186.つなぐ炎
蛙人族の里の第一印象は、率直に言うなら〝生臭い〟だった。
肌に絡みつく湿気も不快だが、何よりカミラを苦しめたのがこの臭いだ。魔物たちが振り撒く瘴気の臭いに比べればまだマシとは言え、なんというか……魚臭い。蛙人たちの主食は沼の魚で、それが里の至るところに吊られたり干されたりしているせいだ。
さらに家と家の間に渡った橋を一歩進む度、後ろからマリステアの「ひっ……」という悲鳴が聞こえる。特に支えの柱もなく、前後の家屋と縄でつながれているだけの浮き橋は、歩くだけでひどく揺れるのだった。
かと言って転落防止の柵も掴まるための手摺もないので、カナヅチのマリステアはかなり恐ろしい思いをしているようだ。いざとなれば飛び込んで助ける心の準備はあるものの、さしものカミラも一族の長と会う前にずぶ濡れになるのは、できれば勘弁願いたかった。
「てかさー、思うにこの浮き橋、よく沈まないね? どーやって浮いてんの? こんだけの人数がぞろぞろ上を歩いてんのに……しかも牛人まで一緒だよ? 絶対重いよね、これ」
「ジャラ=サンガの家屋や橋は、すべて〝サハー〟と呼ばれる浮き木でできています。サハーは非常に軽く、二十葉(一メートル)四方の板であれば、人ひとり乗せても沈みません。我々の暮らしには欠かせない木材です」
「へえ、そりゃすげえ。その浮き木ってのは、ここでしか採れねえもんなのか?」
「ええ、少なくともビースティアでは。ただし採集場所はお教えできません。あれが人間たちの手に渡れば、里の守りに支障をきたしますから……」
「確かに、そんな樹木をもし軍事利用されでもしたら、里はひとたまりもないだろうな。俺たちが拠点にしているコルノ島と同じだ。黄皇国は水上の戦力に乏しい。だからこそ水による守りが成立する」
前を歩く仲間たちが案内役の蛙人とそういった話をしていて、なるほどなあ、とカミラは思った。トラモント人は第二軍の水兵たちを除いて、みな泳ぎが得意でない。だから水のある場所に攻め込むことを躊躇する。しかも相手が水を知り、水と共に生きる種族とあればなおさらだ。
改めて里を見渡すと、水の上でゆらゆら揺れる浮き橋の上ではたくさんの蛙人が暮らしていた。魚がいっぱいに入った籠を背負って歩いている者もいれば、釣りをしている者もいる。葦を編んでいる者もいるし、沼で洗濯をしている者もいる。
見渡す限り蛙、蛙、蛙だ。誰も彼もが布を巻きつけたような衣服に身を包んでいるから人っぽく見えるものの、裸になったらたぶん、二本足で歩くただの大きな蛙にしか見えない。彼らは靴を履かず、水かきと吸盤のついた足でペタペタと橋を渡っているし、手の指も四本。左右に飛び出した目は瞳孔が横向きで、近くで見ると結構怖い。
「なんか、私……郷に帰ったらもう蛙食べられないかも……」
「俺はお前が蛙を食うことに驚きだけどな。ケリーが聞いたらたぶん卒倒するぞ」
「え? なんでケリーさんが?」
「なんでって、そりゃあいつが大の蛙嫌いだからだよ。本物の蛙はもちろん蛙人もダメ。虫だの蛇だのは平気なくせに、蛙だけは受けつけないらしいんだよな」
「え……えぇっ!? あのケリーさんが……!?」
そのとき、すぐ前を歩くオーウェンから驚愕の事実を聞かされて、カミラは素っ頓狂な声を上げてしまった。おかげで里中の蛙人の視線を浴びる羽目になってしまったが仕方がない。だってケリーにも苦手なものがあったなんて初耳だ。しかもそれがまさか──蛙、だなんて。
「い、意外すぎるんですけど……!? マリーさん、知ってましたか……!?」
「い、いえ……わたしも初耳ですよ、オーウェンさん……!?」
「なんだ、マリーも知らなかったのか? まあ、黄都じゃ滅多に蛙なんて出ないし無理もないか。あいつも普段は隠してるしなあ」
「え、ちょ、ちょっと待って下さい? じゃあもしかして今回、ケリーさんが一緒に来なかったのは……私、騙された……?」
「騙されたって、何のことだ?」
「い、いえ、何でもないです……」
まさかケリーからオーウェンに華を持たせてやるよう頼まれたとは言えるはずもなく、カミラは目を泳がせた。そうして視線をさまよわせた先にも蛙人がたくさんいて……蛙人? あれは本当に蛙人だろうか? 何だか体が小さいし、ヒレ状の長い尻尾が生えているような……ああ、そうか。彼らは蛙人族の子供なのか。
きっとまだオタマジャクシから大人になる途中で、尻尾が……オタマジャクシ? そう言えば蛙人って、生まれてくるときはオタマジャクシの姿をしているのだろうか? だとしたら、人型だけど実は卵生だったり……?
「フン。確カニ、カエルドモハ、ヌルヌルシテイテ、毛皮ガナイ。指ガ少ナイカワリニ、舌ガ伸ビル。気味ガ悪イノハ、事実ダナ」
「それを言うなら、貴殿ら牛人族だってそうであろう。図体ばかりデカくて言葉は通じず、おまけに短気で乱暴者。できれば近づきたくないのはこちらとて同じだ。侵略者に尻尾を振った家畜どもめ」
「ナンダト……!」
「やめたまえ、クワンどの! 蛙人族のお歴々も、気が立っているのは分かるがここは冷静に。我々はあなた方と争いに来たわけではないのだ。そうでしょう、ジェロディどの?」
「ああ、君の言うとおりだよ、アーサー。そもそも、人間の世界しか知らずに育った僕には牛人族も蛙人族も、どちらも同じくらい興味深い。できればもっと色々と、あなた方のことを知りたいです」
と、案内役に続いて先頭を歩くジェロディが言えば、途端に牛人も蛙人も、両者ぐっと押し黙った。あんな屈託のない顔で〝どちらも差別しない〟なんて言われたら、まあそうなるのが当然だ。
ジェロディはそれを分かってやっているのか、はたまた天然なのか。どちらにしても大物だな、という結論にカミラは達した。
おかげでカミラたちは順調に、自分たちが今は中立の立場であることをアピールできている。この獣人区では力の牛人と智の蛙人、どちらを敵に回しても厄介だ。
第一救世軍は、獣人同士の諍いを仲裁するために来たわけじゃない。敵は獣人区侵略をもくろむ黄皇国。やつらが再び動き出す前に、どうにかして種族間の亀裂を修復しなければ、事態は最悪の方向へ転がり出してしまうだろう。
「長老様にお取り次ぎを。牛人族の大戦士クワンと、救世軍総帥代理のジェロディ殿がお見えだ」
やがてカミラたちが案内されたのは、里の中心にある最も大きな建物だった。大きいと言っても造りは他の家屋と同じで、壁がない。浮き板の上に柱を立て、間に簾を垂らしているだけの、かなり開放的な建物だ。
恐らくここは年中湿度が高いから、通風性を重視して壁が取り払われているのだろう。屋外と屋内を遮るものが簾一枚というのはいささか無用心すぎるような気もするが、それだけ平和で外敵も少ない里なのかもしれない。
円を描くように巡らされた柱の上には、真ん中だけがツンと尖った草葺き屋根が乗っている。その下に一ヶ所だけ、簾ではなく渦巻き模様の描かれた布の垂れている場所があった。
そこが建物の入り口らしく、棍を手にした見張りの者が立っている。あれが蛙人族の戦力である〝僧兵〟というやつか。一行を案内してくれた者たちもそうだが、彼らは独特の形状をした衣服の肩から帯状の布を垂らしていた。
オーウェン曰く、あの布が僧兵と呼ばれる者たちの目印らしい。蛙人族は争いを嫌う種族だが、無私の境地へ至ることを最高の誉れとし、そのために己の心身を鍛え抜く。そうした修行の中に自ら身を置いているのが僧兵だ。
彼らは外敵と戦うためではなく、己の弱さや惰性と闘うために武芸を磨く。だから得物も殺傷能力の低い棍なのだとか。しかしそんな彼らが里を守るための兵力となっている現状が、カミラは少しやるせなかった。
「どうぞ。長老様がお待ちです」
ほどなくカミラたちは建物の中へ通される。向かった先は尖った屋根の真下にある円状の広間だった。そこには机も椅子もない。あるのは広間の形に合わせ、円を描いて置かれた敷物だけだ。そして敷物の上には、僧衣をまとった蛙人族の僧兵たちがずらりと並んで座っている。中でも目を引くのは入り口正面、一際大きな敷物の上で胡座をかいた老齢の蛙人だった。
「ようこそおいで下さいました、ジェロディ・ヴィンツェンツィオ殿。我ら一同、あなた様のお越しを、首を長くしてお待ち申し上げておりました」
そう言って床に手をつき、深々と頭を下げた老蛙人の顎からは長い髭が生えている。……蛙なのに何故髭が生えているのだろう。さっきクワンも、蛙人には体毛がないと言っていたじゃないか。カミラがそんな場違いなことを考えていると、老蛙人に続いて居合わせた僧兵全員が座ったまま一礼した。一糸乱れぬ彼らの動きは壮観で、思わず呆気に取られてしまう。
「あなたが、蛙人族の長老のグル殿ですか」
「左様。不躾なお話であったにもかかわらず、我らの招聘にお応え下さったこと、衷心より感謝申し上げます。アーサー殿も、よくぞご無事で」
「それはお互い様だ、グルどの。長らく留守にしてすまなかった。私の不在中にずいぶんと状況が変わったようだが、まずは皆の無事を喜ぼう」
ついにケムディーの頭を下りたアーサーが、ジェロディの隣へ進み出て言った。蛙人の僧兵たちはみなアーサーを見知っているようで、ゲロゲロゲロ──と、突然蛙みたいな声を出す。
突然の大合唱に、カミラたちは驚いた。が、あとから聞いたところによると、アレは蛙人流の喝采らしい。皆、アーサーの帰還と再会を喜んでいたのだ。初めは何事かと思ったが、蛙人たちは嬉しいときや楽しいとき、喉を大きく膨らませることでその気持ちを表すのだという。
「しかしまさか、貴兄まで戻ってこられるとはな、クワン殿。此度の一件が解決するまで、貴兄らには里への立ち入りをご遠慮いただくようお伝えしたはずだが?」
「フン、ワカッテイル。ダガ、神子ガ、モウ一度、オマエト話、シロト言ウ。神子ガ言ウナラバ、シカタガナイ」
「神子だと?」
「そうです、諸兄。こちらにおわすジェロディどのは、救世軍の総帥代理であると同時にハイムの神子。総帥であるフィロメーナどのへの目通りは叶いませんでしたが、今、六つの種族が集い合い、共存の道を探るこの土地に、生命神ハイムの御霊をお迎えできたことには、大いなる意義があると考えます」
小さな体をめいっぱい使って、アーサーは騎士らしく堂々と演説してみせた。すると広間にはどよめきが溢れ、蛙人たちが顔を見合わせている。
だが皆が騒然とする中で、髭を生やした老蛙人──グルだけは冷静だった。彼はこれまた蛙特有の、下から上に向かって閉じる瞼をゆっくり瞬かせると、傍にいた者に小声で何か指示を出す。
指図を受けた僧兵は頷くや、すぐに仲間を伴って出ていった。かと思えば大きな敷物を抱えて戻り、広間の真ん中に布く。どうやらカミラたちもそこに座れ、ということのようだ。広げられたのは涼しげな色合いの麻織物で、入り口に下がっていた布と同じく、真ん中に大きな渦巻き模様が描かれていた。
「鎮まれ」
カミラたちが促され、腰を下ろしたのとほぼ同時にグルが言う。殊更大声と言うわけでもないし、どちらかというと嗄れているのに、ずしりと腹に来る声だった。それを聞いた蛙人たちが一斉に静まり返る。いや、グルの声というよりも、彼が瘤木の杖で床を打った音に反応したのかもしれない。獣人も老いると杖を使うんだな、と、カミラはまた変なところで感心した。
「ジェロディ殿。あなた様がハイムの神子であらせられるという噂は、拙僧も小耳に挟んでおりました。齢わずか十五で神に魅入られるとは……若いうちから、ずいぶんと重い業を背負われましたな」
「そうかもしれません。ですが僕は、神子という肩書きを振りかざしてあなた方を従わせるつもりはありませんのでご安心を。ただ、今、ビースティアで何が起きているのか──それを知るためにここへ来ました」
蛙人たちの座り方を真似たのだろう、敢えて敷物の上で胡座を組み、ジェロディはきっぱりと答えた。そんな人間の少年を、グルはじっと計るような目で見据えている。
「……ふむ。何が起きているのか知るために、でございますか。黄皇国に虐げられる、我らビースティアの獣人たちを救いに──ではなく?」
「そう断言できれば良かったのですが、生憎と今の救世軍には、あなた方を必ずお助けすると確約できるだけの力がありません。春先に官軍の強襲を受けて以来、僕たちも苦しい状況が続いていて、今やっと二千の兵力を集めたところです。いくらハイムの加護があると言っても、大将軍率いる二万の精鋭と事を構えるには時期尚早……ですからこうしてお話を伺いに参りました。ハーマン将軍と正面から戦う他に、ビースティアを救う方法を模索できないかと」
微塵も怖じる様子なくジェロディが答えれば、蛙人たちがまたどよめいた。「たった二千だと……」と耳打ちを交わす声が聞こえて、カミラは膝の上の両手を握り締める。
そう。二千。たったの二千だ。悔しいがそれは事実として認めざるを得ない。
コルノ島の賑わいを見ているとしばしば忘れそうになるが、三百年もの歳月をかけて育ったトラモント黄皇国という大樹の前では、救世軍はまだ種が撒かれ、小さな芽が出ただけの存在に過ぎないのだった。
けれど蛙人たちは救世軍のことを、成木とまでは言わずとも、大樹の梢くらいには匹敵する組織だと思っていたらしい。その証拠に彼らの間を、みるみる失望が満たしていくのが分かった。
「確かに、たった二千では……」と、またどこからかひそひそ声がする。カミラにも聞こえるのだから、神の耳を持つジェロディには確実に聞こえているだろう。
でも、彼は。
「では、重ねて問わせていただきまする。もし今、ビースティアを救う手立てが戦しかなく、どうしても黄皇国軍を排除する必要があると我々が主張した場合、あなた様方はどうされますかな?」
「どう、とは……」
「苦しい戦いになると知ってなお我らと共闘して下さるのか、はたまた我が身を守るため、共闘を拒まれるのかということです」
「グルどの、それは──」
と、ジェロディの隣に猫座りしたアーサーが立ち上がりかけたところで、グルが険しい顔をした。蛙人族の顔なんてみんな同じに見えるカミラですら〝険しい顔〟と思うのだから、きっと相当厳しい表情だったのだと思う。
「アーサー殿、慎まれよ。拙僧は今、ジェロディ殿にお尋ねしているのです」
腹に響く嗄れ声で、グルはアーサーを制した。しかし彼の問いかけは、ある意味救世軍を人質に取った脅迫だ。仲間を守るために不戦を貫けば、結果として獣人居住区を見捨てることになり、救世軍の信用は地に落ちる。かと言って中央軍とまともにやり合えば、少なくない死傷者を出すことになる。
つまりどちらに転んでも、救世軍の得にはならないとグルは説いているわけだ。ならば救世軍は何を守り、何を手放すのか。蛙人たちはそれを見極めようとしている。そしてその問いに対し、ジェロディは、
「共に戦います」
そう、答えた。
広間を囲む蛙人たちのざわめきが小さくなる。後ろに控えた牛人族のクワンらも黒い耳をそばだてて、ジェロディの答えを聞き漏らすまいとしている。
「ほう。では勝ち目のない戦に臨み、我らと運命を共にして下さると?」
「いいえ、それはできません。僕には救世軍の総帥代理として、仲間の命を守る義務があります。勝ち目がないと分かりきっている戦いに投入できる兵力なんて、あるはずがない。ですから、どうしても戦う以外に道がないとおっしゃるのなら──あなた方には、この里を捨てていただきます」
「里を捨てるだと……!?」
一度は静まったはずのどよめきが膨れ上がった。予想だにしていなかったジェロディの返答を聞き、激昂している者もいる。それのどこが共闘だ、と誰かが叫んだ。するとジェロディは顎を上げ、声のした方を顧み、怯みもせずに反論する。
「勝てないと分かっている相手に挑み、共倒れすることがあなた方の言う〝共闘〟ならば、残念ながら救世軍は協力できません。僕たちはこんなところで、志半ばに倒れるわけにはいかないからです。ですがあなた方が里を捨て、耐え忍び、勝機の訪れを信じて待ち続けて下さるのなら、そのときは僕たちも共に戦います」
「つまり救世軍は、勝てる戦にしか手を出さないということか。だがジャラ=サンガを出て、我々にどこへ行けというのだ? 黄皇国の追っ手から一族全員で逃げ続け、勝機を待てと? 我々獣人には、ビースティア以外に行く宛など……!」
「里を出たあとのあなた方の暮らしは、僕たち救世軍が保障します。ビースティアで暮らすすべての住人を、僕たちの拠点であるコルノ島へ移住させる。救世軍はあなた方を差別しません。歓迎します。黄皇国の横暴を憎む気持ちがあるのなら、どうぞ僕たちと共に戦って下さい。あなた方が救世軍と志を同じくして下さる限り、僕たちもその信頼に応え、いずれ必ず故郷を取り戻すことをお約束します」
どよめきが巨大な渦となり、弾けた。そう錯覚するほどの大騒ぎだった。
蛙人たちの怒りは驚愕へと塗り変えられていく。いや、蛙人だけではない。牛人たちもだ。大戦士クワンと彼の付き人たちは顔を見合わせ、カミラの知らない言語で何事か言い合っている。
が、ジェロディの答えに虚を衝かれたのはカミラたちも同じだった。この地に暮らす獣人たちをコルノ島へ移り住ませる──だって?
そんな話は聞いていない。確かにそうすれば問題は解決するが、ジェロディは初めからこうするつもりだったのか……?
「おい、ティノ。そいつは俺たちも初耳だぞ。トリエステの入れ智恵か?」
「ううん。今、僕が勝手に決めた」
「勝手に!?」
「他に何か方法がある? 二万の中央軍を相手に、ビースティアも救世軍も守ろうと思ったらそうするしかない。島を発つ前、マシューがまとめてくれた試算報告書をざっと読んだけど、今の救世軍なら、彼らを養うこともギリギリ可能なはずだ」
「いやいや、けどさー、ここに住む人がいなくなったら、絶対村も土地も廃れちゃうと思うんだけど? 戻ってくる頃には黄皇国の連中に好き放題荒らされて、再起不能になってるかもよ?」
「そうだとしても、生きてさえいればもう一度始められる。村や畑は人の手で元に戻すことができるけど、命は一度失われれば戻らない。だったら僕は、何に代えても人命を守ることを優先する。父さんがいつも言ってたんだ。〝善良な民のいるところ──それが国だ〟って」
だから、ビースティアの民が生き続ける限り、ビースティアは滅ばない。
ジェロディは言外にそう言っているのだと、カミラは悟った。実際トラモント黄皇国だって、元はルミジャフタの英雄が打ち立てたフェニーチェ炎王国という国だったのだ。炎王国は一度、海を渡ってやってきたエレツエル神領国に滅ぼされたが、逃げ延びた炎王国の民がやがて反撃の狼煙を上げて、父祖の地を取り戻した。
つまり今はトラモント人と呼ばれている者たちも、突き詰めれば滅びた国の民だということ。名前が変わっただけで、本質は何も変わっていない。ここはルミジャフタの英雄タリアクリが築いた王国だ。
同じことを、ジェロディはこのビースティアでやってみせようとしている。遥か昔、炎王国から落ち延びてきた王族をルミジャフタの民が匿ったように──今度は救世軍が獣人たちを匿うことで、希望の火をつなごうと。
「鎮まれ」
ゴン、ゴン、と、再びグルの杖が床を叩く。が、今度の騒ぎは一度や二度、彼が床を鳴らしたくらいでは収まらなかった。
蛙人たちの議論は紛糾している。里を捨て、人間の住まう土地で生きていけるのか。救世軍は信頼できるのか。コルノ島とはどういう場所か。仮にここを出たとして、本当にいつか戻ってくることができるのか──そんな会話があちこちから聞こえる。確かにカミラたちは、彼らの身の安全はある程度保証できても、未来までは確約できない。でも。
「モオオォォォォ!!」
と、そのときいきなり背後から咆吼が聞こえて、カミラたちは飛び上がった。
驚いて振り向けば、金色の角を閃かせたクワンが立ち上がっている。議論に夢中だった蛙人たちも、彼の雄叫びには肝を潰されたようだ。皆が硬直してクワンの巨躯を見上げている。
「グル。我ハ、決メタゾ」
「ほう。何を?」
「我ラ、牛人族ハ、神子ジェロディト、共ニ行ク。共ニ黄皇国ト、戦ウ。オマエタチハ、ドウスル。イツマデモ、人間ニ怯エテ、隠レ住ムカ?」
正直カミラは意外だった。ムワンバの丘では人間であるカミラたちを見るなり殺そうとしたあのクワンが、救世軍と共に戦うことを選ぶなんて。
それだけジェロディの言葉に心動かされたということか。カミラは胸がいっぱいになって、唇を引き結んだ。
変わっていく。
フィロメーナから受け継がれた炎が今、時代を動かそうとしている。
「……そう熱くなるでない、タワン=クワン。今のはあくまで、ジェロディ殿の覚悟の程を尋ねただけじゃ。我らとて黄皇国と争わずに済む道があるのなら、手を尽くしたいと思うておる」
「では、グル殿」
「うむ。ジェロディ殿、あなた様を試した非礼、お詫び致します。あなた様にならばこの一件、打ち明けてもよろしいでしょう」
「この一件、というのは、あなた方が匿っているという角人族のことですか?」
「いかにも」
と、グルは大きく頷いた。カミラたちが角人族の件を知っていることには驚かないらしい。クワンが一緒に来た以上、ある程度の事情は知られていると予想したのだろうか。
「あなた様方を、ご案内したい場所があります。ついてきて下さい」
そう言って、グルがおもむろに腰を上げた。ところが刹那、手套の下の左手にビリッと嫌な痛みが走り、カミラは思わず小さく呻く。
「どうした、カミラ」
「い、いや、何でも……」
ヴィルヘルムにそう返しながら、カミラは左の手の甲を押さえた。これは、もしかして──星刻が反応している?
(どういうこと……?)
ズキズキと、心臓の鼓動に合わせて痛む左手に眉をひそめた。かと言って別に未来が視えたり、過去が視えたりするわけでもない。ただ、星刻が──何かを拒絶しているような?
「カミラ、君も?」
そのとき、小声で誰かに尋ねられた。
はっとして顔を上げた先。
そこでジェロディが、右手の《命神刻》を押さえている。




