175.800年前より ☆
気が遠くなるほど長い梯子を登ると、ようやく船の甲板に出た。
乗船時間はジェロディが船上に到達してから半刻(三十分)と決めてある。縄梯子の最後を登りきる前にちらと眼下へ目をやれば、カルロッタの命令で船を下りた百人の荒くれ者にまぎれ、仲間が心配そうにこちらを見上げているのが分かった。
「こっちだ」
と先に登ったカルロッタに促され、甲板へ上がる。
彼女と二人きりの時間が許されるのは今から半刻。ジェロディはすかさず懐中時計を取り出し、現在の時刻を確認した。
トリエステのことだ、きっと一小刻(一分)でも遅れたら本当に船内へ人を寄越すだろう。ゆえにゆっくりと船を見学している時間はない。外洋船──それもこんな大きな船に乗るのは生まれて初めてのことなので、内心興味は尽きないけれど。
「あれが神術砲?」
と前を歩くカルロッタについて歩きながら、無人の甲板を見渡しジェロディは尋ねた。はたはたと旗のたなびく音以外何も聞こえない船上には、船縁から身を乗り出すようにして大きな石筒が並んでいる。
尻の方がでんと大きく、砲口に向かうにつれてほっそりとしていく石筒だった。神力を溜め込み圧縮する砲身は、車輪つきの台座でしっかりと固定されている。
かつて論文の挿絵で見たとおりの姿だった。ジェロディは今すぐにでも走り寄って触れたいのをぐっとこらえ、砲身に刻まれた古代の紋様を目に焼きつける。
「そうだ。本来は砲甲板に並べて船の横っ腹から撃つんだがな。今回はてめえらを脅すために、全門上甲板まで引っ張り上げた。壮観だろ?」
「うん……だけどこうして見ると、砲身に紋様が刻まれているものとそうでないものがあるみたいだね。見た目以外にも何か違いが?」
「目ざといな、お前。砲身に紋様がねーのは連合国産の魔砲だ。西中央海を縄張りにしてる海賊から買ったやつでな、威力は大帝国時代の魔砲にゃ劣るが使えねーことはねえ」
「連合国、産……? まさかアビエス連合国も神術兵器の製造を?」
「連合国が造る兵器は大帝国の兵器とは違う。帝国の兵器は神刻の力を利用し定着させたモンだが、連合国の兵器は神刻を使わない。砲身の内部にデカい魔石が埋め込んであって、そいつを動力源にしてる。だから『魔砲』だ。今じゃ大帝国時代の魔砲はほとんど壊れちまって、連合国産の魔砲の方が多いな」
「でも、連合国がそんな兵器を保持しているなんて……」
「何を今更。アビエス連合国といや、魔女と魔石の力で成り上がった魔法大国だぜ。あの国じゃ船も空を飛ぶ。神術を吐き出す大砲なんざ、大して珍しいモンでもねーよ」
さらっととんでもないことを言いながら、カルロッタは広い甲板の上をずんずん進んだ。空飛ぶ船って……とジェロディは立ち尽くしそうになったが、とにかく彼女に遅れまいと歩を進める。
カルロッタは縄やら樽やら酒瓶やらが散乱する甲板を突っ切ると、やがて船尾の方にある船楼の前で立ち止まった。正面に一つだけある扉には鍵がかかっているようで、腰の物入れから取り出した金色の鍵を差し込んでいる。
「ここは?」
「アタシの部屋だ」
「え?」
「船長室。つまりアタシの執務室兼寝室ってことだな」
腰に手を当て、得意げにそう話すカルロッタを前に、ジェロディはよろっ……とあとずさった──いやいやいやいや。確かに自分は船の上でカルロッタと話をするとは言ったが、彼女の部屋に通されるとは聞いてない。しかも寝室だって? そんなところで二人きりになるのか? これから?
カルロッタは確かに海賊だし言動も全然女らしくないが、それでも女だ。半獣人と言えど耳と尻尾を隠している今は人間の女にしか見えないし、歳も二十がらみとかなり若い。
仮にもてなしてくれるつもりなのだとしても寝室は無理だ。紳士の流儀に反する。そう考えたら途端に落ち着かなくなり、ジェロディは船上を見渡した。
「あ、あのさ、カルロッタ。どうせ話をするなら見晴らしのいい甲板とかで……」
「何だよ、ここまで来てビビッてんのか? 別に取って食いやしねーから安心しろ。アタシだって自分の部下がカワイイんだ。アタシが半獣だと知ってもついていくと言ってくれた連中だしな。あいつらの命と引き換えにてめえを殺すなんて馬鹿をやらかす気はねーよ」
「い、いや、そういうことじゃなくて……というか、そうだ、君、半獣人……なんだよね。ええと、その節はそうとは知らずに失礼を……」
「まったくだ。てめえのせいで一時はどうなることかと思ったぜ。アタシが半獣だってことは、仲間にもずっと伏せてたからな。おまけにてめえらが連れてきた金ピカの竜のせいで、船団も大損害を受けて再起不能だ。あのとき死んだ仲間の数は十やそこらじゃねえ」
「……」
「だからほんとはてめえを殺して、《命神刻》もぶん盗っていきてえんだがよ。……それじゃ親父との約束に反する。だから生かしてやってんだ、感謝しろ」
「お父さんとの約束……?」
そう言えばカルロッタは先程からずっと親父、親父と自分の父親のことを引き合いに出している。そこに一体どんな意味があるのか知れぬまま、ジェロディは船室へ入っていくカルロッタを見送る羽目になった。……どうやら入るしかないようだ。
「お……お邪魔します……」
一抹の緊張を覚えつつ、ジェロディは恐る恐る船室への一歩を踏み出した。中は想像より広いが広すぎるというほどではなく、正面の壁に並ぶいくつもの丸窓から燦々と陽の光が注いでいる。
おかげで船内でもだいぶ明るく、部屋の真ん中に置かれた華美な食卓や財宝が溢れた宝箱、壁に埋め込むような形で設けられた寝台などがよく見えた。あんなところに寝台があるんだなと物珍しくて目をやると、黄ばんだ上掛けの上に何か散乱しているのが見える。あれは数冊の本と、白い──下着だ。
次の瞬間、ジェロディは首を一八〇度回転させ、光の速さで反対側の壁を見た。そこに掲げられた大きな世界地図を見つめ、どうにか動揺を収めようとする。
……言動からそんな予感はしていたが、どうやらカルロッタは己を女だと思っていないらしかった。だとしてもここには彼女のかわいい部下たち──つまり荒っぽい海の男ども──も出入りする部屋のはずだ。だったらせめて下着くらいしまっておいてくれ……と額に手をやったところで、ジェロディはふと気がついた。
(……なんだろう、あれ)
精神統一のために見つめていたエマニュエルの世界地図。しかしそこに描かれているものが、自分の知るそれとは違っていることに気がついて、ジェロディは思わず歩み寄った。
紙ではなく薄い麻布に描かれたその地図には、何故か大陸が五つある。エマニュエルに存在する大陸はこのトラモント黄皇国がある北西大陸と、エレツエル神領国の本土である北東大陸、そしてアビエス連合国が展開する南西大陸に、豊穣神アサーの神子が治める南東大陸の四つだけ、のはずだ。
(四大大陸の真ん中に、知らない大陸が……これってまさか、古代史の伝説にある中央大陸──?)
現在はテペトル諸島と呼ばれる島嶼国家が点在しているあたり。そこに浮かぶ未知の大陸に吸い寄せられ、ジェロディは無意識に手を伸ばした。
中央大陸──またの名を〝エアドネス大陸〟とは、ハノーク大帝国の時代に存在したと言われている第五の大陸だ。のちに世界を滅亡の危機に晒した《大穿界》により海中に没したと言われているが、そもそも大帝国の興りはその中央大陸にあったとする説をジェロディはよく知っていた。
何せ未だ発見されていない大帝国の帝都エアドネスもまたそこにある、とは母の仮説だ。黄皇国で父と出会うまで世界中を旅する考古学者だった母は、エマニュエルのどこにもエアドネスは存在していないと結論づけた。
しかし一方で星読という高度な予知能力を持ちながら、大帝国が帝都の海没を予見できなかったとは考えにくいと反論する説もある。もしも《大穿界》が原因で大陸が丸ごと海に沈んでしまったのなら、そんな大惨事が起こる前に、ときの政府が遷都を決断したはずだ──というのだ。
(だけど、これ……地図の真ん中から世界中に伸びてる線は何だろう? 紋章の盾形みたいな形の……この形、どこかで見たことがあるような……?)
見上げるほど大きな地図を仰ぎ見て、ジェロディは微かに眉を寄せた。盾形の中を縦横無尽に走るいくつもの線も、その交点に置かれた印の位置にも何故だか強い既視感がある。しかし一体何で見たのだったか……とジェロディが考え込んでいると、にわかにガコン!と音がした。
突然の物音に驚き振り向けば、カルロッタが例の寝台の傍で何かやっている。というかいつの間にか寝台が横向きになり、床に四角い穴が現れているではないか。
「か、カルロッタ、それは……!?」
「お前、順風船って知ってるか?」
「順風船? も、もちろん……大帝国の時代にあったっていう、自走式の船のことだろ。風刻の力を使って風を生み、凪の海でも走り抜けることができたって言われてる……」
「ハ、マジで詳しいな、お前。もしかしてエオネスオタクか?」
「エオネス……?」
「間違えた。ハノークオタク」
「何でもいいけど、その順風船がどうかした?」
「お前がいま乗ってる船がそうだよ」
「え?」
「コイツはクストーデ・デル・ヴォロ号、大帝国の時代からライモンド家に受け継がれてきた世界で最後の順風船だ。でもってこの下にあるのは動力室。船長であるアタシしか知らない、秘密の部屋ってやつだな」
ジェロディは驚愕のあまり、ろくな反応もできずに固まった。
──大帝国時代に存在した順風船? これが? 世界で最後の?
そんな馬鹿な。順風船は大帝国の滅亡と共に数を減らし、とっくの昔に失われてしまった船ではなかったのか。
そもそも今はハノーク大帝国の滅亡から八〇〇年後の未来だ。ただの木造船がそこまで長い時間、原型を留めて海を渡っていられるとは思えない──
「もちろん船体は何度も修理したりツギハギしたりしてるがな。それでも順風船としての機能や性能は失われてない。だからここまで来れたんだよ、海から川を遡上してな」
「か、川って、だけどタリア湖から海へ伸びる川は全部、国の水門や城塞で塞がれてるはずだろ。なのに一体どうやって……」
「ああ、水門は爆破した。魔砲で木っ端微塵に」
「ば、爆破って……!?」
「別にクソトラモント人の施設なんだからぶっ壊したって構わねーだろ? そもそもアタシらの通行を邪魔する方が悪ィんだ。陸の連中が海賊を前にしてあたふたしてるのを見るのも、結構楽しかったしな」
「……」
と、やはり得意げにカルロッタは言うものの、タリア湖から海へ注ぐ川で水門がある場所はただ一つ。ロカンダに程近いベネデット運河の上流だ。
確かあそこの水上関所は、シグムンドが治める黄都守護隊の管轄だったはず……。ジェロディは数ヶ月前、スッドスクード城で自分たちを逃してくれた将軍の不運を思い、胸中で謝罪した。……本当にすみません、シグムンド将軍。
「とにかく、だ。そんなわけで核石が生きてる限り、この船は水の上ならどこへだって行ける。多少の浅瀬も核石の力で船体を浮かせれば、座礁せずに通れるしな」
「核石……?」
「核石ってのは要するに順風船の心臓だ。さっきお前を呼んだのもソレだよ。ま、百聞は一見に如かずってやつだ。下りるぞ、ついてこい」
まったく理解が追いつかなかった。追いつかなすぎて疑問符を飛ばしまくっているうちに、カルロッタはするりと穴の中へ滑り込んでしまった。
慌てて上から覗き込むと、内部には木製の梯子が備えつけられている。しかし神の目をもってしても底が見えないほど中は暗く、こんなところを明かりもなしに下りるなんて無茶だ。
「か、カルロッタ! 危ないからせめて明かりを……!」
「あ? アタシは慣れてるからいい。それにお前は落ちても死なねーだろ」
「い、いや、そういう問題じゃなく……!」
「ったく何だよさっきからウダウダうるせーな。そんなに暗いのが怖えならアレだ、あー、寝台の脇の引き出しに夜光石のカンテラが入ってる。そいつを使え」
「寝台の脇の引き出しって……」
言われてみればこちらも壁に埋め込まれるような形で、寝台の脇に衣裳棚が用意されている。その下部に引き出しがあるのを認めたジェロディは「これか」と呟いて手を伸ばした。
が、開けた瞬間目に飛び込んできた下着の山に、光速で引き出しを閉じる。衝撃ですさまじい音がしたが不可抗力だ。……もしかして自分はカルロッタに試されているのか? もしくはからかわれているとか……。
穴に入る前から精神が摩耗していくのを感じつつ、ジェロディは何とか手探りで引き出しの中から小さなカンテラを引っ張り出した。中には確かに淡く輝く夜光石が入っていて、振ると真鍮の火屋の中でカラカラと音がする。
ジェロディはそれを剣帯に引っ掛け、カルロッタを追って梯子を下りた。まっすぐに伸びる縦穴は思っていた以上に長く、もしや底がないのでは、なんて疑念が浮かんだ頃に、ようやく足が床につく。穴の底には扉があった。夜光石の蒼白い光が照らし出すその扉の前で、カルロッタがすうと息を吸う。
「開門」
ガチャン、と錠の外れる音がした。誰も手を触れていないのに、木製の扉が音を立てて開いていく。古代ハノーク語による合言葉だった。クアルト遺跡にあった仕掛けと同じだ。太古の神術兵器と言い、既に失われたはずの風の船と言い、この船はとにかく大帝国時代の技術と遺産で溢れている。
(カルロッタ、君は一体──)
青光に照らされたカルロッタの横顔は、ただまっすぐに扉の先を見つめていた。
やがて扉が完全に開き切ると同時に、中からカッとまばゆい光が溢れてくる。
すっかり暗闇に慣れた目に、その光は明るすぎた。ジェロディが思わず手を翳した刹那、光は急激に収束し、ほどなく視覚に刺さらない程度の光量となる。
「入れ」
短く命ぜられ、ジェロディは手を翳したまま部屋へ入った。
カルロッタが動力室と呼んでいた小さな部屋は、淡い緑色の光に包まれている。
ジェロディは絶句した。
扉の向こうにあったのは、かつてクアルト遺跡で見たのと同じ──円形の台座の上に浮かぶ、鮮緑の宝石だった。




