189.メメント・モリ
入り口が一つしかないというのは、ある意味幸運だったかもしれないな、とジェロディは思った。
だって、自分がもしこの監獄の守兵なら、何かあってもその入り口を守ればいいという結論に辿り着く。ここはほとんど絶壁に近い丘の上に建つ要塞で、しかも四方を囲む城壁まで備わっているわけだから、他の侵入経路はありえない。
麓から壁の天辺までの高さを測ったら、たぶん四枝(二十メートル)は優に超えるだろう。そんな高さを人が上り下りできるわけがない。とすれば侵入をたくらむ者は、必ずあの門を通ろうとする。だから有事の際は皆、門の防衛に駆けつけようとするはずだ。
果たして、ジェロディの予想は当たった。
「ホワワワワワワワワ……!」
麓から蛇行して伸びる石段の上に躍り出たウーが、とんでもない雄叫びを上げている。至近距離でまともに聞いたら、鼓膜が破れてしまいそうな甲高い絶叫だ。
彼は大音声を上げながら、左右の拳で自身の胸を交互に叩いた。猿人たちが身につけている木製の鎧は、叩くと太鼓に似た音がする。
ドンドンドンドンというその音色は、戦場で鳴り響く戦鼓の音を彷彿とさせた。そして黄皇国軍において戦鼓の連打は〝突撃〟を意味する合図だ。
「ホワワワワワワワワ……!」
ウーの雄叫びに呼応して、斜面のあちこちから突き出た岩の陰、樹木の梢などに身を隠した猿人たちが、一斉に絶叫した。彼らもまたウーに倣って胸を叩き、監獄の建つ丘は異様な叫声と鼓声に包まれる。
壁上で見張りについていた者たちが、色めき立つのが見て取れた。彼らはハーマンの下で訓練を受けた第五軍の兵士たちだ。
ならば当然、戦鼓の音を聞いたことくらいあるだろう。軍にいた経歴の浅いジェロディですらアレを連想するのだから、〝突撃〟を命じる音色が丘のあちこちから聞こえ出すという状況は、嫌でも心理的恐怖を掻き立てられるに違いない。
「く、くそ! 猿人だ、猿人族だ……!」
複数の足音が、城門のある北側へ慌ただしく駆けていった。ウーたちがいるのもそちら側だ。門の前に立っていた衛兵は、猿人たちが物陰から投じた投げ縄に絡め取られ、既に崖下まで引きずり下ろされている。
あとは閉じられた門を抉じ開けるのみ。事実、ウーは今にも門へ突撃する構えを見せた。ところがそれを阻まんと、壁上に集結した守兵たちが弓を構える。たった一人、開けた場所にいるウーはいい的だ。
「放て!」
指揮官らしき男が命じた刹那、複数の矢が弓弦を離れる音を合図に、ウーが巨体を踊らせた。石段の左右はかなり急な岩の斜面になっていて、そこに自ら飛び降りたのだ。だが当然、身投げしたわけではない。彼は落下しながら斜面に生える木の幹に掴まると、長い両腕を振り子のごとく使って一回転した。そうして見事樹上に着地し、腰に吊った弩へと手をかける。
「撃て!」
斜面のあちこちに隠れていた猿人たちが、同じく矢でやり返した。第一射を放ち、次の矢を番えようとしていた守兵たちが次々と弩の餌食になっていく。
喊声と悲鳴が入り混じった。さらなる応援の兵が北側へと投入される。──そろそろか。ジェロディは身を乗り出し、枝葉の狭間から見える壁上に目を凝らした。人の気配は……ない。守兵は皆、門の防衛に駆り出されつつあるようだ。
「よし、行こう」
ジェロディの合図に、かなりの至近距離から「よっしゃ!」という答えが返った。言わずもがな、ジェロディを背負ってくれている猿人族の勇士の声だ。
ジェロディたちは現在、監獄の南側にいる。門があるのとは正反対の位置だ。
そこに伸びる岩だらけの斜面に、数人の猿人たちが張りついていた。背中にはそれぞれ救世軍の面々を乗せて。
その猿人たちが一斉に動き出す。背中に人ひとり背負っているというのに、とんでもない移動速度だ。彼らはまるで平らな地面でも走っているみたいに、軽々と崖を登っていく。すごい。すごすぎて言葉もない。
「振り落とされンなよ!」
突き出た岩の先に手をかけ、膂力だけで跳び上がり、楽しそうに猿人が叫んだ。ジェロディは現在、腰の縄と自分の腕の力だけで彼の背中にひっついている状態だから、油断していると本当に放り出されそうな気がする。
ゆえに彼の赤茶けた体毛から漂う獣臭さを我慢して、回した腕に力を込めた。もうすぐだ。もうすぐ、城壁の真下に出る。
「ホッ……!」
やがて崖を登り切ると、勇士たちが次々縄を投げた。先端に鉄の錘がつけられた縄は、思いのほか鋭く飛んでいく。
ただ、二枝(十メートル)の距離はさすがに遠い。おまけに下から投げているから、縄は重力に逆らって飛んでいることになる。
当然、城壁の天辺までは届かずに落下を始めた。そこでジェロディの出番だ。カミラたちには強硬に反対されたが──今回だけは、神を頼る。
「行け……!」
ジェロディが手を翳して念じると、落ちかけていたはずの錘がぐんっと上を向いた。そのまま彼らは急上昇し、壁上にある矢狭間──弓を射る際に身を隠すための、鋸状の凹凸──の突起に結びつく。
勇士がかなりの力で引いたが、一度城壁に結わえられた縄はびくともしなかった。それを確かめた猿人たちはするすると城壁を登り始める。
いや、単なる比喩ではなく、本当にするすると登ってゆくのだった。垂直にそそり立つ石の壁に足をつき、両手で交互に縄を掴んで、彼らは崖を登るのと同じくらい軽快に進んでいく。
さすがは樹上で生活する種族というべきか。城壁を登る彼らの動きには淀みも無駄もない。おかげで半刻(三十分)とかからずに壁上まで到達できた。やはりこちら側に人影はない。騒然としているのは、ウーたちが暴れている北側だけだ。
「よし、作戦成功だな!」
と、同じく猿人たちに運ばれて城壁を登ってきたアーサーが、華麗に着地し胸を張った。続いてカミラ、マリステア、カイル、メイベル、そしてテレルを乗せた猿人も壁上へよじ登ってくる。
「ははっ、すげーじゃん! 軍のやつら、マジでこんな見え透いた陽動に引っかかったよ。まあ、フツーはあんな絶壁を登ってくるやつがいるとは思わないし、当然っちゃ当然かな?」
「確かにここまでは順調だけど……次は門を開けに行くのよね。ティノくん、平気?」
「ああ、僕は何ともないよ。だけどテレルの話が本当なら、ここから先は神術が使えない。城壁の外なら問題ないみたいだけど……」
言いながら、ジェロディは試しに右手を見つめて念じてみた。腰に差した剣を操り、手を使わずに抜いてみようとするが、いくら念じても上手くいかない。つい先刻、城壁の外では投げ縄を操ることができたのに、壁上へ上がった途端これだ。
テレルの話によれば、この監獄と周辺一帯──具体的に言えば丘の上、城壁の内側では、古代人が施した仕掛けにより神術が一切使えないらしかった。以前ジェロディが入れられた特別房と同じく、遺跡が神刻を無効化してしまうのだ。
一体どうすればそんな芸当が可能なのか、原理は分からない。けれどだからこそ黄皇国も、その特性を活かしてここを監獄に造り変えた。
試しにカミラも火を熾そうとしているが、いくら念じても火刻が反応しないようだ。「オレも無理ー」と言ってカイルが右手をぷらぷらさせているところを見ると、彼の雷刻も沈黙しているのだろう。
「わ、わたしも水刻が使えません……メイベルさんはいかがですか?」
「えっ? あ、あたしは……あたしも無理かなー? 聖刻がまったく言うこと聞きません、うん」
「ってことはやっぱ、オレらの中で戦えるのはジェロとカミラだけってことになるねー。二人とも頑張って!」
「カイル。あなたの腰についてる剣は飾りなの?」
「いやー、だってさ、オレの剣術って我流だぜ? 別に道場に行って鍛えてもらったとかそういうんじゃないし、中央軍の兵士を相手にするなんて無茶だって。あ、もちろんカミラがピンチのときには駆けつけるけどね?」
「君には最初から期待してないからいいとして、こっちの戦力は十人か。城門に守兵がどのくらい集まっているかにもよるけど……」
カイルの軽口には取り合わず、ジェロディはもう一度自身の右手を見下ろした。先行して城壁内に潜入したジェロディたちはこれからオーウェンやウォルド、ヴィルヘルムを招き入れるため、門を開けに行かなければならない。あの三人は上背がある分、体重もあって、猿人たちに運んでもらうことができないからだ。
かと言って監獄内では神術が使えない以上、彼らはどうしても戦力として欲しい。そこで門を開ける必要が発生するというわけだが、さすがにジェロディ、カミラ、アーサー、そして猿人族の数人だけで守兵に挑むのには抵抗があった。
(だったら僕がもう一度外へ出て、ハイムの力で門を開けば……)
という考えが、ジェロディにはある。既に先程力を使ったばかりだが、それこそが最も確実で現実的な方法だ。
再び猿人の背に乗せてもらい、崖へ戻って北側へ回り込めばその作戦も可能だろう。この力を上手く使えば、仲間を余計な危険に晒す必要もなくなる。
だがそんなことを考えていたら、不意に右手を掴まれた。
驚いて顔を上げると、目の前に真剣な顔をしたマリステアが佇んでいる。
「ダメですよ、ティノさま」
「え?」
「ハイムさまの力を使うのは、本当に必要なときだけです。さっきはティノさまのお力がなければ城壁をよじ登れませんでしたけど、今回は違います。と、戦えないわたしが言っても説得力がないかもしれませんが……で、でも、マリステアもできる限りのお手伝いはしますから……!」
両手でジェロディの右手を握ったまま、マリステアは必死な様子で訴えた。……見透かされた、のだろうか? ただ右手を眺めていただけで?
そう思ったら反応に困って、ジェロディは結局、苦笑した。自分の右手を包むマリステアの細い指を、握り返す。
「マリー。ほんと、君には敵わないよ」
「えっ。そ、そうですか?」
「うん。君とは約束しちゃったからな。遠くへ行かないって」
ジェロディがそう答えれば、マリステアは困ったように眉尻を下げて──そして、笑った。そんな顔をされたら、ジェロディはますます逆らえない。
こうなる前から分かっていたことだ。けれど最近、今まで以上に強く思う。
──マリーが好きだ。
叶うことなら、一瞬でも長く彼女の傍にいたい。ハイムの器ではなく、一個の人間として──ジェロディ・ヴィンツェンツィオとして。
「じゃあ、行こう。あの門は巻き上げ式だ。巻き上げ装置は門のすぐ脇にある。そうだよね、テレル?」
《……希石の啓示によれば、そうだ。装置は雌雄一対で、両方同時に回さないと動作しない。ただ、装置小屋の入り口は狭いから、そこを上手く使えば守りやすい》
「うん。一旦装置小屋に入ってしまえば、敵は少人数でしか攻めてこられない。そこを各個撃破して、門が開くまでの時間を稼ぐ。ただ、装置に辿り着く前に見つかったらおしまいだ。可能な限り隠密に行こう。アーサー、尖兵を頼めるね?」
「任せたまえ。我が耳をもってすれば、敵兵の位置など見えているも同然だ。安全を確認できたら尻尾を上げる。皆はそれを合図に進んでくれ」
かくして作戦の第二段階が始まった。ジェロディたちは城壁の階段を駆け下りて、まずは遺跡に走り寄る。かつてはキュンガ遺跡と呼ばれていたらしいその建物は、以前探索したクアルト遺跡ほど大きくはないが、外壁の凹凸が多かった。おかげで物陰に潜みながら前進することができる。
真夏だというのに、遺跡の壁は触れるとひんやりしていた。建物の角になっている部分には人の顔を模した正方形のレリーフが並んでいて、どれも苔生している。
ゆえに判別しにくいが、あれらのレリーフは一つ一つ、顔のモデルが違うようだ。男もいれば女もいる。
この遺跡は一体どんな目的で造られたものだったのだろう……と思いを馳せかけて、ジェロディは頭を振った。今はそんなことよりも、作戦に集中しなければ。
「……だけど、驚いた。角人族も希術を使えるんだね。希石を使って遺跡の中を透視するなんて」
と、メイベルが小さく漏らしたのは、一行がアーサーの合図を待って物陰に潜んでいるときだった。彼女の視線に気がついたのだろう、カミラにぴったりくっついたテレルが振り向いて、長い耳をぴくりと動かしている。
「希術って、アビエス連合国の魔女たちが使っている魔法のことだよね。連合国では魔法を使って、空飛ぶ船まで作ってるって聞いたけど……」
「ああ、飛空船のこと? 確かにアレ、余所の国の人には珍しがられるよねー。あたしたちにとっては当たり前の乗り物だけど」
「あ、当たり前って……連合国ではそのくらい、魔法の存在が民の暮らしに根ざしてるってことかな」
「うーん、まあね。あたしたちはアレを魔術だとは思ってないから。むしろ連合国があそこまで豊かになれたのは、口寄せの民が創る希石のおかげだし。あたしの師匠のマドレーン先生も口寄せの郷の出身だけど、建国の神子ユニウスさまと一緒にシャマイム天帝国を打倒したすごい人なんだよ。口寄せの民がほんとに魔界の手先なら、神子さまに協力なんてするわけないでしょ?」
《……口寄せの民が使う希術は、元々はハノーク人たちが使っていたものだ。だったらぼくらが希術を使うのは当然だろ》
「え?」
聞き捨てならない言葉を聞いたような気がして、ジェロディはテレルを振り向いた。が、同時にアーサーの様子を窺っていた猿人も振り返り、「進め」の合図を送ってくる。ジェロディたちの会話は中断された。テレルもそれ以上は何も言わず、走り出したカミラについていく。
(だけど、希術は元々ハノーク人が使っていた、って──)
つまり希術の発祥はハノーク大帝国にあるということか。そう考えたとき、ジェロディの脳裏をよぎったのはクアルト遺跡で目にしたゴーレムだった。
あの巨大な石人形は、内蔵された人工の魂によって稼働していたはずだ。魂の正体は体内に埋め込まれていた黄色い石で、ゴーレムの心臓となっていたその石からは声がした。同じように、カルロッタの船を動かす核石からも……。
ジェロディは駆けながら、隣を走るメイベルの手元に注目する。杖の先についた、透明な青い石。以前真っ黒お化けに襲われたとき、ヴィルヘルムがカミラの傷を癒やすために使っていたものとよく似ている。
魔導石──否、『希石』と呼ばれるモノ。
そうだ。同じだ。
メイベルが持っている杖は喋らないが、不思議な力を帯びた石を触媒にしているという点において、古代人の技術と口寄せの民が使う魔法は共通している。
『何も訊かないで、ハイムの神子。訊かれてもわたしは答えないし、この世には知らなくていいこともある。知ってはならないこと、知るべきではないこと──そして、知らない方が幸せなことがね』
刹那、あの日聞いたターシャの言葉が耳に甦って、ぞっとした。
それとときを同じくして、行く手でわっと喊声が起こる。
いつの間にか城門に到達していた。先行した猿人たちが、背後から守兵に襲いかかっている。その混乱を衝いてカミラたちも走っていた。鉄の門の左右に小さな入り口が見える。あそこだ。行かなくては。
「ティノくん……!」
先を行くカミラの呼び声に、ジェロディは頷いた。今はぼんやりしている場合じゃない。剣を抜き放ち、後ろへ続くマリステアとメイベルへ呼びかける。
「僕たちは右へ。二人とも、離れずについてきて……!」
「は、はい……!」
カミラがカイルとテレルを連れて左の装置小屋へ向かったのを見て、ジェロディも右の装置小屋へ急いだ。ほとんどの守兵は城壁に登って外の猿人たちの対応に追われているから、壁の下はがら空きだ。
けれど到着が遅れてもたついている兵士が数人、壁上へ至る階段の麓にいた。猿人たちがそこへ踊りかかる。気合と共に狼牙棒が振り上げられた。
けれど、直後。
「え──」
視界、が。
黒い、渦。いや、あるいは靄?
靄だ。そう、あちこちから噴き上がった黒い靄が、宙で蜷局を巻いている。
何だ、あれは。
いいや。ジェロディはアレを知っている。見覚えがある。
ロカンダ陥落の直前、フィロメーナを──そして、コルノ城でジェロディを襲った刺客を呑み込んだ、実体を持たない、闇の蛇。
(だけど、この数は──)
なんという数だ。視界の半分が覆われるほどの黒、黒、黒。
闇の蛇は、今にも猿人たちに襲われようとしている守兵にまとわりついている。
彼らの顔が驚愕と恐怖で歪んだ。直後、鋼の兜に狼牙棒がめり込み、頭の潰れた兵士があらぬ方向へ吹き飛んでいく。
「っ……!」
ひどい。ひどい、臭いだ。まるで濃縮された死臭。
内臓が迫り上がってくるような嫌悪感に、吐き気がする。
同時に視界がぐにゃりと歪み、足が竦んで、立っていられない。
「ティノさま……!?」
膝から崩れ落ちそうになったところを、マリステアに支えられた。
ああ。けれど、寒い。寒い。
神子になってから久しく感じていなかった、凍えるほどの寒さがジェロディを抱き締めている。歯の根が合わない。何故だ。今は真夏のはずなのに──
《目を背けるな、神子よ》
そのとき、頭の中で声がした。
《おまえも薄々気がついていたはずだ》
しかし、頭の奥ではっきりと響く声の主は、
《あれは、死だ。見届けよ。この生命神の神子として》
テレルじゃ、ない。
「──ジェロディどの!」
瞬間、キンッと鋭い音がして、目の前を剣光が走った。アーサーだ。宙高く跳び上がった彼が、ジェロディを狙って放たれた矢を弾いた。壁上では侵入者に気づいた守兵たちが、悪態をつきながら弓を構えている。けれど彼らにも絡みつく──死神の蛇。
「駄目だ……!」
無意識に叫んでいた。刹那、壁の向こうから飛んできた矢に貫かれ、守兵が城壁から落下した。グキリと嫌な音を立て、首があらぬ方向を向く。途端に靄はサアッと薄れ、文字どおり霧散した。
「やめろ……なんで……!」
なんでこんなものを見せるんだ。やめてくれ。見たくない。
だって、これじゃまるで、最初にあの靄を見た瞬間から──
(フィロメーナさんの死が、決まっていたみたいじゃないか……!)
きつく胸を押さえ、ジェロディは切歯した。胸焼けは続いている。吐きたい。胃の中が空っぽになるまで吐かないと、まとわりつく怖気から逃れられそうにない。
どんなに走っても乱れないはずの呼吸が乱れた。冷えきった体の中心で、心臓だけが熱を帯びて暴れている。何なんだ。何なんだ、これは!
「ジェロディどの、しっかりなされよ! 一体どうされたというのだ……!? このままでは狙い撃ちだぞ!」
アーサーの声がする。ぐわんぐわんと振り子のように揺らぎながら。
「アーサーさん、援護して下さい……! わたしがティノさまを……!」
「あ、あたしも手伝う……!」
マリステアやメイベルの声も、まるで壁一枚隔てているみたいに遠く聞こえた。
意識が途切れそうだ。
そう思った矢先に左右から脇を持ち上げられ、どうにかこうにか覚醒する。
マリステアたちに引きずられながら、やっとのことで装置小屋まで辿り着いた。
……そうだ。門。開けなければ。
依然寒気と悪心は続いているが、呆けていては全滅する。
「マリー……巻き上げ機を。入り口は、僕が守る……」
「で、ですがティノさま、お顔の色が……!」
「急がないと、カミラたちも危ない……メイベル、マリーと一緒に……」
「う、うん……! やってみる!」
紅藤色の可憐な外套を翻し、壁に設置された巻き上げ機にメイベルが取りついた。大きな舵輪のような形をしたそれは、彼女一人では重すぎてとても回せないだろうが、マリステアと協力すれば何とかなるはずだ。
ジェロディはよろめきながら立ち上がった。震えは止まらないものの、大丈夫だ。足元にはアーサーもいる。何よりマリステアを、守らないと。
「ジェロディどの、大丈夫か……!?」
「ああ……戦える。戦わないと──」
自分に言い聞かせるように答えるうちに、城壁を下りた兵士たちが殺到してきた。彼らも死神に抱きつかれている。ああ、僕はこれから彼らを殺すのだな、と思った。確信した。
事実、兵士たちはジェロディの剣に眼を突かれ、首を裂かれ、次々と斃れていく。扉のない装置小屋の入り口は狭く、せいぜい大人二人が並んで通れるかという幅だ。ここに陣取っていれば、敵は中へ入れない。
重々しく軋みを上げて、門が、開く。
「あと、少し……っ!」
苦しげなメイベルの声が聞こえた。背後でマリステアと二人、渾身の力で巻き上げ機を回している。ジェロディはあちこちから青い血を流しながら、しかし怯まず剣を振るった。大丈夫だ。ハイムの恩寵はあらゆる傷を癒やしてくれる。でも。
(代わりに、僕は死神になった──)
死を呼ぶ闇にまとわりつかれながら、敵兵が雄叫びを上げて迫ってくる。ああ。彼も死ぬのだ。そう思ったら、涙が溢れて止まらない。
黄都を出てからここまで、数え切れないほど人を斬った。彼らの死に心が痛まなかったわけじゃない。だけど、これはあの罪悪感とはまた違う。
ただ、ただ、苦しくてたまらない。だって、彼らはまだ生きているのだ。
生きているのに、
「がっ……!」
瞬間、ジェロディが踏み出すよりも早く、敵兵の首が飛んだ。噴き出した血が雨となり、バタバタと降り注いでくる。
「ジェロディ様、ご無事で……!?」
オーウェンだった。向こうにはウォルドとヴィルヘルムもいる。門が開いた。猿人たちも次々と飛び込んでくる。乱戦だ。
「よっしゃあ! 神子さんよ、あとは手筈どおりに……!」
喊声の渦の真ん中で、ウーが勇ましく叫んでいた。あちこちから猿人たちの甲高い雄叫びが聞こえる。守兵は完全に肝を潰されていた。総崩れだ。監獄内へ侵入するなら、今しかない。
「ティノさま、お具合は……!?」
行かなければ。凍りついた足を動かすためにそう念じていたら、マリステアに名を呼ばれた。朦朧としながら振り返る。駆け寄ってきたマリステアは、血と涙で汚れたジェロディの顔を見て、息を呑んだようだ。
「ティノさま──」
マリステアの肩が震えた。
──僕は大丈夫。
嘘でもいいから、いつもみたいにそう言いたいのに、喉が引き攣れて声が出ない。
「……マリー、僕は」
やっぱりもう、人間じゃない。
そんな言葉が口を衝いて出そうになった刹那、抱き竦められた。
気づいたときには、マリステアの肩に顔を埋めている。マリステアは全身を震わせながら、けれど温かな腕で必死に、必死にジェロディを抱き締めている。
「大丈夫です、ティノさま。マリステアがいます」
ここにいます。
耳元で囁かれたその言葉を聞いたら、また泣けてきた。今だけは許してほしいと思いながら、剣を握っていない方の手で、マリステアを抱き返す。
そうしてひとしきり彼女の体温に甘えたら、少しだけ震えが収まった。
地に足をついている感覚が戻ってくる。マリステアが、つなぎとめてくれた。
「……ありがとう、マリー」
顔は見えなかったけれど、彼女が笑ったのが分かった。体を離し、ほんの束の間、至近距離で見つめ合う。
大丈夫ですよ。星を宿したように輝く常磐色の瞳に、そう言われた気がした。
ジェロディの身に何が起こったのか、マリステアは正確には理解していないだろう。だけど、構わない。何があったってマリステアは傍にいてくれる。ジェロディは、それだけでいい。
「行こう」
マリステアが頷いた。死臭はまだジェロディにまとわりついているが、耐えられないほどじゃない。
装置小屋を出ると、皆が集まりつつ監獄の入り口を目指していた。四角い窪みの奥に、閉ざされた石の扉が見える。
テレルがカミラの服を引っ張り、彼女は言われるがままと言った様子で入り口へ手を翳した。すると地響きのような音を鳴らし、監獄が口を開ける。
《やっぱりおまえ、守護者の娘だな》
渦を巻く喊声の中、テレルの声が、聞こえた気がした。




