅうっときつく眉を寄せる。

 もしもあそこで、ウォルドが止めてくれていなかったら。そう思うと恐ろしくて、今でも眠れないことがあった。ロカンダの地下で殺した兵士の顔が、夢に出てくることもある。たぶん一生、あの日起こった出来事を忘れることはないだろう。


 フィロメーナを失ったという現実と、憎しみだけで人を殺めたという事実は、どちらも大きな傷となって今もカミラの中に居座っている。

 だけど同時に、この傷が痛み続けるから自分は戦えるのだ、とも思う。

 己の過ちを償いたい。それもまた、カミラが剣を振るい続ける理由だから。


「だから……だからね、カイル。私、今度こそちゃんと守りたい。救世軍のことも、ティノくんのことも……自分の力不足で大切なものを失うのは、もう嫌なの。そのためなら、たとえ気を許した仲間でも……私は、剣を向けるしかない」

「……うん」

「これからも一緒に守ってくれるわよね、救世軍のこと」


 カイルからの返事はなかった。二人の足音だけが、薄暗い通路に響き続ける。

 四半刻(十五分)ほど歩き続けると、やがて前方に壁が見えた。行き止まりだが、突き当りの岩には一定の間隔で金具が何個も打ち込まれている。

 第五層へ出るための梯子だ。登るわよ、と言って振り向けば、カイルも頷いた。ただしカミラとは目を合わせないまま。


開け(オンスクルト)


 気が遠くなるほど長い梯子の上には、四角く切り取られた穴があった。そこを塞ぐようにして、石の板が嵌め込まれている。

 板の中心には、赤色に閃く希石があった。手を翳して命じれば、希石の持つ力によって扉がひとりでに開いていく。テレルの千里眼と同じように、これもまた一種の希術ということになるのだろう。


(希術って、神術と違って適性とか素質とか必要ないのかしら)


 なんてことを考えながら穴から顔を出し、外の様子に目を配る。穴の外はさっきまでいた通路よりも暗い。監獄に造り替えるに当たって、この階層だけ常灯燭がかなり減らされたようだ。

 囚人を収容するための区画なのだから、まあ当然と言えば当然か。カミラはあたりに人影がないことを確認して、ようやく床から這い出した。続いて頭を覗かせたカイルに、すっと手を差し伸べる。


「ん」


 そう言って差し出された手とカミラとを見比べて、カイルは束の間目を伏せた。けれどすぐに右手を伸ばしてきたので、カミラは遠慮なくそれを掴み、穴の中から引っ張り上げる。


「……ここは?」

「第五層の一番奥。ここ、元々通路がつづら折りみたいになってて、左右に小部屋がいっぱい並んでたの。黄皇国はその小部屋の扉を壊して、牢屋に改造したみたいね。これだけ静かなところを見ると……ティノくんたちはまだ上の階にいるのかしら」


 試しに一番近くの房を覗いてみると、鉄格子の向こうは空っぽだった。さらに隣の房を覗けば、奥でボロ切れをまとった男が倒れている。

 「コラードさん?」と呼びかけてみたが、返事はなかった。何かが腐ったような臭いがするし、もしかして死んでいるのだろうか? カミラは眉をひそめながら腕で鼻を覆い、カイルにも向かいの房を確かめるよう手だけで示した。


「……って言ってもさ。オレたち、コラードさんの顔を知らないわけじゃん? やっぱここはメイベルちゃんがいないと、探すの難しいと思うんだけど」

「どうしても見つからないようだったら、みんなを迎えに行くしかないわね。だけどここにはテレルの恋人もいるかもしれない。それに一応、メイベルからコラードさんの特徴は聞いてきたわよ。身長は三十六(アレー)(一八〇センチ)くらいで黒髪、うなじの髪だけ伸ばしてて、いつもは一つに結ってたって。あとは人より肌が黒くて、体格は引き締まってるけど細めだとか──」

「──カミラ?」


 瞬間、にわかに名前を呼ばれて、カミラは思わず固まった。カイルに呼ばれたのかと思ったが、違う。彼の声はこんなに低くないし、老けてもいない。

 じゃあ、今のは幻聴? そう思いながら、目を細めて次の房を覗き込んでみる。

 常灯燭の明かりが届かず、かなり暗い鉄格子の向こうには人影があった。その人影は独房の奥で息を潜めていたようだが、カミラが鉄格子の前まで来るなり、ゆっくりと闇から這い出してくる。


「おい……お前さん……まさかと思うが、カミラじゃないのか?」

「えっ……」


 暗闇に隠れていた人相が次第にはっきりしてきて、カミラは図らずも息を呑んだ。うそ、と言いたかったが驚きのあまり声が出ず、茫然と立ち尽くしてしまう。

 だけど、間違いない。短かった黒髪は伸び放題、あんなにどっしりしていた体つきもずいぶん(やつ)れてしまったけれど、カミラはこの声に聞き覚えがある。


 しかし、信じられない。


 カミラの記憶が正しければ、目の前で鉄格子を掴んだ髭面の男は、


「スミッツ……!?」


 呼びかけた声が震えて、カミラはその場に膝をついた。


 彼の名はスミッツ。


 かつて共にゲヴラー一味を救った、あの鍛冶師のスミッツだ。



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