15.悪夢
夢を見ていた。
ギーッチョ、ギーッチョ、ギーッチョ、ギーッチョ。
夏の訪れを告げる鉄切虫が鳴いている。
大陸南部のトラモント黄皇国からさらに南へ突き出たグアテマヤン半島は一年中夏みたいなものだが、あの鉄切虫という大人の親指ほどもある虫は、半島が最も蒸し暑くなるこの時期に好んで地上へ現れる。
だからあの鳴き声が聞こえてくると、ああ、今年も夏が来たんだな、なんて思うのがルミジャフタの民の情緒だった。同時にこれから死ぬほど暑くなるぞ、と予感してげんなりもするのだが、やはり鉄切虫の声が聞こえ始めると嬉しくもある。
ルミジャフタの民は、なんだかんだ言って夏が好きなのだ。
ジリジリと気温が上昇を始めるルミジャフタの朝。
カミラは家の調理場に立って鍋の火加減を見ていた。
調理場と言ってもそこにはふたつつながった土竈と小さな作業台、そして慎ましやかな流しがあるだけで居間との区切りは一切ない。スープを煮込むカミラの後ろには年季の入った四人がけの食卓。すぐ右手には外へ通じる小窓つきの引き戸。
つまりこの家の調理場は玄関を入ってすぐのところにある。
ぐつぐつと煮える鍋の中では、綺麗に皮を剥かれたコロ芋が数種類の香草と共にぷかぷかと浮いていた。コロ芋というのは名前のとおりコロコロしたひと口大の小さな芋で、こうして香草汁にして食べるととてもうまい。甘辛いタレを絡めて肉と炒めたり、串焼きにしてシンプルに食べる方法もあるけれど。
その鍋の隣では竈の上に金網が置かれ、薄く伸ばされたサクが焼けていた。
サクはこのルミジャフタで最も普遍的な家庭料理だ。
黄黍を挽いて粉末にしたものに羊駝の乳と家禽の卵を混ぜて捏ね、伸ばし、焼く。それに味つけした野菜や肉、乾酪などを巻いて食べる。
これがないとルミジャフタの朝は始まらない。
早朝から取りかかり始めた朝食作りもいよいよ大詰め。
カミラは焼けたサクをせっせと木の大皿へ移し、さらに色とりどりの野菜が乗った器と薄く切った乾酪の皿も食卓へ運んだ。
あとは鍋の中のコロ芋が煮えれば完成だ。我ながら完璧な時間配分。カミラは卓の上に並んだいくつもの皿を見やり、ふう、と息をつきながら額の汗を拭う。
「おはよう、カミラ」
そのとき俄然家の奥から声が上がって、カミラはぱっと頬を赤らめた。
額に当てていた手を慌てて引っ込め、居間の奥に並んだふたつの入り口のうち左の方へ目を向ける。そこにはゆったりとした深緑の上衣を帯で締め、白の脚衣を履いた兄のエリクがいた。カミラと同じ鮮やかな珊瑚色の髪に、底が知れないほどの優しさを秘めた瞳。その瞳を細めて微笑みかけられるとカミラは軽く眩暈がする。
──うん。今日もお兄ちゃんはかっこいい。
「お、おはよう、お兄ちゃん! ちょうど今、サクが焼けたところだよ!」
「ああ、ありがとう。いつも悪いな」
「えへへ、いいの。これが女の仕事だもん。お兄ちゃんには毎日おいしいごはんを食べてもらいたいし」
「おかげで俺は毎日世界一の料理を食べさせてもらってるよ。お、今日はサクとコロ芋のスープか」
「うん! 昨日森でたくさん香草を摘んできたから、それと一緒に……」
「森って、まさかひとりで香草摘みに行ったのか? この時期は血吸い蝶も出るし、危ないだろ」
「だってこれからますます暑くなるから、精のつく料理を食べてもらいたくて」
「気持ちは嬉しいが、森に入るときはちゃんと俺たちにひと声かけなきゃダメだ。グアテマヤンの森じゃ大の大人にだって何が起こるか分からない。お前の身に何かあってからじゃ遅いんだぞ」
「う……ご、ごめんなさい……次からはちゃんと気をつけるから」
珍しく語気を鋭くした兄に叱られて、カミラはしゅん、と肩を落とした。
この郷を囲むグアテマヤンの森が危険生物だらけの危ない森だということはカミラとて重々承知している。亜熱帯の木々が密生するグアテマヤン半島には、他にはない独特の生態系が築かれているのだ。
それでも郷のために暑い中家畜の世話をしたり、毎日農作業などの力仕事に出ている兄たちに元気の出る料理を食べてもらいたかった。自分は剣も神術も使えるし、多少のことなら自力で何とかできる自信があったから。
でもこんな風に叱られたら、自分はまだまだ頼りないのかな、なんて思ってしまう。確かに生まれながらの戦士である兄たちにしてみれば、カミラの操る神術や剣術はたどたどしくて見ていられないのだろうけれど。
「まあ、分かってくれたならいいんだ。お前が俺たちのことを想ってくれる気持ちは嬉しいが、俺はそれ以上に、お前が元気で笑っていてくれるのが一番嬉しいんだから」
「うん……私も。私もお兄ちゃんとイークが一緒にいてくれればそれだけで嬉しい」
依然しゅんとしながらもカミラがそう言えば、視界の外で兄が微笑った。
途端にぽん、と優しい震動が頭に伝わる。
エリクの手。そっと頭を撫でられて、たちまち顔が熱くなった。
どうしよう。嬉しい。
「じゃ、鍋の火は俺が見ててやるから、お前はイークを呼んでおいで。あいつもそろそろ起き出してる頃だろう」
「うん。あ、でもお兄ちゃん、あくまで火加減を見るだけだからね? スープに勝手に手を加えちゃダメだからね?」
「う、うん……分かってるよ。別にラナの実を入れたらうまそうだなんて思ってないから大丈夫さ」
「思ったんだ? 思ったんだよね? でもダメだからね? このスープにラナの実なんてどう考えても合わないからね? それどころかまた私とイークが三日間寝込むことになるからね?」
「分かってる、分かってるって。せっかくお前が作ってくれた朝食を台なしにしたりしないよ。タリアクリに誓う」
「よろしい。じゃ、行ってくるから。鍋は沸騰しそうになったら火から下ろしてね!」
苦笑しているエリクに見送られ、カミラは元気よく家を出た。
この世に味音痴の腕を競う大会があれば絶対に世界一の称号を獲得するであろう兄を竈の前に置いていくのはちょっと不安だったけれど、毎朝こうしてイークを起こしに行くのもカミラの日課だ。イークはカミラの家から二軒先のところにひとりで住んでいて、お互いの親が他界してからは毎日食事を共にしていた。
イークもエリクほどではないが料理の腕はからっきしだし、ひとりで寂しい食事をさせるのも幼馴染みとして忍びない。もともと料理好きのカミラにとっては、二人分の食事が三人分になろうが四人分になろうが大差ないのだ。
まあ、イークはそんなカミラにもう少し感謝の意を表すべきだと思うけど。
ギーッチョ、ギーッチョ、ギーッチョ、ギーッチョ。
郷のあちこちから鉄切虫の声がする。夏だ。天空から斜めに降り注ぐ朝日が眩しくて、カミラは庇を作りながら出てきたばかりの我が家を仰ぎ見る。
四角く切り出された礎石の上に建つ、高床式の家屋。
茶色に乾燥した黄黍の葉を束ねて乗せた草葺きの屋根。
ルミジャフタ郷に建つ家々のほとんどは、床から壁に至るまですべてが木造だ。
床が地面から離れているのは湿気の多いこの土地ならではの先人の智恵で、床材の腐敗を防ぐのと、森蠍などの毒虫の侵入を阻む意図があるのだと聞いたことがある。ジメッと暑いけれど、どこか爽やかな朝。
カミラは濃い緑の匂いが充満する風を胸いっぱいに吸い込んだ。
そうしてふうーっとそれを吐き出すと、空っぽになった肺を今度はきらきらしたものが満たしていく。カミラはこの郷が好きだ。
ド田舎で、孤立していて、何もかもが古くさくて、掟だの慣習だのとめんどくさいことも多いけれど、そんなところも含めてこの郷が好きだ。
今もこれまでもこれからもこんな暮らしがずっと続けばいい。
心の隅っこでそんなことを思いながら、カミラは「よしっ」と身を翻した。
早くイークを呼びに行こう。もしまだ吊床に揺られて寝息を立てているようなら、ひっくり返して床に叩き落としてやろう。
そんなことを思いながらちょっとばかし湿った土を蹴って走り出す。が、刹那、
「──カミラ」
突然誰かに名前を呼ばれた。誰だろう。分からない。
聞き覚えのない声だった。けれどそれは澄んだ女の声に聞こえた。
思わず足を止め、振り返る。誰もいない。
カミラはきょろきょろとあたりを見渡した。どこか死角になっている場所に人がいるのかとも思ったけれど、そんな気配はどこにもない。空耳だったのだろうか。
小首を傾げながらそう解釈し、再び身を翻そうとしたところで、
「カミラ。こっちへ来て」
またも呼び声が聞こえた。
カミラは翻しかけていた体を引き止めて、もう一度あたりを見回した。
……やはり誰もいない。ならば今の声はどこから?
試しに頭上を見上げてみる。よく晴れた空が見えた。当然人影などありはしない。けれどもカミラは何となくその空へ向かって呼びかけてみる。
「誰? 誰が私を呼んでるの?」
「私は──あなたの──の──よ」
聞こえない。カミラは我が耳を疑った。無意識にぽんぽんと片耳を叩き、再度同じ質問を投げかけてみる。が、やはり聞こえない。
まるで聞いてはならないと、見えざる手がカミラの耳を塞いでいるように。
「ごめん、聞こえないわ。どこにいるの?」
「あなたに──を。渡したいものがあるの」
「渡したいもの……?」
「来て。私と一緒に」
「でも私、あなたの姿が見えないの。どこへ行けばいい?」
「霊廟へ。タリアクリの魂が眠る場所へ──」
それきり女の声は途絶えた。
あまりにも不可思議な現象にカミラは思わず眉を寄せる。
だがどうしてだろう、不思議と恐怖心はなかった。それどころか自分を呼ぶ女の声に切実な響きを感じて、何となく放っておけないような気分になった。
ひとまずイークの家がある方向には背を向けて、郷の西へと走り出す。
タリアクリの魂が眠る場所。そんな場所はこの郷でもひとつだけだ。
墓場。郷の墓場の先にある、開祖タリアクリの霊を祀った霊廟。
カミラは人気のない郷の中を走り抜けて、その霊廟へと辿り着いた。
墓標の代わりに生前故人が愛用していた剣がずらりと佇むルミジャフタの墓場。
開祖タリアクリの墓もまたそこにある。ただし彼の場合は剣ではなく、かつての彼の勇姿を象った石像が墓標代わりだった。
剣を地につき、まっすぐに東を見つめるタリアクリの像。その前には儀式の際に供え物などを置く小さな祭壇があり、そこに光が浮いている──光?
「……何これ?」
有り得ない光景を目の前にしてカミラは呆然と呟いた。
祭壇の上に浮かんだ光は、まるで一個の意思を持つ生き物のようだ。
それでいてはっきりとした形はなく、あたかも天空に瞬く星がひと粒舞い落ちてきたかのよう。それが眼前で漂うさまをカミラは呆けながら眺めていた。
そのカミラに女の声が言う。
「それはあなたの星」
「え?」
またしてもどこからともなく聞こえた声に、カミラは慌てて周囲を見渡した。
案の定そこに人影はないが、しかし女の声ははっきりと、疑いようもなくカミラの耳もとで響く。
「掴みなさい。あなた自身の手で。何者にも惑わされず、何人にも奪われないように。あなたの運命はあなたの手で紡ぎ上げるのよ。さあ、その星を掴みなさい」
心臓が燃え上がった。そんな感覚が一瞬、カミラを支配した。
──私の星。私の運命。私だけの──
女の言葉を信じる根拠は何もない。しかしカミラは何故だか確信していた。
そうだ。これは私の星だ。他の誰のものでもない、私の。
ならばこの手でこの星を、
「お前がカミラだな」
地を這うような低い声。カミラははっとして光に伸ばしかけていた手を止めた。
直前まで燃え上がっていたはずの鼓動が凍りつく。
振り向くと見知らぬ男たちがいた。
誰だろう。皆一様に鋼鉄の鎧をまとっている。
目深に被った兜のせいで表情は窺い知れない。
けれどあの兜に打たれた紋章は。翼を広げ、天を仰ぐあの黄金の竜の紋章は、
「隠された娘よ。神慮を拒む不届き者よ。貴様の存在は世界を乱す。だから大人しく──ここで死ね」
鞘口が鳴った。目を見張るカミラの眼前で、男たちが次々と剣を抜いた。
その剣が冷たく朝日を照り返す。振り上げられた。迫ってくる。何だこれは。
足が動かない。逃げなければ。駄目だ。どうして。動けない。逃げられない。
殺される──
「カミラ!!」
影。剣光。切り裂かれた風の悲鳴。
恐ろしさのあまり、カミラは頭を抱えて目をつぶった。
だが直後に響き渡ったのは甲高い剣の叫び。
カミラははっと顔を上げた。そこに見慣れた背中がある。
「お……お兄ちゃん……!」
どうしてここが分かったのだろう。
カミラは自分をかばう兄の背を見て泣きたくなった。
エリクは美しい赤の宝石があしらわれた剣を抜き、男の刃を受け止めている。
そうしてそれを両手で支え、こちらを振り向きながら、叫ぶ。
「早く行け! 郷へ戻って、トラトアニ様を呼んでくるんだ!」
「で、でも、それじゃあお兄ちゃんが……!」
「いいから行け! こいつらの狙いはお前だ! ──逃げろ、カミラ!」
恐怖という名の鞭がカミラを打った。それは稲妻に打たれたような衝撃だった。
何だ。何なんだ。一体何なのだ、これは。
分からない。分からないが、とにかくカミラは駆け出した。
そうだ。トラトアニ。呼んでこなければ。郷のみんなを。兄を助けなければ。
逃げろ。逃げろ逃げろ逃げろ。
あの男たちから。明確な殺意から──それ以上に大きな何かから。
もつれそうになる足を懸命に前へと動かした。背後から剣撃の音が聞こえる。
振り返りたい。振り返って剣を抜き、自分も兄を。
いや駄目だ。逃げろと言われた。言うとおりにしろ。
エリクはいつだって正しい。だから今はとにかく前へ。郷へ。仲間のもとへ、
「きゃあああああああっ!!」
そのときだった。突然空を裂く女の悲鳴が聞こえた。
刹那、カミラは何か思考するより早く足を止めて振り向いてしまう。
そして見えた。
東を見据えるタリアクリの像。その前で血を噴いたエリクが