184.指先から君へ
目の前の闇が、うねうねと蠢いていた。
何だろう。怖いながらも息を詰め、目を凝らしてみる。
そうして見ると、闇は何本もの、短い紐のようなもので構成されていた。それらの紐が組み合わさり、絡み合い、脈動しながら赤黒い壁を作っているのだ。
「こ、これって……」
と、その事実に気づいたマリステアは、青ざめながらあとずさった。
己の生存本能が警鐘を鳴らしている──離れろ。ここは危険だ、と。
「み……ミミズ……ですよね……」
誰にともなく、そう尋ねてみる。周りに誰もいないのに、口に出さずにはいられなかったのは、目の前の光景の醜悪さに耐え難い怖気を覚えたからだ。
──どうしてミミズが、こんなに大量に……?
自問してみるも、答えは見えない。というか、好奇心よりも恐怖の方が遥かに勝って、マリステアはもう冷静に考えるどころではなかった。
とにかくここから、一刻も早く逃げ出さなければ。そう思い、震えながら身を翻す。ところが次の瞬間、悲鳴を上げそうになった。というか上げた。「ひぃっ」という情けない声が口から漏れて、真っ黒な地面に吸い込まれていく。
「シャアアアアアアアッ」
蛇が威嚇するような声がした。そう、声だ。体ごと振り向いた先、そこに人の身の丈ほどはありそうな、巨大な昆虫がいる。
鎌に似た形状の前脚に、硬そうな暗褐色の体。虫のくせに目つきは悪く、開かれた口には牙が並んで、噛みつかれたらマリステアの柔肌なんて簡単に喰い千切られてしまいそうだ。そいつが左右の鎌を開いて、マリステアを威嚇している。恐ろしい声を発し、今にも飛びかからんばかりの体勢で。
「い、いやっ」
マリステアは逃げようとした。けれど足が動かない。──どうして!
叫びそうになりながら足元を見下ろせば、いつの間にか両足がミミズの大群に絡め取られていた。抜け出せない。彼らは赤黒い体をうねうねさせながら、折り重なってマリステアの足を這い登ってくる。ついに悲鳴を上げてしまった。何とか逃れようとするが、両足は地面に縫いつけられたようにびくともしない。
「シャアアアアアアアッ」
はっとした。顔を上げると同時に、巨大な昆虫が襲いかかってくる。
マリステアは泣き叫んで、両腕で自らの頭を庇い、そして、
「はっ……!?」
と、昆虫に捕食される寸前で飛び起きた。
それに驚いたのか、隣で何かが跳ねたのが分かる。
──今度は何……!?
そう思いながら血相を変えて振り向けば、そこには呆気に取られた様子のティノがいた。彼は寝起きのマリステアと目が合うや、何度か瞬きしたのちぎこちなく、
「や、やあ……」
と片手を挙げる。地面に腰かけた彼の手には一冊の本。足元に置かれた角灯の明かりが、厚手の表紙に記された『エディアエル兵書読本』の文字をうっすらと照らし出している。
「……ティノさま……?」
マリステアは完全に寝ぼけた頭で、サンディブラウンの髪もボサボサのまま、どうにか状況を整理しようとした。ぐるりとあたりを見渡せば、やたらとゴツゴツした丘の麓に、複数の人影が横たわっている。
目を凝らしてみると、倒れているのはオーウェンやカミラ──つまり救世軍の仲間たちだった。そして周囲はずいぶん暗い。夜だ。寝ぼけ眼で見上げた空には、頼りないくらい痩せた月がぼんやりとかかっている。
「だ、大丈夫かい、マリー? 魘されてたみたいだけど……」
「……魘されて……?」
「う、うん。でも急に飛び起きるからびっくりしたよ。何か怖い夢でも見た?」
「夢……」
とティノの言葉を反復したところで、マリステアはようやく目が覚めてきた。
──夢。そうか。今のは夢か。
ということは自分は眠っていたわけで、そうだ、ここはムワンバの丘、昼間地鼠人族の酋長フォンリと牛人族の大戦士クワンから話を聞いて、そうこうするうちに日が暮れたから皆で野営をすることに……。
「はあああああっ……!?」
とすべてを思い出したところでマリステアは悲鳴を上げ、慌ててティノから距離を取った。そうしてから急いで寝癖を直し、薄い掛布を引っ張り上げて、羞恥のあまり鼻から下を覆い隠す。
「す、す、す、すみません、ティノさま……! わ、わたしとしたことが、とんだ醜態を……!」
「いや、別に気にしてないけど……でも、いつも寝起きすっきりな君が寝ぼけるなんて珍しいね。むしろちょっといいものが見れた気分だよ」
「も、もう! からかわないで下さい……!」
マリステアはなおもせっせと寝癖を直しながら、赤面して抗議した。ティノは笑って「ごめんごめん」なんて言っているけれど、絶対反省していない。ガルテリオにもそういうところがあったから、分かる。
「で? 魘されて目を覚ますなんて、よっぽど怖い悪夢だったんだろ。どんな夢を見てたの?」
「そ、それが……た、大量のミミズと、巨大な捕食生物に襲われる夢でして……」
「捕食生物?」
「は、はい……昼間食卓に出された……タガメ? と言うのでしたっけ。あ、あれに襲われて、食べられそうになる夢でした……」
「ああ……確かにあの料理は衝撃的だったからなぁ……夢に出て魘されるのも、分かるような気がするよ」
ははは、と乾いた笑いを浮かべるティノに、マリステアも生気のない笑いを返した。昼間、顎にヒゲを生やした地鼠人──フォンリの巣穴に招かれたマリステアたちは、もてなしとして昼食を馳走になったのだ。
だがいざ食卓の席についてみれば、並べられたのは見たこともない料理の数々。いや、アレらを〝料理〟と呼んでいいのかさえ、マリステアには分からない。
何しろ使われていた食材がミミズにタガメ、何かの幼虫に木の根や皮。最初にそれらが乗った皿を見たとき、マリステアは卒倒しそうになった。
地鼠人族の食性は人間と違うとは聞いていたが、アレはあまりにショッキングだ。ミミズは香草と一緒に炒められていたからまだ見た目は耐えられるにしても、昆虫はもう無理だった。アレの姿揚げが山盛りになって出された瞬間、マリステアはすぐにも立ち上がって、その場から走り去りたい衝動に駆られた。もちろんスカートを握り締め、真っ青な氷像みたいになりながらも何とか持ちこたえたけれど。
「地鼠人って草食だって聞いてたけど、虫やミミズも食べるんだね……いや、確かに野菜や木の実だけでどうやって栄養を取ってるんだろうって、ずっと不思議だったんだけどさ」
「え、ええ……最初にポレさんを見たときは、アーサーさんと同じくらいかわいらしいと思ったのですけれど……タガメの姿揚げをおいしそうに召し上がっている姿を見たら、何かこう価値観が変わりました……」
「ウォルドやヴィルヘルムさんは普通に食べてたけどね。あと、カミラも蛙や蛇なら食べるって……」
「や、やめて下さい……! 思い出すと、皆さんを見る目まで変わってしまいます……!」
マリステアは寒くもないのに震えを感じて、自らの腕を抱いた。昼間の光景は思い出すだに恐ろしい。
マリステアは結局、ミミズやタガメや幼虫はどうしても食べられなくて、色とりどりの食用花をあえたサラダだけをいただいた。けれどふわりと広がる花の香りが瑞々しかったサラダの味よりも、今は平然とミミズの香草炒めや幼虫の燻製を平らげていた仲間の姿を思い出してしまって、みるみる血の気が引いていく。
「──で? 一体全体どうなってんだ。俺たちは獣人区が黄皇国軍の攻撃に晒されてるって聞いて偵察に来たんだがな。その黄皇国軍と戦ってるはずの牛人がここにいて、しかも蛙人どもにはもう従わねえとか抜かしてやがる。これじゃ俺たちが聞いてきた前情報とあまりにも違いすぎるぜ」
とウォルドが不遜な態度で尋ねたのは、そんな昼食の席でのこと。ごく稀に集落を訪れる客人──つまり地鼠人より大きな獣人、ということだが──を招くために掘られたらしい、かなり大きな巣穴の中で、マリステアたちは牛人族の代表であるクワンとケムディー、そして地鼠人族の代表であるフォンリやポレと差し向かう形となった。図らずも救世軍の総帥たるティノと、カリタス騎士王国の大使アーサー、そして牛人族、地鼠人族の長が揃うという錚々たる会談となったわけだ。
ポレとケムディーは彼らのおまけみたいなもので、巣穴の奥から昼食が運ばれてくるまでの間、何故マリステアたちと一緒にいたのか各々問い質されていた。特にケムディーは、マリステアたちの知らない言語でかなり厳しく怒られていたみたいで、ちょっと可哀想に思えたほどだ。
実のところ、サプタ川の畔で襲われたこともあって、マリステアはそれまでケムディーに恐怖以外の感情を持ち合わせていなかった。ところが彼らの長だというクワンはさらに巨大で厳しく、怒鳴り声は雷のようで身が竦む。
そのクワンに叱責され、小さくなっているケムディーを見ていたら、自然と同情心が芽生えた。他方、地鼠人の長であるフォンリは体格もポレとさほど変わらず、長い眉と髭が愛らしいとさえ思ったのだが──そんなマリステアの幻想は、ほどなく運ばれてきたマーモット料理によって粉々に打ち砕かれることになる。
「そうですな、ワレワレとしても一体どこから説明すれば良いのやら……かく言うワッシもついさっき、クワン殿からいきさつを聞かされたばかりで、状況が呑み込めていないとゆうのが正直なところです。無論、神子さまからのご質問とあらば、答えられることにはすべてお答えするつもりですが」
「まずそれだ。あんた、あのときどうして俺たちの中に神子がいると分かった? ティノは名乗りこそしたが、自分は神子だとは言わなかったはずだぜ」
「やや、ご存知ありませんかな。ワッシら地鼠人族というのは古くから、神刻のにおいを嗅ぎ分けます。どうやって、と言われると説明しにくいのですが、遥か昔からそうなのです。ワレワレはその能力を活かし、地中深くに埋まった神刻石を掘り当てることを生業としています。ですので、ジェロディさまの御身に宿る大神刻のにおいもすぐに分かりました。他の神刻とは比べ物にならぬほどの強い芳香……まるで脳が痺れるような……とにかくそんなにおいでございます、ハイ」
「神刻石を掘り当てるのを生業に……? じゃあもしかして、ポレが最初に私たちのところへ突っ込んできたのって……」
「う、うん……ボク、グルさまに献上する神刻を探してて、川辺からいいにおいがするのに気づいたんだ。今まで嗅いだことのないにおいだったから、きっと珍しい神刻に違いないと思って、つい飛びついちゃって……」
「その〝グルさま〟っていうのは?」
「グルどのとゆうのは、ジャラ=サンガにおわす蛙人族の長老のことでございます。非常に徳の高いお方で、ワレワレも大変お世話になっているのですが……」
と、ちょっと訛りのある言葉つきで言いながら、フォンリはちらとクワンへ視線を向けた。するとクワンはさも不機嫌そうに、フンと荒い鼻息をつく。
マリステアがつけたら腕輪になりそうなくらい大きな鼻輪が、揺れてチカリと閃いた。地鼠人族の巣穴にはところどころ、丸く穿たれた横穴が開いていて、そこから日の光が射し込んでくる。
おかげで地面の下なのに中は明るく、クワンが顎を擦り合わせるようにして夏草を咀嚼するのがよく見えた。このとき、彼らが持つ屈強な肉体と草食という食性が何となくちぐはぐだと感じたのは、きっとマリステアだけではなかったはずだ。
「牛人ハ、蛙人ト訣別シタ。全部、グルガ悪イ。ヤツラハ、我ラニバカリ戦ワセテ、自分タチハ、安全ナ所ニ隠レテイル。ダカラ我々モ、戦ウコト、ヤメタ」
「それはおかしな話ではないか、クワンどの。私の記憶違いでなければ、貴殿ら牛人族は確かに最前線で敵を引き受けておられたが、蛙人たちだってまったく戦っていなかったわけではあるまい。彼らの主力は僧兵──つまり蛙人族の神術使いたちだ。ゆえに白兵戦に向かず、後方支援に回らざるを得ないことは認めるが、その分負傷者の救護など、彼らにしかできない役割を担っていた」
「ダガ、戦場デノ死者ハ、ホトンドガ我ラノ仲間ダ。カエルドモハ、不利ニナルト、スグ逃ゲル。トテモ卑怯デ臆病ダ。信用デキナイ」
「しかし貴殿ら牛人族が戦場を離れたら、誰がビースティアを守るというのだ。蛙人族と猿人族だけでは、黄皇国軍の猛攻は支えきれまい」
「ソウダ。ダカラ、我々ガ戦イ、終ワラセタ」
「え?」
「アノ戦イ、起キタノハ、蛙人ガ角ツキヲ匿ッタセイダ。ナラバ、角ツキ差シ出セバ、戦イ、終ワル」
「まさか……!!」
「我々、角ツキ、ヒトリ捕マエタ。ソイツヲ、黄皇国ニ渡シタ。アト十日デ残リモ差シ出セバ、戦イ、完全ニ終ワル」
「馬鹿なことを!!」
刹那、丸太を切っただけの椅子に立ち上がったアーサーが、すさまじい剣幕で卓を叩いた。彼の黒い毛並みは耳の先まで逆立ち、尻尾なんて元の二倍くらいに膨らんでいる。卓に乗せられた白い両手からは爪が飛び出し、ガリ、と木の板に食い込んだ。見開いた金色の眼でクワンを睨む様は、まさに威嚇する猫だ。
「貴殿らは角人族を人間に引き渡すというのがどういうことか、分かっているのか!? ハーマン・ロッソジリオは彼らの力を悪用しようとしているのだぞ! だのにみすみすやつらの手に渡すなど……!」
「……? 角ツキハ、ヨワイ。話モ、デキナイ。ヤツラニハ、何ノチカラモナイ。人間ニ渡シテモ、何モ困ラナイ」
「確かに彼らは貴殿らのような武力は持たない。だが〝力〟というのは、何も手力だけを指す言葉ではないのだ! 彼らの知識がもしハーマンの手に渡れば、この国は……!」
木製の卓により深く爪を立てると、アーサーはもう一方の手できつく額を押さえた。マリステアなどはその時点でもう話が見えず、目を白黒させるしかなかったが、ときにティノがわずか身を乗り出して言う。
「アーサー。角人族って、幻の種族って呼ばれてるあの亜人のことだよね? ここに今、角人族がいるのかい?」
「あ、あじん、って……? 獣人とはまた違うの?」
「亜人というのは、人間と獣人、どちらにも似ているがどちらとも違う人型種族のことだ。多くは上半身が人間で、下半身は獣という姿をしている。有名なところで言えば海中で暮らす人魚族や、北のカザフ大平原にいる人馬族などがそうだな」
「だが角人族といや、亜人の中でも特に謎だらけの種族のこったろ? 普段は隠れて暮らしてるってんで、俺もまだ本物を見たことはねえが、かなり醜悪な見た目をしてる上に、まったく人語を話さねえって聞いたぜ。ハーマンはなんでそんな連中を?」
「……詳しくは島で話したとおりです。私の口からはお話できない。だが彼らの力は、悪しき人間の手に渡れば必ず脅威をもたらす。だから蛙人たちは必死で彼らを守ろうとしたのです。ハーマンが角人族の知識と技術を欲していることを知っていたから……」
アーサーは椅子の上に立ち尽くしたまま、悄然と肩を落としてうなだれた。生真面目な彼のことだ、既に角人族が黄皇国軍の手に渡ってしまったことに責任を感じているのかもしれない。だが角人族の〝力〟とは何だろう。マリステアは昔、ティノと何かの図鑑で見たきりの、未知なる亜人に思いを馳せた。
あの書物に記されていたことが確かなら、角人族の最大の特徴は額から生えた小さな角だ。クワンやウォルドの言うとおり、彼らは言語を持たず、同族同士の角と角とを触れ合わせて意思の疎通を図るという。
そんな種族を捕まえて、ハーマンは何を企んでいるというのか。アーサーはどうやら角人族が持つ〝知識〟が軍の手に渡ることを恐れているようだが、そもそも意思疎通ができない相手から知識を引き出すなんて無理じゃないかしら、とマリステアは思った。
でも、アーサーがここまで激昂するということは、きっととてつもなく重要な何かを彼らは知っているのだろう。ハーマンはその何かを手に入れようとしている。具体的にどうやって手に入れるつもりなのかは知らないが、わざわざ兵を興してまで奪おうとするということは、きっと黄皇国にとってとてつもなく大事な何かなのだ。マリステアの頭ではそこまでしか想像できない。だけど何となく、このままクワンの言い分を通してはいけない、というのは分かる。
「あ、あの……では、クワンさまがムワンバの丘にいらしたのは、残りの角人族を探すため、ですか? ここにも蛙人たちの匿った角人族がいると……?」
「違ウ。角ツキドモハ、蛙人ノ里ニ居ル。ダガ、グルガ、絶対ニ渡サナイ。ダカラ我々ハ、フォンリノチカラ、借リニ来タ。フォンリハ、ビースティアノ長老タチノ中デ、グルト、一番仲ガイイ」
「い、いやはや、参りましたな……確かにワッシは、グルどのとは花舟の交わりです。しかし、立場的にはビースティアをまとめるグルどのの方が遥かに上。あの方のお決めになったことならば、ワッシにはとても逆らえません。アーサーどののお話を伺う限り、グルどのにも何か深いお考えがあるようですし……」
「ヌウ……ダガ角ツキ、渡サネバ、再ビ戦イニナル。ソウスルト、マタ沢山ノ仲間ガ、死ヌ。次ハモウ、ビースティア、守レナイ」
「──だから僕たちが来たんですよ、クワン殿」
瞬間、マリステアの心臓がどきんと跳ねた。緊張のせいではない。何かに驚いたわけでもない。ただすぐ隣から聞こえた彼の声が、あまりにまっすぐだったから。
とくとくと高鳴る胸を押さえながら、マリステアは隣の彼を盗み見る。ティノ。座っていても見上げるくらい大きなクワンを、怯みもせずに見据えている。
その彼の横顔の、なんと眩しいことか。向かいにある壁の穴から射し込む光が、ちょうど彼の存在を知らしめるかのごとく斜めに伸びていて、マリステアはまるで神代の神秘を目の当たりにしているみたいだ、と思った。
それくらい、ティノという少年は神々しくて凛々しくて──完成されている。
まさしく神子に選ばれるべくして選ばれたお人だ。マリステアは胸いっぱいの誇らしさと、出所の分からない、ほんのちょっとの切なさに胸がきゅうっとなって、さらに強く拳を押し当てた。そうしていないと胸の中でキラキラと熱を帯びているものが、溢れすぎて泣いてしまいそうになるから。
「理由が何であれ、今回の黄皇国軍のビースティア侵攻が、不可侵条約を無視した不当なものであることは明白です。そして僕たち救世軍は、そうした黄皇国軍の暴虐を止めるためにここにいます。ただ僕たちも叶うことなら、戦の犠牲者は最小限に留めたい。蛙人族と話し合うことでその方法を模索できるなら、僕たちが彼らと話をつけます。ジャラ=サンガの長老殿も、神子である僕の言葉になら少しは耳を貸して下さるでしょう。そうですよね、フォンリ殿?」
「え、ええ、ええ、それはもちろん! グルどのは確かに信念の堅いお方ですが、頑迷とゆうわけではございません。聞くべき言葉には必ず耳を傾け、常に正しき道を選ばんとする賢者です。ましてや神子さまのお言葉とあらば、決して無視はなさらぬはず。ビースティアの中でも、蛙人族はとりわけ信心深いことで有名ですから……」
「ヌ……シカシ、我々ニ、人間ヲ信ジロト言ウノカ……オマエ、名ヲ、ヴィンツェンツィオト言ッタナ」
「はい」
「ナラバ、アノ、ガルテリオ・ヴィンツェンツィオノ血筋カ」
「はい。ガルテリオ・ヴィンツェンツィオは、僕の父です」
きっぱりと、やはり何の気後れもなくティノは言った。途端に居合わせた獣人たちが皆、驚きをあらわにする。先刻まであれほど激昂していたアーサーもだ。
思えば彼は異国から来た客人で、黄皇国の内情には疎い。だからヴィンツェンツィオの名を聞いても、ティノが大将軍の身内だと認識することができなかったのだろう。しかしこの獣人区に暮らす獣人たちは、さすがにガルテリオの名を知っている。クワンはティノを見据えたまま低く唸った。露骨にティノを警戒し、威嚇するような唸り声だ。
「……ガルテリオハ、黄皇国ノ将軍ダ。ツマリ、ハーマンノ仲間ダ」
「ええ、そうですね。ですが僕は違います」
「父ニ逆ラウ、ト言ウノカ。親ト子デ、殺シ合ウノカ?」
「それはまだ分かりません。できれば父とは、戦わずに済む方法を探したいと思っています。けれど父には父の、僕には僕の守りたいものがある。今、僕の口から確かに言えることは──僕は僕の信じた道を、恥じてはいないということです」
──ああ。マリステアは痩せた月の下、もう一度ぎゅっと胸を押さえた。
想いが溢れて、言葉にならない。自分は嬉しいのだろうか。悲しいのだろうか。誇らしいのだろうか。苦しいのだろうか。
昼間のティノの言葉を、眼差しを思い出すだけで、呼吸の仕方を忘れそうだった。あのとき彼がどんな想いで言葉を紡いだのかと思うと、心が張り裂けそうになる。一度張り裂けてしまったらおしまいだ。そこからはきっとキラキラしたものもドロドロしたものも一度に溢れ出して、マリステアは色んな感情の洪水に溺れてしまう。
「マリー?」
異変に気がついたのか、ティノがさりげなくこちらを覗き込んできた。マリステアは、答えられない。辛うじてできることと言えば、うっすらと涙の膜が張った瞳で、じっとティノを見つめることだけ。
「どうしたの。そんなに怖い夢だった?」
ちょっとからかうように笑って、けれど眼差しには確かな気遣いを乗せながら、ティノは尋ねた。彼はどうしてこんなに優しいのだろう。ひょっとして世界で一番優しい人なのではないか。マリステアは真剣にそう思う。
本当に苦しいのは、怖いのは──眠れもせずにただひとり、長い夜が明けるのを待っている彼ではないのか。夜が来る度、自分が人から離れていくことを自覚しなければならない彼ではないのか。もしも自分が彼の立場だったなら、きっとつらくて寂しくて、日が暮れる度に泣いてしまう。なのに彼は自分の孤独などおくびにも出さずに、他の誰かの心配ばかり。
マリステアにはそれがたまらない。
「……ティノさま」
「うん?」
「たまには、甘えて下さいね」
「え?」
「わ、わたしじゃ、頼りないかもしれないですけど……でも、今はケリーさんもオーウェンさんもお傍にいて下さいます。皆さんの前では、救世軍の総帥として立派に振る舞わなければならないのかもしれませんが……だったらせめて、家族と一緒のときくらいは甘えて下さい。アンジェさまが亡くなってから、ティノさまは歳のわりに聞き分けが良すぎるって、ガルテリオさまも心配なさっていましたよ」
何の脈絡もないところから、けれどどうしてもいま伝えたくてマリステアは言った。案の定ティノは軽く目を見張っている。予想していなかった答えが返ってきて、虚を衝かれたのだろう。
でも、彼はすぐに平静を取り戻した。マリステアが伝えたかったことも、何故唐突にそんなことを言い出したのかも、すべて理解した様子だった。
「……僕も父さんが心配だよ。あの人も人前では絶対に弱みを見せないから。ウィルとリナルドが、ケリーやオーウェンの代わりに父さんを支えてあげてくれてるといいんだけど」
──僕は親不孝な息子だったから。
そう言って困ったように笑うティノを見ていたら、マリステアはもう我慢できなかった。視界がみるみる滲んでいくのを感じながら、それでもティノの手を取ってぎゅうううっと握り締める。
ティノも、握り返してくれた。言葉は要らなかった。
彼がいま何を考えているのかなんて、訊かなくても分かる。だってマリステアはもう十年もティノのお世話係をしているのだから。
「……ありがとう、マリー」
「はい」
「少しだけ、こうしていても?」
「はい」
マリステアはティノの手を握ったまま、そっと彼に寄り添った。少しだけなんて言わずに、ずっとこうしていたい。彼の手を繋ぎ止めていたい。
──遠くへ行かないで下さいね。
かつてマリステアはティノにそう言った。神子になってからの彼は、ちょっと目を離すとどんどん遠くへ行ってしまうような気がして不安になる。
だから時折こうして確かめるのだ。ティノがまだここにいること。
そして今も彼の傍にいられる幸せを。
「暑くない?」
「平気ですよ。手を握っているだけですもの」
「そう。なら、良かった」
「はい」
「……こうしてると、何だか黄都を出た日のことを思い出すね」
「そうですか?」
「うん。あの日は寒くて、雨も降ってて、君はずっと震えてた……」
「あ。そ、そう言えばありましたね、そんなことも……」
「あのときもケリーが戻るまで、二人でずっとこうしてたろ?」
「そうでしたね……あの日は本当に寒くて、怖くて不安で、ティノさまが握って下さった手のぬくもりだけがマリステアの心の支えでした」
「僕もだよ。君がいてくれて、本当に良かった」
またも心臓がどきんと跳ねた。目をまんまるにして振り向くと、すぐそこでティノが微笑っている。
マリステアはそれがくすぐったくて、気恥ずかしくて、だけど嬉しくて──たまらなく嬉しくて、きゅううう、とまたもティノの手を握り締めた。
これからもお傍にいます。ずっとずっと傍にいます。いさせてください。
そう言いたいのに、胸がいっぱいで言葉にならない。
この想いはティノにも伝わっているだろうか?
伝わっていればいい、と思う。
「あのさ、マリー」
「はい」
「ずっと考えてたことがあるんだけど、笑わないで聞いてくれるかい?」
「わ、笑いませんよ? 何ですか?」
「この戦いが終わって、僕がまだジェロディ・ヴィンツェンツィオでいられたら……そのときはまた、ソルレカランテの屋敷で一緒に暮らそう。もちろん、ケリーもオーウェンも──それから、もしも叶うなら父さんも、みんな一緒に」
「……! はい……!」
伝わっていた。ちゃんとちゃんと伝わっていた。
マリステアは感無量で、頬を上気させながら、力いっぱい頷いた。
本当に笑われると思っていたのだろうか。そんなマリステアの反応を見たティノは、ほっとしたように眉を開いている。
だけど断るわけがない。断る理由がない。
だって彼の願いは、マリステアの願いでもあるのだから。
「また暮らせるといいですね。みんな一緒に、昔と同じように……」
「ああ……そうだね」
いつかその願いが叶うことを祈って、二人は手を握り合った。
同時に夜空を見上げながら、思う。
どうかガルテリオも、同じ気持ちでいてくれますように、と。




