169.恨まないで
※食人の描写があります。やや残酷注意。
炎。
見渡す限り、火の海だった。
視界を埋め尽くす赤。躍り狂う火炎と黒煙。
見上げた空は爛れたように赤く、今が日没直前だということを伝えてくる。
……日没直前?
いやいや、そんなまさか。今はまだ午前だ。確証はないが、部屋の窓から確かめた日の高さで何となく時刻は分かっている。
というか、そもそもここはどこだ?
村。燃えているのは平地に築かれた小さな村か。小川を挟んだ向こうには鄙びた家屋や畑が並び、そこから人々の悲鳴が聞こえる。
追われている? 家々の間で吼えながら蠢いているアレは──魔物?
それも一匹や二匹ではなく、大量の。
「な、何なの、これ……どういうこと……!?」
動揺のあまりカミラは声を上げていた。別段寝ぼけているわけでないのなら、自分はついさっきまでコルノ島の湖賊の砦、その二階にいたはずだ。
だのに何故こんなところに? 何が起こっている? 自分にも、あの村にも。
あまりにも突拍子のない事態に、カミラは困惑しきりだった。しかし眼前の村が魔物に襲われていることは確かだ。助けなければ。逃げ惑っている村人たちを。
何が何だか分からないまま、腰から剣を抜こうとした。ところが柄を掴もうとした左手はスカッと空振りする。はっとして目をやれば、なかった。剣が。
(そう言えば私、さっきまで寝てたんだった……!)
見下ろした体は寝巻きのチュニック一枚、当然ながら武装などしているわけがない。脚も裸足だし、とても燃え盛る村の中へ飛び込める状態ではなさそうだ。
でも、このままじゃあの村が。
助けないわけにはいかない。剣はなくとも自分には神術がある。先日いきなり倒れた原因が神刻と聞かされた手前不安ではあるが、右手の火刻を使うだけなら大丈夫なはずだ。とにかく今は、村人たちを──
「ガサッ!」
が、カミラが今にも駆け出そうとした刹那、背後から葉擦れの音がした。何だと思って振り向けば、そこには青々とした森が広がっている。
真後ろが森だったなんて、混乱していて気づかなかった。村のこちら側は森に覆われた丘になっているようだ。
だけど何よりも驚いたのは、立ち尽くしたカミラの目の前に、突如一人の青年が現れたこと。
カミラは声をかけるのも忘れて絶句した。青年はボサボサの黒髪や衣服のあちこちに緑の葉っぱをくっつけたまま、激しく息を切らしている。
どうやら村の異変を察知して、全力で走ってきたようだ。腰には剣、背中には弓、そして右手にはぴくりとも動かないウサギを一羽携えている。
「おい……何だよこれ……」
長身の青年は茶色の瞳を見開いたまま、カミラのよく知る声で呻いた。
おかげでさらに唖然とする。だって、今の声は紛れもなく、
「ウォ……ウォルド──?」
信じられなかった。だっていま眼前にいる彼は、上背こそあるがそこそこ細身で、カミラの知るウォルドとは肌の色も顔つきもかけ離れていたから。
いや、だけどよくよく見れば、顔の各所には何となく彼の面影がある。右頬に走るあの古傷こそないものの、太い眉や厚い唇、そしてやや張り出した頬骨なんかもウォルドにそっくりだ。
しかし対する青年は呼びかけられたところでこちらには見向きもしない。反応を示さないということはやはり別人か? いや、だけどこんな近くに人がいたら、たとえ名前は違っても一瞥くらいくれるはず──
「親父……!」
ますます混乱しているうちに、青年が走り出した。森で狩ってきたのであろうウサギも無造作に放り投げ、村を目指して全速力で駆けていく。
「あ、ちょ、ちょっと待って──」
呼び止める声は、今度もみなまで言えなかった。何故ってカミラが青年を追いかけようとした瞬間、再び閃光がほとばしり、目の前の景色が一変したからだ。
「え……!?」
轟々と家屋が燃える音がする。村の外にいたはずのカミラは、いつの間にか炎に囲まれていた。燃え盛る民家の中へ俄然放り込まれたのだ。
同時に聞こえるグチュ、グチャ、という不快な音。
カミラは愕然として立ち竦んだ。だって佇む己の足元で、白髪混じりの男が顔中を血で汚し、初老の女の腸を無心に貪り食っていたから。
「あ……ぁ……」
何だ。
何なのだこれは。
人が人を食っている?
カミラは言葉もなくあとずさり、とっさに口元を押さえた。吐きそうだ。
だがおかしい。目の前で人が食い散らかされているというのに、血のにおいはおろかあの臓物特有の腐臭もしない。
それどころか、いつ衣服に燃え移ってもおかしくない距離で音を立てる炎の熱さも感じないのだ。にわかにこんなところへ飛ばされた件と言い、さっきの青年がカミラの存在を丸ごと無視していた件と言い、まさか今見えているものはすべて、幻……?
「親父、お袋! ユ──」
しかし刹那、背後から上がった叫び声にカミラはびくりと飛び上がった。
驚愕して振り向けば、そこには全身煤まみれになって飛び込んできた青年がいる。さっきの彼だ。ところどころ服が破れて血を流しているところを見ると、魔物と戦いながらここまで来たのか。
だが直後、彼は呆然と立ち尽くした。
青年が言葉をなくして見つめる先には、女の肉を食らう男の姿。
彼はここに飛び込んできたとき、大声で両親を呼ばわっていた。
ということはまさか、今そこで女を食らっている男と食われている女は、
「にい、さん」
家屋が崩れる轟音の狭間に、か細く弱い声がした。
反射的に目をやれば、燃え盛る部屋の片隅に力なく座り込んだ少女がいる。ちょうどカミラと同じくらいの年頃の、長い赤毛を三つ編みにした……。
「兄さん……父さんと……母さんが──」
「ユシィ……!」
ユシィ。それがあの少女の名前か。
そう思った矢先、またも閃光と共に場面が変わった。カミラの目と鼻の先を、青年に手を引かれたユシィが駆けていく。
あたりは既に真っ暗だった。日が落ちてしまったのだろう、枝葉の間から零れる月明かりを頼りに兄妹は森を駆けている。
ユシィは泣いていた。泣きじゃくっていた。血飛沫で汚れた顔を涙でさらにぐしゃぐしゃにしながら。
でも、走れるということは五体満足ということだ。血と煤と泥で体中汚れきってはいるものの、外傷は見当たらない。兄に手を引かれていなければ、今にも膝から崩れ落ちてしまいそうだったけど。
青年はただ駆けている。
後ろを振り向きもせず、声を発することもなく。
その両手が赤い血で濡れている。
粘つく魔物の黒血ではなく、人間が流す赤い血で。
(まさか、両親を──)
呆然としながら、ふと気づく。そう言えば目の前の二人は力の限り駆けているのに、自分は同じ場所に立ち尽くしたままだ。
なのに二人の姿が常に正面にある。ということはやはりこれは幻なのだ。しかも単なる幻覚じゃない。恐らく、ウォルドの──
「きゃあ……!?」
やにわにユシィが悲鳴を上げた。何事かと思ったら、彼らの頭上を掠めるようにコウモリの群が飛んできた。
かと思えば群は二人の行く手で塊となり、やがて一人の人間の姿を作り出す。
カミラは目を疑った。コウモリの群が生み出したのは、闇で染めたように真っ黒な長髪を持つ、背の高い不気味な男だった。
(こ、コウモリが人間に……!?)
「おやおや、困りますねえ、私の花嫁を連れて逃げ出されてしまっては」
コウモリの中から突如として現れた男は、縁のない眼鏡を押さえながら意味の分からないことを言う。途端に青年が足を止め、ユシィを背に庇いながら剣を抜いた。
「誰だ、お前は……!?」
「我が名はアンギル。〝天使〟の名を継ぐ者です。青年、あなたの後ろにいる花嫁を返してはいただけませんか?」
「花嫁だ……!? こいつは俺の妹で、お前の花嫁なんかじゃねえよ!」
「ああ、なるほど。あなたはそちらのお嬢さんのお兄さんでしたか。では改めてご挨拶をば」
言うが早いか、アンギルと名乗った男は左胸に手を当てて、深々と慇懃な礼をした。彼の全身を覆う黒の外套が動きに合わせて浮き上がり、カミラにはそれが巨大なコウモリの翼に見える。
「私は吸血鬼、かつて〝天使〟の名を持つ偉大な竜と契約し、屍人を生み出す力を授かった者です。屍人を生み出すと言うとまあ、大概の者が屍霊使いを連想するようですが私は彼らとは違います。何せ彼らは美しくない。魔力を維持するためにいかなる死体も骨までしゃぶりつくしてしまうのです。が、吸血鬼である私はそうではない。そんな汚らしい真似をせずとも、あなた方人間の血を啜るだけで生きてゆける上位の魔人です」
「魔人、だと……つまりお前が契約した〝竜〟ってのは、魔界に棲む邪竜のことか……!」
「ふむ、無知なる人間はみな彼をそう呼びますがね。彼はまさしく天使でした。私にとっての救い主であり、この世で唯一崇拝に値する神でもあった。その彼を愚弄することは許しませんよ」
「てめえはさっきからわけの分からねえことをごちゃごちゃと……! 魔人ってことは、俺の村に魔物をけしかけたのもお前か! よくも親父とお袋を……!」
「おや、言いがかりはやめていただきたいですね。私はあくまで花嫁候補を探しにあの村を訪ねただけで、魔物の群を差し向けたのはルシーン様ですよ。どうせ人里へ下りるのなら、魔物たちにも餌をやるようにとね」
ルシーン。
……ルシーンだって?
あの男は今〝ルシーン〟と言ったのか?
それは一国の王を誑かし、大神刻を狙う魔女の名前。
つまり彼はルシーンの仲間? あるいは側近?
そう言えば前にウォルドが言っていた、
『あの女とは俺もちょっとした因縁があってな。正確にはあの女の下僕にだが』
と。
(じゃあ、ウォルドがルシーンのことをあれこれ嗅ぎ回ってたのは……トラモント人でもないのに救世軍に入ったのは──)
「さあ、お兄さん、前口上はこのくらいで充分でしょう。そろそろ妹さんを私に下さいませんか? 何、悪いようには致しません。村の若い娘はすべて私の花嫁となりました。彼女たちはこれから私と共に永遠の時を生きるのです。老いることなく、美しいまま、魔界に咲き誇る花として……!」
「お前の花嫁になるってのは、つまり魔人の仲間になって魔界に堕ちるってことかよ……! 冗談じゃねえ、ユシィ、お前は逃げろ! こいつは俺が何とかする!」
「でも、兄さん……!」
「俺はこういうときのために傭兵になったんだ。ここでお前を守れなきゃ、親父と殴り合ってまで村を出た意味がねえ……! だから逃げろ、早く!」
「だけど父さんと母さんは死んじゃった! 兄さんまで死んでしまったら私、行く宛なんてない!」
「セルピエンテだ! セルピエンテに行って、ウィンバリー傭兵団の団長に会え! 俺の名前を出せば面倒を見てもらえる!」
「そんなの嫌! 兄さんも一緒じゃなきゃ、私……!」
「──ユシィ!」
腹の底から叫んだ青年が、妹を背後に突き飛ばした。ユシィは勢い余ってまろびそうになりながら、何とか木の幹に手をつき立ち止まる。
青年はもう、妹を見ていなかった。ただ剣を正眼に構え、魔人だけを見据えている。
「お前は昔からそうだ。最後くらい、兄貴の言うことを聞け」
ユシィの瞳から大粒の涙が溢れた。
彼女は泣いて、泣いて泣いて泣いて、ついに身を翻した。
同時に青年が踏み込む。
大きく剣を振りかぶり、魔人の懐へ入るや否や目にも留まらぬ速さで横に薙ぐ。
アンギルはその攻撃を避けなかった。
剣が魔人の腕にめり込む。やった、と思った。
されど次の瞬間、アンギルの体が炸裂する。
元々コウモリが集まって生まれた体が、再びコウモリの群へと戻ったのだ。
「何……!?」
黒い風と化したコウモリの群が、奇声を発しながら青年へ襲いかかった。
青年は顔の前に腕を翳し、彼らの猛攻から身を守る。
ところが群は青年の背後へ回るや、またも魔人の形を取った。
上半身は魔人、下半身はコウモリの群という異様な姿で、裂けるように笑ったアンギルが右手を振りかぶる。
「危ない……!!」
カミラは思わず叫んでいた。これは幻で、恐らくは過去の出来事で、自分が干渉することはできないと分かっていても。
しかしまるでその声が聞こえたかのように、青年が素早く背後を向いた。跳び退こうとした彼の右頬を、アンギルの突き出した黒い刃が盛大に引き裂いていく。
「ぐっ……!」
顎から右目の下まで裂かれ、青年は顔面を押さえた。あと一瞬後ろへ跳ぶのが遅ければ、恐らく目をやられていたはずだ。
だがアンギルの攻撃は止まない。クルデールが使っていたのと同じ、瘴気を固形化した黒い刃物で、青年を攻めて攻めて攻めまくる。
(分かってる……分かってるけど、どうしても助けられないの……!)
こんな状況をただ見ているだけなんて耐えられない。カミラは火刻の宿る右手を握り締めた。されどやはり幻の中だからなのか、神刻は一切反応を示さない。
カミラはきつく切歯した。目の前に、妹を守ろうと命懸けで戦っている兄がいる。そう思うだけでどうにかなりそうなのに、手助けすらできないなんて。
激情をこらえるために、カミラが己の腕を握り締めた刹那だった。
再び距離を取った青年へ向けて、アンギルが左手を振りかざす。
その手の中に影より深い闇が生まれた。闇はたちまち渦となり、球体となり、青年を狙って矢のような速さで投擲される。
完全なる不意討ちだった。
青年は回避する暇すらなく、腹部に闇弾を喰らって吹き飛ばされた。
何度も地面に叩きつけられ、転がり、最後は木の根にぶつかって止まる。
血を吐き、呻きながら、しかし青年はまだ立ち上がろうとしていた。
どう見ても立ち上がれる体じゃないのに。
なのに彼を動かし続けるのは覚悟か、執念か。
そんな彼の健闘を嘲笑うかのように、青年の頭上を、コウモリをまとった魔人が舞った。
「妹さんはいただいていきますよ、お兄さん」
剣を杖代わりに、ようやく立ち上がった青年の直上。
そこに幾本もの闇の刃が浮かび上がる。
短剣のごとき形状を取ったそれらは直後、眼下の青年めがけて降り注いだ。
黒い雨が降る。肉が断たれる音と、血の飛沫く音。
カミラは茫然と立ち尽くした。
何故なら倒れた青年の上には、逃げたはずの妹が覆い被さっていたから。
「ユシィ」
血まみれの青年が目を見開き、呟く。
妹は体中を闇に貫かれたまま、動かない。
「ユシィ……お前……なんで……ユシィ──!!」
青年の絶叫が谺した。
彼の慟哭が闇を裂き、森を震わせ、どこまでもどこまでも反響していく。
すべてはそこでブラックアウトした。
忘我したカミラの瞳から、涙が零れ落ちていく。
「──ラ……おい、カミラ! 返事しろ、カミラ!」
気づけば現実に戻ってきていた。放心して座り込んだカミラの肩を、ウォルドが痛いくらい揺すっている。
そこでようやく我に返った。でも、意識が遠い。鼓動が早い。彼の呼び声を掻き消すほどの耳鳴りが聞こえて、今にも頭が割れそうだ。
「……ウォルド、」
「おい、どうしたんだお前! 急に動かなくなって、顔色も──」
「ウォルド、答えて」
「は……!?」
「ユシィを恨んでる?」
尋ねた傍から、また一つ涙が零れた。
それと同時にウォルドの声が止む。彼は驚愕で言葉をなくしているようだ。
その唇が開かれた。彼が何と答えたのかは知らない。
耳鳴りがすべてを掻き消して、カミラは意識を手放した。
恨まないで、と祈りながら。




