187.亜人の心
「カミラ、それ、古代ハノーク文字だ」
と、ジェロディがカミラの左手を見て言ったのは、ピヌイスの町が解放されてから間もなくのことだった。
つまり、カミラがペレスエラから星刻を受け取った直後のことだ。彼の視線の先には当然ながら星刻があって、「これ?」とカミラは左手を上げた。すると引き寄せられるようにジェロディの手が伸びてきて、手首を掴まれ、ぎょっとしたのを覚えている。
「やっぱり、間違いない。始世期末期頃の文字みたいだけど……どうして神刻に古代文字が? こんな神刻、文献でも見たことがない……」
「ちょ、ちょっと、ティノくん……!?」
カミラは慌てて手を引こうとしたが、思いのほか強い力でがっちり掴まれていて果たせなかった。互いの指と指とが触れ、恥ずかしくてたまらないのに、ジェロディは離してくれない。
彼は星刻に夢中だった。みるみる真っ赤になっていくカミラになんて気づきもせずに、じっと神刻の紋様に見入っている。蒼白い五芒星と、それを囲む謎の文字。文字は真円を描いており、遠くから見るとただの丸い模様に見えた。
ジェロディはその文字を古代ハノーク文字だと言う。つまり数百年前に滅んだハノーク大帝国の文字だということだ。
そんなものが、何故神刻と共に己の左手に刻まれているのかは気になる。確かに気になる。激しく気になる、のだが、ジェロディに利き手をぎゅっと握られたカミラは、正直そちらの方が気になって話が入ってこなかった。
前にケリーが、ジェロディは古代文明の愛好家だと言っていたのはこういうことか、と思い出す。しかし理解したときには既に遅し。太古の謎を目の当たりにしたジェロディは、己の握っているものがカミラの手であることなどすっかり忘れて、目の前の古代文字の解読に勤しんでいる。
「星……は、そこに在って……そこに在らず……? 時も、また然り……ゆえに……百の魂と……祈りをもって……固着する……させる……? 運命を……拓く……鍵……?」
なんのことだかサッパリだった。ジェロディにも意味が分からないようで、「解釈が違うのかな……?」なんて首を傾げている。
あの様子だと、カイルがカミラを見つけて乱入してこなければ、カミラはもうしばらくジェロディに捕まったままだっただろう。彼の手が離れた途端ほっとしたような、少し名残惜しいような、複雑な気持ちを覚えたことは今はいい。
カミラは蛙人族の長老グルに連れられて、岩の階段を下りながら、己の左手を撫で摩った。
──この先には、何かある。
先程からそう胸がざわついて仕方ないのは、何故だろう。
◯ ● ◯
ぞっと、背筋を悪寒が駆け抜けるのが分かった。
鉄格子の向こうから、真っ黒な瞳がいくつもジェロディを見つめている。
石牢の中は、薄暗い。ここはグルの屋敷の下、ジャラ=サンガの沼の底に、地刻の力で造られた地下牢だ。
「我々としても、本当は彼らをこのようなところに閉じ込めたくはなかったのですが……」
と、曲がった腰を瘤木の杖で支えたグルが、声音に無念を滲ませて言った。現在、牢の前にいるのはグルとアーサー、そして救世軍の面々だけ。他の者は何人たりとも──牛人族の長たるクワンさえ──ここには立ち入ってはならないことになっているらしい。
「これが、角人族……」
呻くようにオーウェンが吐き捨てたのが分かった。盗み見た彼の横顔はわずかに引き攣り、冷や汗が頬を流れている。
無理もなかった。ここにいる全員、角人族を見るのは初めてだ。人前には決して姿を見せない幻の亜人。それが、
(こんなに、醜い種族だったなんて……)
その名の由来でもある、額から生えた短い角。姿は人に近い形をしており、毛髪もあるが、体に比べて頭が大きい。皆、子供のような顔をしていて、瞳は真っ黒。人間と違って白目がないのだ。おかげで彼らの両眼は、何だか顔面に二つの穴が開いているかのようで、気味が悪い。
「ヒュイッ、ヒュウッ……!」
と、薄い唇から……吐息? あるいは鳴き声? のようなものを漏らした角人たちは、ジェロディたちの姿を見るや鉄格子から飛びずさった。
中にいるのは一、二、三、四……全部で六匹だ。……〝匹〟? いや、彼らも一応人類なのだから単位が〝匹〟はおかしい。正しくは〝人〟だ。でも。
(下半身が、獣……)
悪臭を発する魚油の灯火が、茶色い毛皮で覆われた角人たちの下肢を照らしていた。膝の関節が逆を向いた両脚の先には、二つに割れた蹄が見える。鹿の脚だ。
けれど額から生えている角は一本だし、肌色の皮膚に包まれていてあんまり硬そうじゃない。むしろ見た目はやわらかそうだ。
毛髪から飛び出した耳は長くて、先が尖っている。こちらも角と同じ肌色で、体毛には覆われていないが、明らかに異形と言って良かった。
「ジャラ=サンガで最も安全な場所が、ここです。里の者以外に、この場所を知っている者はおりません。ですので彼らを牢に隠すことにしたのです。初めは上で匿っていたのですが、牛人たちに隙を衝かれ、一人攫われてしまいましたので……」
「それが、クワンがハーマンに引き渡したという一人か」
「はい。ハーマンは残りの者たちを早急に引き渡さなければ、ビースティアへの攻撃を再開すると共に、捕らえた角人族の娘を殺すと言っております。娘を助けたければ自主的に軍門へ降るよう、彼らに伝えろと」
「こいつらはソレを理解してんのか?」
「さて、角人族は言葉を持ちませぬゆえ、我々には測りかねまする。ですが、ジェロディ殿──あなた様ならば、彼らの声が聞けるはずです」
「……え?」
ジェロディはいつの間にか汗をびっしょりかいた体で、グルの方を振り向いた。そこでジェロディの異変に気がついたのだろう、マリステアがはっとした様子で、隣から肩に触れてくる。
「ティ、ティノさま、お顔の色が……大丈夫ですか?」
「あ、ああ……大丈夫。ですがグル殿、僕なら彼らの声を聞けるというのは、どういう……?」
顎を伝って滴り落ちようとする汗を拭いながら、ジェロディは尋ねた。今、この場ではとても言えない──角人族を一目見た瞬間から、頭の中でハイムの声がするなんて。
──殺せ。
と、あの晩ピヌイスで、カミラを魔族の手に渡すなと命じた声が囁いた。
──殺せ。殺せ。殺し尽くせ。
──やつらを生かしておいてはならない。
──殺せ。一匹残らず。
──殺せ。殺せ。
殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ。
(何を言ってるんだ、ハイム)
と、額に手を当て、そう念じた。すべての生命の平等と尊厳を説いた神が、目の前の亜人たちを殺せ、だって? ハイムがそんなことを言うはずがない。
ならばこれは、誰の声だ?
《おまえ、神子か?》
刹那、頭痛を治めようと息を詰めたジェロディの耳に、知らない声が飛び込んできた。
《神子だな。〝声〟が聞こえる》
…………誰だ?
《まだ分からないのか、テヒナの狗め》
ジェロディは茫然と、鉄格子の向こうを振り向いた。
そこで細すぎるほど細い肩を寄せ合い、震えている角人たちの中に一人、憎しみを込めてジェロディを睨んでいる者がいる。まさか彼が、
《そのまさかさ、神子。ぼくの名前はテレル。聞こえているんだろう? しらばっくれても無駄だからな》
声。やはり聞こえる。試しに耳へ手をやってみるが、聞こえ方は変わらない。
だとしたら──頭の中?
ハイムの声と同じく、頭の中から聞こえているのか。とすると、竜父たちが竜の姿のときに使っていた〝心話〟。あれと同じ力なのかもしれない。
《へえ。おまえ、竜に乗ったことがあるのか。大層なご身分だな。ぼくたちはおまえら人間に追われて、毎日生きるだけで精一杯だっていうのに》
テレルと名乗った角人は、牢の中で口角を歪めていた。獣人たちと違い、亜人の顔立ちは人間に近いから分かる。あの顔は、侮蔑と嘲弄の表情だ。
「ま、待って……何、これ? さっきから頭の中に、声が……」
ところが不意にそんな声がして、ジェロディは驚いた。声の主はカミラだ。彼女はひどく困惑した様子で額を押さえ、ジェロディと同じく冷や汗を流している。
「何? カミラどの、まさか貴女にも彼らの声が聞こえるのか?」
「あ、アーサーには聞こえないの? みんなは?」
「いやいやいや、オレもなんも聞こえないけど!? カミラには聞こえてんの!? なんで!? どうして!?」
「わ、分からない、けど……さっきからテレルっていう……男の子? が、ティノくんのことを神子、神子って……」
皆の驚きの視線が、今度はジェロディに突き刺さった。いや、けど、見つめられたってジェロディにも分からない。何が何やらさっぱりだ。
「やはり……むかし伝え聞いた話によりますと、角人族の言葉は、神の魂を宿す者には等しく理解できるのだそうです。彼らは竜族が使う〝心話〟に近い能力を持ち、仲間同士では角を通して会話する。大神刻がもたらす恩寵は、その心の声を読み取ることをも可能にするようですな」
「は? なら、ジェロが角人族の声を聞けるのは分かるけど──なんでカミラも?」
という、カイルが発した至極当然の疑問が、再び皆の視線をカミラへ集めた。そこでカミラもはっとしたらしく、とっさに自身の左手を押さえている。
──星刻。
まさかあれの力だというのだろうか。けれど星刻は大神刻ではないと、ペレスエラがそう言っていたはずだ。だとしたら、何故……?
「あっ……そ、そう言えばカミラさん、最近左手に変わった神刻を刻まれてましたよね? 確か、星刻とかいう……ピヌイスの神刻屋で見かけて買ってみたけれど、何の力が使えるのか分からないと……もしかして、あの神刻のせいでは……?」
「えぇーっ!? カミラ、そんなもん刻んでたの!? ってことは二刻使い!? いつの間に!? オレ聞いてないんですけど!?」
「い、いや、だって、ほんとに何の神刻か分からなくて……お、面白そうだからって買ってみたものの、使い方が分かるまでは黙っとこうと思ったのよ。一回だけ力が暴走して、ひどい目に遭ったけど……」
「なんだよー!? じゃあオレにも教えてよ!? 言ってくれたらオレだって、文字どおり手取り足取り一緒に使い方を考えたのに──っていだだだだだだだッ!?」
「それより今は角人族だ。ジェロディ、その者たちは何と言っている?」
カイルの短い金髪を鷲掴みにしたヴィルヘルムが、上手い具合に話を逸らしてくれた。星刻が大神刻と同じ、この世にたった一つしか存在しない貴重なものだなんてことがカイルに知れたら、絶対あちこちで言いふらされるに決まっている。
だからジェロディはヴィルヘルムの機転に感謝して、もう一度角人族に──テレルたちに向き直った。心話……というものの使い方がよく分からないので、とりあえず口で直接話しかけてみることにする。
「テレル……といったね。僕はジェロディ、君の言うとおり神子だ。なりたてだけどね。僕の右手には、生命神ハイムの御霊が宿っている。……言葉、通じてるかな?」
《馬鹿にするな。聞こえている。……そっちの赤髪は、何者だ? ぼくらの声が聞こえてるらしいじゃないか》
「彼女はカミラ、僕の仲間だ。だけどカミラは神子じゃない。どうして彼女にまで君の声が聞こえているのかは、よく分からないけど……」
《赤髪の一族……》
と、そのときテレル以外の声がした。震えているが、可憐な少女の声だ。あの中の誰かの声と思しいものの、分からない。角人族は口を閉じたまま会話するから、誰が話しているのか外から判別するのは至難の業だった。
《やっぱり十賢者の一人、か? だけど〝カミラ〟なんて聞いたことないぞ……偽名を使ってるなら分かるけど、だったらどうして神子なんかと一緒にいる?》
「い、いや、えっと、あなたたちが何を言ってるのか、サッパリ分からないんだけど……赤髪の一族って、何? うちはお母さん以外、お父さんもお兄ちゃんも赤い髪よ」
と、依然困惑した様子でカミラが言えば、ヴィルヘルムがぴくりと反応した──ような気がした。彼は隻眼を細めると、角人たちを睨むように見やり、次いでジェロディに視線を移してくる。
「ジェロディ、角人たちは何の話をしているんだ?」
「い、いや、彼らもどうしてカミラに自分たちの声が聞こえるのかと……赤髪の一族とか、十賢者がどうとか言っていますが……」
「いま重要なのは、何故カミラにも声が聞こえるかではなく、ハーマンが角人族を狙う理由だ。長老、これまでの経緯については、ここでお話いただける約束だったが?」
あからさまに話を逸らされた。そんな気がした。だがジェロディが言葉を継ぐよりも早く「そうだ、まずはそれが聞きたい」とオーウェンが同意する。
彼は純粋な興味からそう言っただけで、ヴィルヘルムに荷担したわけではないのだろう。しかしジェロディは納得がいかなかった。カミラのことも大神刻のことも、ヴィルヘルムは何か知っている風なのにすべてを語らない。ゆえに繰り返し同じ疑問が脳裏をよぎる。
──あの人は一体、何を知っているんだ?
「そうですな……では、お話しましょう。ハーマン・ロッソジリオの狙いが今、ここにいる彼らであることは既にご存知のとおりです。我々蛙人は二ヶ月前、黄皇国軍に追われ、ビースティアへと逃げ込んできた彼らを匿いました。角人たちとは言葉が通じませんが、彼らが軍に追われる理由はおおよそ察しがついたからです」
「その理由というのは?」
「……これは決して口外しないでいただきたいのですが、彼ら角人族は、古代ハノーク文明の知識を今に受け継ぐ一族です。彼らは歴史上、古代人たちと深い関わりを持ち、《大穿界》によって滅んだハノーク大帝国の一部を託された。すなわち、古代人たちが戦争で使用していたという神術兵器やそれらに類するもの──その製法と、再現を可能にする技術です」
誰もが息を呑み、目を見張った。神術兵器。カルロッタが海賊船に積んでいる神術砲のような──いや、あれを搭載しているクストーデ・デル・ヴォロ号だって、元を正せば古代人の技術で生み出された神術船だ。
あれらのような古代文明の遺産を、再びこの世に生み出す知識と技術。
今、目の前にいる亜人たちはそれを持っている。だからハーマンは彼らを狙っている。神術兵器を──人智を超えた破壊の力を、手に入れるために。
「馬鹿な、ハーマン将軍が神術兵器を……!? そんなもんを手にいれて、あの人は何をするつもりだよ!? というかハーマン将軍は、そもそも神術兵器なんかに頼って戦うようなお人じゃ……!」
「──ルシーンだな」
「は……!?」
「どっちかっつーと、これはハーマンの意思じゃねえ。神術兵器を欲しがってるのはたぶんルシーンだ。あの女は魔界とつながってる。人類の滅亡を望む魔界の手先なら、人間どもを一度に大量虐殺できる力が目の前にあれば、欲しがるのは当然だろ?」
ウォルドが無精髭を撫でながらつまらなそうに言い、話を聞いたオーウェンは立ち尽くしていた。ジェロディもまた、全身から血の気が引いていくのを感じる。
ルシーン。またルシーンなのか……。
《だからぼくたちはどこへ行っても、人間たちに追い立てられる。エレツエル人はぼくらを災厄を招く存在だと言って殺戮し、他の国のやつらはどいつもこいつも神術兵器を欲しがって、ぼくらを奴隷にしようとする……》
「……君たちは本当に、神術兵器を作れるの?」
《作り方は知ってるし、たぶん作れる。だけどここにいる誰も、実際に作ったことはない。作っちゃいけない》
「どうして? 神術兵器の力があれば、君たちは君たちの身を守れるはずだ。あれらの兵器の前では、人間なんて──」
《──ぼくだってできることならそうしてやりたいさ! ルエラを攫った連中なんて、皆殺しにしてやりたい……! だけど誰かが神術兵器を生み出せば、人間たちはますます力に魅入られてぼくらを狙う。そうなったら他の土地にいる仲間まで……だから、ぼくは……ごめん……ごめんよ、ルエラ……》
──守ってあげられなかった。
そう言って、テレルは泣いた。真っ黒な瞳から大粒の涙を流して、泣いた。
そんなテレルを、彼の仲間たちが抱き寄せる。一緒に泣いている者もいる。
角人族も涙を流すのだ。当然だ。
彼らは自分たちと同じ、命も心もある存在なのだから。
「そのルエラっていうのが、ハーマンに引き渡された子の名前?」
と、ときに鉄格子を掴み、問いかけた者がいる。他でもないカミラだ。
彼女は空色の瞳いっぱいに怒りを湛えてテレルを見ている。
何に怒っているのか? 答えは聞くまでもない。たぶん、ルシーンに、だ。
《……そうだよ。ルエラ……ぼくの恋人。やつらは彼女を人質に、ぼくたちを従わせようと……》
「ってことは、ルエラは無事なのよね。きっとどこかで監禁されてる。いるとしたら、ハーマン・ロッソジリオの城とか……?」
「いや、あるいは──フォルテッツァ大監獄。ハーマン将軍が治めるオディオ地方には、古代人の遺跡を改造して造られた罪人の収容施設があるんだ。俺だったら、どうしても逃したくない貢ぎ物はあそこに閉じ込める。何せ三百年前から難攻不落、脱出不可能と謳われてる監獄だからな」
カミラの口振りから会話の流れを察したのだろう、横槍を入れたのはオーウェンだった。フォルテッツァ大監獄の名はジェロディも聞いたことがある。というか、トラモント人であの監獄の名を知らない者はいないに違いない。
一度入ったら死ぬまで出られないと言われている〝地獄の入り口〟。あそこには終身刑を言い渡された重罪人の他にも、何らかの事情で処刑に踏み切れない危険人物が多数収容されていると聞く。
ライリーの義兄であるマウロが過去にあそこへ入れられ、脱獄に成功したという話は聞いたが、それ以外に出てこられた者の名をジェロディは知らなかった。かつて読んだ文献によれば、フォルテッツァ大監獄では今も古代人たちの仕掛けたからくりが生きていて、中は迷宮同然の造りになっているのだという。
「だったら何とかしてその監獄に入れませんか? このままじゃルエラが殺されちゃう。かと言ってここにいる角人たちを差し出すわけにもいかないし……」
「おいおい、無茶言うなよ。フォルテッツァ大監獄は出るのはもちろん、入るのだって至難の技だぜ。入り口は正面一つだけ、入れるのは限られた獄卒と、ハーマン将軍の許可をもらえた人間だけだ。仮に潜入できたとしても、バレずに脱出するのは不可能だろうし……」
「そもそもハーマンとの約束の期日まであと六日だろ? こっからフォルテッツァ大監獄までは、結構な距離があったはずだぜ。潜入するにしても時間が足りねえ。人質を解放できたところで、獣人区への攻撃が止まるわけじゃねえしな」
「んー、だったらさ、人質をもう一人追加してもらうとかは?」
「は?」
と、不意に上がった提案に、皆が声を揃えて振り向いた。
頭の後ろで両手を組み、平然ととんでもないことを言い出したのはカイルだ。彼はこともなげに仲間を見渡すと、にかっと笑って言葉を続けた。
「お国側としてはさ、どうせ捕まえるなら一人でも多く角人を捕まえたいわけじゃん? だって幻の種族だよ? これを逃したら次はいつ会えるか分かんないわけだし? だったらいま確保してる一人だって、ほんとは殺したくないはずだろ? そんなら今、ここにいる角人族の中からもう一人将軍に差し出して、こう言えばいいんじゃないかな。〝蛙人族の妨害が激しくて、今度も一人しか捕まえられなかったけど、次こそは全員連れてくるからもう少し時間を下さい〟って」
正直ジェロディは呆気に取られた。まさかカイルの口からまともな献策が出てくるなんて、夢にも思っていなかったからだ。
しかし確かに彼が言った方法なら、時間を稼ぐことは可能かもしれない。付け加えて〝人質を殺されれば、残りの角人たちは黄皇国に従わないだろう〟とでも言葉を添えれば、ハーマンの選択肢は限られてくる。
もしもウォルドの言うとおり、彼の背後にルシーンがいるとすれば、事を仕損じるわけにはいかないからだ。迂闊に人質を殺して残りの角人たちに自死でも選ばれたら、彼としてはたまったものではない。
古代兵器への手がかりを失ったルシーンは間違いなく激昂し、ハーマンを大将軍の座から追放するくらいのことはするだろう。かつて彼女の腹心だったマクラウドすら、度重なる失態を理由に憲兵隊長の座を追われたのだから。
「だが、もし捕らえられた角人が監獄にいなかったらどうする? いくら時間を稼げても、それでは無駄足だ。第一ウォルドの言うとおり、人質を解放したからと言って黄皇国軍の攻撃が止まるわけでは──」
「だったら牛人たちに時間を稼いでもらっている間に、島から軍を呼び寄せましょう。ハーマン将軍の狙いが神術兵器なら、これを阻止しないわけにはいかない。事情を説明すれば、トリエもそう判断してくれるはずです。グル殿、実はムワンバの丘の東に僕たちの仲間が待機しているのですが、川を使って最短で移動するとしたら何日かかりますか?」
「ふむ……正確な場所が分からねば何とも言えませんが、タリア湖へ注ぐ流れに乗れば、蛙人なら二日で到達できます」
「では、使いを頼んでもよろしいでしょうか。コルノ島で待機させている二千の救世軍に、ビースティアへの上陸を命じます。場合によっては、先程上でお話したとおり、あなた方には里を捨ててコルノ島へ移っていただくことになるかもしれません。構いませんか?」
ジェロディがグルをまっすぐ見つめてそう言えば、皆が息を飲むのが分かった。
たった二千の軍勢で、十倍の兵力を持つ第五軍と対峙する。ジェロディとてその愚かさを理解していないわけではない。けれど。
「……本当にやるんですね、ジェロディ様」
「ああ。これ以上この国を、ルシーンの好き勝手にはさせない。神術兵器なんてものがあいつの手に渡ったら、どうなるかは目に見えているからね。下手をしたら内乱どころか、エレツエル神領国とも戦になりかねない。そうなる前に──ハーマン将軍をお止めする」
「あ、あの! それなら!」
と、刹那、響き渡った少女の声に、ジェロディは目を丸くした。
とっさに仲間たちと顔を見合わせるが、誰もが身に覚えのなさそうな面持ちをしている。ならば角人かと鉄格子の向こうへ目をやるも、彼らも首を振るばかり。
角人の身体言語はよく分からないものの、あれはたぶん否定の意味と取って間違いないだろう。しかし、だとすると今の声は──と疑問に思っている間に、再び同じ声が飛んでくる。
「そ、それならあたしの知り合いに、ハーマンの副官だった人がいるの……! あいつならオヴェスト城の内部についても詳しいし、ハーマンをやっつける方法も知ってるかも……!? こ、ここから出してくれたら、その人の居場所を教えます!」
耳を澄ますまでもなかった。聞き覚えのない少女の声は、テレルたちが入れられている独房の隣の隣から聞こえてきた。
何事かと目をやれば、そこでは見知らぬ少女が鉄格子に取り縋っている。ジェロディともさほど歳が変わらないと思しい、珍しい髪色をした少女だ。
「あ、え、えーっと、じゃあ、自己紹介! あたし、メイベル・ティランジアって言います! アビエス連合国のマグナーモ宗主国から旅してきました! 職業は退魔師です! よ、よろしくっ!」
淡い菫色の髪を二つに結い上げた少女はそう言って、にこっと愛想を振り撒いた。明らかに表情が引き攣っているものの──どうやら彼女は、人間みたいだ。




