171.君に忠する ☆
コラード・アルチェットは極限の緊張に晒されていた。
かつてトラモント黄皇国第十九代黄帝オルランド・レ・バルダッサーレが行宮としたオヴェスト城。
そこには彼のために用意された仮の玉座があり、正黄戦争の終結から八年が過ぎた今も、最上階の大広間には黄金の椅子が鎮座していた。
今、その玉座に一人の男がいる。頭部以外の全身を鎧で覆い、頬杖をついた彼は退屈そうにコラードを見下ろしている。
冷たく感情の窺えぬ赤眼に見据えられると、コラードの額には汗が滲んだ。玉座まで続く青い絨毯の左右には同じく甲冑で身を鎧った兵士たちが居並んで、矛を手にコラードを威圧している。
「──で? 結局私にどうしろと言うのだ、コラード」
「……ですから、獣人居住区への進軍をお考え直し下さい、将軍。かの地に住まう獣人たちと我が国の間には、古より不可侵条約が結ばれています。さような土地へ強硬に軍を進めようものなら、世間からの痛烈な非難は免れません。そうなれば我々官軍の威信は地に落ち、世論はいっそう倒国へ傾くことでしょう。これ以上国を混乱に陥れるような行為は慎むべきです」
「だが角人族が獣人区へ逃げ込んだことは確かなのだ。やつらを捕らえるためには、どうしても獣人どもの巣へ兵を送る必要がある」
「どうせ送り込むのなら兵士ではなく、交渉の使者にすべきではありませんか。獣人区をまとめる蛙人族の長老は、聡明で話の分かる人物と聞いています。将軍のお許しさえいただければ、私が使者として発っても構いません」
「手ぬるい。ルシーン様は一刻も早く角つきどもを捕らえよとおおせだ。あのお方を長々とお待たせするわけにはゆかぬ。よって期日までに獣人区からの返答がなければ、作戦は決行する。元よりこちらがそのつもりであることは、獣人どもにも布告してあるのだからな」
「しかし将軍、それでは地鼠人族からの我が国への神刻石供給は途絶え、牛人たちをも敵に回すことに──」
「くどいぞ、コラード。これは既に我が軍の方針として決定したことだ。私の命令に逆らうつもりか?」
野太く響き渡った男の怒声に、コラードはギリと切歯した。心の奥底から衝き上げてくる激情を、拳を固く握ることでどうにかこうにか嚥下する。
「……では将軍は、民が反乱軍へ流れるのを座して見送るとおっしゃるのですか。私の調べによれば、近頃反乱軍はタリア湖のコルノ島に拠点を築き、噂を聞きつけた志願兵が殺到しているとのことです。このままでは反乱軍の勢いは増す一方、我ら官軍が脅かされるのも時間の問題でしょう。そのような事態を事前に食い止めるのが、真の忠君というものではございませんか」
「ふん、馬鹿馬鹿しい。反乱軍ごとき何するものぞ。コラード、お前はやつらが六ヶ月前、官軍の総攻撃の前に為す術もなく敗れ去ったことを忘れたか。あのような雑兵の集まり、まったくもって恐るるに足らぬ。どれだけ膨れ上がろうと、所詮は烏合の衆なのだからな」
「ですが国が死亡を発表したはずのフィロメーナ・オーロリーは今も身を隠して生きていると言われ、ガルテリオ将軍のご令息であるジェロディ・ヴィンツェンツィオも今や彼らに加勢しています。しかもジェロディについては、《命神刻》に選ばれた神子であるとの情報も……おかげで民衆は我々を〝神に仇なす魔界の手先〟と断じる始末です。何か手を打たねば早晩、人心を掌握できなくなるものと──」
「だったら反乱軍を支持する者を片っ端から殺せば良い。見せしめとして大勢処刑すれば、やつらに与しようなどと抜かす愚か者も口を閉ざすことだろう。人間というのは所詮、大義よりも己が利益と安寧を優先させる生き物だからな。御するのはたやすいものだ」
酷薄な笑みを浮かべ、滔々と恐怖による支配を説く主を見て、ああ、とコラードは深く嘆いた。
──この方は本当に変わってしまわれた。
私の敬愛したハーマン・ロッソジリオという男はもういない。もういないのだ。
何故ならかつて彼だったものの中には、今、
「……分かりました、将軍。では私も、己が利益と安寧を最優先にさせていただきます」
「何?」
「貴様が我が軍を乗っ取っている限り、ここには大義も未来もない。ハーマン将軍のお体から出ていけ、憑魔……!」
細い眉の間を皺め、コラードは天敵を前にした野犬のごとく威嚇した。途端に広間はシンと静まり返り、あんなに饒舌だった玉座の上の男が黙り込む。
かと思えば、男は唐突に笑い出した。太い首を反らし、喉骨を晒しながら、狂気すら滲んだ声で大笑する。
「コラード! 急に何を言い出すかと思えば、お前らしくもない。憑魔だと? お前は己の上官が、憑魔ごときに操られる木偶人形だと言いたいのか?」
「認めたくはないがそのとおりだ。ここ数年、ハーマン将軍は黄皇国の腐敗と衰退に大層心を痛めておられた。貴様がそうした心の隙に入り込み、人の精神を乗っ取る魔物だということは知っている」
「ほう。ならば仮に私が憑魔であるとして、どうする? 自らの手を汚し、上官を殺めるか? そうする以外に、人に取り憑いた魔物を祓う手段はないと言うぞ」
「いいや、方法ならあるさ。──メイベル!」
コラードがそう叫ぶや否や、背後にある扉が音を立てて派手に開いた。警備の者たちが色めき立ち、何事かと見やった先に、一人の小柄な少女が佇んでいる。
白に近い菫色の髪を二つに結い上げ、ケープとマントの中間くらいの外套を羽織った術師風の少女だった。彼女は正面にある玉座を見据えて不敵に笑うや、先端に青い宝珠がついた短杖をビシリと男へ突きつける。
「やっとあたしの出番ってわけね。というわけでここから先は、さすらいの女退魔師ことメイベルさんの独擅場。魔物さんは覚悟してよね!」
「……退魔師だと?」
男の眉がぴくりと動いた。彼が玉座の背凭れからやおら体を持ち上げた刹那、淡く赤い程度だった瞳がギラリと光る。
元は黒麗石のようだった男の双眸は、別人のごとく真っ赤に燃えていた。コラードは確信する──やはりこの男は、ハーマン将軍ではない……!
「やってくれ、メイベル! 責任はすべて私が取る!」
「りょーかいっ! じゃあ、遠慮なくいっくよー! ──浄化の聖光!」
メイベルと呼ばれた少女の杖が、カッと閃光を吐き出した。
それを見た男が腰を上げ、舌打ちしたのをコラードは聞く。
勝った──これでハーマン将軍を取り戻せる。そう確信した、直後だった。
メイベルの杖の先で逆巻き、今にも放たれようとしていた光が突如弾ける。硝子が細かい粒子となって砕けるような、そんな音を発して光は消えた。
「あれ?」と首を傾げたメイベルが、もう一度杖を振る。しかし反応がないと分かるや彼女は二度、三度と同じ行動を繰り返した。
ところがいつまで経っても、彼女の聖術が発動する気配はない。
メイベルは沈黙し、コラードは硬直し、広間には再び静寂が立ち込める。
「……おい、メイベル? 何をしているんだ、早く……」
「……えーと……すみません、お客さん。あたしの聖刻、なんか今日、調子悪いみたいです」
やがて杖を引っ込め、両手で握り直したメイベルが、そう言ってにこりと笑った。悟りの境地を開いたような、晴れやかな笑顔だった。
が、どう考えても笑っている場合じゃない。メイベルの聖術が発動しないと分かった男が玉座の前からコラードを見下ろし、両脇に控えた鎧兵たちも矛を手に包囲を布き始めている。
額からだらだらと汗が流れた。ぎこちなく振り向いた先では、男が虫けらでも見るような目でコラードを睨み据えている。
「……皆の者、コラードを捕らえよ。その男は私に拾われた恩も忘れ、反逆を企てた大罪人である。速やかに監獄送りとし、国に刃向かう者がどうなるか、民衆への最初の見せしめとせよ」
あちこちで鋼の鎧が鳴った。矛を構えた兵士たちが足を踏み鳴らし、どんどんこちらへ迫ってくる。
だが彼らはコラードにとって朋輩だ。まともに斬り合うわけにもいかず、腰の剣に手をかけたまま、じりじりとあとずさる。
「おい、メイベル! この状況、どうするつもりだ……!?」
「決まってるでしょ。三十六計逃げるに如かず!」
言うが早いか、メイベルは真っ先に身を翻して逃げ出した。そんな馬鹿な話があるかと思いつつ、コラードも他に手立てがなくて走り出す。
まったくなんて日だ。確かにあの少女は若すぎると思ったが、聖刻の持ち主であることは確認済みで、これならばいけると信じた。
その結果がこの様である。コラードは広間を飛び出すと、先を行くメイベルに並んだ。広間にいた兵士たちはみな重装歩兵だったから、追いついてくる心配はない。ただし城中に反乱の事実が知れ渡ればおしまいだ──一体どうしてこうなった。
「メイベル……まさか君は、最初からこうするつもりで私を……!?」
「ち、違うって! 今日はほんとに聖刻の調子が悪いの! ほ、ほら、天授刻って普通の神刻とは違ってさ!? ちょっと融通の効かないときがあるんだよねーいやマジで!」
「ならばハーマン将軍が魔物に取り憑かれているという話は、嘘ではないのだな……!?」
「そ、それはほんとだから! さっき広間に一歩踏み込んだとき、ちゃんと感じたもん! ハーマンって人からビンビンに溢れてる魔物の気配を……!」
「そうか……だがこうなってしまっては、我々だけで将軍をお救いすることはもはや不可能……このままでは本当に、我が軍は……」
ギリ、と再び歯噛みして、コラードは顔を伏せた。
──ハーマン・ロッソジリオ。黄皇国中央第五軍の統帥にして、砂王国の奴隷だった自分に未来を見せてくれた人。
どうにか次の手を考えなければ、彼が歴史に汚名を刻む極悪人となってしまう。獣人居住区に暮らす罪なき獣人たちを蹂躙し、黄帝の寵姫が命じるままに殺し尽くす殺戮者に……。
(ここで捕まるわけにはいかない。考えなければ……将軍を魔女の支配から救い出す方法を……!)
フォルテッツァ大監獄。オヴェスト城の南にあり、難攻不落にして脱獄不可能と謳われる罪人たちの墓場。あそこに送り込まれたら、もう二度とハーマンを救い出すことはできない。しかし自分はまだ何も返せていないのだ。彼から受けた大きすぎる恩に対して、何も……。
その恩を返すためならば、自分はどうなっても構わない。たとえ反逆者と呼ばれ断頭台へ上る日が来ようとも、あの人だけは必ず救ってみせる。
己の魂にそう誓い、コラードは顔を上げた。ふと隣を見れば、早くもメイベルが遅れている。彼女はあくまで神術使いであり、長年軍人として鍛えてきた自分とは違うのだ。それを思えば当然だが、彼女がいなければハーマンに未来はない──
「えっ」
と、苦しそうに走っていたメイベルが驚きの声を上げた。コラードが前触れもなく彼女の手を掴んだからだ。
断りもなく淑女の体に触れるだなんて、紳士として本来あってはならぬこと。だが今は緊急事態だ。お許し下さい将軍、と自分を一人前の軍人にしてくれた彼に心中で詫びながら、コラードはぐんと彼女の腕を引く。
「わっ……!? ちょ、ちょっとコラード、何なの……!?」
「有事の際の脱出経路は、この城の誰よりも詳しいつもりだ。必ず君をここから連れ出す。だから遅れずについてきてくれ──私には君が必要だ」
駆けながらそう告げて、コラードは再び前を見た。廊下を全力疾走していく統帥の副官と謎の少女に、城の者たちが色めき立っている。
しかし構うものか。自分は必ず逃げ出し、そしてまた戻ってくる。
──待っていて下さい、将軍。
そう決意するのに忙しくて、コラードは気づかなかった。
手を握られた少女が頬を真っ赤にして、泣き出しそうな顔をしていることに。




