180.獣人の園
そこから先は、カミラがこれまで一度も踏み入ったことのない土地だった。
獣人居住区──またの名をビースティア。
前者がトラモント人の呼び方で、後者はこの土地に暮らす獣人たちの呼び方だ。自分の故郷が住民には〝ルミジャフタ〟と呼ばれるが、トラモント人には〝太陽の村〟と呼ばれるのと似たようなものだな、とカミラは思った。
「んじゃ、オレたちはここらで野営を張って待つとする。なんかあったら一目散に逃げてこいよ。船はいつでも出せるようにしといてやるからさ」
「ありがとう、レナード」
砂に洗われた岸辺を見下ろしながら、カミラは背中でそんなやりとりを聞く。ここまでは島からレナードたちが船で送り届けてくれた。
振り向けばタリア湖の西端には、輸送用の中型船と護衛の小舟がいくつか浮かんでいる。それらを操るのはすべてライリー一味で、彼らはカミラたちが戻るまで、ここを合流地点として待機することになっていた。
「……湿地って言うから、もっとこうビチャビチャした感じのを想像してたんだけど。思ってたほど湿気っぽくないし、普通の平原よね、ここ」
「そりゃそうだ。ポヴェロ湿地ってのは、厳密には獣人区の中心部を指す。ここにはタリア湖、ラフィ湖、ベラカ湖とつながる川がいくつもあって、大抵の川は区の中心に向かって流れてるんだ。だから蛙人どもが住んでるジャラ=サンガとその周辺は見事な湿地帯だが、外周はそうでもない。でなきゃ蛙人以外の獣人は環境が悪すぎて暮らせないからな」
「へー。オーウェンさん、意外と物知りですね」
「〝意外と〟は余計だ。こう見えて元軍人だぞ、俺は」
真っ先に船を降り、上陸地点に異常がないか確認していたオーウェンが、さも心外だと言いたげな顔でぼやいた。袖のない黒服の上に同じく黒の上着を羽織った彼はカミラ同様、今日は髪を一つに結っている。
故郷のルミジャフタほどではないものの、トラモント黄皇国の夏は暑かった。水辺にいる今はまだマシな方だが、湿地帯ともなれば内陸へ進めば進むほど、気温も湿度も上がるだろう。だからそうなる前の対策として髪をまとめたら、期せずしてオーウェンと同じ髪型になった。……そのせい、だろうか。
さっきからじーっとこちらを凝視したままの、カイルの視線が鬱陶しい。
「ペアルック……」
「……なんか言った、カイル?」
「オレもカミラとペアルックがしたいです」
「じゃあまずは頑張って髪を伸ばさないとね。寝言はそれからにしてちょうだい」
「オーウェンさん! 髪ってどうやったら早く伸びるの!? エロいこといっぱい考えてると伸びるの早いって本当!?」
「知らん! 俺に訊くな!」
「冷たいこと言わずに教えてよー!」
「ひっつくな! 暑苦しい!」
カミラたちが上陸するまで人っ子一人いなかった岸辺が、たちまち騒がしくなった。カイルにまとわりつかれたオーウェンはどうにか彼を引き剥がそうと奮闘していて、そんな二人をウォルドとヴィルヘルムが呆れ顔で眺めている。
「……おい、カミラ。なんでカイルまで連れてきたんだよ。こうなるのは目に見えてただろ」
「だって本人が行くって言い張って聞かないんだもの。それがあまりにもしつこいから、つい〝勝手にすれば〟って言っちゃったのよ」
「結果、この有り様か。俺たちは遊びに来ているわけではないのだがな……」
分かってはいるが、言って聞くような相手なら誰も苦労しない。そう言葉にして伝える代わりに、カミラは深々とため息をついた。
ちょうどその頃、背後では渡し船を降りたジェロディが、同じく板を渡るマリステアに手を貸している。波打ち際で微細な揺れに翻弄される小舟から、マリステアは怖々と降り立った。
今回、救世軍から獣人区の偵察に派遣されたメンバーはこの七名だ。先遣隊の人選はカミラが進めるように──とのことだったが、誰にしようかなと選ぶまでもなく、ほとんどの人員が芋蔓式に決定した。
カミラが自分で声をかけたのはウォルドくらいで、ヴィルヘルムとカイルは誘うまでもなくついてきたし、マリステアやオーウェンも言わずもがな。後ろの二人はジェロディが行くなら自分もと、引き下がらなかった面々だ。
が、ちょっと意外だったのは、ケリーが進んで島に残ったことだろうか。彼女は出発前の軍議で「ジェロディ様の供はオーウェンに任せる」とだけ言うと、自らは島で兵をまとめる役を買って出た。
でもケリーの性格を考えたら、本当は自分もジェロディの供をしたくてたまらないはずだ。だから軍議ののち、カミラは彼女にも声をかけたのだが、ケリーは笑って「たまにはオーウェンにも手柄を立てさせてやらないと」と答えた。
と言うのもケリー曰く、どうやらオーウェンは憑魔に操られてジェロディを襲ったことを、未だに気に病んでいるらしい。
あれから既に四ヶ月も経っているというのに、何ともまあ律儀なことだ。そういうことならとカミラもケリーの言い分を肯んじ、今回はオーウェンの顔を立てる形で連れてきた。無論、本人にはそんなこと一言も告げていないが。
さらに七人の先遣隊には客分が一人。猫人のアーサーだ。
彼は一度この地を訪れた経験があることから、カミラたちの案内役として同行を願い出てくれた。惜しむらくはまだアーサーを乗せて飛ぶだけの体力が戻っていないという理由で、翼獣を置いて来ざるを得なかったことだろうか。
自分は獣医ではないと文句を垂れておきながら、まだ飛ばすには早いとラファレイが叱るので、アーサーは泣く泣くクラウカ──これがあの翼獣の名前らしい──を島へ残してきた。おかげで彼は今、まるで愛らしいぬいぐるみのごとくマリステアに抱き抱えられている。
彼が普通に歩いたのではカミラたちと歩幅が違いすぎるため、その点を配慮しての待遇だった。が、胸元を抱かれる代わりに後ろ脚が伸びきって、下半身がぶらんぶらんしている様はどこからどう見てもただの猫だ。上下の衣服と小さな木靴がなかったら、誰も彼を獣人だなんて思わないだろう。
「ま……マリステアどの、一ついいだろうか……は、運んでいただいている身でおこがましいのは、重々承知してはいるのだが……やはり私としては、肩に乗せていただいた方が落ち着くと言うか……さ、さすがにこの体勢は、騎士にあるまじき滑稽な姿かと……」
「そ、そんなことはありませんよ!? アーサーさんはとても素敵です、愛らしいです、滑稽だなんてとんでもありません……! むしろわたしはカリタス騎士王国の騎士さまをこうしてだっこさせていただくという栄誉に浴しているわけで……!」
「う、うむ……そういうことではなくてだね……」
アーサーを抱いたマリステアはラフィにも劣らぬほど瞳をキラキラさせていて、ああ、マリーさんも猫派だったんだなあなんてカミラは他人事のように思った。当のアーサーは運搬役のマリステアと話が噛み合わず、大変困っているようだが助け船を出すべきか否か。……これはこれで面白いからまあいいか。
「で、俺たちはどうすりゃいいんだ、アーサーさんよ。ここからまっすぐ蛙人のいるジャラ=サンガとやらに行くのかい」
「い、いや、それについては考えたのだが、まずここから最も近いムワンバの丘を目指すのがいいと思う。少々回り道をすることにはなるものの、ジャラ=サンガへ行く前にビースティアの現状を確認したい。私が戦線を離脱してから数日の間に、状況が変わった可能性もあるし……」
「そのムワンバの丘っていうのは?」
「地鼠人族の棲み処のことだな。あの一族は獣人区北部の丘陵地帯に集落を築いてる。現在地はだいたいこの辺だから、ムワンバの丘までは歩いて一日ってとこだろう」
カミラの問いに答えたのはやはりオーウェンで、彼は懐から取り出した地図を広げるや、分かりやすく順路を教えてくれた。
彼の説明によれば、カミラたちが上陸した地点からまっすぐジャラ=サンガを目指すにはエーカ川と呼ばれる大河が邪魔で、舟がないと渡れそうもないという。
対してムワンバの丘は、比較的川幅が狭いサプタ川の向こうにある。こちらも舟がないことに変わりはないが、水深の浅いところを選べば徒歩で渡れそうだった。
何なら湖賊の舟で内地まで進入するという手もあるものの、獣人区を流れる河川は迷路に近く、正確な地図がなければ方角を失うおそれがあるのだとか。この複雑な川の流れを生み出したのは他ならぬ蛙人族であり、彼らは自然の川に手を加えることで、獣人区全体に水の守りを布いているのだという。
「確かにこれだけ水路が複雑じゃ、舟で一気に攻め込むのは至難の技よね……さすがのオーウェンさんも、獣人区の河川図なんて持ってないでしょ?」
「ああ。それでなくとも蛙人族は、気まぐれに運河を足したり潰したりして、正確な河川図を作らせないようにしてるって話だからな。争いを好まない種族と言いつつも、いざというときの備えは万全ってわけさ」
「川を天然の濠にして、外敵から本丸を守ってるってことか……なるほど、〝水の賢者〟と呼ばれるだけのことはあるね。蛙人に会うのがますます楽しみになってきたよ」
と笑ったのはジェロディで、カミラは正直「おや」と思った。真面目な彼のことだから、黄皇国軍が獣人区を攻撃しているという事実を重く受け止め、思い詰めているのではないかと思ったら、何やら存外楽しそうだ。
「ティノくんも蛙人に会うのは初めて?」
「うん。というか、獣人と直接会うのもアーサーが初めて……かな。ソルレカランテでたまに見かけることはあったけど、接触するきっかけがなかったから」
「そもそもトラモント人は、獣人をあまり受け入れたがらんからな。その証拠に、軍にもまったく獣人の姿がないだろう?」
「そう言われてみればそうね」
「この国は他国ほど獣人を差別しない代わりに、積極的に交わろうともしない。最も適切な形容をするなら〝無関心〟だな。黄皇国では人間と獣人の領分がきっちり線引きされているおかげで、良くも悪くも互いに干渉しようとしない。そういう歴史が長く続きすぎて、今更下手に関わると余計な諍いを招く……という危惧もあるんだろう」
諸国の実情を知るヴィルヘルムにそう諭されると、カミラはなるほど、と妙に納得した。自分は外の世界と隔絶された辺境で育ったせいで、獣人とはどんな生き物なのだろうと興味が尽きなかったが、どうやらトラモント人はそういう関心を持つことすら避ける傾向にあるらしい。
まあ、黄皇国で〝獣人〟と言えば、獣人区で暮らす種族よりまず西の脅威である竜人が浮かぶだろうし、そうなると異種族に対してあまり好意的になれないのも無理からぬことだった。カミラもラムルバハル砂漠へ出る前に牛人族や犬人族を見かけていなければ、獣人というものを危険な存在として認知していたかもしれない。
「あとはやっぱ偏見もあるしねー。猿人族は手癖が悪いとか、羊人族は几帳面で小うるさいとかさ。そう考えるとアビエス連合国ってすごいよなー。人間の街にも色んな獣人がいて、当たり前に一緒に暮らしてるって言うんだからさ」
「それが愛神の神子のご遺命であり、我々の誇りだからな。私はいずれ黄皇国でも人間と獣人が手を取り合って、支え合いながら暮らせる時代が来ればいいと思っている。いや、この国だけと言わず、世界中で」
「できますよ、きっと。だってここには、すべての命の平等を説かれたハイムさまと──そのハイムさまに選ばれた神子さまがいらっしゃるのですから」
マリステアが微笑みながらそう言えば、ジェロディもちょっと照れたように笑い返した。瞬間、ずき、と胸が疼いたのは何故だろう。
(ティノくんはいずれ、ハイムと同化していなくなる……だから?)
《神々の目覚め》へ至る未来を拒む心が、これほど胸を締めつけるのだろうか。切ないような、寂しいような──それでいて何だか少し、モヤモヤするような?
「まーとにかくさ、そうと決まればさっさと出発しようぜー! オレも知らない獣人見るの楽しみだし、獣人の女の子にもキョーミあるし?」
「わっ!? ちょ、ちょっとカイル、いきなり引っ張らないで……!」
モヤモヤの原因を探ろうと考え込んでいたら、いきなりカイルに手を掴まれた。そのままぐいっと腕を引かれ、カミラは連れ去られるように走り出す。
「おい、カイル! やる気があるのは結構だが、ムワンバの丘は逆方向だぞ!」
「あれ? そーなの?」
「……」
そんなこんなで七名+一匹の救世軍先遣隊は、地鼠人族の暮らす集落を目指して出発した。獣人区の端に到着したのが午前だったので、目的地まで一晩跨ぎ、翌日も早朝に野営地を発つ。
カミラたちの上陸した獣人区北東部は、エオリカ平原に似た穏やかな丘陵地帯だった。あちこちに森林も見受けられるが、人の手が入っている気配はなく、生まれたままの大自然、といった景色だ。
その証拠に、動物が多い。ふと見上げれば頭上では、見たこともないほど立派な鷲が円を描いて飛んでいた。高い丘から見下ろせば、遠くに羚羊の群が見えるし、時折兎や狐が視界の端を横切っていったりする。人の往来が多いエオリカ平原ではあまり見られない光景だ。
聞けば地鼠人族というのは草食だと言うので、このあたりの獣は人に狩られるという経験がないのだろう。だから平原を突っ切るカミラたちを警戒することもなく、遠くから物珍しそうに眺めていたりする。
黄皇国軍に攻め込まれているというのが信じられないくらい、穏やかなところだった。実際、軍との戦闘が起きているのは獣人区の南側だというので、北部にはまだ争乱の影響が及んでいないのかもしれない。
やがてタリア湖から注ぎ込むサプタ川へ至ると、カミラたちはなるべく川幅が狭く、水深の浅そうな場所を探して徒渡を開始した。銘々靴を脱いだり、脚衣をたくし上げたりして、慎重に川へと入っていく。
夏の太陽の下、裸足で踏み出した水の中はひやりとして気持ちが良かった。水深も深くて膝下くらいという感じで、川底にはたくさんの小石が溜まっているのが見て取れる。
カミラはそんな澄んだ流れを、大した脅威もなくひょいひょいと渡り切った。これだけ浅いと転んでも溺れる心配はないし、仮に流されたところでカミラは泳ぎの心得がある。だから大胆に対岸まで移動できたのだが、あとに続くジェロディとマリステアはそうもいかなかった。
どうも彼らは泳ぐどころか、川遊びをした経験すらないらしい。二人はおっかなびっくり川へ踏み込むや、一歩一歩踏み締めるように歩き出した。が、それも亀が這うような速度で、先に徒渡を済ませたカミラたちは各々、靴を履き直しながら苦笑する。
「ねえ、ウォルド。あれ、あんたとオーウェンさんとで担いであげた方が早いんじゃない? 二人とも、すごく大変そうなんだけど」
「マリーはともかく、救世軍のリーダーが自力で川も渡れないでどうすんだよ。つーかトラモント人は泳ぎの特訓をすべきだな。俺らはこの先、どこへ行くにも舟で移動することになるわけだし」
「あ、それいいねー! じゃあオレ、泳ぎはカミラに教えてほしーなー! 服を着たままだと泳ぎにくいからさ、お互い裸になって手取り足取り──」
「じゃあ最初は潜水の練習ね。泳ぎたかったらまずは水に慣れなくちゃ。これなら服を着たままでもできるし早速逝きましょう。というわけではいドーン」
「ごぼがぼぶべべべ!?」
カミラは隣にいたカイルの後頭部へ手を当てて、彼の顔面を思い切り川面へ叩きつけた。いきなり水責めを受けたカイルはじたばたと暴れているが、まあ窒息する前に引き上げてやれば問題あるまい。これで少しは静かになろうというものだ。
カイルがバシャバシャと立てる水音を聞きながら、ふとジェロディたちの方へ目を戻した。そこには川岸から半枝(二・五メートル)ほどのところで動けなくなったマリステアがいて、数歩先を進んでいたジェロディが引き返している。
彼はマリステアに何事か声をかけると、笑って手を差し出した。二人が何を話しているのかは、川音が邪魔で聞こえない。マリステアは半べそをかきながら、恐る恐るといった様子でジェロディの手を取った。そんな彼女の手を引いて、キラキラと陽の光を弾く川の中をジェロディが歩いてくる──眩しい。
「……いいなー」
と無意識に呟いた直後、一際大きな水音と共にカイルが川から顔を上げた。カミラはその音ではっと我に返り、カイルの頭から手を離す。
「だーっ! 死ぬ! マジで死ぬ! カミラ、オレを殺す気!?」
「あ、ご、ごめん……忘れてた」
「忘れてたって、自分でやっといて!? マジで死ぬとこだったんですけど!? 何ならお詫びにハグしてくれない!?」
「いや、それはちょっと……」
「じゃあ百歩譲ってキスでもいいです!」
「全然まったく一葉も譲ってないじゃないのよ! ああもう、謝るからくっつかないで!」
前髪までびしょ濡れのカイルに迫られ、カミラはとっさに彼を押し退けようとした。が、勢いに負けて体勢を崩し、背中から地面に倒れ込む。軽く後頭部を打ちつけて、視界で火花が散るのを見た。しかし痛みに呻く暇もなくカイルが覆い被さってくるので、カミラも負けじとカイルの顔面を押さえ込む。
「さ、カミラ、照れないで! オレはいつでも準備オーケーだよ!」
「何の準備よ!? だいたいこれは照れてるんじゃなくて拒絶してるの、見て分かんない!?」
「いやー、だって見ようにもカミラに視界塞がれてるしね? あと〝恋は盲目〟ってよく言うしね? つまりオレは今、二つの意味で盲目だからね? あはっ」
「何ちょっと上手いこと言った気になってるのよ! もう、ヴィル! こいつほんと何とかして──」
と、無理矢理唇を奪おうとするカイルを前に、カミラが助けを求めたときだった。不意に頭の下から物音が聞こえて、カミラは「え?」と静止する。
カイルに押し倒されたカミラは、現在仰向けに寝転んでいる状態で、しかし物音は文字どおり頭の下から聞こえた。つまり──土の中だ。
(何の音?)
異変を感知したカミラは、カイルを押さえたまま地面に耳を当ててみた。青々と茂った雑草に頬をくすぐられながら、じっと意識を集中する。
──ゴリゴリゴリゴリ。
微かだが確かに聞こえるその音は、徐々に大きくなっていた。この感じは、近づいてきている……のか? 土の中を、高速で?
「ギャーッ!? ヴィルヘルムさん、何すんの!?」
「お前はそろそろ懲りるということを覚えるべきだと思ってな。せっかくだ、泳げるようになりたいのだろう? ならもう一度、水中で息を止める訓練でもするか」
「し、しないです! さすがにアレはもういいです! だってオレがキスしたいのは川じゃなくてカミラ──ああああああッ!? ヤメテ!? マジでやめて下さいお願いします!? ちょ、オレまだ死にたくな──ゴボォッ!?」
カミラが地中の異音を気にしている間に、ヴィルヘルムが腕づくでカイルを引き剥がしてくれた。ようやく自由になったカミラは跳ね起きて、すぐさまあたりに目を配る。ジェロディとマリステアはやっとのことで川を渡り切り、オーウェンに引き上げられているところだった。ウォルドはアーサーと何か話し合っていて、ヴィルヘルムはカイルを川に沈めている。仲間の誰も、あの奇妙な音に気がついている様子はない──神の耳を持つジェロディですら。
「ねえ、ヴィル」
「何だ?」
「助けてくれてありがとう、でも制裁は後回しの方がいいかも」
「どういう意味だ?」
「何か来る」
「何?」
「聞こえたの。土の中から、何か──」
と、異音の主は、カミラがみなまで言い終えるのを待ってはくれなかった。
瞬間、二枝(十メートル)ほど離れたところでにわかに土が盛り上がり、それが蛇行しながらカミラへと迫ってくる。まったく迷いのない動きだった。まるで地上にいるカミラの姿が見えているみたいに、高速で近づいてくる。
「か、カミラさん……!?」
皆もそこでようやく異変に気がついたらしく、遠くからマリステアの悲鳴が聞こえた。直後、カミラの眼前まで迫った土の山が爆ぜ、中から何か飛び出してくる。
カミラはとっさに剣を抜いた。
土飛沫の中に見えた影目がけて、瞬時に刃を振るおうとした。
ところが刹那、いきなりヴィルヘルムに腕を引かれる。おかげでぐらりと体勢を崩した。土の中から現れた影は諸手を挙げて、今にもカミラへ飛びかかろうとしているのに──
「ヴィル……!?」
「──見つけたーっ! すごいぞ、今回はお宝の予感……!」
喫驚したカミラの声は、突如響き渡った聞き知らぬ声に遮られた。男の声……な気がしたが、それにしては少年のようにやや高い。一体何だ。戸惑いながら目をやれば、そこには地中から現れた毛むくじゃらの生き物がいた。
そう、毛むくじゃらだ。
体長はおよそ二十四葉(一二〇センチ)ほど。顔はリスのようでいて、体つきはずんぐりしている。黒い爪の生えた両手に、タヌキに似た尻尾。毛並みは土で染めたような砂色で、尻尾の先だけがわずかに黒い──
「え?」
と、その生き物とカミラの声が綺麗に揃った。同時にぴたりと視線も搗ち合い、白目のない真っ黒な瞳に、自分の顔が映り込んでいるのが見える。
「……斬るなよ。地鼠人だ」
背後からヴィルヘルムの忠告が聞こえて、カミラはますます目を見張った。そして鏡写しのように、そんなカミラを映した黒い瞳も見開かれていく。
「あ……ぁ、あ──うわああああああ、ニンゲンだあああああ……!」
直後、サプタ川の畔に獣人の悲鳴が谺した。
地鼠人族。
彼らもまた猫人と同じく、獣の姿のまま人語を話す、稀少な〝小さき獣人〟である。




