174.風の手招き
跳んだ、と思ったときには、カルロッタは陽光の中でくるりと器用に前転していた。船首から地上までの距離は、たぶん二枝(十メートル)近くあるのではないかと思う。けれど彼女は微塵の迷いも見せずに飛び降りると、狙い澄ましたようにジェロディの眼前へ降ってきた。気がついたときには彼女の黒い海賊帽が顔の下にある──まずい、と思った。
彼女の狙いがもし自分なら、この距離はまずい。完全に懐に入られた。とっさに剣を抜こうと手を回したが、間に合わない。
カルロッタの瞬発力はまさに人外のそれだった。何せ彼女は兎人の血を引く半獣人。今は海賊帽の下に隠れて見えないが、あの日死闘の末に垣間見た長くて白い耳のことは、今でもよく覚えている──
「ティノさま……!!」
マリステアの悲鳴が聞こえた。と思ったときには、ジェロディは地を蹴ったカルロッタの体当たりを喰らい、地面に押し倒されていた。
ごわついた金髪の隙間から覗く海色の隻眼が、ギロリとこちらを見下ろしてくる。抗おうとしたが、カルロッタはジェロディの首元を押さえる左手に全体重をかけ、簡単には逃してくれなかった。
「よお、お坊ちゃん。その節はどうも」
「か……カルロッタ、どうしてここに……!」
「どうして? ハッ、んなもん決まってんだろ。てめえを追いかけてきたんだよ。八ヶ月前、アタシの大事な宝を盗んでいったてめえをな」
──盗んだ? 自分が? 何を?
まったくもって話が見えず、ジェロディは困惑した。カルロッタの眼差しが凍てついた刃のごとく突き刺さるが、いくら記憶を掘り返してみても、彼女たちの島から何か盗み出した覚えは一つもない。
まさかあのとき同行していた憲兵隊副長が、自分たちの知らぬ間に何か盗み取っていたとか? カルロッタの首に懸かった懸賞金や古代の財宝に目がくらんでいたランドールのことを思えば、確かにやりかねない……ような気はする。
だがもしそうだとしたら完全な誤解だ。盗みを働いたのはあくまでランドールであって自分たちではない。返せと言われても、ここには彼らに返せるものなど、何も──
「おい、赤服。てめえ、ここが誰のシマだか分かってやってんだよな?」
そのとき刃擦れの音がして、カルロッタの背後に人が立ったのが分かった。──ライリー。そうだ。そう言えば彼もカルロッタとは因縁があると言っていた。
いや、ライリーだけじゃない。気づけば周囲には得物を抜いた湖賊が集まっていて、ジョルジョまでもが緊張した様子で棍棒を握っている。
彼らもそれだけカルロッタを警戒しているということだ。ところが完全に包囲された身でありながら、カルロッタはちらりと背後へ目をやって──笑った。
「よう、久しぶりだな、クソ湖賊。噂は聞いてるぜ。てめえの兄貴はくたばったらしいな? 黄皇国をぶっ潰すなんて大口を叩いておいて、ずいぶんと呆気ない幕引きだったじゃねーか。だから言ったんだよ、てめえらにゃアレは使いこなせねえってな」
「うるせえよ、飛び跳ね野郎。そういうてめえこそ、俺らにナメた口ききやがったあのクソ髭船長はどこ行った? 噂じゃ今はてめえがライモンド海賊団の棟梁だっつーじゃねえか。まさか死んだのか? あんなに偉そうな説教垂れておいて、海軍にぶっ殺されたとか?」
「てめえには関係ねえ。んなことよりも、アタシはジェロディ・ヴィンツェンツィオに用があって来たんだ。外野はすっこんでな」
「生憎だがそのガキはウチの客人でな。てめえに好き勝手されちゃ俺らの面子に傷がつく」
「ハ、そうかよ。けどあくまで邪魔するつもりだってんなら、こっちにも考えがあるぜ?」
瞬間、ガコン、とジェロディは不吉な音を聞いた。聞こえたのはすぐ傍からじゃない。カルロッタが乗ってきた船の上からだ。
はっとして首をもたげれば、海賊船の甲板から何か筒状のものが突き出している。あれは──神術砲。古代ハノーク人たちが生み出した、破壊のための神術兵器だ。
「……! ライリー、今すぐ武器を収めろ!」
「あァ? 頭でも打ったのかてめえは。こちとら助けたくもねえてめえを助けるために──」
「いいから早く! カルロッタ、話があるならちゃんと聞く! だから神術砲は使うな……!」
「神術砲? ああ、魔砲のことか。さすがはお坊ちゃん、分かってるじゃねーか」
言うが早いかカルロッタはニヤリと笑い、素早く腰へ手をやった。そうして引き抜いたのはあのゴテゴテした舶刀ではなく、先の方が曲がった細長い……筒?だ。
直後、カルロッタはその筒を空へ向けカチッと何か押し込んだ。すると筒の口から光が生まれ、波紋のごとく魔法陣が広がり、ドンッ!とすさまじい音がする。
「な……!?」
熱風が吹き荒れた。カルロッタが構えた筒の先から飛び出したのは、小さく圧縮された胡桃大の炎弾だった。それが矢のような速さで高く昇り、炸裂する。
轟音が谺した。皆の頭上を覆うように炎の膜が広がり、火の雨が降ってくる。と言っても小さな火の粉なので実害はないが、神術とも魔術とも知れぬ力を前に皆は度肝を抜かれたようだ。
「い……今のは、神術銃……!?」
「ご名答。ま、アタシらは〝魔銃〟って呼んでるけどな。これで分かったか、クソ湖賊ども。次にアタシの邪魔しやがったら、今のをてめえらのドタマに叩き込む。ちなみにコレの十倍の威力を持つ兵器が、アタシらの船には十三基あるからな。島をめちゃくちゃにされたくなけりゃ、大人しく武器をしまえ」
「っの野郎……」
自分の縄張りで好き放題され、ライリーは忌々しげに顔を歪めた。しかしカルロッタの実演で危機的状況は理解したのか、手下たちを下がらせる。
満足そうに笑ったカルロッタは、にわかにジェロディの胸ぐらを掴んだ。無理矢理体を起こされたジェロディは衝撃に息を詰まらせたが、カルロッタはそんなこと、まったくもって意に介さない。
「で? どこにあるんだ、アタシのお宝はよ」
「お、お宝って……」
「とぼけんな、てめえが持ってんだろ? 《命神刻》っていうでっけえお宝をよ」
彼女の口を衝いて出た予想外の答えに、ジェロディは目を見開いた。その反応が何よりの肯定であることに一拍遅れて思い至ったが、この驚きは隠しようがない。だって今の言葉を額面通り受け取るならば、カルロッタはクアルト遺跡に《命神刻》が眠っているのを知っていたということではないか。
「か、カルロッタ、君たちはあの島に大神刻があると知っていて、ずっと秘匿していたのか……!?」
「ああ、そうとも。《命神刻》はアタシらライモンド海賊団に代々伝わってきた財宝だ。アタシにはアレを守る義務があった。一味の新しい船長としてな。それをてめえみてえなガキが……」
と言いかけて、カルロッタはギリ、と歯噛みしたようだった。胸ぐらを掴む手に力が籠もり、ジェロディは息が詰まりそうになる。
ところが彼女はやがて嘆息すると、ジェロディの体を放り出した。何の前触れもなく解放されたジェロディはゴンッと後頭部を地面にぶつけ、痛みのあまり苦悶する羽目になる。
「ティノさま……!」
カルロッタがジェロディから離れたと知るや、真っ先に駆け寄ってきたのはマリステアだった。強打した頭をさすりながら彼女に助け起こされ、ジェロディは改めてカルロッタを見やる。が、気づけば彼女と自分の間にはカミラがいて、腰の剣を抜いていた。相手を刺激しないためか構えはゆるやかだが、静かに殺気立っているのが長い髪のうねりで分かる。
「で、あんたは結局何しに来たの。《命神刻》を追ってきたってことは、ここでティノくんを殺して奪うつもり?」
「そうできたら最高なんだけどな。残念ながら今ここでそいつを殺したところで、《命神刻》がアタシらの島に帰ってくるとは限らねえ。ずっと隠しておくはずだった《命神刻》が世に出ちまったのも相当まずいが、もっとまずいのが《命神刻》の行方が分からなくなることだ。だからアタシは、そいつを殺したくても殺せねえ」
「隠しておくはずだった……? どういうことなんだ、カルロッタ」
「真相を知りたきゃ、まず見せろ。てめえが持ち逃げした《命神刻》を」
〝持ち逃げした〟とは人聞きが悪いが、今は《命神刻》について何か知れるのならば知っておきたい。ジェロディは仲間たちに目配せし、そのまま待機するよう伝えるとカルロッタの前へ進み出た。
そうして右手の手套を外す。ほとんど毎日手套をしているせいで日焼けせず、うっすらと白い我が手を差し出せば、途端にカルロッタが息を飲むのが分かった。
「《命神刻》……」
ジェロディの手の甲で青銀色に輝く《星樹》、それを見るなり彼女は呻くように呟いた。かと思えば浅く唇を噛み、黒い帽子の鍔を下ろす。ジェロディは正直驚いた。だって帽子で顔を隠す直前、カルロッタの表情は、今にも泣き出しそうに見えたから。
「……そうか。やっぱりアタシじゃダメだったのか……」
「……カルロッタ?」
「そいつはアタシの親父の形見だ。本当はアタシが継ぐはずだった」
次にカルロッタの口から語られた衝撃の真実に、ジェロディは言葉を失った。
──継ぐはずだった? 《命神刻》を?
いや、そもそも父親の形見だって?
ならばこの《命神刻》は、これまで歴史の表舞台に姿を現さなかっただけで、過去に所有者がいたというのか。そんなのは初耳だ。……いや、本当に初耳か?
そう言えばこうして相対してみると、自分とカルロッタはずっと昔──八ヶ月前、ピエタ島で邂逅する以前からの知り合いだったような気がした。
それもただの顔見知りなんてうすっぺらな関係じゃない。もっと親しくて、大切で、彼女のことを守ってやりたいと強く願っていたような……。
(いや、違う、僕は──)
カルロッタのことはよく知らない。
八ヶ月前のあの日、互いに剣を交えたあれが初対面だ。
なのに、どうして。
どうしてこんなにも心を掻き乱される?
ジェロディは思わず額を押さえた。耳鳴りがする。
ひどく不快で甲高く、頭痛を引き連れてくるほどの耳鳴りが──
『おいで』
はっとした。
唐突に耳鳴りが途切れ、どこからともなく声がする。
『おいで、神子よ。私たちと話をしよう』
同じだ、と思った。
調査隊の一員としてクアルト遺跡へ乗り込んだ日、地下でゴーレムの心臓を手にしたときと同じ、たくさんの人声が折り重なったような囁き声。
ふとあたりへ目を配ってみても、皆が今の声に反応する素振りはなかった。ただただカルロッタの動きを警戒するように身構えているだけだ。
「呼んでる」
そのときカルロッタがぽつりと呟き、不覚にもジェロディは喫驚した。
「……船が呼んでる。てめえを連れてこいとさ」
「よ、呼んでるって……まさか今の声、君にも?」
「当たり前だろ。アタシはあの船の船長だ。クストーデ・デル・ヴォロ号の船長になれるのは、船の声が聞ける人間だけと昔から決まってる。……まあ、アタシは人間じゃねーけど」
と最後に小さく吐き捨ててから、カルロッタは身を翻した。神術銃も腰の鞘にしまい、背後を固めたライリーたちへと向き直る。
「そういうわけだ。ジェロディはこれからアタシと船に乗る。道を開けろ、クソ湖賊ども」
「はあ? なんでそいつをてめえらの船に乗せる必要がある? 話があるならここでしろ」
「イヤだね、アタシはコイツとサシで話がしたいんだ。だがここじゃてめえらが邪魔で満足に話もできねえ。ちょっとツラ借りるだけだ、別にいいだろ」
「ティノくんに危害を加えないって誓えるの? 誓えないなら、私たちも同席させて」
「アタシが信用できねえってんなら、コイツが船に乗ってる間はウチのクルーを全員下ろす。それでどうだ? 人質が百人もいりゃ充分だろ」
「いいえ、不十分です。どうしてもジェロディ殿と二人きりで話がしたいとおっしゃるのでしたら、我らの城にお部屋をご用意しますが?」
そう言って進み出たのはトリエステだった。彼女はこの非常事態にあってなお冷静沈着、表情も変わらないが語気に微かな棘がある。
普段、彼女と話す機会が多いジェロディだからこそ分かる変化だった。トリエステは海賊船にジェロディを乗せたくないと考えている。確かに総帥である自分がたった一人で海賊船に乗り込み、百金貨もの賞金が懸かった海賊と二人きりになるというのはあまりに危険だ。危険すぎる──けれど。
「トリエステ。僕もカルロッタと話がしたい。彼女の話を理解するためには、どうしてもあの船に乗る必要があるんだ。半刻(三十分)だけ、乗船を許可してくれないかな」
「な、な、何をおっしゃるのですかティノさま……! いくら神子であるとは言え、敵の船にお一人で乗り込むなんて危険すぎます! どうしてもとおっしゃるのでしたら、わたしも一緒に……!」
「いや、カルロッタは僕に危害を加えないよ。さっき本人が言ってたろ、ここで僕を殺すことに利点はないって」
「で、ですが……!」
「カルロッタ。君と僕はどちらも丸腰で船に乗る。乗組員はさっき君が言ったとおり全員下船させる。話は半刻の内に済ませる。半刻を過ぎても僕が船から出てこないようなら、救世軍の兵が船内に突入するけど、代わりに僕も君には危害を加えない──これでどうかな?」
「……チッ。しょーがねーな。分かったよ、それでいい。けど、アタシの武器を勝手にいじるなよ。でないと死人が出るからな」
不満そうに言いながら、カルロッタは腰から舶刀と神術銃を鞘ぐるみ外した。彼女が放って寄越したものたちを受け止めて、ジェロディはトリエステを顧みる。
彼女もまたそこはかとなく不満そうではあったが、ジェロディが武器を差し出すとため息をついて受け取った。怒っているのか呆れているのか、フィロメーナと同じ青灰色の瞳はわずか細められている。
「……ジェロディ殿。私にはあの海賊を信用する理由が皆目見当たらないのですが」
「前にピエタ島で戦ったときも、カルロッタは決闘の誓いを守った。立てた誓いを守るのは海賊の誇りだ。カルロッタは誇りに背くようなことはしない。ライリーとは違ってね」
「たとえそうだとしても、このような無茶をなさるのはこれっきりにして下さい。半刻後にお姿が見えなければ、本当に兵を突入させますが構いませんね?」
「大丈夫、ちゃんと戻るよ。行こう、カルロッタ」
自らも腰から剣を外し、傍にいたマシューに託して振り向いた。カルロッタは不機嫌そうに腕を組みながら、碧い隻眼でじっとこちらを見据えている。
「……その銃も親父の形見だ。必ず返せよ」
「ああ、返すよ、必ず。だってこの銃は僕の──」
と答えかけて、寸前で踏み留まった。
……僕の、何だ? 自分は今、何と言おうとした?
(僕の、父さんの形見でもあるんだから、って……)
そんなわけがない。そんなわけがないのにそんな気がする自分に当惑して、ジェロディは再び額を押さえた。一度は途切れたかに思えた耳鳴りが、今も耳の奥で細く鳴り響いている。
『おいで、おいで』
その間にも、船の呼び声は聞こえていた。
《墜角の牡牛》の旗が手招くように、風を受けてはためいている。