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【side:A】エマニュエル・サーガ―黄昏の国と救世軍―  作者: 長谷川
第6章 世界はやさしくなんかないけれど
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179.鳥籠を開けて

 やや高いサンダルの踵がカツンと階段を上りきったとき、ああ、これはろくなことにならないなとトリエステは思った。

 思ったのに前を行く彼を呼び止めなかったのは、恐ろしかったからだ。ガルテリオの面影を残すあの顔で再び「トリエ」と呼ばれたら、今度こそ心臓が縮み上がる自信がトリエステにはあった。

 実際、弁解もせず静々と彼のあとに続く自分は、ちょっとした失敗をしてガルテリオに叱られた幼き頃のままだ。

 彼はジェロディ・ヴィンツェンツィオ、ガルテリオの血を分けた息子ではあるけれどもガルテリオではない──分かっているのに抗えないのは何故だろう。頭ではちゃんと理解している。理解できている、はずなのに。


「入って」


 コルノ城別棟二階。現在建設中のそのフロアは、たった今トリエステたちが上ってきた階段と廊下、そしてごく一部の小部屋を除いて天井がなかった。

 床はすべて張られているけれど、天井を造る作業はこれからだ。別棟も本棟と同じく三階建てになる予定で、ここには一階にある医務室、応接室の他、大広間や作戦会議室、資料室などが造られる。階段を上ってすぐのところにある小さな打合せ室はつい七日前にできたばかりで、トリエステも入るのは初めてだった。


 こんなときでも入室の順序を女性に譲るのはさすが我が国の紳士だなと思いつつ、軽く黙礼してジェロディの前を通り過ぎる。できたての打合せ室にはまだ扉がなかった。部屋の大きさはトリエステの寝室の半分くらい。見渡す限り灰色の空間の真ん中に、四人がけの机が椅子とセットで置かれている。

 正面には小さな刳り抜き窓。隅には縦長の細い書棚があるばかりで、他に特筆して気になるものはなかった。


 見上げた先には上階の床を支える木製の梁。既に石床が乗っているせいで、白い布が掛けられているだけの他室と違いここは薄暗い。

 晴れていれば話はまた別なのだろうけど、ようやく日が昇り始めたこの時間でここまで暗いと少し考えものだ。一基だけで構わないので、あとで図面に壁掛け燭台を付け足しておこう──と思ったところで、ズリリ、椅子を引く音がした。


「座ってくれる?」


 窓辺に佇んだトリエステの後ろで、ジェロディが静かに椅子を示している。できれば外で戯れる水鳥たちを眺めたまま、彼に背を向けて会話したかったのだが、臣下の礼を取っている以上そういうわけにもいかなかった。

 だからトリエステは無言で差し出された椅子に腰かける。向かいにジェロディも腰を下ろした。……それからしばしの沈黙。

 自分は沈黙を苦に思わないタイプの人間だと自負していたのに、またも認識を改める羽目になった。きっと人はこういう心境を〝気詰まり〟と言うのだろう。


「……ジェロディ殿、」

「ごめん。なるべく君を傷つけない方法を探してたんだけど」


 だから思い余って声を上げたら、同時にジェロディも口を開いた。声が重なったせいで上手く聞き取れなかったけれど──彼は今、なんと言った?


「でも、どうしてもいま伝えなきゃと思って。……聞いてくれる?」

「……はい」

「トリエ。僕はコルノ城の主だ」


 ギクリ、と心臓が骨でも折れたような音を立てた。いや、心臓に骨はない。

 それくらいの知識はトリエステも書物を読んで知っているのに、ついそんな形容を思い浮かべてしまう程度には動揺しているらしかった。現に向かいに座るジェロディと目を合わせられない──彼は気づいているのだろうか。自分がその顔で「トリエ」と呼ばれると、萎縮して何も言えなくなってしまうことを。


(……だとしたら、この方もなかなかの策士だ)


 と思いながら、意味もなく薄衣うすぎぬのショールを掻き合せる。思えばヴィルヘルムに「緊急事態だ」と叩き起こされ、ろくに着替えもせぬままここまで来てしまった。ジェロディも既に成人した立派な紳士であることを考えると、今の自分の格好はひどく不敬で場違いだ。速やかに謝罪したい。


「ライリーは未だに認めてくれないけど、でもここは救世軍ぼくたちの城でもある。だから僕には一城の主として堂々としていてほしいって、トリエは前にそう言ったよね」

「……はい」

「それは、分かるよ。とてもよく分かる。ライリーはいいやつだけど、ここが湖賊の城だと思われたままじゃ、人は僕たちについてこない。だから僕も城主として、出来る限りのことはしようと思ってる。だけど君の言う〝城主〟って、四六時中城に籠もって、一人だけ安全な場所でぬくぬくとしているやつのことを言うのかい」

「……」

「そいつは、高い城壁の中で魔女に飼い殺されている王とどう違うんだい」


 そんな場合じゃないのに、思わず笑ってしまいそうになる自分に辟易した──この方もずいぶんと辛口で物を言うようになったな、と。

 その変化が誰の影響なのかは知らない。カミラかライリーか、はたまた自分か。


「……つまりジェロディ殿は、現在のご自身のお立場に不満を抱いていらっしゃる、と?」

「ああ、そうだよ。前にも言ったと思うけど、僕はコルノ島で暮らす民の生活も黄皇国の現状も、もっと身近に感じたい。誰かに目隠しをされるのはもう嫌なんだ。黄都にいた頃の自分の愚かさを悔いているから」

「ですがだからと言って、此度の先遣隊への同行は認められません。獣人区は──タリア湖の向こう岸は既に戦地となっているのですよ。そのような場所に、何の下調べもなくあなたを赴かせるわけにはいきません。現にピヌイスでも、あなたは郷守に囚われるという危機的状況に陥ったばかりではありませんか」

「確かにあれは人を信用しすぎた僕の落ち度だよ。だけどアーサーはフィロメーナさんがまだ生きていると思って、縋るような想いでここへ来た。きっと彼を送り出した蛙人フロッグたちだって同じ想いだったはずだ。なのにこちらから出向くのが事の真偽を問い質す詰問の使者じゃ、きっと向こうは納得しない。それどころか人間を憎み、信用してくれなくなる可能性だってある」

「いかな救世軍と言えども、紛争の理由がはっきりしなければ無闇に介入できないことくらい水の賢者たちも承知しています。しかし敢えて他言を禁じたということは、何か知られては困る事由があると考えるのが自然でしょう。その事由が善であるか悪であるかも分からぬうちに、総帥であるあなたが獣人区へ出向くのは早計に過ぎます。下手をすればあなたを危険に晒すだけでなく、救世軍の名に泥を塗る可能性もあるのですよ」

「だけどアーサーは獣人たちに非はないと──」

「彼は遥か遠い異国からやってきた客人です。黄皇国の事情をつぶさに理解しているとは思えませんし、我々とは文化も価値観も倫理観も違う。ゆえに彼の言うことを頭から信じるのは危険だと申し上げているのです」

「アーサーは遥々アビエス連合国から、僕らに協力を持ちかけようと訪ねてきてくれたんだよ? なのに彼を疑うって言うのか」

「ええ、疑います。あらゆる事態を想定し、何が起きても冷静に対処できるよう備えるのが軍師わたしの仕事です。第一あなたも先程ピヌイスでの一件を〝人を信用しすぎた自分の落ち度だ〟とおっしゃったではありませんか」

「だからって僕は、無関係の人々のために傷だらけになって戦った相手まで疑いたくない。それは救世軍に対する冒涜だ。国を救おうと戦う仲間を愚弄する行為だ。僕はそんな人間になりたくて、総帥の件を引き受けたわけじゃない」

「承知しております。ですからそういった仕事はすべて私が」

「もう一つ。僕は救世軍を、人を救うための組織だと思ってる。この〝人〟っていうのは、何も黄皇国の民に限った話じゃない。目の前に困っている人がいたら迷わず手を差し伸べる、人の善性を象徴した組織だと」

「だからアーサーも獣人たちも助けるべきだ、と?」

「そうじゃない。僕は君を助けたいんだ、トリエ」


 心臓が軋むのを通り越して、止まるかと思った。ジェロディの言葉の意図するところが理解できず、「は、」と間抜けな声が出る。

 トリエステは目を丸くして眼前の少年を見つめた。対するジェロディもまっすぐに見返してくる。


 ──ああ、同じだ。本当に同じだ。あの人のと。


「……ジェロディ殿、それはどういう」

「たった今、君は言ったろ。人を疑ったり最悪の想定をしたりするのは自分の仕事だって」

「ええ……確かに申し上げましたが」

「僕には手伝えないのかな。君のその〝仕事〟を」

「……お気持ちは大変嬉しいですが、端的に申し上げて難しいかと思います。あなたと私の信条の違い(・・・・・)は、今し方明らかになったばかりですし」

「理由はそれだけ?」

「とおっしゃいますと?」

「僕に任せられない理由は、それだけ?」

「……そうですね。突き詰めればすべてそこへ行き着くのだと思います。人を冷徹に管理したり監視したりする仕事は、あなたには向いていません。人には必ず向き不向きというものがあるのです。そしてだからこそあなたには総帥という立場がふさわしく、私には軍師という立場がふさわしい」

「けれど僕には、君もそういう仕事に向いているとは思えないんだけど」

「仮にそうだとしても、やり遂げる気概はあります」

「だったら僕にだってできるはずだ。君の仕事を半分分けてほしい」

「できません」

「なら、代わりに獣人区行きを」

「そちらも許可しかねます」

「僕じゃ頼りないから?」

「そうではありません。私には軍師として、総帥たるあなたを守り支える義務が」

「君が守っているのは本当に総帥ぼくかい?」

「は?」

「トリエ。僕は、エリジオにはなれないんだ」


 全身が凍りついた。凍りついた、という表現がまさにふさわしかった。

 体だけじゃない。思考も凍って、身動きできない。ただ見開かれた瞳だけが、死んだ弟と同い年の少年を映している。


「……ごめん。代われるものなら、代わってあげたかった。ここにいるのが僕じゃなくて、エリジオだったならどんなに良かったか」

「ジェロディ殿」

「だけど僕は、エリジオにはなれない。……彼はもういない。どこにもいないんだよ、トリエ。エリジオだけじゃない。フィロメーナさんも」


 ──やめてくれ。それ以上は何も言わないでくれ。


 心がそう悲鳴を上げていて、自身もそう伝えたかったのに、やはり喉も唇も凍りついたままだった。膝の上で固く握った両手が震えている。滑稽だ。夫が死んだと告げられたときだって、こんなに慄きやしなかったのに。


 なのに、どうして?


「エリジオやフィロメーナさんのこと、償いたいと願う君の気持ちはよく分かる。分かりすぎるくらいに。……僕だって同じ気持ちだ。あのときエリジオを無理矢理にでも黄都から連れ出していれば、きっと未来は変わっていた。だけど僕にはできなかった。フィロメーナさんのときだって……」

「……」

「だから僕はフィロメーナさんに代わって救世軍を守りたいと思っているし、エリジオに代わって世界を目に焼きつけたいと思ってる。そうすることが、救えなかった二人への償いになるのなら」

「……エリジオに代わって?」

「そうだよ。君には伝えていなかったかもしれないけど、エリジオは別れ際、こう言ってた。許されるのなら、自分も僕たちと一緒に黄都を出て旅に出たい。姉上が見ていた世界を、自分もこの目で見てみたい、って──」


 ──エリジオのあの言葉が、今も頭から離れない。


 静かにそう告げたジェロディを、トリエステはやはり直視できなかった。できるのは何もない机の上に目を落とし、肩の震えをこらえることだけ。


(……ロメオ)


 心の中で、何年も会えぬまま死に別れた弟に呼びかける。


(そうだったわね。あなたはずっと、黄都という鳥籠の中で──)

「だから僕は行きたいんだ、トリエ。過ちを繰り返さないために、苦しんでいる誰かに寄り添うために、同じ願いを抱いていたエリジオのために、僕は行きたい。僕の身を案じてくれる君の気持ちには感謝しているよ。本当に。だけどこんなとき、仲間と共に戦わない総帥なんて、救世軍には要らないんだ」


 ──だって救世軍ここは、トラモント黄皇国とはまったく別の国なんだから。

 瞼を伏せ、幼い弟の姿を思い描いていたトリエステは、その一言で顔を上げた。

 ジェロディは変わらない。きっと視線が搗ち合わずとも、ずっとそうしていたのだろう。深い青色の瞳で、じっとトリエステを見つめている。


「……あなたを失えば、救世軍はフィロメーナを亡くしたときのように、再び路頭に迷うことになります。それでも、ですか?」

「ああ、それでもさ。大丈夫。革命の種火はもう燃えている。この火はジャンカルロさんが亡くなっても、フィロメーナさんが亡くなっても、ついに消えなかった。だから僕に万一のことがあっても、救世軍はまだ戦える。だけど自分たちの総帥が黄帝と同じ、愚かで保身を第一に考える人間だと思われたなら、救世軍はそのときこそ瓦解するだろう。君はそんな未来を望むのかい?」

「……いいえ、望みません」

「だったら、許してくれるね。僕が直接蛙人族の長老に会いに行くことを」


 トリエステは深く嘆息した。

 窓の外から、水鳥が湖面を蹴立てて飛び立っていく音がする。

 二度目の沈黙が降りた。

 けれど不思議と、今度は耐えられる(・・・・・)沈黙だった。

 ──ずっとこうしていたい。

 このまま彼を引き留めていたい、と願ってしまうほど。


(……だけど、それはもう無理ね)


 だって雛鳥は成長し、巣立ちのときを迎えてしまった。いつまでも狭い鳥籠に閉じ込めていたら、彼はやがて飛び方を忘れてしまう。自分のように。

 ……そうだ。かつての自分もそうだったのだ。

 父が用意した暗い鳥籠に囚われたまま、飛び方を知らずに育った。

 けれどその鳥籠を開けて、広い空を見せてくれた人がいた。

 あのときの歓びを、感動を、今もこれほど色鮮やかに覚えているのに。


(私は父と、同じ過ちを犯してしまうところだったのね──)


 やはり血は争えない。自嘲じみた心境でそう思いながら、トリエステは姿勢を正した。結ってすらいない亜麻色の髪が、さらりと薄衣の上を滑る。

 父と同じ色の髪。自分はこの髪が、昔から嫌いだった。


「……では、ジェロディ殿。私から一つ条件をお出しします」

「条件?」

「はい。その条件を呑んでいただけるのでしたら、あなたの熱意に免じて獣人区行きを許可しましょう」

「分かった。で、条件って?」

「──必ず無事にお戻り下さい。約束していただけますか」


 ここに来て初めて、ジェロディが面食らった。条件などと言うからには、かなり複雑で無理難題なものを押しつけられるとでも思ったのだろうか。

 けれど人の想いや願いなんて、本当はずっと単純なものなのだ。

 それを守るために理屈や理由をぎ合わせて鳥籠を作り、自分の心すら閉じ込めてしまっていただけ。

 彼はそのことに気づかせてくれた。だからこれはちょっとした返礼だ。

 ジェロディもそんなトリエステの考えを察したのか、やがて目尻を綻ばせる。


「ああ。無事に戻るよ、必ず」

「そうしていただけると助かります。この件が解決したら、あなたにお任せしたい仕事が山ほどありますから」

「だったらなおさら無事に帰ってこなきゃ。これでもうライリーに嫌味を言われずに済むわけだしね」


 ……ああ、なるほど。彼を唆したのはあの男か。トリエステは嫌味ったらしい笑みを浮かべたライリーの姿が目に浮かぶようで、ひそかに報復を誓った。

 されどそうしているにジェロディが立ち上がり、歩み寄って手を差し伸べてくる。だからトリエステもその手を取った。


 窓の向こう、薄く広がる曇天を裂いて、陽の光が射し始めている。


 斜めに降り注ぐ祝福の中を、水鳥たちがさえずりながら羽ばたいていった。



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