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【side:A】エマニュエル・サーガ―黄昏の国と救世軍―  作者: 長谷川
第6章 世界はやさしくなんかないけれど
180/350

178.波乱の予感 ☆


     挿絵(By みてみん)




「ポヴェロ湿地が陥ちる?」


 と聞き返され、カミラは頷くことしかできなかった。

 つい最近、コルノ城の別棟一階にできた新医務室。カミラはそこでトリエステと向き合い、事の顛末を説明していた。

 室内には現在カミラとジェロディ、ウォルド、ヴィルヘルム、そしてトリエステの五名が揃っている。ヴィルヘルムがラファレイを呼びに行ったついでに、彼女のことも起こしてきてくれたのだ。

 反対に空から落ちてきた客人アーサーは、現在寝台の上で眠りに就いていた。傷はラファレイが持つ蒼淼刻(フラッド・エンブレム)の力で既に癒えており、あとは意識の回復を待つだけらしい。


「彼が、確かにそう言ったのですか?」


 と、そのアーサーを一瞥してトリエステが言う。アーサーが横になっている寝台は人間が使えばごく普通の寝台なのに、猫人(ケットシー)の彼には大きすぎて、何だかとても不格好だった。

 彼を治療したラファレイは現在、ラフィと共に城の外で翼獣(ラプン)を診ている。カミラたちは最初、アーサーの愛騎である彼もまた医務室へ運ぼうとしたのだが、この神聖な空間にケモノを入れるなとラファレイに叱られ断念した。

 動物はあくまで動物、ゆえに医務室へ入れるのは衛生上問題がある──と彼はそう考えたようだ。ついでに言えば俺は獣医ではないぞ、とラファレイは不服そうだったが、猫人を見て瞳をキラキラさせたラフィにせがまれると、最後は折れて治療へ向かった。あの男は本当にラフィには甘いなと思いつつ、カミラもまたアーサーを見下ろして口を開く。


「はい……詳しいことは分かりませんけど、〝黄皇国で暮らす獣人たちが滅びの危機に瀕してる〟って、そう言ってました。ポヴェロ湿地って確か、蛙人(フロッグ)族の集落があるところですよね? 三神湖の真ん中の……」

「ええ、そうです。ちょうど三角を描いて並ぶタリア湖、ラフィ湖、ベラカ湖の中心は、我が国では『獣人居住区』と呼ばれています。かつて黄祖フラヴィオと共に戦った蛙人族が、彼との盟約に基づき勝ち取った獣人たちの国。以来黄皇国は彼らと不可侵条約を結び、友好的交流と交易以外の干渉を禁じてきました。そこへ黄皇国が軍を進めるというのは、ちょっと考えにくいのですが……」

「だが現にあのアーサーとかいう猫人は、傷だらけでここに来た。あれは間違いなく戦いで負った傷だとラファレイが言ってたぜ。翼獣とかいう乗り物の方には軍の矢も刺さってたし、間違いねえだろ」

「しかし侵攻の理由が分かりません。獣人居住区は獣人たちが心穏やかに暮らすことを目的として創られた土地であり、それ以上のものは何もないのですよ。特別な鉱脈や豊富な資源、あるいは何か重要な軍事的価値があるならまだしも、何の動機もなく中央軍が動くとは思えません」

「たとえば居住区の獣人たちが、黄皇国に対して反感を募らせていたとすれば?」

「確かに獣人側から先に攻撃があったのだとしたら、防衛に動くのは分かります。ですが獣人たちをまとめる蛙人族は、争いを好まぬ賢者の一族。たとえ黄皇国との間に何らかの軋轢を抱えていたのだとしても、武力に訴えかけるような人々ではありません」

「もう一つ分からねえのは、仮に中央軍の攻撃が事実だとして、なんで騎士王国の騎士サマが参戦してるのかってことだ。その獣人居住区には猫人の仲間も住んでるのか?」

「いいえ。私の知る限り獣人区に暮らしているのは蛙人族、牛人(タウロス)族、犬人(ポチ)族、羊人(シープ)族、猿人(ショウジョウ)族──そして地鼠人(マーモット)族だけのはずです。猫人族が騎士王国から移住してきたという話は、聞いたことがありません」


 トリエステが次々と並べる種族の名前を聞き、羊人や地鼠人なんてのもいるんだ、とカミラは目を瞬かせた。以前少しだけ一人で旅をしていたときに牛人や犬人、猿人といった種族は見かけたことがある。

 トラモント黄皇国は獣人区があるおかげか他国に比べて獣人を見かける機会が多く、初めて彼らの姿を見たときは驚き感動したものだった。しかし未だ会ったことも聞いたこともない種族については、一体どんな獣人なのか想像もつかない。羊人は羊の頭を持った獣人だとして……地鼠人って?


「おい、あっちも終わったぞ」


 と、そこへラフィを連れたラファレイが戻ってきて、会話は一時中断された。別に聞かれて困る話題ではないのだが、それよりも今はあの黒い騎獣の安否が気にかかる。


「ラファレイ、どうだった?」

「どう、とは? この俺が診たんだ、助かったに決まっているだろう。かなり衰弱していたので増血剤と栄養剤を打っておいたが、すぐに回復するかどうかは分からん。あくまで人間用の薬なんでな」

「でも傷は癒えたのよね。良かった……」

「アレの治療をしたのはラフィだ。俺の優秀な助手に感謝しろ」


 言いながら小柄な少女の頭に手を置いて、「よくやったぞ、ラフィ」とラファレイは彼女をねぎらった。するとラフィも嬉しそうにはにかんで、髪を撫でられる感触を享受している。

 が、やがてラファレイの手が離れると、ラフィは何か訴えたそうに彼の白衣を引っ張った。いつも一緒にいるからなのか、ラファレイは仕草や表情だけで彼女の考えが分かるようで、「ああ」と寝台の上のアーサーを瞥見する。


「アレも一応患者だ。撫でてもいいが優しくな」


 ラファレイがそう答えれば、ラフィはぱあああと喜びに満ち満ちた顔をした。かと思えばすぐさま寝台へ走り寄り、仰向けで眠っているアーサーを覗き込む。

 どうやらラフィは猫とかリスとか小鳥とか、そういう愛らしい動物に目がないようだった。動物というかアーサーは猫人なのだが、まあ寝姿は完全にただの猫だ。

 ゆえにラフィはそっと慈しむように、アーサーの頭を撫でてやっていた。他方カミラはそんなラフィの愛くるしさにきゅんとして、アーサーではなく彼女を撫でくり回したい衝動をぐっとこらえる。

 だって今カミラがまとっている上着は血でベトベトだし、何よりラファレイの目の前だ。こんな格好でラフィに抱きつこうものなら、彼はすかさず手術用の小刀を投げつけてくるだろう。


「しかしまあ、お前もずいぶんと丸くなったものだな、レイ。以前のお前なら貴重な注射薬を獣に使うなど言語道断だとゴネただろう。幼女を愛でる趣味まで一緒に芽生えたのは考えものだが」

「それ以上無駄口を叩くようなら唇を縫合するぞ、ヴィルヘルム。確かに注射薬は貴重だが、もうすぐ救世軍(きさまら)の情報と引き換えに本国から補給が届くことになっているのでな。だったら古い薬は早めに処分しようと思っただけだ」

「本国、って、つまりエレツエル神領国ってこと? あなた、私たちの情報を勝手に……!」

「勝手にではない。ちゃんとそこの軍師殿に許可は取っている。本国は黄皇国の内乱に介入する隙がないか探れと言ってきていてな。かと言って俺もエレツエル人の言いなりになるのは不愉快なので、軍師殿と相談して毒にも薬にもならない情報だけ送っている。やつらの得になることはしたくないが薬はほしいのでな」

「本当なのか、トリエステ?」

「ええ。ラファレイ殿にお渡しする情報はほとんど虚偽のものですので心配要りません。嘘の報告を並べるだけで最先端の医療を受けられるのでしたら、安いものでしょう。偽報で上手く攪乱すれば、かの国の介入を遅らせる効果も見込めますし」

「つまり内乱が長引けば、神領国が介入してくる可能性が高まるということか?」

「もちろん彼らはそうするでしょう。ここは元々彼らの版図であった土地ですし、正黄戦争の裏で糸を引いていたのもまた彼らですから」


 トリエステが淡々ととんでもないことを言い出すので、カミラは目を見開いた。裏で糸を引いていた──ということは、あの戦争を起こしたのは神領国だったということか? 確かにエレツエル神領国は、黄祖フラヴィオに奪われたこの土地を取り返したがっている。しかしそうできないのは黄皇国が竜族と同盟しているからで……だからこそ彼らは、黄皇国の内部崩壊を狙っているのか。

 そんなとんでもないことに関わるラファレイに一抹の不安を覚えたものの、皆の前で正直に話すということは、隠し立てする気はないということだろう。

 元は神領国の奴隷だったというラフィを特別可愛がっているところを見ても、彼が祖国に反意を抱いていることは明らかだ。……それが特殊な性癖から来る歪んだ愛情でなければ、の話だが。


「まあ、続きはまた別の機会にでもするとして、だ。どうやらもう一人診察が必要な者がいるようだな」

「え? だ、誰のこと?」

「さっきからそこで黙りこくっているやつのことだ。──ジェロディ。顔色が悪いようだが薬が必要か?」


 言われてはっと振り向けば、ラファレイの視線の先には、寝台の脇に佇んだままのジェロディがいた。顔色は土気色で、反応も鈍い。呼ばれて顔を上げるまでの動作がやけに緩慢だ。


「いえ……僕は大丈夫です、先生。ただ少し、混乱しているだけで……」

「ハーマン将軍のことですか?」

「……うん。僕は小さい頃から将軍を知っているけれど、あの人はわけもなく獣人たちを攻撃するような人じゃないよ。将軍たちの中ではまだ若くて、情に流されがちだって声もあったけど……」

「ハーマン・ロッソジリオ、三十七歳、男性。各地を治めるトラモント五黄将の中ではリリアーナ皇女殿下に次いで若く、『(くろがね)』の異名を持つ将軍。正黄戦争中に頭角を表し、守りの戦に関しては天下無双。先の内乱では幾度となく陛下の盾となり、偽帝軍の攻撃を撥ね退け続けた名将です」


 と、トリエステが生き字引みたいにすらすらと敵将の情報を並べ立てる。その頭の中は一体どうなっているんだと覗いてみたいくらい、彼女の記憶に詰め込まれた情報は正確で膨大だ。おかげでカミラは一瞬にしてハーマンという将軍のことを理解できた。名前くらいは知っているものの、実際にどんな功績を残した人なのかは詳しく知らなかったのだ。

 ハーマンは派手な戦をするガルテリオとは違い、地味で堅実な戦を得意としているからあまり話題に上ることがない──とはヴィルヘルムの言だった。三十七歳と言えば彼と同じ歳だから、正黄戦争中は親しかったのだろうか。

 話題がハーマンのことへ移ると、ヴィルヘルムは難しい顔をした。左手が剣の柄を触っているのは、慎重に考えを巡らせているからだ。その仕草が考え事をするときの彼の癖だということくらいは、七ヶ月の付き合いでカミラもちゃんと理解している。


「……確かに俺も、ハーマンがわけもなく非武装地帯を攻撃するような男だとは思えん。たとえそれがオルランド殿の命令だったとしても、正統な理由がなければ絶対に動かない。あれはそういう男だ」

「──しかし、事実だ……ハーマンは数千の軍を率い、獣人区(ビースティア)を攻撃している。あそこに暮らしているのは牛人と猿人以外、戦などとは無縁の者たち……ゆえに皆、このままでは蹂躙される。お願いだ、彼らを助けてくれ……!」


 そのときヴィルヘルムの言葉を否定し、叫んだのは黒猫だった。皆が驚いて振り向けば、いつの間に起き上がったのか、目を覚ましたアーサーが悲痛な面持ちをしてそこにいる。ボロボロだった鎧を脱がされ、人間で言うところの〝一糸まとわぬ〟姿となったアーサーは、やはりおなかが白かった。

 両手も白い手袋を嵌めているみたいで愛らしい。毛皮のせいで指が何本あるのか判然としないものの、掌にピンク色のふにふにした肉球があることは、さっき抱き上げたときに確認した。そう言えば尻尾の先も白かったような気がするが、今は上掛けに隠れていて分からない。


「アーサー殿、とおっしゃいましたね。お体の具合は?」

「ああ、大丈夫だ。誰が傷を治してくれたのか知らないが、ありがとう……ここは救世軍のいるコルノ島で間違いないか?」

「ええ、そうです。私は軍師のトリエステ。そちらにいらっしゃるのが総帥代理のジェロディ殿です」

「総帥代理? では、フィロメーナどのは」

「フィロメーナはここにはいません。今は極秘の任務に就いているため、彼女の居場所は明かせませんが、お話は我々が伺います」


 やや取り乱しかけているアーサーを宥めるように、落ち着き払った声色でトリエステが言った。それを聞いたアーサーは困惑顔で耳を伏せ、トリエステとジェロディとを見比べる。


「そ、そうなのか……私はジャラ=サンガの長老どのに、必ずフィロメーナどのを連れてくると約束してしまったのだが……」

「ジャラ=サンガ──蛙人族の里ですね。ご安心を。そちらにいらっしゃるジェロディ殿は、お若くしてハイムに選ばれた神子です。彼の存在はフィロメーナの不在を補って余りあるかと」

「な、なんと、神子どの……!? これは失礼した。では、改めて自己紹介を……」


 と寝台の上に飛び起きたところで、アーサーはハッとした様子だった。どうやら自分が丸裸だということにたったいま気がついたらしい。

 見た目は完全に猫なのに、やはり猫人も衣服を着ていないと恥ずかしいらしかった。彼は慌てて腹這いの姿勢になると、丸めるように畳んだ前脚の上に顔を埋めて、震えながら口上を述べ始める。


「も……申し訳ない……このようなあられもない姿にてご挨拶すること、どうかご容赦願いたい……私はアーサー・イーヘソラス、アビエス連合国にあるカリタス騎士王国より参上しました……」

「う、うん……君の今の格好については特に気にしてないから、続けて」

「あ、有り難きお言葉……実は私は、アビエス連合国の現宗主レガトゥス・コンキリオさまより内命を受けて黄皇国へやってきました。我々猫人族の騎士は翼獣を駆って、エマニュエルのどこへでも飛んでゆけることから、連合国の尖兵としての役割を担っております。そこでレガトゥスさまは今般、黄皇国で起きている内乱について詳しく調査してくるようにとの命を私に下されました。より正確にはあなた方救世軍の実態を調べ、連合国が支援するに値する者たちであるかどうか見極めてくるように、と」

「連合国が支援? 僕たちを?」

「はい。ご存知のとおり、我がアビエス連合国は愛神(エハヴ)の神子ユニウス・アマデウス・レガリアさまによって築かれた博愛の国でございます。よって初代宗主(ユニウス)さまの教えに則り、常に弱者の味方を……というのは建前で、現在我が国は、エレツエル神領国がこれ以上勢力を拡大することを恐れています。かの国がこの北西大陸をも支配する時代が来れば、我が国との全面戦争になる可能性が高いからです」

「……確かに神領国は、シャマイム天帝国がアビエス連合国と名を改める以前から、南西大陸は魔女の住まう穢れた土地だと痛烈な非難を続けているな。ゆえに征服し掃き清めねばならない、とも」

「そのとおりです、眼帯の御仁。無論我々とて大人しく征服されるつもりは毛頭ありませんし、神領国と互角に渡り合うだけの戦力も保持しています。ですがそれゆえに、神領国との戦になれば世界中を巻き込む大戦となってしまうことは明らかなのです。ですから我々は、神領国との戦いは極力避けるべきだと考えています。エマニュエル中の罪なき民が、過酷な戦いに身を投じなくて済むように……」

「世界中を巻き込む、大戦……」


 と、アーサーの説明を聞いたジェロディが、不意にぽつりと呟いた。かと思えば元々土気色だった彼の面輪から、ますます顔色が失われていく。

 全世界を巻き込む大戦(おおいくさ)ともなれば、事態は黄皇国の平定どころではなくなるだろう。そんな未来が本当にやってくるのなら、カミラたちがどんなに必死に命の平等を謳っても力なき者は蹂躙され、国も焦土と化してしまう。けれど、


「じゃあ、まさか、あの信徒たちが言っていたことは……」


 ジェロディがそう呻くのが聞こえて、何のことだとカミラは目をやった。アーサーも異変に気がついたのか顔を上げ、くるりと耳を動かしたが、窓のすぐ外を水鳥が横切ったせいだろうか、トリエステたちには聞こえなかったようだ。


「しかしアーサー殿、その事実と我が国の獣人居住区の一件が、一体どのように結びつくのですか?」

「ああ、これは失敬。前置きが長くなりましたが、私はそうした理由で数人の供を連れ、翼獣を駆ってこの島を目指しておりました。ところがちょうどビースティア──あなた方が『獣人居住区』と呼ぶ土地ですね──の南へ差し掛かった頃、地上に武装した一軍を発見したのです。そこで彼らの行き先が気になり、追跡したところ……」

「そいつらはハーマンが率いる中央第五軍で、まさに獣人区へ攻め入るところだったってか?」

「……はい。獣人たちが人間の軍に襲われていると知った我々は、誓いの鈴(ローファ)に懸けて彼らを見捨てることができませんでした。我々猫人の騎士は皆、死ぬまで王への忠誠と騎士道を貫くことを誓っています。ゆえに獣人たちを助けようと地上へ降りたのですが……」

「形勢は多勢に無勢、数騎の鈴の騎士(リッタリー)が加勢した程度では、戦況は覆らなかったというわけか」

「……おっしゃるとおりです」


 ヴィルヘルムが続きを引き取ってそう言えば、アーサーは悄然と耳を伏せてうつむいた。数人の供を連れ、と彼は言ったが、ここへ辿り着いたときにはたった一騎であったことを考えると、連れていた仲間はみな戦場で力尽きたのだろう。

 なんてことだ、と、カミラは知らず拳を握り締めた。救世軍に協力しようと遥々海を越えてきた騎士たちが、黄皇国の内乱で命を落とすなんて。

 それだけじゃない。彼の話が事実なら、獣人区に暮らす獣人たちもまた官軍に虐殺されている。さっきヴィルヘルムが言っていたとおり、あそこは自警団程度の戦力しか持たない非武装地帯だ。黄皇国軍はそんな土地を、一方的に──


「……なるほど。おおよその状況は理解しました。ですが一つだけ分からないことがあります」

「何だろう、私で答えられることなら何でもお答えするが」

「中央軍が獣人区に攻め入った動機です。我が国と獣人区に暮らす獣人たちの間には、建国以来守られてきた不可侵条約があり、条約を破ってまであの地に攻め入る利点が思い当たりません。だのに何故ハーマン将軍は獣人区を攻めたのか、その理由はお分かりですか?」

「そ、それは……」


 と、単刀直入に問われるや、アーサーは再び下を向いた。耳も垂れているところを見ると、知らないことを尋ねられて困っているのかと思ったが、違う。たぶん彼は戸惑っている。何故なら直前まで静かだった彼の尻尾が、小さく寝台を叩いているのが見えたから。


「……すまない。理由は知っているが、私の口からは答えられない。誰にも口外しないでほしいと、ジャラ=サンガの長老どのに頼まれているのだ」

「口外できない理由があると?」

「ああ。だが話を聞く限り、ビースティアの獣人たちに非はない。彼らはあるものを守ろうとしているだけだ。ハーマンはそれを力づくで奪おうと……」

「ですがはっきりとした根拠がなければ、我々も安易に軍を動かすわけにはいきません。下手をすれば中央軍と真っ向から戦うことになる。これは地方軍を相手取るのとはわけが違います」

「トリエステ」

「冷静にお考え下さい、ジェロディ殿。現在この島にいる兵士たちは、調練こそ受けていますが実戦の経験はほとんどありません。そのような兵をいきなり中央軍にぶつける愚かさは、あなたも充分承知しているはずです」

「確かに今の僕らはまだ、中央軍と互角に渡り合うだけの力を持たない。でもだからって、獣人たちが殺されていくのを何もせず見てろって言うのかい?」

「そういうことになりますね。アーサー殿が事情をお話下さるのであれば、一考の余地はあるやもしれませんが」


 とトリエステが見下ろせば、アーサーは叱られた仔猫のように首を竦めてうなだれた。尻尾を体に巻きつけてじっとしているのは、答えるつもりはないという意思の表れだろうか。しかし獣人たちを救ってくれと言いながら、頑なに理由を話さないというのは妙な話だ。そんなことではこちらの協力を取りつけられないことくらい、アーサーだって承知の上だろう。


 なのに敢えて話さないのは、誓いを破る……ことになるからだろうか。


 彼は蛙人族の長老に、理由は口外しないと約束した。だから何としても約束を守ろうとしているのか。

 カミラは『騎士道』というものをよく知らない。騎士と呼ばれる身分の者たちにはそういう道徳観念があるらしい、と聞いたことがある程度だ。

 けれど騎士道とは弱きを助け強きを挫き、立てた誓いと正義には決して背かぬものだと聞いた。ならば彼が口を閉ざし続ける理由も、その選択こそが正しいと信じているから──そう、考えるなら。


「トリエステさん。だったら先に獣人区に人を遣って、何が起きてるのか確かめるっていうのはどうでしょうか。私たちが直接長老に会いに行けば、蛙人族も詳しい事情を話してくれるかもしれませんし」

「本気か、カミラ?」

「本気も本気よ。だって黄皇国軍がまた悪さをしてるってのに、黙って見てちゃ救世軍の名が廃るってもんでしょ。かと言って軍を動かすためには準備がいる。だから島でみんなが戦支度を整えてる間に、少数精鋭で獣人区に先行するの。そうすれば理由が明らかになり次第、ただちに出動できるでしょ?」

「……獣人区に先遣隊を送り、此度の紛争の事由を改めるというわけですか。その後我々が出動するかどうかはまた別として、理に適った選択ではあります。ではカミラ、先遣隊の隊長にはあなたを指名しますが構いませんか?」

「はーい、まっかせて──って、えぇ!? 私ですか!?」

「発案者はあなたなのですから当然でしょう。同行者については三、四名ほど選定し、のちほど私に報告を……」

「待ってくれ、トリエステ。だったら僕もカミラと一緒に獣人区へ行く。あそこで何が起きているのか、この目で直に確かめたいんだ」

「それはなりません。軍の出動準備を進めるのならば、ジェロディ殿には島で陣頭指揮を執っていただかなくては」

「だけど、トリエステ」

「獣人区は現在中央軍との紛争の真っ只中、そのような危険な場所に軍主を赴かせるわけにはいきません。何より新生救世軍初の大きな戦になるかもしれないと伝われば、兵たちはみな不安に駆られます。ですのであなたはここに残り、彼らの心の支えに──」

「──トリエ!」


 瞬間、医務室に響き渡った鋭い声に、皆がびくりと竦み上がった。

 中でも一番動揺をあらわにしたのは、名を呼ばれたトリエステだ。普段ちょっとやそっとのことでは動じない彼女が目を見開き、正面に佇む少年を凝視している。

 カミラも信じられないものを見る思いでジェロディを見やった。温厚な彼が怒鳴るなんてこれまで滅多になかったことだし、何よりトリエステを「トリエ」と呼んだのも初めてだ。カイルがいつも勝手にそう呼んでいるから、真似たのだろうか。驚きのあまり、呪文にでもかかったみたいに動けないカミラたちの前で、ジェロディは深く嘆息する。


「……ごめん、みんな。トリエステと少し話がしたいんだ。カミラは言われたとおり、先遣隊の人選を進めておいてくれる? 僕らは上の打合せ室にいるから」

「え、ええ……分かったわ」

「アーサー。話がまとまったら改めて君に伝えに来る。そんなに待たせるつもりはないから安心して。ラフィ、僕らが戻るまでアーサーの傍にいてあげてくれるかな」


 直前までうっすらと漂っていた殺気を収め、今度は優しげにジェロディが言った。するとラフィはぱあと頬を赤らめ、懸命に頷いてみせる。

 が、あれほど饒舌だったトリエステは、腕を抱いて黙り込んだまま。

 カミラは無言でウォルドやヴィルヘルムと視線を交わした。


 ……事情は分からないけれど、これは一波乱ありそうだ。



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