161.無慈悲なる慈悲
※残酷注意
「くそっ、くそっ、くそっ、くそっ……!」
暗い暗い地下深く。壁中に大量の神聖文字が刻まれたその独房で、マクラウド・ギャヴィストンは今日も喚いていた。
この拘束が解かれることはないと知りながら、自らの両腕を固定する封刻環をガチャガチャと鳴らす。あれから何日も同じことを繰り返しているせいで、手首はもうボロボロだ。
マクラウドのいる独房は正面の灯が消されていて、万歳した自分の腕の状態さえ暗くてろくに見えなかった。ただ動かすと手首がひどく痛み、血の流れる感触がするから、だいぶ腫れて擦り剥けているらしいことは確かだ。
おまけにもうずっと立たされっぱなしで、脚だけでなく体全体が棒になってしまったような気分だった。ちょっと暴れるとすぐに疲れ、体中があちこち痛む。食事も必要最低限の、冷たくて臭い飯を食わされるばかりで、我慢も空腹も限界だった──このままでは早晩気が狂ってしまう!
「おい、貴様ら! 聞こえているくせに無視するな! 私は陛下より第八郷区の郷守に任じられたマクラウド・ギャヴィストン詩爵だぞ……! 今ならまだ、貴様らの犯した過ちにも目を瞑ってやる! だからさっさと私をここから解放しろ! 貴様らの上官は私だ! 私の命令を聞けぬと言うのなら、この郷庁にいる地方軍の兵士全員、軍令違反で処罰するぞ……!」
「……まーた騒いでるよ、あのオッサン」
「懲りないねえ……もうすぐスッドスクード城からの軍使が到着するってのに、往生際が悪いというか何と言うか」
「しかし軍使も来るなら来るで、さっさとアイツを連れてってくれないかねえ。うるさくて敵わねえよ」
「同じ詩爵でもジェロディ殿とは大違いだよな。向こうはまだ成人したてで、しかもまだ家督も相続してないってのに、すっかり詩爵然としてらっしゃった。やっぱ育ちが違うよな、育ちが」
「そりゃあかの常勝の獅子の倅だからな。あんな趣味の悪いキノコ頭のオッサンと比べるだけ失礼ってモンさ。次に来る郷守もジェロディ殿みたいなお方だといいんだがねえ──ってわけでハイ、上がり」
「なあっ!? お前、いつの間に!?」
「お前がさっき捨てた牌をもらったんだよ。というわけで全員オレに三青銅貨な」
「クソッ、マジかよ……お前さっきから勝ちすぎじゃねえ? イカサマしてるんじゃないだろうな?」
「まさかまさか。今日は天がオレの味方をしてくれてるだけさ。悔しかったら次の勝負で負かしてみな」
「ちくしょう、非番の日の飲み代が……次は絶対泣かすからな!」
ははははは……と看守部屋の方から哄笑が聞こえて、暗闇の中に貨幣の触れ合う音がする。次いで響き始めたジャラジャラという音は、牌合わせの牌を集めて混ぜている音だろう。
自分の存在を完全に無視した獄卒たちの会話に、マクラウドは全身をわななかせた。四十一年生きてきて、こんな屈辱を受けるのは生まれて初めてだ。
ルシーンに見限られ、王城を追われたときもかなり屈辱的な思いをしたものの、今の状況と比べれば戯れにも等しかった。しかもあの憎きシグムンド・メイナードが治める城から軍使が到着したら、自分はさらなる辱しめを受ける羽目になるのだと思うと、もう発狂して叫び倒したくなる。
「しっかしさあ、まさかリチャード殿が店と工房を引き払って町を出て行っちまうとはね……内乱が治まればまた戻ってくるって話だったが、そりゃ一体何年後のお話になるのやら」
「ああ……おかげでおれは絶賛やる気減退中だよ。これからは町へ下りてもあの麗しきマヤウェル殿のお姿を見られないのかと思うと、胸が苦しくて苦しくて……」
「婚約者がいるくせに何言ってんだコイツは。まあ、確かに非番の日の楽しみが減ったのは事実だけどさ……マヤウェルさん、あれで四十過ぎてるとか犯罪だよな」
「いや、犯罪はあんな人を奥さんにしてるリチャード殿だろ」
「確かに一見、ものすごい歳の離れた夫婦に見えるもんなー」
「けどさ、お前ら見たか? 反乱軍幹部だっていう赤髪の子。この前の掃討作戦で死んだって言われてたのに、生きてたんだな。しかもかなりの上玉だった」
「ああ、あのカミラって子か。赤い髪ってだけでもかなり目立つのに、その上えらいかわいかったよな。あれであともう二、三歳年がいってれば……」
「そうか? オレは今のままでも大歓迎だね! 村にお袋と妹を残してなきゃ、彼女のために救世軍に入っても良かったくらいさ」
「それを言ったらおれはメイド服の子が好みだったな……なんかこう、すごく献身的な感じだったじゃん? 顔も声も癒やし系みたいな? ちょっと頼りなさそうなところも逆に守ってあげたい! って感じでさ。声かけときゃ良かったなあ……」
「俺は断然緑髪の姉さん派だね。キリリとした目元とか、ヘマしたら叱ってくれそうなところとか、でもいざとなったら優しくしてくれそうな感じがさ、もう最高だった……あと何より胸が」
「でかかったな……」
「でかかったなー」
「オレは尻派だからやっぱカミラちゃんだわ」
「……お前ら、あいつらに散々仲間を殺されたってのによくそんな話ができるな」
と、不意に水を差すような声が響いて、あたりがシン……と静まり返った。マクラウドが先程から聞き耳を立てていた中でも、初めて聞く声のような気がする。
「いや、まあ、そこはだって……なあ?」
「ああ……確かに殺された連中は気の毒だったけどさ。元はと言えば、あの腐れ郷守が戦闘を命じたせいだろ。事情を知ってりゃ、オレたちだって最初から救世軍の味方をしてた。つまりあいつらは郷守に殺されたってことだ」
「……けど、俺、ビヴィオで弟も殺されてるんだよ」
「え……」
「マジかよ、おい。初耳だぞ」
「……弟は俺に似て気の弱いやつだったからさ。きっと郷守が悪いと分かってても、刃向かえなかったんだよ。自分と家族を守るためには、黙って命令に従うしかなかった。なのに救世軍は、無理矢理従わされてた弟まで……」
「……」
「俺、分かんないよ。救世軍ってほんとに正しいのか? そりゃ、リチャードさんを救ってくれたことには俺だって感謝してるよ。だけどだからって戦争なんかしなくても……もっと他にやり方が……殺すならあのマクラウドみたいな、目に見えて悪いやつだけ殺せばいいじゃないか。なのに、なんで……」
暗闇を沈黙が支配した。獄卒たちが賽を振る音も止み、耳が痛いほどの静寂が降りてくる。マクラウドはごくりと唾を飲んだ。会話の中で、真っ先に殺すべき人間として名前を挙げられてしまったからだ。
よもや反乱軍に敗北した腹いせに、自分を殺しに来るのではなかろうな──と震えていると、突然、ギイと椅子を引く音がした。
「……悪い。なんか、変な空気にして。俺、ちょっと頭冷やしてくるわ」
反乱軍を支持する馬鹿どもに一石を投じた獄卒が、一人で席を離れるのが分かった。外の空気でも吸いに行くのだろう、階段を一段ずつ上がっていく音がする。マクラウドは安堵の息をついた。
──そうだ。少しは恥じるといい。たった数人の反逆者も止めることのできなかった無能ども。仲間が死んだのは貴様らの弱さのせいであって私のせいではない。
だのに負けた途端、責任を人に押しつけおって。これだから弱者というのは面倒だ。何も持たず、何も為さぬくせに、都合の悪いことがあるとすべて力ある者のせいにする。やつらは日頃から澱のように溜め込んでいる妬みと劣等感とを、選ばれた者にぶつけて発散することしかできないのだ。己の怠惰を棚に上げて。
そんなに悔しかったら商人にでも何でもなって、富を手に入れ、権力者に取り入り、己が力で世界を変えてみせればいい。
実際、マクラウドは今日までそうして生きてきた。没落寸前の華爵家に生まれ、貧乏貴族の子と周囲に蔑まれても、意地と智略とでここまでのし上がってきた。
たまたま皇太子を危機から救い出す場面に遭遇し、一度の幸運で成り上がったガルテリオなどとは重ねてきた苦労が違うのだ。だからマクラウドは憎悪する。己の不遇を人のせいにして努力しようとしないゴミどもも、大した苦労もなく成り上がり、それを己が実力だと思い込んでいる自惚れ屋どもも。
(その点で言えば、ルシーンもまた私が傅くに値しない女ではあるが)
あの女は生前の黄妃の生き写し。だからオルランドに取り入り、寵姫となることができた。すべては〝亡き妃に似ている〟という幸運によりもたらされた結果であって、彼女自身が苦労して手に入れた地位ではない。
ゆえに正直、マクラウドはルシーンをも嫌悪していた。彼女の狗を演じていたのは、財務大臣のヴェイセルから「よろしく頼む」と任されたからだ。
彼も今でこそトラモント三大貴族に数えられてはいるが、一度は正黄戦争で没落しかけ、あらゆる手を尽くして大臣の位を獲得した同志だった。
だからマクラウドも彼のことは尊敬していたし、彼の言葉になら従おうと思えたのだ。癇癪を起こしたルシーンに城から蹴り出され、途方に暮れていたところへ手を差し伸べてくれたのもまた彼であったし。
(……そうだ。私はやっとの思いで今の地位まで上り詰めたのだ。だからこそ閣下も私を認め、再起の機会を与えて下さった。それをふいにしてたまるか。私は必ずやもう一度、黄都でのし上がってみせる。こんなところで終わるわけにはいかないのだ……!)
再び闘志が燃え上がってきた。マクラウドは絶叫したくなるような痛みをこらえ、両手に渾身の力を込める。
──ジェロディ・ヴィンツェンツィオ。
同じくこの獄につながれ、今度こそ愚かさのツケを払うべきであったのに、すべての罪を自分に被せてまんまと逃げおおせたガルテリオの倅。
あのガキだけは必ず捕らえる。そして思い知らせるのだ。己がいかに無力で、愚鈍で、これまでの栄光はすべて成り上がり者の名がもたらした僥倖に過ぎなかったのだということを──
「な、何だお前らは──ぐあっ……!?」
そのときだった。
突然階段の方から獄卒の悲鳴が聞こえ、マクラウドははっと我に返った。
何事かと耳を澄ました途端、重たいものが階段を転げ落ちてくるような音を聞く。看守部屋が色めき立つのが分かった。牌合わせの牌が床にぶちまけられる音がして、獄卒たちの怒号が響く。
「く、くそ! 侵入者──ぎゃっ……!?」
次いで大量の血が飛沫く音がした。ビシャッというあれは血溜まりに人が倒れる音か、はたまた体の一部がどこかへ飛んでいく音か。
暗闇の中、マクラウドはまったく状況が分からないという事態に狼狽した。耳を塞ぎたくなるような獄卒たちの悲鳴や断末魔の叫びは聞こえてくるのに、彼らを襲撃していると思しい〝侵入者〟の気配がまるで伝わってこない。
(だ、誰だ!? 私を助けに来たのか……!?)
看守部屋が惨劇の舞台となっているらしいことは何となく想像できたが、マクラウドは恐怖の中に一縷の希望を見出した。侵入者──しかも問答無用に獄卒たちを襲っているということは、この牢に用があって来た者に決まっているではないか。期待と緊張とで、自然と息が荒くなる。
「う、うわあああああ! な、何だよ……何なんだよコイツら……!?」
「……アンギル。あとはお前が」
「ええ、いいですよ。ちょうど私のかわいい使い魔たちが、人間の血を欲していたところですからねえ」
(あ、アンギル、だと……!?)
マクラウドはその名に聞き覚えがあった。襲撃者と思しい二人の特徴的な声色にも。一人は何の感情も窺えない、低く掠れた男の声。そしてもう一人は、ねっとりと絡みつくような不気味で異様な男の声。
期待と緊張がますます膨らんだ。看守部屋からはまだ悲鳴が聞こえているものの、阿鼻叫喚の中、こちらへ歩み寄ってくる足音がある。
マクラウドは再び唾を飲み、鉄格子の向こうを凝視した。
瞬間、壁の燭台に火がともる。
赤い蝋燭の炎ではない。紫色に揺れる、魔の炎が。
「……いたか、マクラウド」
「お……お前は……い、いや、あなた様はもしや、ハクリルート将軍……!?」
妖しい炎光が鉄格子の向こうに映し出したのは、明かりを得てもなお黒々とした影だった。こうして薄闇の中で見ると、一見頭に湾曲した角が生えているように見えるがそうではない。
掠れ声の男を形作る黒は、漆黒の鎧兜だ。彼の名はハクリルート。『狂乱の剣士』の異名を持つ中央第一軍の将軍──というか数年前にルシーンがどこからか呼び寄せ、無理矢理将軍の座に就けた得体の知れない人物である。
「な、なにゆえ将軍がここに……ま、まさか、ルシーン様が私のことを聞きつけて……?」
「……ああ。俺はルシーンの指示がない限り動かない。つまりはそういうことだ」
深い深いため息と共に、マクラウドは全身の力が抜けた。この男であれば一応顔見知りだ。いや、顔見知りというか、実際は兜に覆われた彼の素顔を見たことがないので〝兜見知り〟程度の関係でしかないのだけれど。
噂によれば彼はルシーンの腹心中の腹心で、彼女とは黄皇国へ来る前からの、かなり古い付き合いらしい。ゆえに噂好きな貴族たちの間では、彼こそがルシーンの本命であり愛人なのではなどという下世話な憶測まで飛び交っていた。さすがのマクラウドも、噂の真偽を本人たちに問う度胸はなかったが。
「い、いやあ、しかし助かりました。まさかルシーン様が私などのために、将軍ほどのお方を黄都から遣して下さるとは……てっきり私は、ルシーン様にはもう愛想を尽かされたものだと……あっ、あるいは現隊長のランドールめが掛け合ったのですかな? あの男はああ見えて、私のことをいたく慕っていたようですからなあ、はっはっはっはっ……!」
などと一方的に捲し立てている間に、ハクリルートがわずか腰の剣を抜く。
一瞬ののち、目にも留まらぬ速さで剣光が閃き、鉄格子が三つに切れた。バラバラになった鉄の棒は吹き飛ばされてあたりに散乱し、ハクリルートはそれを涼しげに踏み越えてくる。
その人間離れした芸当に、さすがのマクラウドも息を飲んだ。薄い鉄板程度ならまだしも、罪人の脱走を阻む鉄の格子を紙切れのごとく切り刻むだと?
このハクリルートという将軍は〝戦えば勝つ〟と聞いていたが、噂はどうやら真実だったようだ。もしかすると彼ならば、世間に『常勝の獅子』と持て囃されるあのガルテリオも──と思いを巡らせた、刹那だった。
「え?」
カチャ、と微か鎧を鳴らしたハクリルートが、マクラウドの眼前で剣を床と水平に構える。ああ、この拘束具もあの鉄格子のごとく切り捌いてくれるのかと思ったが、切っ先が向いているのはどう見ても自分の腹。
嫌な予感がした。悪寒が全身を駆け上がった。
マクラウドは「やめろ」と絶叫しようとして、しかし、体の中心へ捩じ込まれた刃に制止の言葉を断ち切られる。
「がッ……ハ……ハ、クリ、ルート……何故……」
「……お前に生きて戻られては困る。法廷で余計な証言をしないとも限らんからな。これ以上無能を晒す前に死ね──と、ルシーンからの伝言だ」
嘘だ、と思った。
そんなはずはない。そんなはずは。
自分は確かにルシーンを疎んじていたが、今日まで彼女の忠実な狗を完璧に演じてきた。いかなる屈辱にも耐え、彼女の靴を舐めんばかりの忠誠心を見せつけたはずだ。だのに切り捨てると言うのか。用済みになった途端、こんなにも呆気なく。
「う……嘘だ……嘘だ……!! 私は──」
何かの間違いであってくれ。
そう思いながら叫んだ言葉は、己の血飛沫に掻き消された。
罪人の体を貫いた刃は、そのまま真上に振り上げられ、マクラウドを頭まで真っ二つにする。大量の血と共に髄液が飛び散り、ビチャビチャと降り注いだ。
左右に割れたマクラウドの顔は筋肉が弛緩したようになり、今にも眼球が零れ落ちそうだ。されど視神経によってどうにかつなぎとめられたそれと眼窩の狭間から、血液とはまた違う、透明な雫が零れ落ちていく。
「おやおや、もう殺してしまったのですか? もっとじっくり断末魔の苦しみを味わわせて差し上げれば良かったものを」
その一雫が闇に溶けていくのを見届けて、ゆっくりと剣を収めたハクリルートの背後から薄気味の悪い声がした。
振り向いた先にいるのは、全身を紫黒色の外套で覆い、満面の笑みを浮かべた若い男だ。いや、正確には見た目が若いだけで既に数百年の歳月を生きているはずだが、興味がないのでハクリルートはよく知らない。
「……わざわざ時間をかけて殺すことに、一体何の意味がある?」
「何って、人間が死の間際に放つ悲鳴や絶望ほど甘美なものはないでしょう。私は人の血よりむしろあちらの方が好物でしてね……とは言え野郎をいたぶるのはそこまで楽しくありませんが」
言いながら黒マントの男──アンギルは眼鏡の位置をくいっと上げた。魔人にとって視力などあってないようなものなのに、何故彼がそんなものを身につけているのかもハクリルートはよく知らない。
ただ彼が一瞥を向けた看守部屋の方からは、魔物が肉を貪る音と、生きたまま肉を喰われる人間の呻きが聞こえていた。残りの人数はアンギルに任せた手前、ハクリルートもそれに対して文句を言えず、一つ短いため息をつく。
「貴様の嗜好などどうでもいい。俺が常に一撃で殺すのは、人間への──慈悲だ」
「フフフ……さすが、神子様はお優しい」
侮辱されているのかと思ったが、数瞬の沈黙の末、ハクリルートは許すことを選んだ。この男の意味があるようでない軽口はいつものことだ。まともに耳を貸すだけ時間と労力の無駄というものだろう。
「ふむ。しかしこんなゴミ掃除はどうでもいいとして、報告にあったハイムの神子はいま何処でしょう?」
「……ここにはもういない。既に立ち去ったあとのようだ。ハイムの声が遠い」
「おやおや、一足違いでしたか。残念、彼が付き従えているという美少女たちと戯れるチャンスだと思ったのですが」
「……」
ああ、そうか。だからこの男は今回無理を言って自分についてきたのか、とハクリルートはようやく納得した。近頃黄都ではうら若き娘が次々と失踪する事件が起きているが、原因は他でもないこいつだ。アンギルは己の欲望のままに動き、ルシーンの思惑などまるで意に介さないことがある。
──だからこいつを呼び寄せるのはもっとあとでいいと言ったんだ。
内心そう吐き捨てつつも、ハクリルートは沈黙を貫いた。
そんな愚痴を本人に聞かせたところで、やはり無益なのは分かっていたから。
「では仕方がありませんね。我々も戻ると致しましょうか、愛すべき魔界の姫君のもとへ」
「……その呼び名、ルシーンが聞けば激昂するぞ」
「そうですか? 今のは最大級の敬意のつもりなのですがねえ……」
……あの女が〝魔界の姫〟などと呼ばれて喜ぶわけがないだろう。そう思いながら、ハクリルートは一歩踏み出した。すると黒い鎧が爪先から溶け、黒い靄のようになり、やがて全身が周囲の闇と同化する。
ハクリルートとアンギルの姿は、数瞬と待たずに地下牢から消えていた。
無人となった独房はゆっくりと、血の海へ姿を変えてゆく。




