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170.兄と妹

 目が覚めると、頭が異様にぼうっとした。

 体が重い。まるで背中が寝台に貼りついているみたいだ。

 見上げた天井は、暗い。どうやら日が暮れているらしい。

 視界の端でチラチラ揺れているのは、角灯の明かりだろうか。淡い光が照らし出す頭上の闇をぼんやり眺めていると、すぐ隣から呆れ切った声がした。


「ようやく目が覚めたか、破天荒娘」

「……その不名誉な呼び方、やめてくれない?」

「不名誉も何も事実だろう。まったく、一度倒れておきながら立て続けに同じ神刻エンブレムを使うとは……学習能力がないというか何というか、医者泣かせだな、貴様は」


 別に好きで使ったわけじゃない、と彼の言い草に不服を覚えつつ、しかし二度も倒れてしまったことは事実なので気まずさから目を逸らした。

 ラファレイとはまだ出会って数日だが、声の調子からして至極機嫌を損ねているらしいことは、顔を見ずとも分かる。ピヌイスでヴィルヘルムが回復してほどなく、寝台を抜け出し逃げ回っていたときも彼はこんな感じだったから、今もきっと人を殺せそうな目つきでカミラを見下ろしているのだろう。


「ラフィ、患者の脈を取れ。あとはポリガラの根を煎じて薬湯を。根の量はハーフカピートでいい」


 ……だのに助手のラフィへ話しかけるときだけは、どんなときでも露骨に口調がやわらかくなる。ラファレイはラフィのことを「あくまで助手」と言い張っているが、果たして本心ではどうなのだろうか。怪しい。非常に。

 しかしカミラがそんな勘繰りをしている間にもラフィの手が伸びてきて、そっと右手首に触れられた。他者に触れられることでまた過去の幻が見えるのではと身構えたが、さすがに神力が底を尽いているためか、星刻グリント・エンブレムは反応しない。

 それを確かめてほっと息をつき、再び天井へ目をやった。ラフィの温かくてやわらかな指が右手を握ってくれているおかげで、いくらか気分が落ち着いてくる。


「……私、今度は何日寝てた?」

「安心しろ。幸いにして半日だ。こうも立て続けとなると、さすがに効果のキツい気付け薬を使わざるを得なかったのでな。おかげで脳の回復は早かったが、体に負担がかかったはずだ。最低でも三日は安静にしていろ」

「その前にお風呂に入りたいんですけど」

「今日の患者は頭だけでなく耳も悪いようだな。開くか」

「え? 開くって何を?」

「無論、頭だが?」

「ごめんなさい、安静にします」


 この医者なら本当にやりかねない予感がして、カミラは頬を引き攣らせた。そうこうしているうちにラフィが手を離し、ラファレイの前でせっせと両手を動かしている。彼女の右手と左手は、それぞれ数字を表しているようだ。

 彼女の報告を受けたラファレイは「よし」と頷くと、最後に例のチューシャキなるものを取り出して、カミラの腕にぶすりと刺した。これが結構痛かった。

 エレツエル神領国ではこのチューシャキを使った医療が既に当たり前らしい。「我が国は神の名の下に人を塵芥ちりあくたと見なす国だが、おかげで医学の発展はめざましい」と、ラファレイは皮肉な笑みを浮かべていた。……恐らく奴隷や捕虜を使った非人道的な実験の成果が、彼の持つ様々な器具や薬品類──ということなのだろう。


「とりあえず、今夜のうちにできる処置はこんなところだ。他の者はもう寝ているし、俺とラフィも部屋へ戻るが、くれぐれも左手の神刻は使うな。そいつを制御できるようになるには恐らく長い時間がかかる。本来星刻は、として人の身に授けられるものらしいからな。十七になって初めて刻む貴様には少々荷が重いだろう」

「……そうなの?」

「そうとも。現に前の持ち主であるマナは、生まれたときから星刻を右手に帯びていたという。ヴィルヘルムの話ではその前の持ち主も、その前の前の持ち主もそうだったらしい。そんなものを何故貴様が持っているのか、甚だ疑問ではあるが──」

「ちょ、ちょっと待って。星刻の前の持ち主がマナさんって、本当?」

「ああ、事実だが? なんだ、ヴィルヘルムは話していないのか」


 またも呆れたように言いながら、ラファレイは両手に嵌めていた白い手袋をするりと外した。甲の部分に神領国の紋章が刻まれているあの手袋だ。患者を診るときはそれを必ず身につけるのが、彼の医者としての流儀らしい。


「しかしマナですら、星刻の力は少々持て余していた。まあ、あいつの場合は他にも理由はあるが、おかげでよく寝込んでいてな。宿主の肉体に多大な影響を及ぼす神刻として俺も色々と調査してみたものの、レムエル神殿の禁書にすら記載のない神刻だった。というより該当ページが何故か破り取られていて、調べられなかったと言った方が正確だが……」

「れ、レムエル神殿?」

「ああ、レムエル神殿というのは我が国の最高行政機関、秩序の神トーラの神子エシュアがおわす神殿だ。世界中の叡智が集められた神殿でな、あそこの大書庫を調べて分からないのなら、あとはもう調べようがない」

「そ、そう、なの……ちなみにマナさんって、どんな人だった?」

「ふむ。一言で言うならクラゲだな。掴みどころがなくふらふらしていて、何を考えているのかさっぱり分からない女だった。かと思えばたまに毒針で刺してくる非常に厄介なやつで……」

「い、いや、ごめん、そういうことじゃなくて……外見というか?」

「外見? そうだな……身長はちょうどマリステアくらい、髪はやや黄色みの強いクリーミーブロンド、瞳の色は確かオーシャンブルーだったか。傭兵を自称するわりには痩せていて虚弱体質だった。顔は俺の基準で言えば中の上だな」

「黄色みの強い、ブロンドの……」


 ラファレイの言葉をそう復唱したところで、鳥肌が立った。

 ふわっとしたやわらかそうな金髪。海色の瞳。華奢だが華やかな印象の女……。

 間違いない。昼間、夢の中で話しかけてきたあの女だ。

 彼女がマナだったのか。もしや星刻を通じて彼女の記憶が流れ込んできた?

 他者が長く身に刻んでいた神刻を譲り受けると、時折そういう現象が起きると噂で聞いたことがある。でも、そのマナを、夢の中でエリクは──


「とにかく、だ。星刻は正体不明の神刻で、天授刻として授かったマナですら使いこなすのに難儀するほどのものだった。ゆえに扱いには細心の注意を払え。今回はたまたま味方の陣地内だったから良かったものの、仮にこれが戦場だったなら、貴様は既に死んでいるぞ。あまり医者おれに手を焼かせるな」

「うん……それは、気をつけるけど……ところで、ウォルドはどうしてる?」

「ウォルド? さあな、昼間俺たちが駆けつけたときにはいたような気がするが、あとのことは知らん。この時間だ、あいつも寝ている可能性が高いだろう」

「じゃあ、もし起きてたらでいいから、私が呼んでたって伝えてくれる? 話しておきたいことがあるの」

「……」

「い、いや、あの、ほんとにちょっと話すだけだから……」


 カミラがまた無茶をすると思ったのだろうか、ラファレイは眼鏡の向こうから人を呪い殺しそうな目で見下ろしてきたが、やがて「分かった、起きていたらな」とだけ言うとほどなく部屋を出ていった。

 ラフィの方は部屋を出る間際にこちらを向いて、ぺこりと頭を下げてくる。たぶん「おやすみなさい」の意味だろう、カミラはそんなラフィの仕草に癒やされつつも、彼女が置いていった激マズの煎じ薬については露骨に見て見ぬふりをした。


 ……ラファレイには全部飲めと言われたけれど、苦すぎて飲める気がしない。でも残したら残したで明日また説教されそうだし、どうしたものか。

 一人になった部屋でため息をつきながら、カミラは起こした上体からだを壁に預けた。そうしてじっと目を閉じて、春の夜の音を聞く。

 リィン、リィン、と歌う虫の声。風のそよぐ音。

 遠く微かな水音に、時折聞こえる夜鳥の声。


 ……すべてが故郷の森とは違う。


 そんなことを考えていると、不意にキィ、と扉の軋む音がした。

 すっと瞼を開け、入り口を顧みる。

 そこにはウォルドがいた。

 カミラのよく知る、悪人面で無駄にデカくて、体中古傷だらけのウォルドが。


「……起きてたの」

「お前こそ。今回は早かったな」

「ラファレイが強めの気付け薬を打ってくれたんですって。痛いけどよく効くのね、チューシャって」

「具合は?」

「まあ、悪くない。動けないし、ラファレイにも三日は安静にしてろって言われたけど」


 カミラが肩を竦めて答える間に、ウォルドは先程までラフィが座っていた椅子へ腰かけた。途端に椅子がギィと軋み、「重い」と訴えられたような気分になる。

 でもしばらく我慢してほしい。ウォルドにきちんと謝罪できるまでは。


「……お酒臭い。もしかして飲んでたの?」

「ああ。この間の宴の酒がまだ残ってるって言うんでな。レナードたちと下で博奕ばくちを打ってた」

「もはや立派に湖賊の一員ね……実は天職なんじゃないの」

「どっかの誰かさんがいきなり死んだ妹の名前を出すんで、飲まねえとやってられねえ気分だったんだよ」


 ずけりと早速核心を突かれ、カミラは小さく「うっ……」と呻いた。心の準備はしていたつもりだったけど、まさかこんなに早く話題に上げられるとは思っていなかったがために、ついつい視線を泳がせる。


「……妹のこと、誰から聞いた? 少なくとも俺は、黄皇国に来てからあいつの話は誰にもしてねえ」

「そうでしょうね。私もびっくりしたし。まさかあんたに兄弟がいたなんて……しかも、妹」

「妹だけじゃねえよ。弟もいた」

「えっ。そうなの……!?」

「ああ。まだ言葉も分からねえ赤ん坊の頃に、魔物に食われて死んだがな」


 ひゅっと飲み込んだ息が喉につかえて、カミラは束の間沈黙した。

 ……弟。弟もいたのか。でも、赤ん坊って。幻で見たあの場面にいたのなら、ウォルドとは二十くらい歳が離れていたことになるけれど、そんな赤子の姿は見た覚えがなかった。ということは、あれとはまた別の話なのだろうか?


「で? 質問の答えは?」

「……強いて言うなら、あんたに聞いた」

「はあ?」

「星刻。……この神刻はね、人の過去や未来が見れるものらしいの。つまり、時の神マハルの力を受けた神刻ってこと」


 ウォルドの方を見られぬままカミラがそう答えれば、今度はウォルドが沈黙した。理解に苦しんでいるのか、はたまた予想外の答えに意表を衝かれたのか。どちらが正解なのかは、今のカミラには分からない。


「……要するにお前は、その神刻を使って俺の過去を覗いたってことか」

「うん……そういうこと。ごめんなさい」

「……」

「私、星刻の使い方がまだよく分からなくて……それで何かの拍子に、突然人の過去や未来が見えちゃうみたいなの。だからウォルドの過去も、昼間、腕を掴まれたときに……」

「あのときの光はそういうことか。だから急に黙り込んで、呼んでも反応しなかったんだな」

「そう、なんだけど……ほんとにごめん。勝手に覗く気はなかったのよ」


 恐らくウォルドが最も触れられたくなかったであろう記憶。カミラはよりにもよってそんなものを覗いてしまった。

 あれはたぶん、彼の人生の原点だ。だからウォルドは誰にも自分の身の上を明かさなかった。己のことを語ろうと思ったら、過去の出来事を──故郷の家族を一人として助けられなかったという心の傷を、自ら抉ることになるから。


「……まあ、そういうことなら責める気はねえがよ。一口に俺の過去っつっても色々あるだろ。どこまで見えたんだ、全部か?」

「ううん。ほんの一部だけ……ウォルドの村が、アンギルっていう魔人に襲われた日のこと」

「そうか。だから訊いたのか。ユシィのことを恨んでるかって」


 またも核心を突かれて、思わず口を噤む。

 覚えていた。自分が意識を失う直前、彼にそう尋ねたことは。

 でもまだ答えを聞いていない。というか聞く前に意識を失ってしまった。

 もう一度答えてもらえるだろうか、と窺うような一瞥を向ける。

 するとウォルドは嘆息をついて、いきなり背中に手を回した。そうして腰のあたりから取り出したものを、ドンと脇棚の上に置く。……酒瓶だ。


「飲むか」

「あんたが飲むようなお酒なんか飲んだら、私また数日寝込むわよ」

「それもそうか。なら勝手に飲むぞ」

「どうぞご自由に」


 本当はこれ以上自室が酒臭くなるのは勘弁願いたかったが、勝手に過去を覗いてしまった負い目があるため、今はぐっと我慢した。そもそもウォルドが人の部屋にまで酒を持ち込むなんてよっぽどのことだ。

 ──素面では話せない。

 そう思ったから、わざわざ持参したのだろう。だからカミラもウォルドが瓶ごと酒を呷る間、じっと黙って彼が答えてくれるのを待つ。


「まったく恨んでねえと言えば、そいつは嘘だ」


 やがて返ってきた本音に、息が詰まった。

 胸が軋んで、またもウォルドを直視できない。

 脳裏に甦る。過去で見た彼の想い。死闘。慟哭。

 他人の記憶を背負うというのは思った以上に重たくて、カミラは幻の中でもそうしたように、ぎゅうと己の腕を握り締めた。


「でも……もしも私がユシィでも、きっと同じ選択をしたわ」

「だろうな。……俺だってそうだ」


 喉が焼ける。カミラは返す言葉が見つからなくて、唇を引き結んだ。

 私が泣いてどうする、と己を叱咤するも、あれがもし自分と兄の身に起きたことだったらと思うとたまらない。そしてだからこそ、こんなとき仲間に何もしてやれない自分に腹が立つ。


 ウォルドは、どんなにつらかっただろう。

 守りたいと願ったものも守れず、たったひとり生き残って。


 自分だったらきっと耐えられない、と思う。復讐を心の支えにしたとしても、結局は後悔と悲しみの波に攫われて、生きることを諦めてしまいそうな気がした。だけどウォルドは諦めなかった。彼は殺された家族のために、遠い異国の地で今もひとり、戦っている。


「……村が襲われたのって、どれくらい前のことなの」

「七年前だな。ユシィがちょうど、お前と同じくらいの歳の頃だった」

「ウォルドは、あれからどうしたの。私に見えたのは、妹さんが亡くなったところまでで……」

「ああ……あのあと俺は、アンギルを追ってきたマルキエルって退魔師に助けられてな。ルシーンやアンギルのことはそいつから聞いたんだ。以来俺は地元の傭兵団を抜けて一人で旅するようになった。マルキエルには、常人の俺にはやつらを殺せねえと止められたが……だから諦めろと言われて、諦められる話でもねえだろ」


 以来七年、ずっとアンギルを追っている。ウォルドはそう言った。吸血鬼ヴァンパイアという魔人は、人の血を吸い続ける限り歳を取らない。ゆえに誰かが息の根を止めるまで永遠に生き続け、花嫁探しという名のイカれた殺戮行為を繰り返すのだと。

 アンギルに捕らわれた娘たちは、一人として帰ってきたことがないそうだ。みな生きたまま血を吸われ、屍人しびととなり、意思のない操り人形としてやつの下で生きていく。


 ユシィはそうならずに済んだだけ、幸せだったのかもしれない。

 ウォルドは最後にそうも言った。

 あのときの俺には、あいつを守ってやれるだけの力がなかった。だからどっちに転んでも、ユシィを幸せにしてやることはできなかっただろう、と。


「……だから救世軍に入ったのね。ルシーンが今は黄皇国に取り入ってることを知って」

「ああ。ルシーンがいるところには必ずアンギルもいる。やつらはどうも主従関係を結んでるらしいからな。他にもハクリルートっていう化け物じみた剣士がいて、そいつも殺戮者ブッチャー、つまり魔人だ。やつらを何とかしねえ限り、ルシーンを討つのは不可能だと思っていい」

「その話、フィロは知ってたの。フィロはずっとウォルドのこと庇ってたけど」

「一部だけは、話した。俺の村がアンギルって魔人に滅ぼされて、そいつが今ルシーンに仕えてるとな。それだけなら、別に他のやつらに話しても構わねえと言ったんだが……フィロは結局、死ぬまで誰にも話さなかったらしい。あれだけイークになじられといて、ほんと肝の据わった女だったよ、あいつは」


 言いながらウォルドがまた酒を呷るのを見て、じわ、と再び視界が滲んだ。

 フィロメーナはたぶん、守りたかったのだろう。今日までたったひとりで戦ってきたウォルドが、これ以上苦しまなくていいように。

 彼女はそういう人だった。いつだって誰かの心に寄り添おうとする人だった。だから救世軍は今もここにあるのだ。彼女の祈りを叶えたいと願う人々に守られて。


「だがもう一つ、フィロがお前にも話さなかったことがある」

「……え?」

「俺はお前の兄貴を知ってる。お前の父親も、母親も」


 驚きすぎて、心臓が止まるかと思った。は、と聞き返した声が声にならない。

 だって、今──ウォルドはなんと言った?

 知っている? カミラの兄と両親を?


「うそ」

「残念ながら本当だ。俺が西のルエダ・デラ・ラソ列侯国の出身だってことは知ってるな?」

「う……うん、一応……」

「俺の村は、俺がガキの頃にも一度魔物の群に襲われてる。そのとき村人の救出に駆けつけたのがトゥルエノ義勇軍──お前の父親が率いる軍隊だった」


 トゥルエノ義勇軍。それが父のいた軍の名前。

 では、さっきウォルドが弟を失ったと言っていたのは、父が列侯国にいた頃の話か。同じ村が二度も魔物に襲われるなんて……と思いつつ、だからこそウォルドは傭兵になる道を選んだのかとも納得する。


「当時列侯国は内乱の真っ只中でな。俺たちはお前の父親に助けられたあと、内乱が収束するまでの数ヶ月を義勇軍の城で過ごした。お前の兄貴──エリクとはそこで知り合って、よくつるんでたよ。あいつが俺たちのことを覚えてるかどうかは知らねえが、ユシィは……ずっとエリクに惚れてた」


 予想外の告白に、思わず目を見開いた。

 ……惚れていた? ウォルドの妹が、自分の兄に?

 言葉の意味は分かっても、理解が追いつかずに疑問符をばらまく。そんなカミラの混乱ぶりを見たウォルドはふっと笑って、酒瓶を持ち上げた。


「あの内乱のあと、お前の父親が家族と一緒に列侯国を追放されたことは知ってる。もう二度と列侯国の土を踏むことを許されなかったこともな。なのにユシィは、エリクはいつか必ず戻ってくるとわけもなく信じてた。そこそこいい縁談もあったってのに、自分はエリクともう一度会うまで結婚しないとか何とか、馬鹿な理屈を並べてな」

「……でも、お兄ちゃんは郷を出たあと、列侯国に行くって言ってた」

「ああ。つまりあいつは本当に戻ってきたってわけだ。村が滅んでなかったら、ユシィはエリクと再会してたかもしれねえ。そうなったら俺とお前は、今頃親戚になってたかもな」


 ま、あいつの兄馬鹿ぶりを聞くにそれはねえか。そう言って酒を飲むウォルドを、カミラは唖然と見つめてしまった。

 彼の言い分が嘘でないことは、分かる。ウォルドの話は先日ヴィルヘルムから聞いた話とちゃんと符合しているからだ。

 だけどこんな偶然があるだろうか。西の国でたまたま父に助けられた少年が、数年の時を経て今度は娘と巡り会うなんて。

 

「とは言えお前がエリクの妹だって知ったときは、さすがの俺も驚いたがな。あいつにも妹ができてたなんて知らなかったし、その妹はとんだ跳ねっ返りで兄貴には全然似てねえし」

「わ、悪かったわね……だけどそう言うウォルドだって、妹さんと全然似てないじゃない。仮にユシィが今も生きてて妹だって紹介されても、しばらく誰も信じなかったと思うわよ? 赤毛だし、小柄でかわいかったし」

「まあな。おまけにユシィは聞き分けのいい兄貴と違って、我の強いわがまま女だったしなあ」

「〝聞き分けのいい〟……?」

「最初から最後まで意地張って、兄貴の言うことを聞かねえ手のかかる妹だったよ。そういうところは、お前に少し似てるかもな」


 ウォルドの手の中で、酒瓶がたぷんと音を立てた。

 水音が自分の沈黙を浮き彫りにする。

 ……ウォルドは酔った勢いで何の気なしに言ったのだろうけど、でも。


「……ごめんなさい」

「あ?」

「私……ウォルドに、ずっとつらい思いさせてた?」


 知らなかったから。

 ウォルドが何を思い、何を考えて生きているのか、なんて。

 だけど彼がもし、自分のせいで傷ついたり苦しんだりしていたのなら──


「……いいや。お前を見てエリクやユシィを思い出すことはあっても、つれえと思ったことは一度もねえよ」


 そう言って、ふっと笑みを見せられたとき。ここまでずっとこらえていたのに、ついに涙が零れてしまって、カミラは思わずうつむいた。

 たぶん、今のは嘘だ。もうこの世にいない妹や、その想い人との記憶を掘り起こされて少しもつらくないなんてことがあるわけがない。


 だけど、それなら。


 それなら、今度は自分が。


「ウォルド」

「何だ?」

「たとえどんなに似てたって、私はユシィの代わりにはなれないわ。だけど、フィ……フィロの代わりになら、十分の一くらいはなれるかもしれないから」

「……あ?」

「い、いや、フィロに比べたら、十分の一どころか百分の一かもしれないけど……で、でも、秘密を一緒に背負うくらいはできるから。今夜聞いたことは誰にも言わないし、私からももう訊かない。だけどウォルドが話したいと思ったときはいつでも言って。酔っ払いの世迷い言くらいなら、黙って受け止めてあげるわよ」


 あとは打倒ルシーン! ね! とカミラが拳を作ってそう言えば、ウォルドはぽかんと口を開け、呆気に取られた顔をした。

 かと思えば次の瞬間、いきなり「ぶっ」と吹き出して、大声で笑い出す。おかげでカミラの方が虚を衝かれた。──人が精一杯励ましてやっているというのに、なにゆえ爆笑しているのだ、この筋肉ダヌキは。


「はー、くそ、まあそうだな。お前にゃフィロの代わりは荷が重てえだろうが、今後百分の一くらいは頼ってやってもいい。イークが戻ってきたらまたあの質問責めを防ぐ壁が必要だし、そんときゃお前を上手く使ってやるよ」

「え? あんなに真摯に励ましたのに壁扱いなの、私?」

「とにかく今夜はもう寝ろ。ラファレイからも安静にしてろって言われたんだろ? 異論があるなら、続きは回復してから聞いてやる。文句が言いたきゃ、まずはさっさと体を直すこったな」


 カミラの全身から立ち上る殺意に似た何かをなしながら、ウォルドはついに腰を上げた。そうして栓が開いたままの酒瓶を手に、くるりと寝台へ背を向ける。


「ああ、そうそう。それとお前がいねえとカイルがマリーに絡みまくって、ティノがあいつを斬り殺しそうだ。そうなる前には復帰しろよ」

「……善処します」

「俺から言えるのはそんくらいだ。じゃあな、ゆっくり休め」

「あんたもね。──おやすみ」


 言うが早いか、カミラはサッと角灯の明かりを吹き消して、寝台の中へ潜り込んだ。ウォルドが振り返った気配がしたが構わず、上掛けを頭まで引っ張り上げる。

 だって何だか気恥ずかしかったのだ。今更家族みたいに〝おやすみ〟なんて。

 でも、背中越しにウォルドが笑ったようだったから良しとした。


 今度の眠りは、悪夢を見ずに済みそうだ。



              ◯   ●   ◯



 眼下から、岸辺を濡らす細波の音が聞こえていた。

 今日も今日とて霧に囲まれたコルノ島の見張らしは、お世辞にも良いとは言えない。特に湖に面する東側は、遥か高みまでそびえる霧の壁以外、眺めるものが何もないのだ。

 だが今夜は不思議と退屈しない。ウォルドは先程のカミラとの会話を思い返しながらわずかな酒をちびちび呷り、湖賊の砦の屋上でクッと小さく笑いを零した。


「ったく、たまげたな。あの馬鹿、フィロとおんなじ台詞を吐きやがって……」


 思わず零れた独り言が、身をもたせた胸壁から転がり落ちて波間に消える。カミラは自分を〝百分の一くらいならフィロメーナの代わりになれる〟と言っていたがとんでもない。近頃ウォルドは錯覚するのだ。死んだはずのフィロメーナが実はカミラの中で生きていて、時折顔を出しているのではなかろうかと。


(意図して真似てんだか無意識なんだか知らねえが、ほとほとフィロに似てきたな、あいつ)


 フィロメーナがそれを聞いたら喜ぶだろうか。

 あるいはまた泣き出しそうな顔をして、駄目よ、と笑うだろうか。


『ウォルド。真実が明らかになれば、私は包み隠さずカミラに話すわ。その結果、彼女に憎まれても構わない。……いえ、構わなくはないのだけれど』


 だけど私に、行かないでと縋る資格はないでしょう?


 そう言って微笑わらっていた彼女の姿を思い出し、ゴッ、と酒瓶を壁に置いた。……さすがは姉妹と言うべきか。ああやって下手くそに微笑うところや、資格だの許されないだのと言い出すあたりは、やはりカミラよりトリエステにそっくりだ。


「……だがお前はもういねえだろ、フィロ」


 と、暗い床に視線を落としたまま、ウォルドは頭上の星々に問いかける。


「それでもあいつに真実を告げろってのか」


 星は答えない。

 けれど、分かっていた。

 フィロメーナの答えはいつも一つだと。


「……お前はとことん女泣かせだな。恨むぜ、エリク」


 呟いて自嘲してから、ウォルドは残りの酒を一気に飲み干した。空になった瓶は再びドンと壁に置き、そのまま身を翻す。

 夜風が低い唸りを上げていた。どうやらもうすぐ天候が崩れるようだ。

 雨が降ったら、カミラがまたエリクを恋しがるだろう。

 そんなことを思うウォルドの頭上で、星々が西からの雲に隠されてゆく。



              ◯   ●   ◯



 月と矢の落とし子は時の番人の手によって、横糸をあざなう者に託された。


 箒星は古き星に寄り添わず、天、大いに乱れて災いを呼ぶ。






                              (第5章・完)



 ご愛読ありがとうございます。伏線だらけの第5章、これにて完結です。

 ようやく物語の下準備が終わり、次章から新生救世軍が大きく動き出します。第6章は恐らく、作中最も長い章となりますが、引き続きカミラやジェロディの戦いを見守っていただけましたら幸いです。


 なお次回の更新より、本作の更新は毎週日曜のみの週1更新となります。

 更新を楽しみにして下さっている皆さまのご期待を裏切り、大変申し訳ありません。なるべく早く更新ペースを戻せるよう、頑張りたいと思います。

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