166.時の守り人
遺跡でターシャと名乗った少女は、当時と何ら変わらぬいでたちでそこにいた。
丹精込めて作られた人形のごとく整いすぎた顔立ちは、相変わらず病的に白い。着ている服まで真っ白なせいで、褪せた胡桃色の髪以外、すべて雪でできているかのようだ。
ただし淡い星銀色の瞳は眠たそうであり、不機嫌そうにも見えた。ジェロディは彼女に睨まれているような気がしてあとずさりかけたが、ときに赤装束の女の方が言う。
「おや、やはり私の言ったとおりでしたね、ターシャ。ジェロディはちゃんとあなたのことを覚えていたようですよ」
「……だからと言って、別に嬉しくありません」
「せっかくの再会だというのに、そのようなふてくされた顔をしていては失礼ではありませんか。たまにはあなたも笑顔を作ってみては?」
「余計なお世話です。というか、二人が困惑しています。早く名乗ったらどうですか」
どこまでも無表情かつ無愛想に、ターシャは赤装束の女を促した。かなりツンケンした言い方だったが、女の方はさして気にした様子もなく、むしろ何故か微笑ましそうにしている。
「それもそうですね。では、はじめまして、と言っておきましょうか。私の名はペレスエラ。人々にはこう呼ばれています──『予言の魔女』と」
「予言の〝魔女〟……? ってことは、あなた……!?」
「いいえ、安心して下さい、カミラ。私は確かに人ならざる力を使いますが、魔族と契ってはおりません。今回はあなた方に、あるものを授けに来ました」
「あ、あるものって……? そもそもなんで私たちの名前を……」
「約束されていたからです。あなた方がこうしてこの地に集う未来が」
ペレスエラ、と名乗った赤い女の言葉は要領を得なかった。おかげでカミラは眉をひそめ、疑問符を飛ばしまくっている。
されどジェロディは、やはり彼女に害意がないことを察して剣を放した。そんなことよりも気になることがいくつもある。
「あの、その前にお尋ねしてもいいですか。あなたは今から五ヶ月前、僕がソルレカランテでルシーンに捕まりかけたとき、城から救い出して下さいましたね。違いますか?」
「ご明察です。あなたは記憶力が良いのですね、ジェロディ。覚えていましたか、私の声を」
「はい。あのときは危ないところを助けていただいて、ありがとうございました。あなたが手を差し伸べて下さらなかったら、僕はたぶん、今頃……」
「ルシーンに捕らえられ、右手の《命神刻》を奪われていたでしょうね。ですがそうならなくて良かった。彼女は攪乱者ですから」
「攪乱者?」
「定められた未来を打ち壊し、神の計画を狂わせる者です。それは我々にとって必要な存在ですが、彼女は違う。ルシーンは魔界に近すぎます。彼女の手がもたらすものは滅びだけ。ゆえに止めなければなりません。彼女の悲願の達成を」
……悲願の達成? やはりルシーンは、単純な私利私欲で黄帝に取り入っているわけではないということか。
彼女が魔界と手を組んでいることは、先のピヌイスでの一件で証明された。とするとウォルドが言っていたとおり、あの女の狙いは神の魂の破壊──?
ジェロディが顎に手を当て思わず考え込んでいると、隣でカミラも構えを解いた。今のペレスエラとのやりとりを聞いて、彼女が敵でないことには一応納得したらしい。
「だけど、この状況は一体なに? どうしてみんな止まっちゃってるの? さっきあなたは〝時間を奪われているだけ〟って言ったけど……」
「その言葉のとおりです。私には時を操る力があります。そして時間という概念を守り、世界の過去、現在、未来のすべてを見守る役目も」
「まさか──あなたはもしかして、時の神マハルの神子ですか……?」
自分で口にしたはいいものの信じられず、ジェロディは茫然と立ち尽くした。ペレスエラはただ、長衣の下で微笑んでいるだけだ。否定も肯定もしないのはたぶん、言葉にして言うまでもないことだからだろう。
「マハルの神子……? じゃ、じゃああなたも私たちの味方?」
「そうであればいいと願っています。未来はあなた方次第ですが」
「で、でもさっき、未来はもう決まってるみたいなことを言ってたじゃない」
「ええ。エマニュエルで起きるおおよその出来事は、あなた方が生まれるずっと前から定められていたことです。されどほんのごくわずか、そうでないものもある。たった一人の人間の手に掴める程度の、本当に小さなものですが」
そう言って、ペレスエラは不意に両手を持ち上げた。赤い長衣から覗く腕は、ターシャと同じくらい白い。彼女はその繊手で、己の顔を覆っていたフードを外した。途端にジェロディたちは息を飲む。
だって赤い布の下から現れたのは、赤い髪。
カミラの髪よりずっと色濃く、血の色に近いが、世界中を旅するラファレイでさえ見るのは初めてだと言っていた、赤い髪だ。
「そ……その、髪の色──」
「……この色はかつて、私に未来を託した同胞の血で染まったものです」
「え?」
「ですから私は願わざるを得ない。カミラ、ジェロディ。あなた方が己の星を掴むことを」
「己の、星……?」
「はい。そしてあなた方の一助となるように、ターシャをここへ置いてゆきます。これから先、道に迷うことがあったなら彼女にお尋ねなさい。あなた方の力になるよう、彼女にはよくよく言い含めてありますので」
「ま、キミたちを助けるかどうかは気分次第だけどね」
すかさず平板な口調で補足され、ジェロディは何とも言えない気分になった。クアルト遺跡でのことを思えば、ターシャが年齢のわりに博識で頼りになることは間違いないものの、仲間としての協調性や歩み寄りはあまり望めそうにない。
「それからもう一つ。カミラ、あなたにお渡ししておきたいものがあります」
「わ、私に……?」
「はい。左手を」
促されたカミラが、やや不安げな一瞥をこちらへくれた。ペレスエラに敵意がないことは確かだが、彼女が得体の知れない存在であることもまた確かだ。
だからジェロディはカミラを安心させようと、無言で頷いた。もしもペレスエラがカミラの身に危害を加えようとするならば斬る、と。
そんなジェロディの覚悟が伝わったのだろう。カミラも微か頷くと、ペレスエラの前に己の左手を差し出した。
「──星よ、ここへ」
刹那、ペレスエラが唱えた言葉にはっとする。今のは──古代ハノーク語?
次の瞬間、彼女の額に嵌められた金の額冠、その中央にあしらわれた赤い宝石が閃いた。先程と同じ、網膜を灼くような閃光が食堂を包み込む。
ジェロディは額に腕を翳し、光の中、必死に目を凝らした。
やがて見えたのは、ペレスエラの両手の上に創られていく光の球体。
左右の手で包み込める程度の大きさの、美しい水晶玉だった。そして水晶の中には見たこともない紋章が封じ込められている。あれはもしや、神刻……だろうか?
《命神刻》に描かれているのと同じ五芒星に、星を囲む真円。いや、あの円はただの円ではなく──文字だ。無数の文字が連なってできた円。
仄青く輝くその神刻に、ペレスエラはそっと手を翳した。
直後、応えるように瞬いた神刻は水晶を飛び出し、流星のごとく宙を舞ってカミラの左手に吸い込まれる。
再びの閃光。それが鎮まる頃には、カミラの左手に星が焼きついていた。
《命神刻》と同じ、青銀色に輝く星型の神刻が。
「今、あなたに託したのは星刻。大神刻と同じく、世界にただ一つだけの貴重な神刻です」
突如として己の左手に刻まれた神刻を見やり、カミラは目を見開いていた。ペレスエラからの授けものというのが、まさかそんな稀少な神刻だったなんて、思いもしなかったみたいだ。
「星刻は大神刻ほど強大な力は持ちませんが、他の神刻が持ち得ない特殊な力を帯びています。使いこなせるようになるまで時間はかかるでしょうが、そうなればきっとこの先、あなた方の助けとなるはずです」
「ぐ、星刻……初めて聞く神刻ですけど、これには一体どんな力が?」
「星結びの力です。カミラ、あなたには神子たるジェロディを守り抜く使命があります。だからこそこうして彼と出会い、共に時を過ごしている……しかし彼を世界の悪意から守るためには、あなた一人の力ではどうにもなりません。ですから星を集めるのです。あなた方と志を同じくし、世界を守らんとする星たちを」
「え……えっと、つまり、救世軍の仲間を、ってこと……?」
「そうとも言えますね。星刻はあなたが使命を遂げるために、仲間の過去、現在、そして未来を垣間見せるでしょう。あなたはそれを手がかりに、彼らの心を一つにしてゆくのです。たやすいことではありませんが、引き受けて下さいますか?」
カミラの横顔には未だ戸惑いの色が濃かったが、やがて彼女はぎゅっと己の左手を握った。そうしてそこに刻まれた新たなる神刻を、真剣な眼差しで見つめている。
次に顔を上げたとき、彼女の瞳には決意があった。
「分かりました。そうすることでティノくんを……救世軍を守れるのなら」
ペレスエラは微笑んだ。
まるでカミラがそう答えることを、初めから知っていたかのように。
カミラを見つめる彼女の赤い瞳には、深い慈愛の色がある。ジェロディにはそれが、母から子へ注がれる愛情に似て見えた。
結局のところ、彼女は何者なのだろうか。《時神刻》を持つ神子らしいということは分かったが、ならば何故〝魔女〟などと呼ばれている?
そもそもペレスエラが身につけている、あの赤い長衣は──
「では、私はそろそろ去ります。ターシャ、あとのことは任せましたよ」
「えっ。あっ、ちょ、ちょっと待って下さい! ルシーンの野望を知ってるってことは、あなたも私たちと一緒に戦ってくれるんじゃ……?」
「残念ですが、カミラ。今はまだそのときではありません。今後あなた方の手に負えないような事態が起きたときには、私もまた力を貸しましょう。しかしそれ以上の干渉はできません。私にもまた、やるべきことがありますので」
「ペレスエラさまはセフィロトの管理で忙しいの。だからわたしがここに残ると言ってるわけ。分かったらこれ以上引き留めない方が身のためよ」
「み、身のためって……じゃあ星刻の使い方はあなたが教えてくれるの?」
「は? なんで? そんなに知りたきゃ、自分であれこれ試したら? 仮にも神刻使いでしょ?」
「こっ……この子、全っ然かわいくない……!」
幼い顔立ちでずけずけと棘を吐くターシャを前に、カミラは拳をわななかせていた。彼女たちの相性はすこぶる悪そうだな……とジェロディが今後の舵取りに不安を覚えていると、ときに視界の端でペレスエラが身を翻す。
「ペレスエラさん!」
ジェロディはとっさに彼女を呼び止めた。名を呼ばれたペレスエラは足を止めてくれたが、振り向く仕草は首から上だけで、もう時間がないのだろうと予感させる。聞きたいことは山ほどあった。けれど一つだけ質問を絞るのならば。
「あなたは聖女ラムシアですか?」
単刀直入なジェロディの問いかけに、ペレスエラはほんの微か目を丸くした。
しかしすぐに微笑をたたえ、艶めく赤い唇を開く。
「いいえ。私はラムシアではありません」
「じゃあ」
「ジェロディ。己の信じる道を迷わず行きなさい。ラムシアはきっと、その道の先であなたを待っているでしょう」
三度目の閃光が炸裂した。すべては真っ白な光の彼方に呑まれ、次にジェロディたちが視界を取り戻したとき、そこにペレスエラの姿はない。
「おい、ジェロ! お前、いつの間にそんなところに──って、あれ? そっちの子、誰?」
すぐ後ろからカイルの声がした。堰き止められていた水が一気に溢れ出すように、宴の喧騒が戻ってくる。
見渡した食堂では、何の変哲もなく宴の続きが始まっていた。自分とカミラとターシャ以外、時間が止まっていたことに気づく者は誰もいない。
「ティノくん……」
と左手を右手で隠したカミラが、困惑の眼差しを向けてきた。されど彼女がどうにか平静を装うとしているのを見て取って、ジェロディも頷き返す。
「カミラ。宴が終わったら屋上に来てくれる? 君に話しておきたいことがあるんだ」
カミラは瞳を不安で翳らせながらも、頷いてくれた。
そんな彼女の傍らでは真白い少女が、遠い世界でも見つめるように、星銀色の瞳を細めている。