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【side:A】エマニュエル・サーガ―黄昏の国と救世軍―  作者: 長谷川
第6章 世界はやさしくなんかないけれど
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177.空から来た猫

  それは真下から見上げると、巨大なカラスのように見えた。

 雲の糸を引いて進む翼は黒く、全身を覆う毛皮も黒い。されどカラスと違うのは、大気を掻く脚が四本あることだ。

 鋭い爪の生えた四肢を折りたたむようにして、その生き物は飛んでいる。時折ふらふらと頼りなく体を揺らしながら、唯一白い角を鈍く閃かせて。


「頑張れ、クラウカ。あと少し……あと少し……のはずだ……」


 と、彼の背中に乗った猫が譫言うわごとのように呟く。クラウカと呼ばれた黒い獣は、キュルルラ、と弱々しく鳴いて乗り手に応えた。

 彼の手綱を取る猫は、ボロボロの鎧を着ていてみすぼらしい。乗騎と同じ黒い毛皮は手足と鼻先、そして腹だけ白いが今は血で汚れている。

 そう、彼と彼の獣は傷だらけだ。必死で風に乗るクラウカの翼には篦深のぶかに矢が刺さったまま。羽根もボサボサで、羽ばたく度に何枚も抜け落ちていく。

 一方猫も獣の背にしがみついているのが精一杯のようで、浅い呼吸を繰り返していた。気を抜くと今にも喪心し、乗騎から転がり落ちてしまいそうだ。


「早く……知らせ……なくては……辿り……着かなくては……救世軍のいる……あの島に──」



              ◯   ●   ◯



 はっと目が覚めると同時に、カミラは寝台から跳ね起きた。

 夢。いや違う。未来だ。左手に刻まれた星刻グリント・エンブレムが、その証拠に瞬いている。

 何かに突き動かされるように、カミラは寝台を飛び降りた。剣を取り、髪には寝癖をつけたまま、顔を洗う手間も惜しんで部屋から走り出していく。


「ウォルド!」


 まず向かったのは、隣室にいるウォルドのところだった。何故なら今は助けが要る。彼のように屈強で、馬鹿がつくほど力のある仲間の助けが。

 扉を蹴破って飛び込むと、案の定ウォルドは大鼾をかいて寝腐っていた。風を入れるためか開けっ放しにしてある窓の向こうは薄暗い。昨夜小雨が降ったせいもあるがそれ以前に、まず夜が明けきっていないのだ。


「ウォルド、起きて! 緊急事態!」


 と、服も着ずに寝ているウォルドの下半身から、上掛けをひっぺがしてカミラは叫んだ。これでもし彼が全裸だったなら寝台ごと丸焼きにしてやるところだったが、残念……いや幸いというべきか、この筋肉お化けにも最低限の下着を着用する程度の分別はあったようだ。

 しかし部屋中に転がる酒瓶の数からして、夕べもしこたま飲んだのだろう。ウォルドは一度呼んだくらいでは目を覚まさず、カミラは「チッ」と舌打ちした。

 ならばとすかさず身を乗り出し、容赦なくウォルドの耳を引っ張る。そうしてからもう一度叫んだ。もちろん耳元で、隊に号令を出すときみたいに。


「起ーきーろー!! あっさでっすよー!!」


 正確にはまだ夜明け前だが、細かいことを無視して放った絶叫は効果覿面だった。毎晩カミラの部屋まで聞こえる彼の鼾が「ぐがっ」と止まり、お、と思った矢先にいきなり胸ぐらを掴まれる。


「……おいカミラ、朝っぱらからうるせえぞ。犬小屋に放り込まれてえか?」

「おはようウォルド、いい朝よ。外は曇りだし蒸し暑いし部屋は酒臭い。というわけでさっさと起きて、一階の広間に行ってくれる? 私もすぐ追いかけるから」

「話が見えねえ。嫌がらせなら殴るぞ」

「毎晩大鼾で人の睡眠妨害してくるやつに言えた台詞? 分かったら服を着て靴を履いてつべこべ言わずに広間へ集合。緊急事態よ!」


 額に青筋を立てた半裸男に極上の笑みでそう答え、カミラはすぐさま踵を返した。彼から奪った上掛けは丸めて小脇に抱え、そのまま部屋を飛び出していく。

 次に向かったのはさらに隣にあるヴィルヘルムの寝室だった。彼もまた膂力、反射神経ともに申し分ない。頼めばきっと強力な助っ人になってくれるはず──だから一切の情けをかけず、叩き起こす。


「ヴィル! 緊急事態!」


 と扉をぶち開けざまそう叫べば、途端にヴィルヘルムが跳ね起きた。彼は隻眼を見開くと同時にシュトゥルムを手に取り、こちらを振り向いてくる。夏真っ盛りだというのに、寝るときも眼帯を外さない執念はあっぱれだ。


「……カミラ? 一体どうした?」

「うん、合格。ヴィルならウォルドみたいにうだうだ言わないって信じてたわ」

「何の話だ?」

「こっちの話。それより緊急事態なの、ちょっと手伝ってくれない?」

「何かあったのか」

「うん、というかこれから何かある・・・・。もう一人呼んでくるから、先に一階の広間へ行ってて。私もすぐ追いかける」

「おい待て、カミラ。手伝うのは構わんが、お前その格好で──」


 とヴィルヘルムが何か言っているのを聞き流し、カミラはまたも身を翻した。ここはコルノ城本棟二階、救世軍幹部の居住スペースだ。総帥であるジェロディと家族連れのリチャードを除き、だいたいの仲間はみんなこのフロアにいる。中でもここから部屋が近く、なおかつ信頼できる膂力の持ち主と言えば誰か。

 答えはすぐに弾き出された。オーウェンだ。いつも長柄の武器ほどもある大剣を振り回している彼ならば、きっと頼もしい味方になってくれる。

 そう判断して方向転換したところで、いきなり人が飛び出してきた。危ないと思ったときには既に止まれず、カミラは正面衝突する。


「うわあっ!?」


 互いに喫驚の悲鳴を上げて、思いきり床に倒れ伏した。とっさに受け身を取ろうとしたが、足が絡まり思うようにいかない。おかげでむぎゅっと、カミラは彼を下敷きにする羽目になった。痛みのあまりしばらく呻き、ようよう体をもたげて見下ろした先には、我らが救世軍のリーダー様。


「はっ」


 と図らずも至近距離で見つめ合う形になり、二人は同時に我に返った。この姿勢は全方位の意味でまずいのではなかろうか。だってカミラは倒れた彼の左右に手をついて、大胆に何かを迫るような体勢になっている。


「ティ、ティノくん……!? ご、ごめんなさい! 私、急いでて……!」

「あ、ああ……僕の方こそごめん。君の声が聞こえたから下りてきたんだけど、タイミングが悪かったかな」


 苦笑するジェロディを真下に見つつ、カミラは彼の上から飛び退いた。飛び退いたはいいものの軽く腰が抜けてしまってへたり込み、起き上がる彼に手を差し伸べることもできない──動揺しすぎじゃない、私?


「おはよう、カミラ。怪我はない?」

「う、うん、私は平気だけど、ティノくんは……?」

「僕も大丈夫。でも、緊急事態だって叫ぶ君の声が聞こえてさ。何かあった?」


 さすがは神の耳を持つ少年と言うべきか、彼はそう尋ねると一足先に立ち上がり、逆に手を差し伸べてくれた。心臓は未だばっくんばっくんと暴れまくっているものの、自分のために出された手を取らないわけにもいかない。

 カミラは星刻が反応しないよう細心の注意を払いつつ、彼の手を取り立ち上がった。が、引っ張り上げてくれたジェロディの力強さに思わず驚き、我を忘れて目を見張る。


(あれ? ティノくんってこんなに逞しかったっけ?)


 男子三日会わざれば刮目して見よ、とはこのことかもしれなかった。近頃カミラたちは兵の調練や島の運営で忙しく、ジェロディと接する時間があまりなかったのだ。彼は島に人が集まり始めてからというもの城に籠もりがちになり、こちらから会いに行かないと丸一日顔を見ないなんて日もざらにあった。

 女中の仕事と平行して、ジェロディの世話係も続けているマリステアから「お元気ですよ」とは聞いていたが、こうして顔を合わせるのは二日ぶり──例のカルロッタとかいう海賊が島に乗り込んできたあの日以来だ。同じ城で暮らしているのに我ながら変な話だな、と思わなくもないけれど。


「……? カミラ、大丈夫? やっぱりどこか痛めたんじゃ……」

「えっ? あ、い、いや、大丈夫! ただちょっと驚いちゃって……ティノくん、少し見ない間に力持ちになったなあと」

「そう、かな? 自分ではあんまり分からないけど……」

「絶対そうよ。たったいま引っ張り上げてもらって、前との違いにびっくりしたもの」

「はは、だとしたら嬉しい、かな。でないと毎日暇だからって、剣を振ってる意味がないし……」

「え? 暇?」

「う、ううん、何でもない……」


 気まずそうに目を逸しながら、ジェロディはとみに上着を脱ぎ始めた。季節は夏、湖の上にあるコルノ城は余所よりは涼しいが湿気がひどく、上着なんて着ているのはジェロディくらいしかいない。

 彼も一応皆に合わせて夏らしい装いをするようにはなったものの、元々暑さ寒さを感じないためなのか、服装にはわりと無頓着だった。

 ゆえに今朝も丈の長い上着なんて着ていたのだろうが、ジェロディはそれをするすると脱ぎ終えるや、何故かカミラへと差し出してくる。


「え?」

「いや、これ……良かったら、着てもらいたいかなって……」

「私に?」

「う、うん……その……よく見たらカミラ、すごく薄着だし……」


 ……薄着?


 と言われてふと見下ろせば、なるほど、確かにカミラは薄着だった。

 全裸に近い格好で寝ていたウォルドよりは遥かにマシだが、まず何より布地が少ない。上には胸の下までしか丈のない上衣。下に至っては裾が斜めに下がっていく飾り布を一枚巻いているだけだ。

 腰のあたりでぎゅっと結んであるのはいいものの、おかげで左半身に至っては腿の付け根まで見えていて、カミラはハッと前身を押さえた。

 が、とき既に遅し。丸出しにした肩やらヘソやら生足やらを完全にジェロディに目撃されて、みるみる顔に熱が上ってくる。


「ご……ご……ごめんなさい……」


 カミラは羞恥に震えながらジェロディの好意を受け取り、冬の外套でも着込むように彼の上着の前を合わせた。さっき自分はこんな格好で彼にのしかかっていたのかと思うと顔から火を吹きそうだ。なんてこった。もうお嫁に行けない……。


「え、ええと、それで……そう、緊急事態って?」

「う……うん……あの……もうすぐ島に、人……というか、猫が訪ねてくるかもしれなくて……」

「猫?」

「ご、ごめん、私にもよく分からないの。でも今すぐ迎えに行かなきゃ──ティノくんも一緒に来てくれる?」


 本当はオーウェンを呼ぼうと思ってここまで来たのだが、この際ジェロディでも構わない。というか彼の上着を着て訪ねようものならオーウェンにどんな誤解をされるとも知れないし、そう考えればむしろジェロディの方がいい。

 当のジェロディはカミラの発言が理解できないのか首を傾げていたが、やがて「分かった、いいよ」と頷いてくれた。とにかくカミラが急いでいることだけは察してくれたらしい。二人で階段を駆け下り、入り口前の広間まで移動すると、既にウォルドとヴィルヘルムが揃っていた。コルノ城は階段が二箇所にあるから、彼らはカミラたちとは別の階段を使って来たようだ。


「よう、ティノ。お前もカミラに叩き起こされてきたのか? お互い災難だな」

「いや、僕は自主参加だよ。こんな朝早くにカミラの声が聞こえたから、気になって様子を見に来たんだ」

「その上着はジェロディのものか。……だから言っただろう、そんな格好でうろつくなと」

「ご、ごめんなさい……ちゃんと聞いてなくて……ていうかそれどころじゃないのよ! 猫が──」


 と言いながら、カミラは呼ばれるように城から走り出た。そうして限界まで首を反らし、上空を仰ぎ見る。希釈したインクで掃いたような、薄い曇天。今日も今日とて霧に囲まれた丸い空からは、風が吹いていた。

 この季節特有の湿気を孕んだぬるい風だ。それがひょう、ひょうとカミラの耳元で何事か囁いている。カミラには風の声を聞く力はない。けれど「こっちだ」と導かれているような気がして、頭上を見つめたまま駆け出した。

 ジェロディたちはちゃんとついてきてくれているだろうか。きっと自分の奇行を訝しんでいるだろうが説明はあとだ。今はまだ上手く説明できるだけの言葉を持たない。だからカミラは産毛みたいに茂った夏草を蹴り、駆けた。風の声が大きくなっている──こっちだ。直感を頼りに西へ進み、やがて、


「いた……!」


 見えた。霧を突き破り、徐々に高度を落としながら飛んでくる巨大なカラス。

 いや、違う。カラスではなく獣だ。翼の生えた黒い獣。

 ここからはまだ豆粒みたいに小さいが、狼に似た頭には二本の立派な角が生え、背に小さな鞍を積んでいることを、カミラはよく知っている。


「おい、あれって──」

「ああ、翼獣ラプンだな。ということは、猫人ケットシーか」

「猫人? それってアビエス連合国に小さな王国を持ってるっていう、猫型の獣人のことですか……!?」

「そうだ。しかも翼獣に乗っているということは、カリタス騎士王国の騎士──だが騎士王に仕える騎士が何故こんなところに……?」


 さすがは伝説の傭兵ヴィルヘルム、彼はカミラの知りたかったことをすべて説明してくれた。噂くらいは聞いたことがある。猫人──連合国へ行かなければなかなかお目にかかれないという〝小さき獣人〟。

 猫人は鼠人チュイ族と同じく、二足歩行で人語を話すが姿形は人というより動物に近い、非常に珍しい種族だった。普通〝獣人〟と言うからには、彼らは獣の頭を持ちながらも人間に似た体躯を持つのだが、猫人や鼠人は違う。

 猫人の身長は猫が後ろ脚で立ち上がったのと同じくらい。四つん這いになれば獣人と分からず、ゆえに町の野良猫の中にも猫人が混じっていることがある──とかつて聞いたことがあった。あれがその猫人なのか、とカミラは夢で見た黒猫を思い出して感動する。確かに彼の見た目はほとんど普通の猫と変わらず、だからカミラも「猫」としか形容のしようがなかった。


 しかし今は珍しい獣人との出会いを喜んでいられる状況じゃない。ヴィルヘルムが翼獣と呼んだ黒い獣は、安定を失い今にも錐揉みして落ちてきそうだ。

 ゆえにカミラは駆けながら、小脇に抱えていた布を広げた。ウォルドの寝台からぶん取ってきた上掛けだ。

 これで翼獣を受け止める。獣は犬より大きいが羊駝ラマよりは小さいくらいだ。きっとやれる。やれるはずだ。そう信じて、カミラはついに足を止める。


「ねえ、みんなでこの布の端を持って! あの翼獣とかいうの、もうすぐ墜落するわ! そこを私たちで受け止めるの、でないと乗ってる猫人も死んじゃう!」

「いやお前、受け止めるのはいいが人の寝具を何だと……」

「あとでマリーさんに頼んで新しいの用意してもらうから! ほら、分かったら急いで!」


 すかさず文句を垂れようとするウォルドを叱咤し、カミラは一方の端を持った。他の三人もそれに倣い、各々布の四隅を持つ。

 いよいよ翼獣が体勢を崩した。

 力を失くした翼が風に煽られ、横倒しになる。

 翼獣は完全に気絶していた。いや、あるいは力尽きて死んでしまったのかも?

 心臓がぎゅうと締め上げられるのを感じながら、カミラは再び走り出した。落下地点は恐らくここだ。翼獣は飛んでいるときとは違い、ものすごい速さで落ちてくる──果たして受け止めきれるだろうか?


「布を張って、可能な限り高く! お互いに引っ張り合って、全体重をかけるんだ!」


 自分たち目がけて落下してくる黒い獣に恐怖した刹那、ジェロディが叫んだ。その声に打たれ、はっと恐れを克服したカミラは渾身の力で布を引く。

 草原の上に生成りの上掛けがピンと張られた。次の瞬間、まるで狙い澄ましたかのように、そこへ翼獣が落ちてくる。


「きゃ……!」

「うわっ……!?」


 踏ん張れたのは一瞬だった。翼獣を受け止めた衝撃は思った以上にすさまじく、カミラたちまで吹き飛ばされる。倒れた翼獣の上を跨ぐように転がったカミラは腰を打ち、「いたたた……」と少時苦悶した。しかし今は猫人の安否だ、と涙目になりつつも、空からの客人を顧みる。


「ら、翼獣ラプンは……!?」

「死にかけだが息はある。背中の猫人もだ。お前たちはここにいろ、俺がレイを呼んでくる」

「う、上手くいったのよね? ふたりとも助かるわよね……!?」

「分からん。とは言え渡り星としては上出来だ。そいつらを助けたければ止血をしてやれ、すぐに戻る」


 猫人と翼獣の状態を素早く確かめるや、ヴィルヘルムは城へと引き返した。この時間だ、さすがのラファレイもまだ寝ているはずだが間に合うだろうか。

 カミラは祈るような思いでふたりの獣ににじり寄った。今はどちらも呼吸が浅く、目を凝らさないと生きているのか死んでいるのかさえ分からない。毛皮が黒いので分かりにくいが、恐らくかなりの血を失っている。


「これが猫人……本当に猫が靴と鎧を身につけてるみたいだね」

「ああ、けどどっちも相当衰弱してる。こいつら、こんな傷だらけの体でどこから来たんだ?」

「分からないけど、私たちに会いに来たのは確かよ。何かを知らせようとしてた。きっとすごく大切なことだわ、必ず助けなきゃ……!」


 言いながらカミラは腰に巻いていた布を外し、ビリビリと裂いて帯状にした。おかげで下半身は下着一枚になってしまったが、ジェロディに借りた上着の前を閉めれば何とかなる。たぶん。

 カミラはそうして作った即席の包帯を、ジェロディとウォルドにも手渡した。手分けして出血のひどい傷に血止めを施し、最後は上掛けでくるんで、体温が下がらぬようしきりに撫で摩ってやる。


「だけどカミラ、どうして彼らが来ると分かったんだい? もしかしてまた星刻が……?」

「うん。さっき寝てる間に夢を見たの。夢っていうか未来だったわけだけど、翼獣が霧を抜けたところで飛べなくなって、落ちてくる光景が見えて……」

「のわりにはお前、元気そうじゃねえか。前はちょっと幻視しただけでひっくり返ってたってのによ」

「そう、なのよね……星刻もちょっとずつ、体に馴染んできたってことかしら?」


 少なくともただの夢と星刻がもたらす啓示を瞬時に見分けられるようにはなった。具体的に何が違う、とは言葉で表しにくいのだが、ごく普通の夢とは感覚というか、見ているときの意識の鮮明さが違うのだ。

 しかし星刻に関する進展と言えばそれくらいで、カミラは未だにこの神刻エンブレムの使い方が分からないでいた。星刻は気まぐれに過去や未来を見せるだけで、カミラがあれを見たい、これを見たいと念じても希望には応えてくれない。


 前の持ち主を知っているヴィルヘルムやラファレイの話では、慣れれば自らの意思で過去も未来も見られるようになるらしいのだが、今のところそんな気配は微塵も感じられなかった。星刻の秘密について何か知っていそうなターシャに尋ねてみても、「自分で調べれば」の一点張りで何にも教えてくれないし。

 ……あのペレスエラという女性は、一体何のためにあんなこまっしゃくれた子供を置いていったのだろう。もしかしてていのいい厄介払いだったんじゃ? なんて疑念が生じる程度には、ターシャは生意気で可愛げがない。


「しかしお前、周りにはちゃんと隠せてるんだろうな? ヴィルヘルムが言ってたろ。大神刻グランド・エンブレムほどの力は持たなくても、珍しい神刻だってだけで狙う輩はいくらでもいるってよ」

「分かってるわよ。心配しなくても、ティノくんとウォルドとヴィル、それからラファレイとラフィとターシャ以外は誰も知らない。トリエステさんにまで黙ってるのは、さすがにちょっと気が引けるけど……」

「トリエステには、必要になったらちゃんと伝えればいいさ。今は彼女も忙しくて、島のこと以外に思考を割いてる余裕がなさそうだし……だけどさっき、ヴィルヘルムさんが〝渡り星〟って言ってたよね。あれはどういう意味?」

「さあ、私もよく分かんないんだけど、代々星刻の使い手はそういう風に呼ばれるんだって。なんで渡り星って呼ぶのかは〝そのうち分かる〟って言うだけで、詳しくは教えてくれなかったわ」

「なんかもったいつけてるんだよな、あのオッサン。知ってることがあるなら情報は共有しろってんだ。ただでさえ正体不明の神刻だっつーのに……」


 と、ウォルドがぼやきかけたときだった。突然カミラの手の下で布が蠢き、小さく呻く声がする。はっとして目をやれば、鼻だけ白い黒猫が微かに耳を動かした。次いでうっすら瞼が開き、奥にある金色の瞳が見える。


「あ、目を覚ました……!」


 生きている。覚醒に気づいたカミラは身を乗り出して、黒猫──否、猫人の顔を覗き込んだ。弱りきった彼の眼差しはかなり虚ろで、ちゃんとこちらが見えているのかどうかも分からない。

 されど猫人は再び耳を動かし、ヒゲをひくつかせると、朧気にカミラを見た。さすがに起き上がる力はないのか身を横たえたまま、浅い呼吸の狭間に言う。


「ここ、は……私は……助かった……のか……?」

「ええ、もう大丈夫よ。ここはタリア湖に浮かぶコルノ島。いま医者を呼んでるからもう少し頑張って。傷はすぐに癒えるわ」

「コルノ……島……? そうか、私は……ついに……辿り着いたのか──」


 猫人の声は精悍な若者のそれだったが、今は弱々しく掠れていた。どこからどう見ても猫にしか見えない生き物が人語を話している光景は摩訶不思議で、カミラはついまじまじと怪我人ならぬ怪我猫を眺めてしまう。


「おい、黒猫。お前、名前は? 猫人だろ、どこから来た?」

「私は……アーサー……アーサー・イーヘソラス……偉大なる、騎士王……グリアン様に、仕える者だ……」

「知ってる。アビエス連合国にあるカリタス騎士王国の『誇り高き鈴の騎士団』だろ。だが異国の騎士がこんなところで何してる? その傷はどこでやられた?」

「わ……私は……戦場で、鈴を失った……ゆえにもう、鈴の騎士リッタリーではない……が……救世軍に……どうしても……伝えたい、ことが……ある……」

「聞きます。言って下さい」


 促したのはジェロディだった。話を手っ取り早く進めるためだろう、彼は自分が救世軍の総帥だとは言わない。

 しかしアーサーと名乗った猫人を見る目つきは真剣で、ただならぬ気迫を感じさせた。きっと彼が傷つきながらも何か伝えようとしていることを知り、一言一句聞き逃すまいとしているのだ。


「少年……君が、もし……フィロメーナどのを、知っているのなら……伝えてくれ……このままだと、ポヴェロ湿地が──陥ちる。黄皇国に暮らす、獣人たちが……今……滅びの危機に……瀕している……と……」

「何ですって?」

「どうか、彼らを……助けてくれ……敵の名は、ハーマン……ハーマン・ロッソジリオ──」


 囁くようにそう告げた直後、アーサーは再び目を閉じた。彼がそれきりぴくりとも動かないのを見てカミラは慌てる。伝えるべきことを伝え、力尽き、死んでしまうのではないかと思った。ゆえに彼の体を抱き上げ──ジェロディの上着を汚してしまう罪悪感に駆られながらも──カミラは決然と立ち上がる。


「ダメ、もう時間がない……! 私、彼を城へ連れていくわ! ヴィルが途中までラファレイを連れてきてれば、まだ間に合うはず……!」

「分かった、そうするしかねえな。お前は先に行け、乗り物の方は俺が引っ張っていく。ティノ、お前も手伝え。布のそっち側を持って──ティノ?」


 早速走り出そうとして、しかしウォルドがジェロディを呼ぶ声に違和感を覚えた。すんでのところで立ち止まり、どうしたのかと振り向けば、そよぐ風の中でジェロディが座り込んでいる。


「ハーマン・ロッソジリオ……? まさか……あのハーマン将軍が──?」


 彼の顔面は蒼白だった。


 譫言のように零れた言葉が、ザアッと鳴り出した緑の波に呑まれてゆく。



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